2018年4月15日 主日礼拝説教「神の子となる資格」吉浦玲子
<呼びかける声>
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」
ヨハネによる福音書に最初に出てくる人名は、イエスでもなく、マリアでもなく、ヨハネです。ちなみにこの福音書は「ヨハネによる福音書」ですが、この福音書に冠されている名前のヨハネとこの6節に出てくるヨハネは関係ありません。「ヨハネの福音書」という時の<ヨハネ>は主イエスの12弟子のなかで「イエスの愛された弟子」として「ヨハネによる福音書」に記されている弟子、もしくはイエスの愛された弟子と関連を持つ神学的グループを指すと考えられています。ヨハネ教団、ヨハネ教派といったものがあったと考えられます。ヨハネによる福音書21章には「これらのことについて証をし、それを書いたのは、この弟子である。」とあります。この福音書を書いたのは「この弟子」だと記されているのです。この弟子は「イエスの愛された弟子」です。その弟子は、かつては12弟子の中のゼベダイの子であるヨハネであったと考えられていましたが、現在では、そのように考える神学者は少ないようです。
さて、その、福音書の著者に関わるヨハネではなく、一般的に洗礼者と呼ばれるヨハネが6節に登場します。このヨハネは、他の福音書すべてにも主イエスに先立って神の国の宣教を始めた人物として登場します。洗礼者ヨハネは旧約聖書においても預言された人物であり、たいへん重要な役割を担って登場しました。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」先ほどお読みいただいたイザヤ書にそうありました。このイザヤ書で語られているのが洗礼者ヨハネです。主イエスに先だって活動をし、またイエスの到来を指し示したということで洗礼者ヨハネのことはアドベントにおいて語られることも多いのです。このヨハネのことを、繰り返し聞きながら、私は神様のなさることの不思議をあらためて思います。救い主が来られる、なぜそのことを前もって人間の「声」でもって呼びかけ、道を備える必要があるのでしょうか?神の御子であられる方が来られる、そのことをしょせん人間に過ぎないヨハネがなぜ呼びかける必要があったのでしょうか?
天地の造り主であり、全能の神であるなら、人間を用いる必要はなかったのではないかと思います。実際、用いないと実現できないというような神様側の都合はなかったでしょう。神は人間の手助けを必要とされません。ヨハネというイスラエルに現れた一人の人間を用いずとも、父なる神は、来るべき救い主の登場を告げ知らせることはいくらでもできたでしょう。
しかしなお、神はヨハネを用いられました。「呼びかける声」として用いられました。神の御子が人間となってこの世界に来られるというとんでもない出来事を証する者としてヨハネは用いられたのです。人類の歴史の中でたった一回だけおこった神が人間になられる、ヨハネによる福音書の言葉で言えば、言が到来したということを、言によって光がもたらされるということを、神でも言でもない、暗闇の中にいる人間に告知をさせられたのです。
しかし、またこのことはキリスト到来以降の世界にもつながることです。キリスト到来ののちもまた、神は光について証することを人間に担わされました。「言葉なる神」のことを、人間が他の人間に告げ知らせることを望まれました。神ご自身が直接一人一人の人間に告知されたのではなく、人間によって人間に対して光を証することを願われました。洗礼者ヨハネは、キリスト到来以降の教会の原型であるともいえます。そしてまた今日に生きる私たち一人一人の姿でもあります。教会はこの世界という荒れ野に道を備えるのです。そしてまた私たちはその荒れ野で呼びかける声として生きていくのです。光を指し示すものとして生きていきます。キリストの到来、光の証をするのです。ヨハネがその固有の名前で福音書の最初に記されたように、私たちもまた一人一人固有の名前を与えられ、神によって、個別の役割を与えられる存在なのです。
<神の子の資格>
それだけの役割を与えられている私たちは「神の子である」と言われます。実際、教会に集う私たちは、「私たちは神の子どもである」という言葉を良く聞きます。教会学校の子どもたちの献金の祈りの言葉の中にも「これからも神さまの子どもとしてまごころを持ってあなたに従う者としてください」という言葉があります。
子供たちが、自分たちのことを「神様の子ども」というとき、それはなにかほほえましいことのようで、さほど抵抗なく受け入れられます。しかし、大人である私たちが、自分が「神の子供である」ということは、理屈としては受け入れられても、その言葉にどこかざらっとした感覚も生じます。普通に子供という時、それは多少、大人の身勝手なものの見方もあるのですが、純真無垢なとか、無邪気なとか、罪がないという言葉が出てきます。もちろん子供という存在もけっして単純なものではありません。単純に子供が純真無垢とか、罪がないとはいえません。しかし、それでもやはり、子供よりも長く人生を生きて来た者はいやでも自分の罪深さ、愚かさを思います。そんな自分などが神の子どもであろうかと感じます。いやいやその罪のゆえに愚かさのゆえにキリストが死んでくださったのではないか、既に罪は赦され、私たちは今は晴れて「神の子」と言えるのだ、そういうことは言えます。もちろんそれは正しいことです。
もちろん胸を張っていいのです。私たちは神の子どもなのです、間違いなく。神の子どもとされているのです。私たちはそのことをそれこそ子供たちのように無邪気に喜んでいいのです。実際、12節にあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」私たちには「資格」があるのです。ここでいう「資格」という言葉には「権威」というニュアンスや「特権」というニュアンスがあります。「力」というニュアンスもあります。資格であれ権威であれ力であれ、まずそれは<与えられたもの>であるということが大事です。資格試験というものがありますように、この世界においては通常、資格というのは私たちが努力をして手に入れるものですが、神の子となる資格は、私たちの側によって手に入れることができるわけではありません。そもそも、人間にはそんな資格はなかったのです。もともとはなかった資格を私たちは与えられました。これはとても大きなことです。教会に来たら、洗礼を受けたら、私たちは皆神の子どもである、そのことは当たり前のことのように、ともすれば軽く考えられますが、それは当り前のことではありません。当たり前ではないことがキリストの到来ののち起こったのだということを改めて思いめぐらしたいと思います。そしてまた私たちが「神の子」の資格を得ているかどうか、そのことは、私たちの人生の根幹にかかわることです。極めて重要なことがらです。
<人間の価値>
ところで、ニュースを見ていましたら、国立青少年教育振興機構の昨年の調査で、日本の高校生に対して「自分には価値があると思うか」という問いを出したところ、「ある」と答えたのは44.9%だったそうです。それに対して同時に調査した中国、韓国、アメリカの高校生では8割を超える高校生が「自分には価値がある」と答えが出したそうです。日本人は遠慮がちとか謙遜というような国民性の違いはあるでしょう。しかし、そのことを考慮しても、極端に日本の高校生が他の国の高校生に比べて自分の価値を低く捉えていることがわかる調査結果です。調査では、日本では個性を大事にすることよりも他人との比較を重視する傾向があり、また、「空気を読む」ことが重要とされ、どうしても個人はあり方は埋没してしまうことによるのではないかと分析されていました。この調査結果への正確な分析は私にはできません。しかし、おそらく現代の高校生は、昔に比べても、未来への希望が持てなくなっているのではないかと考えさせられます。格差社会といわれる社会の状況の中で、早い時期から自分の限界を見せられているという面があるかもしれません。社会における現実的な試練や挫折を経験する前に、すでに自分を諦めてしまっているような面があるのではないかと危惧します。一方で、才能を持った若い人の活躍がニュースをにぎわしています。天才といってもいいような若者がいろんな分野で素晴らしい活躍をしています。しかし、そういう若者の活躍を見るにつけ、逆に、特別な才能があるように思えない、いってみれば普通の人間には価値がない、そんな感覚も生まれるのかもしれません。特別な才能や能力によって人間の価値が決められてしまうとき、大多数の人間は自分を諦めてしまいます。そして、自分には価値がないという感覚と、自分が神の子どもであるという聖書の言葉には大きな乖離、へだたりがあることがわかります。
<本当の自由と価値>
ところで神の子といえば、まず第一にキリストをさします。ちなみにキリストが「神の子」と聖書で言われる時、ギリシャ語では、「神の息子」という言葉で現わされます。一方で、今日の聖書箇所の12節の「神の子」というときの「子」は息子ではなく、一般的な意味での子供です。つまり同じ「子」といっても違いがあります。キリストは神の実子であり、「神の子」とされた人間は法律上の子ども、養子であるという言い方をします。その違いはありながら、なお、父なる神からみたとき、子としての権威、特権においては同等なのです。キリストを受け入れる者、キリストの名を信じる者、つまりキリストを信じる者にはご自分と等しい資格、権威をキリストは与えられたというのです。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
神の子は、人間が神の子になりたいと努力をしてなれるものではありません。神の子というのは血によってではない、つまり生物学的ななんらかの特殊性やら持って生まれた才能やら家柄や育った環境によってなるということではありません。肉の欲や人の欲、つまり人間的な思いや願いによってなれるものではありません。ただ神によってのみ神の子とされるのです。
ところで、「神の子となる資格」という時の資格には、権威や特権というニュアンスがあると申し上げました。ある神学者によると、この資格という言葉の語源に遡ると、「外にいる」という意味になるそうです。その神学者は、権力を持って他者を支配する支配者自身はその支配の外にあるというイメージで「外にいる」ということを説明されていました。つまり資格、権威を持った人は、支配の中にいるのではなく、支配の外にあって自由なのです。
11節に「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。これは5節の「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」ということと同じことです。この世界は、そして多くの人々は、光を理解しなかった、そしてまた言を受け入れなかったのです。実際、主イエスを人々は受け入れませんでした。十字架につけて殺したのです。自分たちの病を癒し、悩みを解決し、生活を保障してくれるこの世の王は受け入れても、この世の権威の外にある神の御子は殺したのです。それがこの世の権威です。この世の力です。しかし、光、言である主イエスは、この世のなかにはいなかったのです。外にあったのです。それが御子の権威です。「外にいる」のです。
神の子とされているわたしたちも同様です。わたしたちもすでにこの世の外におかれています。この世の価値観に縛られない存在なのです。この世の価値観に縛られ、他人と自分を比較する必要はないのです。そしてまた、空気を読むことにきゅうきゅうとして自分を見失う必要はないのです。自分の価値は、ただ神が与えてくださるのです。「あなたは値高く貴い」とイザヤ書にあるように、神はご自身の子どもたちにおっしゃいます。その値の高さ、価値の貴さはこの世から自由にされた値であり貴さです。神に由来する値であり貴さです。それこそがまことの権威です。この世の価値観では計ることのできない価値であり権威であり特権です。
聞き様によっては、それは、この世から離れて、勝手な価値観で自分を規定していることのようにも聞こえます。しかし、考えていただきたいのです。この世の価値観に自分を合わせていくことが人間を幸せにするかどうか?そこでは自分は相対化され他の人と比べて落ち込んでしまうだけの存在です。そしてなにより、この世の価値観の中にいる時、つまりこの世の価値観で縛られる時、私たちはこの世の外にある神の御子を殺すのです。言なる神を認めず暗闇の中にある時、突き詰めると、私たちは光を覆い隠そうとし、闇の中で神の御子を十字架につけるのです。罪を犯すのです。光を否定し、闇の中にいつづけるのです。そこに本当の希望はありません。幸福はありません。ただどんよりとした不安と一時しのぎのような安定があるだけです。
しかし、もう光はきました。言なる神は来られました。その光を受け入れる時、私たちはこの世界から自由になります。この世に支配されることなく、外にあることになります。それが神の子としての資格であり権威です。それは世捨て人のように生きるというのではありません。暗黒のこの世にあって光を仰ぎながら希望を持って生きていくということです。自分に、ほかのだれにもない価値があることを神によって知らされながら生きていくということです。もちろんこの世との戦いはあります。この世と相いれない苦しみもあります。しかし、この世にあって、自由に、喜びを持って生きることができるようになるのです。本当の使命、生きがいを持って歩むことができるようになります。私たちは今日も、「神の子ども」として、この世という荒れ野に豊かな声をあげながら歩んでいきます。
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