日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

ひどくありふれた苦しみを

2018年02月10日 | 苦しむ人とともにあること
世の中は苦しみであふれている。

それは知っていたけれど、ある時ふと気がついた。

なんというか、苦しみ間の格差、不平等。

痛みは同じなのに、扱いが違う。

あるいは人それぞれなのに、一律に扱われる。

母が昔、旅行中に留守宅で猫が死んだ。
旅先で知らせを受けて泣く母に
「なあに、猫に、バカみたい」と言った同行者がいた。

人によっては動物でも人間でも家族は家族なのに。

死ぬほどつらい失恋もあれば、そんなでもない死もあるだろう。

とても珍しい難病とありふれた認知症

恋人の、配偶者の、よくある「ただの」心変わり

わかりやすい苦しみと理解されにくい痛み

夫が死にましたと不倫相手が死にました

どのくらい珍しいか共感させやすいことかと

痛みの酷さは関係ないのに。

手つかずの、ありふれた、苦しみ

個人に任されているひどくつらい痛み

その膨大さを思うと目眩がする。

そんな時、私たちはもっとお互いをうまく慰めあうことはできないんだろうかと思う。

もう少し賢くお互いをリソースとすることはできないのか。

社会の中に、コミュニティの中に、つながりの中に支え合う力を常勤させられないものか。

みんな同じ、苦しんで死んでいく身のひととして。



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苦しみとしあわせと

2018年02月09日 | 苦しむ人とともにあること
私にとってのしあわせは

苦しみがなく(あるいはないというふりをして)いい気分になることではない

痛みや苦しみにきちんと向き合って
生きるということをそのまま受け止めて
さらに自分にできる限り正直に
できる限り良くあろうとすること

自分に、人にそれを感じること

その善性に触れること

頭を垂れて感謝すること

ほかにない



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苦しみをともだちにして

2018年02月07日 | 苦しむ人とともにあること
世間一般のどこかの人からしたら、私の状況はかわいそうに、不幸に見えるかもしれない。

昨年は母が死んで、子どもたちは「普通の」学校に通っていなくて、夫は不調でどうなることやら。

でもね。

こないだ前野隆司先生の幸福学の本で点数を計算したらほぼ満点だった。

しあわせかって聞かれたら、なんて答えるかな。はい、とは言わないと思うけど。

より正確には、「自分はしあわせな幸運な人間だと思う」かな。

昔の私、今の私になる前の私は、こんなに深くフルに人生を生きることになるとは思っていなかった。

どんどん生きることの中心に、本流に近づいている。

私の中では、どうも「全うすること」「十全に生きること」が「しあわせになること」より価値が高いみたい。

「しあわせになること」は苦しみを必要としない(よね?)けれど、「フルに生きる」ために苦しみを避けては通れない。
それは本質に関わるものだから。

苦しみの顔をまじまじと見つめて、何度も話して、あるいは抱きしめることなしに、成長も成熟も、ただ単にきちんと生きることすら可能とは思われない。

その気になれば、苦しみは多くを教えてくれる。

ほんとは友だちにするくらいがいいのかもしれない。

そんなにしょっちゅう一緒にいなくてもいいんだけどね。

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冬が明ける

2018年02月05日 | 命について
したたかに踏みしめられて

打ちのめされて

豊かに実った冬だった

私は重みで開かれて

新しい形で春を迎える


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2018年02月01日 | 命について

寒いですね、と言ったら

寒いのは嫌いですか、と聞かれた。



この季節にはもう身体は緩み始めていますよ。

あの梅の蕾も、ほら。



目に見えない働きが「春」

花を咲かせ水を温ませ

全てを変えていく

「生命」も「春」と同じ

見えないけれどそこにあり

その働きで私たちを変えていく



そうか

私たちは

それを贈り物として

受け取ればいいんだ







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