日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

ひと休みしよう

2021年09月29日 | 日記
あと少し忙しいのがつづくから

多分ちょっとくたびれてて

少しやさぐれた気持ちがある

たいそうなことは何もしたくない

くだらないことして笑いたい

そんな夜もあるよね









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第一章 「無心のケア」という問題提起 西平直

2021年09月28日 | 無心

 仕事へと向かう湘南新宿ラインの中でなんとかアワノさんに連絡してから、そのまま参考資料を読み始めた。

 それは電車に揺れる私の胸をふるふると震わせた。

 最初の数行からぶんぶん首がうなづく言葉ばかりだった。この数年自分が生きることから学んだことが丁寧にまとめられていた。

(無駄な装飾のない洗いざらしのことば)

 苦難に打ちのめされた時のこと、苦しみの中にある人を「助ける」のではなく、共にあること。
その中ある恵み、砕かれたからこそ現れることのできるもの。
主体性つまり命の本来の流れ。
出会うことによって立ち現れるもの。
謙虚でしかいられないその場所、祈りの場所。

純粋文節。

(ここにいる人たちは誰もみんな苦しみを知っている)

 胸がふるふるした後はお腹がぐるぐるした。
思考だけではなく感情だけでもなく、全存在が感動して満たされているんだけれど、それに名前をつけるなら感謝が近いかもしれない。

 わかってもらえて。
 わかっている人がいて。
 そのようにある人がいて。

 私が見ていた風景の中にその人はすでにいて、過去の苦しみ(クライシス)にまでそのメッセージは届き、解放されていくようだった。

 特に「寄り添うということ」については、学校に行かないこどもたちを育てるコミュニティでホームエデュケーションについて話す内容(とてもわかりにくい「アクロバティック」なことが必要とされる現場)ととても関連が深かった。

 不思議なんだけれども、書かれてあることを理解するという形ではなく、書かれてある眼差しでこちらが理解され許されるようだった。

 「たまたま足を踏み入れた公園に感じの良い池があって、水辺に近づいた。何も難しいこともなく親しみやすいその水になんとなく目をやったら、きらきら光る水面と清廉な流れ、ひたひたと胸を全存在を満たす水だった。」

 西平先生、ありがとう。





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落ち着いて

2021年09月26日 | 日記
ごめんなさい

前に書いたこと

あれはうそだったかもしれない

とても苦手なことととても大切なことが重なった締め切りがプレッシャー

どうかうまくいくように祈っててね







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休日(も)出勤

2021年09月25日 | 日記

はあ


都会の食べものはおしゃれで美味しいわ


テラスで(道端とも言う)朝ごはん中






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これがもしかしたら師匠が言っていた人生の受け身

2021年09月24日 | 新しい日々

大きな変化がするすると何気ない感じで起きていく。


ずっと見てるけど私の中に動揺はなく、空っぽな明るさが変化と同期している。


猫が引っ越していって、お皿があった場所が空いている。


ほんの少し寂しさがあるだろうか。


でも私はお皿が別の場所にあり猫がちゃんと食べていることを知っている。


場所と関係性は変わったけれど、失われたのではなく、変化しただけだとわかっている。


必ず変化が訪れることも(起こりつつあることを)ずっとわかっていて小さな頭を撫でていた。


だから「今」私の中に殊更起きる波はない。


変化は常にそこにあって、今それがくるりと表に現れただけだ。


これは多分、人が生きること、死ぬことも同じ。


ていうか、なにもかも、同じ。








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