日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

2018年07月31日 | 命について
台風が通り過ぎた後の湿った空気を、年代物の扇風機がかき混ぜる。

集まった人たちがため息をつくように汗を拭く。

対談の場は暑くて暑くて意識が身体からはみ出るようだった。

「いのちは物ではなくてイベント

刻々と起こることがら

それが起きる場所」

そうだよね。

すべては私のものでない、全部変わっていく。
それはわかっているんだけれど、わかったその後はどうするんだろう。

頭の裏のどこかにぼんやり問いを浮かばせながら帰った。

帰り着いた家でシャワーを浴び、一息ついてのぞいたfacebookで目に飛びこんできたのは、朝見た蝉。

殻から抜け出した、できたての蝉。

その蝉に添えられたことばは

「ただ狂へ」

つまり、ただ生きよ。

そうだよね。

それしかない。



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あのね

2018年07月30日 | ホームスクール・ホームエデュケーション・不登校
不調も幸せも、全部自分が進もうとしている方向に向かっているかどうか、教えてくれるサインなんだと思う。

それらを求めたり厭うより、正しく理解して利用する方がいいよね。

いろんなサインをきちんとうけとめ、広い視野で自分のやってることを見て。

全体としてどういう調整が必要か判断して、自分の行動を無駄のないものに変えていく。

変えるのは自分だけでいい。

そうして今日も明日も望む方向に歩いていこう。

だって、なんのために生きているのか?

朗らかに力強く
楽しく、でも楽しいだけではなく
なりたい自分になっていくためだもの。


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なにもかもなくしても

2018年07月27日 | 命について
娘と話していて気がついた。

「例えそれを失ったとしても?」と
自分に問うということを
私は折々にしているのだった。

例えば仕事、趣味、友人、
家、健康、自由、命、
家族、能力、自分。

今自分が抱きしめている
頭を熱くしている
心をこめている
この大切なものたち。

例えばこれをなくしたとしたら?

大丈夫かな?

いや、もちろん大丈夫では、ないけれど。

失うという可能性は初めからそれらに内包されている。

失うことも含めての「有難い」ものたち。

時々私は自分に言い聞かせる。

今は手の中でも、これも私のものではない。

そう、わかっている、と
頭の中で握りしめたがる手をゆるめる。

不思議な習慣だよね?

でもなんだか私には
そうしておくことが大事だと感じるので

たとえこれをなくしても?と、繰り返し聞く。

(だって)

(手を離さないと)

(浮かべない)

(しがみつくのをやめないと)

(泳げない)

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自由意志という誤解

2018年07月26日 | ホームスクール・ホームエデュケーション・不登校
多くの人は誤解している。

人が自分の自由意志100パーセントによってのみ行動しているはずだ、と。

だから気になる、気にくわない人の言動には口でこうしろと言って修正してもらいたくなる。

その人だってそんなことは充分わかっているのに。

みんなあらゆる条件を自分という恒常性を通して合理的に表現した結果がその言動であるというだけなのに。

もし人が変わっていくとしたら何もないところで変わるのではなく、内部なり環境なり何かが変わった結果として変わっていくはずだ。

こうしろ、と言われ
こうしよう、と言ったからではなく。

なんというか、働きかけるレイヤーが違う。

対立する形ではなくもっと深いところでつながって、動くとしたら自分からあるいは一緒に動くことによって変わっていく。

それが変わるタイミングと流れに沿っていれば。

人は表層から表層への働きかけだけでは動かない。









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誰でもない

2018年07月24日 | 命について
わかったのはね

世界を救う必要はない

どこにも行く必要もない

何を成し遂げる必要もない

誰を背負う必要もない

自分をきちんと整えていけば

すべてはきちんと展開していく

それは関係ないからではなく

分かち難く繋がっているから

私はただ私であればいい

私でしか埋められないこの場所で

私にしかできないことをしつつ

誰でもない私でいればいい

誰でもなくて

誰でなくても

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