日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

出会い方

2017年06月30日 | 日記
居る、いる、居方、いかた、在り方が重要なんだなと

最近はますます思うんですよ。

それが、全て、かも。

自分の在り方で、自分は自分の世界を作っている。

と言うよりおそらく

自分の在り方が世界や他者と出会ったところが

自分になり、自分にとっての世界になる。

自分と世界って凸と凹が完全にぴったり合わさる、境目なんだと思う。

(色は、空と別の塊の空が出会う境界)


出会うときには、オープンでいよう。

なんとかしようと思わないで

相手が好きなように表現できる場所を共有しよう。


多分そうするととってもいいものが見られるよ。



…あれ、なんか書こうと思ってたのと全然違うこと書いた。

タイトルにネガティヴ・ケイパビリティって書いて始めたのに

全然関係ないから使えなくてタイトルを変えました。


最弱入ってて(しかもすでに統合し始めてて)

なんか自由な感じです。


まあそれもよし。











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最弱

2017年06月29日 | 日記
すごく久しぶりに気持ちが不調で、ビクビク、していました。

てい子に、お母さんそんなに卑屈なのって珍しいねーって言われた。

最弱部位の浮上。

私もこんなのは久しぶり。

どっから出てきたの、これ。
っていうかどこに隠れてたの。
いや、これ、本当に自分かな。
誰かのじゃなくて?
(時々自分のじゃなくて人の夢見ることってないですか?
あんな感じ?そんなことない、って?)

でもね、まんざら悪いことばかりではない。

いろいろ思い出したり、気づいたり。


そうだった、そういえば私もかつては「生きづらい」人だった、とか

ギアが入らず体も心も動かない感じがキツかった、とか

奥底にそっと隠し持ってた気持ちもあるんだな、とか


せっかくなので大事にしようと思っています。

この機会に泳がせて甘やかせて、育てましょう。


心ゆくまで、つきあうつもりです。

















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テレビ

2017年06月27日 | 日記
テレビ番組にちょっと協力しましたよ。
協力したのは家族ですが。

テレビに映るってどんな感じだかわかります?

あのね、テレビに映る感じ、ってないんです。

撮影される、と
それを見る、と
ちょっと話題にする、があるだけ。

撮影されるってすごく疲れます。
人前に立つとたとえ数人の前でも緊張するでしょう。
それの強い感じ。
カメラは大きな目みたいなもんだから視線の圧が大きい。
ディレクターさんが、映らない自分でも撮影は疲れます、って言ってた。

そんな撮影があって、この日に放映ですって言われて、みるでしょ。
テレビを見るのは、まあみなさんもみるでしょ。
それと同じ。それに自分がちょっと出てる。

何人かに、見ましたよ、って言われる。

それだけ。

映る感じって、ないんだね。

あとね。
たとえドキュメンタリーでも番組というのはひとつの物語で
作り手の側の作品です。
ただテレビ、動画というメディアの面白いところは、
何か必ず意図だけではないとことろで伝わってしまうものがあるんだよなあ。

でも多分とてもいい番組だと思います。

よかったら見て下さいね。





BS TBS夢の鍵 7月1日放送
目や体の一部分しか動かせないALSなどの難病患者さんの
意志伝達ツールとして利用される「デジタル透明文字盤 OriHime eye」
最近はこの技術を使い、目だけで分身ロボットOriHimeを操り、
ベッドの上から遠隔で出社し、仕事をする人も現れはじめました。
7月1日、ドキュメンタリー番組 「夢の鍵」にて、最新の研究が取り上げられます。

7月1日(土)、17時30分~18時まで30分。
http://www.bs-tbs.co.jp/news/yumenokagi/
 
(オリイ研究所より)
















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待たない、でもずっと傍らにいる

2017年06月23日 | 日記
ちょっと思ったんです。

待つということの弊害を。


誰かに何かを期待して待つ、っていいことなくないですか。

相手に自分の願いを預ける、あるいは下手したら押し付けて

自分は動かないわけです。

自分の期待を相手にぐるぐるしばりつける。

まだかなー、って時々ため息ついたりして。

「いつまで待てばいいのか」って悩んだりして。


なんかね、大事なところは自由にさせてあげないで

支えるべきところは責任をとってないような、

逆じゃないかっていう気がするんです。


私の結論はこうです。


待つのはやめましょう。

ほっておいて欲しい人はほっておいてあげましょう。

その人のプロセスに時間が必要なら、それはその人の時間、その人の人生です。

理解してやらせてあげるのは、待つのとは違う、いや違う気がするんだけど。

つまりその間の自分の時間の過ごし方が違うと思うのです。

じんわり待つのではなくて、自分は自分の人生を生きる。

覚悟と責任は自分の身のうちにある。

その人の自由は大切にしながら、できる手助けはしながら、待たない。

同じ人間として、共にあるだけ。



うーん、違い、あるかな。


まあ、自分に言い聞かせているんですが。


「愛している、なんてなかなか言うの難しいよね」って言われたんだけど

言うのなんか簡単。

愛って、私は、言葉なんかじゃなくて、継続した行動だと思う。

むつかしい難しい綱渡りを、来る日も来る日も続けることだよ。












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納骨

2017年06月21日 | 死について

四十九日はこの上ない晴天だった。


車で実家に移動して

法要を引き受けてくれた友人のお坊さんと身内と合流した。

遺骨と位牌と線香とライターと供物を持って

誰がどの車に乗るか決めて、霊園に向かう。


わかりにくくはないはずなのにいつも見つけるまでちょっと迷う。

東京は地震が多いからか墓石がなかなか動かなくて

石屋さんが苦労して時間がかかった。

みんな珍しいので開いた墓の中をのぞきこんだ。

いいかわるいかわからないけど、母は真ん中にどんと落ち着いた。


選んで買った白いダリアとピンクの百合とトルコききょう。

花の向きを直したり消えたろうそくに火をつけたり

どくだみが強く匂うなか、私たちはそれぞれできることをした。


終わってからみんなで青山通りまで歩いて中華料理で会食をした。

母の写真の前にはビールと焼きそばと春巻き。

母が好きなものを頼んでくれた人、ありがとう。


うまく言えないけど不思議な一日だった。

なんだか落ち着かないような、でも悪くない一日だった。


人が人とあることという不思議さ。あり難さ。

私たちは出会い、別れるけれど、出会ったことは失われることがない。

強く香るどくだみのように、見えなくてもそこにある。


母の不在という時間に私たちは入っていく。

新たに流れが戻っていくように。













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