日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

名医

2019年03月28日 | 出会った人たち
その人は白衣を着てなければちょっと正体不明な人に見えるかも(失礼)

気安く呼び捨てにされても自分は敬語キャラを貫いていて「(子どもの名前)様、おかえりなさいませ」と話しかけたりしていた。

子どもたちが安心して「あいつはさ」って軽口を叩くことができるって、すごい特殊能力かもしれない。

私たち家族はみんなちょっと変わってる彼が大好きだった。

こうするべきって押し付けてこない、子どもが回復して育つ速度で横にいてくれる、最高の主治医だった。

今日で卒業。

ありがとうございましたって言ったら、お疲れ様でしたって言ってくれた。




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川の流れの物語

2019年03月27日 | 日記
人を、いろいろ考えて決定を下して行動するもの、って考えるから口や手を出したくなるんじゃないかな。

でも多分、実態としては、人って例えば川みたいなもんって思った方がいいのかも。

その人はその人の流れを生きている。

たまたま横にいて手を触れることもできて、話すと答えてくれるけれど。

もちろん諦めず、できることは全部するけれど。

全く別の時間の違う物語を生きている。

例え家族でも、どんなに近くにいても。





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認知

2019年03月26日 | 命について
頭の中はだんだん静かになる。

起こっていることを体感に近い感じ方で掴んで、頭の裏の辺、言語の領域が舞台としたら舞台裏とか袖のあたりで、動きや感触をイメージ的にとらえている。

例えば一つの情報から感情が揺れて、反射的に癖のように同じ不安が出現しようとする気配を感じる時。
ヌタウナギが危機モード時に周囲に張り巡らせるぬるぬるのバリアのように不安が「現実」を作り上げる様子をイメージで感知する。
点の不安が面になり思考を覆う様子を「見る」。
(結果として不安は一瞬ののち霧散する)

言語野を使わないからエネルギーもあまり食わない、記憶にも残らない。

言語フィールドの舞台は普段はがらんとしているけれど、誰かとやりとりするとその人に対応する人形が勝手に出てきてひとしきり賑やかに動くから、好きなように動かして眺めている。

望む方向、するべきことははっきりしているけれど、何かを強く「しよう」としていない。

主な主体は、眺めている。

眺めているのは

その主体は私といえるような

なにか私より大きなものであるような。





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めしがまずいから

2019年03月25日 | 日記
さめざめと涙を流しながら(うそ)肩を落として、本当に辛そうにその人は言った。

「つらいんだよ。めしが、まずいんだ。」

ずいぶん長いことつきあっているけど、私の伴侶はいつも変わらず新鮮な驚きを感じさせてくれる。

「そうなんだ、それはとてもつらいね。」

自分で作っても、買ってきても、食べに行っても構わないのに、家族の(自分にとって)まずい料理を食べ続けるなんて。

一応言っておくと私は特に料理が下手なわけではない。彼がとても要求レベルの高い舌と、食べたい時に食べたいものしか食べたくない脳の持ち主なのだ。あと濃い味が好き。

彼の料理に関する知識と腕はプロ並みだけど、日常生活の一部として家族の食事を用意するということは別のこと(そんなめんどくさいことはできない)。

彼の料理に関する数々のエピソードは女性に受けないことがない。
ある時彼はひき肉で出汁をとった。
また別の時、5時間かけて作ったカレーを最後の最後に辛くして、辛いのが食べられない子どもにはボンカレーを出した。
またある時に解凍してしまった白身魚の料理をお願いしたらとても美味しいお料理を作ってくれたけれど、解凍済みの魚はそのまま冷蔵庫にあった。白身魚は買ってきたから。(絶句する女友達たち)
また例えば二人がそれぞれ作った料理を食卓に並べたとして、何の悪気もなく自分の料理にしか手をつけないということもあった。

一歩ずつの長い理解のプロセスの中で、私は無駄に感情を揺らすことをやめた。

生活をすることは「こうあるべき」の押しつけ合いではない。

誰でも人は暮らしたいように暮らす自由があっていい、と私は思う。

夫婦でも親子でも何故だか縁が結びつけた人と共に生きることは、本当にきりなく学び続けること、汲めども尽きぬ修行の泉だ。

人と生きることは簡単ではないけれど、どうせならできるだけ楽しく学んでいきたい。

どう生きるかどう暮らすかは私の選択、私の自由だから。












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春の小川で違う世界の人と

2019年03月24日 | 出会った人たち
小川沿いの狭い道を歩いていたら車が来たので、近くにいた老女と小さな橋に身を寄せた。

今日は思ったよりお天気がよくてと話しかけられたので、ほんとうにあたたかいですねと返しながら車の動きを目で追っていた。
ごめんなさい、しゃべりかけちゃってと謝って、彼女はまた続ける。狭い道なのに幼稚園のお迎えかしら。
頭を下げる人と、下げない人と、ね、と言うので私は驚いて彼女を見た。

狭い道を運転していて人に避けてもらったら私は会釈するけど、人にそれを期待はしないから。
車で公道を走るのに頭を下げるべきという(おそらく世界的にはかなり珍しい)解釈は私には新鮮だったけれど、考えてみればそういう人もいるだろう。
私もするんだから人もするべき、と。
会釈だけではなく、他の多くのことも。

その時に気がついた。
すぐ隣にいてもこの人と私は全然違う世界に生きている。

彼女の目でのぞいた世界は私には身が縮まるような狭苦しさだった。

人は思いたいように思い、生きたいように生きる自由があり、その人の思う通りの世界に生きている、けれど。

知らないことやコントロールできないこと
こうあるべきと言い渡せないこと
そういうものを多く含んだ世界を、私は、生きたい。

広い、未知な空間とともに。




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