気がついたら「生きる」という舞台の上にいる
ルールも遊び方も見よう見まねでやるしかない
言われることや教わること
説明がつかなくても自分が選んでいく
その足取り
成長した後に棚卸し/解体する
「自分」という現象を壊してまた組み上げる
何度ボードから落ちてもまた這い上がって波にのる
そうしたら「生きる」の意味も変わっている
「私」のかたちも変わっている
フォーカスとウエイトと張り方と表出
深まるのは落ち着き
しずけさ
見えなくてさわれないものの感触
お祭りやってるよ!と連絡しても子どもたちはもう出てこない年齢になりました。
ばかばかしいキャラクターの絵が描かれた袋に入ったわたあめとか、そのあと誰が面倒見るのという金魚掬いとか、ねだられる年月は思ったりよりずっと短かった。
ねだられたものを買って喜ばせるということが、どんなに貴重なことであったか、今あらためて感じている。
少し大きくなってからいろいろ親子とも大変だったけれど、遊ばせ盛りの小さい頃は思い切り遊んだから心残りはない。
あの子たちの人生に残る海遊びの記憶の全ての水着を私が洗ったとは、なんという恵みか。
彼らには彼らの人生があり、もう私の役割はお金を稼いで元気でいるくらいだけど。
親子として巡りあい時間を過ごせていることを、忘れずに時折感謝しようと思う。
「手を描くのでえんぴつを持ってきてください」
今日も難しい課題で気は進まないけど、あの素敵なお宅でおしゃべりしながら教わる感じが好きなので、久しぶりに大人のお絵かき教室に赴いた。
「関節の位置」
「手の形だけじゃなく間の空間の形も見て」
はー。
それはなるほどという感じだけれど。
実際にえんぴつを持つと途方にくれる。
で、どうやって描くわけ?
仕方なく手を動かして差し障りのないところに心もとなく線を引く。
紙に手をおいておおまかになぞったら「あーそれは…(だめ)」と言われた。
一応、手の形のものが紙の上に表れる。
帰宅して翌日に取り出してみる。
あ、ここの影を描き足そう。
指の立体感が出てくる。
占いできるくらい手相も描いてみよう。
手のひらの質感が増してくる。
少しずつ描くことが面白く感じてくる。
何が一番違うかと言えば、自分が手や絵を見る目が昨日ともう違っている。
使っていなかった何かがぐうんと伸びて広がっている。
絵がうまくなりたいわけじゃないのに(いや、そりゃあうまくなれたらいいけれど)通っているのは、その時間が居心地いいだけではなく、自分の使っていなかった認知の視野が開発されるのが面白いから。
あとはまあ、りえさんちのおやつや手作りジュースが美味しいしね。