ただ坐るなんならにんげんするよりホーム
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ずいぶんアニマルクロシングが気に入ったんですねって言われるとそれはちょっと違う
多分フォーカシングはそれを使うんだろうけど(何の知識もないのですごい当てずっぽう)意識および体感の焦点の筋をたどり深く理解するやり方は私たちに生まれつきinnatelyに備わっている
その筋のテーマはそこらじゅうにある
心理だろうがNetflixだろうが占いだろうが関係なく、自分のなかで動くものがあれば使える
それらは端、きっかけだから
重要なのはそこからの追い方
ちょっと穴追いに似てるかな
解釈する、んじゃない
解釈しようとする自分を見ているんだから
自ずからするするとほどける解けるに任せる
そのスペースを維持するのがこつかな?
ポイントはここ
最初は
(なんとなく)(大雑把に)
「空の巣かあ」
(なんかやだな)
が
座って落ち着いて見ることで
全体が(わかる範囲で)明らかになり
(明らかにして、ではないんだなあ)
そこから新しい展開が生まれる足場になるような理解を心身ともに得ること、だな。
少し深く潜って無音の水にゆらゆらと映るに任せると、立ち上がらせた仮の像(この場合は小鳥である私が見た巣)に角度に応じた色と意味がふわりと浮かびあがる。
どれも全てではないし暫定の意味合いだけどそれぞれが何かをまとっている。
もちろん空の巣というのは誰もが知る子育ての終わり。
番う時期、命懸けで産み守り育てる時の終わり。
だけどそれだけじゃない。
その空っぽさ、からっと気楽なちょうどよい小枝の乾燥具合を小鳥の私は好ましく思っている。
自分ひとりにちょうどいい寝床、でもなんならいつでも捨てることもできる。
というか三匹の子豚じゃないけどそもそも小枝だし、捨てることもわかっている。
いまはゆっくり楽しむことをして/終わらせているところ。
巣を。
簡素でシンプルな巣は私の過去の時間、無駄なものや終わったものは取り除けられ整えられ、私にだけわかる満足のいく素敵な作品、と同時に
わかった
巣は
私/前からの私
もう少ししたら
手放すらしい
大抵は体操みたいなソマテイックワークなんだけど、今回はアニマルクロシングというフォーカシングの手法を二人組になってやった。
これも禅の教えの己事究明(漢字合ってる?)自分というものを深く究めて明らかにする、のひとつの方法とのこと。
なんでもいいから動物(実際にいるのでも架空でも)になったつもりで質問に答える。
例えば、とぼとぼ歩く老犬、瞬発力をなくしたチーター、子熊を連れて歩くしろくま(これは大里先生)、木々を飛び回る猿(藤原さん)
では、やってみましょう。
(とやった内容を前に書きました)
表現して表現したものに質問されてもう一歩自分というものの風景に踏み込む。
それまで気がつかなかった姿が現れる。
自分に見えない自分のすがた。
「自己を究明するのが禅」と一照さんは言う。
一照さんは飛ぶ鳥と言っていたけど、どんな鳥だったのかな。
教えていただきました。
「僕は、はるか下の町(葉山?)を見下ろしながら、心地よく旋回を楽しんでいる一匹の(群れの中ではなく)鳶、でした」