日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

お葬式

2024年06月09日 | 死について

 何かとお騒がせだったおばがついに亡くなった。たまにかかってきていた電話がここのところ来なくなっていたからどうしたかなぁとは思っていた。


 母の家系は情が深く愛するし愛されたい質で、愛する、は置いておいて、愛されたい、は概ね本人にとって大変そうだった。


 身内だけで簡単にとは言えそこそこの人数が集まり、何年ぶり、元気だった、こんな時にでもなきゃ会わないから子どもが何人だかどこに住んでるんだかあやふやで何を話そうか。


いとこは私が覚えている叔父にそっくりだし、叔母からは母に似たなつかしい気配がする。


 たまにしか会わないけれど、それぞれの人が時間の流れで皺や白髪が増えた分洗いざらしたような良さがあった。行き過ぎたり角張ったところ、そういうところが丸くなったり落ち着いたり。


そうすると年をとるということはやはり恵みなんだなと思った。


 さすがに享年90だと場は軽く明るい。


 いとこの話では最期の半年は毎日呼び出し、つまりたっぷり最愛の子に甘えたようだった。

 

 あらためてふりかえると簡単に身内で、でも必要充分なお別れで、beautifulなお葬式だった。

これがゴールであるならば叔母の人生もなんというか大団円では。


 じゃあねと別れて「会えて嬉しかった。いいお葬式だったね」と写真を送りあった。


私たちはみんな、たまに会ってご飯を食べておしゃべりをして笑ってまたねと別れる。


 それしかないしそれでいいんだ。


 じゃね、とどこかで叔母が言った気がした。








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病院

2021年10月08日 | 死について

びょういんはなんか懐かしい。


何年も家族のために通ったからか。


あのクリーム色のカーテンを引くと、ベッドに母が、こどもがいるような気がする。


身体の神経系のどこかが緊張する一方で、ひどくほっとしているところもある。


いつか(順当に行けば)最後の息を引き取る可能性の高いこの場所で、命が明々と燃えている。


またはもがいて、あるいは静かに消えようとしている。


それは自然なことなのだと、ただそうあるものなのだと。


ここにいるとあらためて伝わってくる。


いつか横たわるその時に、私のどこかは安堵をするような気がする。


こんなにこの地に馴染じんだ今であっても。


本当の故郷はここではないと一番の奥底が知っている。






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もういない人の夢を見た

2021年01月08日 | 死について

娘が一昨日、あんママ(亡くなった私の母)の夢を見たよ、と言った。

夢でも一回死んだことになっていて、あらアクセサリーが少ないわねと言うあんママに、ごめんごめん、死んだ時に分けちゃったんだよと謝ったんだ、と笑った。


昨日は母は私の夢に出てきた。病気はあってもまだ少し動けた母に、スクリーンを拡大する装置を渡したら、もう声は出なくなっていたけど指でOKを出して喜んでいた。

催しものが始まろうとする人が集まるところにいて、ああここならさみしくないし楽しいなと思った。


どうもこのところ死者と生者の間の膜が薄くて、起きてからも母の気配がとても近かった。


台所でお皿を片付けながらなんとなく母に話しかける。


私たちがんばったよね。


最後の苦しみを取り除くのに私はちっとも役に立たなかったし、そもそもあなたの望むような役割を果たせなかったし、はなから果たすことはできなかったけど、もしかして果たさない、をしないといけなかったのか。


あなたのいない今、私とあなたの関係は安らいで横たわり平和のうちにある。そう言っても許されるだろうか。

許されるな、母は私をこの上なく愛していた/愛しているから。


可愛いあなたをとても愛していたとなんの躊躇いもなく言えることに深く感謝している。


とても愛してくれてありがとう。






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喜びのなみだ

2020年12月29日 | 死について

昨日の続き。


最近会わないオオシマセンセイはピンクのシャツかなんか着ちゃっていつも笑っててちょっと大丈夫かなってかんじだけど、あれで実はすごい先生だから喜びの涙のことずっと取っておいていた。


会えると信じてた人とお別れなんてほんとに悲しくて泣けるけど、死ぬことは生きたことを打ち消すわけじゃない。


死ぬことは生きたことを打ち消すわけじゃない。

その人が精いっぱい生きたことは誰にも絶対に否定できない。

そうしない人がいたとしても、私はその生を心から祝福する。


そうだ。


もう会えないなんて悲しすぎるっていうのは、そもそも出会えたという喜びがなければ存在しない。

そう思うと涙には悲しみだけじゃなくて胸震える喜びと感謝が含まれている。


そういうことかな…?









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お別れのなみだ

2020年12月28日 | 死について

昔オオシマセンセイが言ったこと。


誰かが死んでお別れで、ぶわーっと泣いても、どんなに悲しくて泣いても、それは全部出会えたことの喜びの涙なんだよね、って。


うーん、そうなのか。

そうなのか?

と片付けずに置いてあった言葉。


今ごろだけど、そうかあ、もしかしたらそうかもしれない。






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