ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

豪農の館/伊藤邸(北方文化博物館) 1

2011年05月09日 09時40分19秒 | 新潟県の散歩道

越後の残る豪農の姿は今もその歴史を伝えています。

以前にも、渡辺邸をご紹介していますが、今回は越後随一の大地主になった一族、伊藤家をご紹介します。

江戸時代中期に農業より身を起こし代を重ねて、やがて巨万の富を築きます。

明治になった頃は、1市4郡64ヶ町村に1370余町歩の田畑を所有します。

平米にすると、1,370万㎡になります。

昭和になると3万俵余りの作徳米だったそうです。

しかし、戦後の農業解放によりこれらの土地は、伊藤家から離れることになります。



三色椿?




この本邸は敷地8,800坪、建坪1,200坪で部屋数は65を数える純日本建築です。

余談ですが、私が復興を目指し再建しようとする、屋敷とでは話になりませんなww





茶の間

三間続きの茶の間は、当主が来客を迎えた部屋で戸を開け放てば27畳の広さになります。




大広間 & 座敷

冠婚葬祭等の特別な行事に使われたそうです。
全て欅造りで、座敷を囲む廊下には、柱が一本もなく釣欄間工法等と言うらしく、贅を尽くした造りになっています。
因に雨戸は26枚で一ヶ所の戸袋に収まります。


柱が無いのがわかりますね。床には雨戸用の溝があります。






庭園

庭園は回遊式庭園で、5つの茶室があり、この庭は銀閣寺ゆかりの庭師田中泰阿弥(柏崎出身)により5年がかりで造られたものです。







茶室「三楽亭」 
門の外から撮ったので分かりにくいのですが、正三角形をしており柱、建具、畳なども三角形や菱形をしています。



茶室「常磐荘」




囲炉裏と台所

当時は、50人余りの従業員が働いておりこの竈で毎朝1俵(60㎏)の米を炊いていたといいます。

たまげてします。




考古資料館

台所の2階が資料館のなっていまして。地主時代の文献や出土品などが展示してありましたが、 土地の台帳の多さには驚きました。
丸太彫りの舟や埴輪、土器なども展示されてました。



このようなぶ厚い台帳が何十冊もありました。
当主は自分の土地を把握出来たのですかね?


ビリアード台ですが、七代目 伊藤文吉がアメリカ留学より持ち帰ったものです。

ちなみに「文吉」は4代目を除き、襲名しています。



こんな埴輪が発掘されていますが、やはり大昔はこんなスタイルをしていたのでしょうね。




一階に戻ります。

天井を見ると、沢山の張りが見えます。




この庇(ひさし)を支える丸桁(まるけた)は杉の一本物です。
長さ30m(16間半)
明治16年に会津の只見川沿いにある三島町の山林(地名は、別名:お蔵入り)より阿賀野川を筏で運ばれたものです。


なにこれ?

実はこれ、婚礼の時に出された献立表です。

婚禮御祝式献立
婚礼の御祝は三日間に渡りおこなわれます。その三日分献立が書いてあるのですが、凄い量ですね。






三角形の電話ボックス



長くなりました、次回につづく








コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
すごいですね (維真尽)
2011-05-09 16:55:35
これぞまさに
豪邸

ここまで維持されているのに
驚きました

いいですねぇ 日本建築 (^_-)~☆
返信する
Unknown (桃源児)
2011-05-09 17:06:50
さすがに豪農の屋敷、圧巻です。
毎朝、一俵の米、一体、何人分なのかと思ってしまいます。
かなりの使用人もいたということですね。
返信する
維真尽さんへ (ひー)
2011-05-09 20:25:20
一年でいいから、大地主の息子になってみたいものです。
きっと、バカ息子と呼ばれるでしょう。ww
返信する
桃源児さんへ (ひー)
2011-05-09 20:32:13
自分もびっくりしました。
毎日一俵ですからね。
従業員は50人ほどのようです。
プラス家族ですかね。
返信する

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