ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

毛越寺/平泉

2015年11月19日 19時04分23秒 | 岩手県の散歩道
先日、紅葉も終わりそうなので足を運びました。

今まで平泉に関する記事は少なくあまり触れていませんでした。
何故か?・・・と言えば。 話が長くなるからです。  アテルイ・蝦夷・坂上田村麻呂・源頼朝・義経・藤原清衡から4代・その他多くの寺院・前九年の役・後三年の役など色々な話がつながってゆく。 そんなわけで敬遠してきたわけです。
カテゴリーから「岩手県の散歩道」に若干関連記事があります。

今回の寺は毛越寺(もうつうじ)と読みます。
越をツウとは読みませんね。観光に来る他県の方はケゴシデラなんて読んでしまいます。越は慣用語でオツと読みます。
つまり、モウオツジだったようです。次に→モウツジ→モウツウジに変化したものです。

ここは、世界文化遺産です。
平安の伽藍様式を知る上で貴重な遺構として保存されている、また大泉が池を中心とする浄土庭園は、日本最古の作庭書「作庭記」の思想や技法を伝えている池庭で、自然を象徴する景観をもって仏堂を荘厳し浄らかな仏の世界を作り出している。

平泉は、仙台を起点に東北を訪れた観光客が必ずというほど立ち寄る場所でもあります。
意外と知られていない地域ですが、平安京後期の都の人口は10万人から15万人と言われています。平安時代末の鎌倉の都市人口は10万人というデータもあるようです。それでは最盛期の平泉の人口については諸説あるのですが、軍隊との人口比から平泉の都市人口を5万人と推定していたり、佐貫利雄は、10箇所あった金鉱が養える人口がそれぞれ1万人であるとして、最盛期の平泉の人口を説もあります。また『吾妻鏡』や江戸時代の作と考えられる『平泉全盛図』(平泉古図)などをもとに、往時の平泉の人口を京都に匹敵する十数万人と見積もる説もあるのです。
当然京都と同じとは考えにくいのでもっと小さいとは思いますが相当な街が造られていたと思います。
何故こんな東北に・・・と思う方も多いと思いますが、莫大な金の産出や名馬、漆などを朝廷に謙譲していたり、隣国との貿易も行っていたのです。

朝廷側との戦いで多くの兵を亡くしました。そこで奥州藤原氏初代清原清衡(後に藤原清衡)から4代に渡りこの地に仏教を取り入れ多くの寺院を建て浄土世界をこの地に造ったのです。

説明はこの辺でやめましょう。




上記の句碑は、英語なのですが松尾芭蕉の俳句「夏草や兵どもが夢の跡」を新渡戸稲造が英訳し、毛筆で書いた文字です。






ひーさん撮影中






出島石組と池中立石
池の東南の位置に出島が造られている。その先端の飛島には約2.5メートルの景石が立てられ、周辺には中小の石を荒々しく散らし玉石を敷き詰めている。池水に洗われるその景観は、荒磯の風情を現しているいる。


この平な泉こそ、地名平泉の原点なのです。












撮影時一脚を初めて使いました。 購入してから一度も使わず何年も保管していたものです。



常行堂
本尊は宝冠阿弥陀如来。奥殿には秘仏摩多羅神を祀る。毎年正月二十日に古式常行三昧の修法が行われ、国指定の重要無形民俗文化財である。「延年の舞」が奉納される。現在の常行堂は享保十七年(1732)に再建されたものである。






鐘楼堂
現在の鐘は昭和50年、人間国宝香取正彦氏の作で、天台座主山田恵諦大僧正の銘が刻まれています。姿形は、平等院風を思わせ、美しい音色を響かせています。


木の中に何が見えます??????


地蔵菩薩
お地蔵さまは餓鬼道の能化(仏菩薩)である。地蔵十益、地蔵二十八益というご利益がある仏さまで、手に持つ宝珠は如意の玉ともいわれ、このお地蔵さまを信仰すれば、願い事が心のままになるという意味です。


遣水
この遣水は、庭園の発掘調査中に往時の姿のままに発見されたもので、遣水の遺構は奈良の宮跡庭園を除いては例が無く、平安時代の遺構として唯一のものである
その美しい流れとせせらぎは浄土庭園に風雅な趣を添えており、「曲水の宴」(ごくすいのえん)の舞台ともなる。
曲水の宴
庭園の遣水に盃を浮かべ、流れに合わせて和歌を詠む。 平安時代の遊びを再現したものです。

写真は平泉のHPから

このように、東北は田舎・・・・そして蝦夷の国であるかも知れませんが、このように都の文化が息づいていたのです。


嘉祥寺跡
「吾妻鏡」によると二代基衡公が工を始め三代秀衡公が完成させた御堂でその前身は慈覚大師開山までさかのぼり、寺名は開山時の年号に由来する。堂内の壁や扉には法華経の教えが画かれていたという。


開山堂
毛越寺を開かれた慈覚大師円仁(794~864)をお祀りする堂である。慈覚大師は天台宗第三代座主となり生前の業績を称えられ、日本初の大師号を授けられた。在唐九年間の紀行「入唐求法巡礼行記」(にっとうぐほうじゅんれいこうき)はマルコポーロの「東方見聞録」、玄弉三蔵の「西遊記」とともに、三大旅行記として高く評価されている。







白鹿伝説
寺伝によると嘉祥三年(850)慈覚大師が東北巡遊のおり、この地に差し掛かると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっておりました。大使が近づくと、白鹿は姿をかき消し、やがてどこからともかく、一人の白髪の老人が現れ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げました。
大師はこの老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号しました。
これが毛越寺の起こりとされています。




次回も平泉関連です。












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