鎮座地:神戸市中央区多聞通3-1-1
御祭神:楠木正成公(くすのきまさしげこう)大南公
及び湊川戦で殉節された一族十六柱等
摂社:甘南備神社の御祭神は大南公夫人
湊川の戦いは、南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
楠木正成公は個人的には、皇居前の銅像のイメージしかわかりませんね。
人物神ということですね。
戦いについては、割愛します。 まず、お墓が最初に作られます。この誠忠(せいちゅう)の正成公を慕う人々によって正成公の塚(お墓)は大切にされてきました。
のちに、元禄5年(1692年)水戸光圀公(義公)はそのお墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立てられ、御墓所を立派に建立されました。この御墓所が建立なるや、さらに多くの人々が墓前にお参りし、正成公を偲びその御遺徳をたたえました。
幕末から維新にかけて正成公の御神霊(ごしんれい)を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じになり、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建(そうけん)されたのです。
画像クリックで大きくなります。
水戸光圀公
湊川神社で頂いた御朱印は4枚でした。
御祭神:楠木正成公(くすのきまさしげこう)大南公
及び湊川戦で殉節された一族十六柱等
摂社:甘南備神社の御祭神は大南公夫人
湊川の戦いは、南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
楠木正成公は個人的には、皇居前の銅像のイメージしかわかりませんね。
人物神ということですね。
戦いについては、割愛します。 まず、お墓が最初に作られます。この誠忠(せいちゅう)の正成公を慕う人々によって正成公の塚(お墓)は大切にされてきました。
のちに、元禄5年(1692年)水戸光圀公(義公)はそのお墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立てられ、御墓所を立派に建立されました。この御墓所が建立なるや、さらに多くの人々が墓前にお参りし、正成公を偲びその御遺徳をたたえました。
幕末から維新にかけて正成公の御神霊(ごしんれい)を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じになり、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建(そうけん)されたのです。
画像クリックで大きくなります。
水戸光圀公
湊川神社で頂いた御朱印は4枚でした。
その都度の世の中に、評価が大きく変えられてきた神社ですね。
足利尊氏も、逆臣であったり、頼朝家康以上の存在であったりと、扱いが大転換してきました。
でも、神社は神社であって、シンプルに興味がわいてきますよね。
靖国神社も、あちこち見て歩くには、なかなかのものです.....
台風の日は、神田川のそばの現場に、仕事に出かけていました。
電車が止まる瀬戸際に帰ってきましたけれど、中央線は1両に3人しか乗っていませんでした。
日本は河川だらけですからね。
今後も永遠と台風なり大雨なりが繰り返しきます。 そこに生活する人々や行政が考えなければならない時期にきているのかな~
祖先代々の土地だからここに骨を埋める・・・
その気持ちもありますが、・・・・
あまりにも危険な場所がありすぎですね。
日本特有の地形ですかね。
解決策は無いのでしょう。
でここの神社相当大事なようですね。以前こちらの方に縁がある方に聞いた事あります。
湊と川ってだけで地形的にも大事な神がいそうなのも分かりますし、湊と川ですもん。
因みに近江も父と縁ありそうな所でもあるんですけど、近江の方からの情報で調べて確か複数湊川神社あったような気がします。
で楠さんの件ですけど、ひーさんも関わるように思いますよ。うちは父の件で出てくる方のようです。で南朝絡みだと良く出てくる方なんですけど、近年はプロパガンダ的に使われてますよね。そうもちろん立派な方の行動は素敵ですけど、どうも家系的な要素もあるんではないかな?過去の事件などで。
また今世までの偉人のお付き合いもただならぬ感じですね。
場所的要因と神はそもそも動かないはずなのでその地が大事そうですよね。
今回の台風で考えるととっても大事そうですよ。
あと毘沙門さんの御朱印、それも意味ありそうですね。
用心棒みたいな神も必要なのでしょうね。
確かに有名な人物で、この神社も大切にされているようです。
自分の勉強不足が一番の原因なのですが、どうも関西(近畿)は今まで通りすがりだったので、歴史が入ってきません。
楠正成は記事の通り皇居前の銅像で知ったので私の知識不足です。
しかし、息子の家族がこの近くに住むようになったのですからご縁があったのでしょう。何度かこれからも足を運びたいと思います。
ただ最近関東回っていても出るんですよね、それは多分慕われ度。ただ今回ひーさんが行った地も絶対に縁があるんでしょうね。個人的には楠さんそのものよりももっと古代楠さんの先祖的な一族の方探りたいんですよね。けど見えてきたカモ?今テレビで朝から大変みたいなので記事覗いてみましたよ。
少なくてもこの方はみんなに慕われてもいるし、忠義もあるしこの方を依代にして行動出来たら安心ですよ、多分。木で言えば楠の大木に出会ったのは熱海と伊豆伊東。今の話題で考えると更にタイムリーです。
で本題の記事のコメントにいきます。