ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

松島:瑞巌寺は第二の城?

2007年12月06日 20時18分33秒 | 仙台藩と伊達家のお話し
瑞巌寺を紹介したホームページはたくさんあるので詳しくは触れないが、

お寺でありながら第二の城とも言われていた、瑞巌寺の隠された

軍事的要素と城造りについて触れて見たい。


よく観光客同士の話を聞いていると、なんだただの寺か?

っと言って観光している。

きっとガイドの話を聞いていないで、バスの車内で酒を酌み交わし喋って

いるのだろう。

まぁ、興味が無いなら仕方が無い。  

地元のガイドさんなら結構裏話を知っているが、他県のガイドさんは、

教本通りの説明で終わってしまうだろう。

一国一城制の決まりがあった為、仙台藩にも一つしかお城はない。

白石にも家臣だった片倉小十郎(片倉景綱)の白石城があるが、幕府に申請した時は、櫓(や

ぐら)を建てると言って許可をもらったようだ。(まぁ、これは、話を面白くする俗説なのかも知れない)

政宗は、密かに第二の城として、この瑞巌寺を造営したのであろう。

この寺は、平安時代 初めに建立され最初は、天台宗延福寺(松島寺とも呼ばれた)
天長5年(828年)に慈覚大師円仁の開山と言われる。
東北の有名なお寺のほとんどが慈覚大師が開山したものです。
青森県:恐山菩提寺 岩手県:中尊寺・毛越寺・黒石寺 福島県:霊山寺・大蔵寺
山形県:立石寺(山寺)などである。
天台寺延福寺は、鎌倉幕府執権五代・北条時頼によって滅亡された。

時頼が探した、無学文盲の高僧として高名な法身性西(ほうしんしょうさい)に住職を依頼し
禅宗の円福寺となる。

臨済宗円福寺
天台記では正元元年(1259年)と伝えられるが、建長元年~時頼没年弘長3年(1269年)の間と考えられる。    第二代大覚禅師(蘭渓道隆)は中国四川省の出身で鎌倉建長寺の開山。 多くの中国人の弟子を連れてきた。弟子達は、鎌倉円覚寺、壽福寺、浄智寺、
京都の南禅寺、建仁寺に名を連ねている。

瑞巌寺
現在の瑞巌寺の建物は、仙台藩祖 伊達政宗公によって慶長9年(1604年)8月15日に
政宗自ら縄張りを行い、土足で棟や床に上がることや、間違って落とした釘・鎹(かすがい)を拾って使用することを禁じたと言う。

瑞巌寺の建築木材は、紀州熊野から海上を16艘の筏を組んで運ばれ、大工は京都から
梅村彦左衛門家次を招聘し、その梅村は紀州から大匠と評されていた刑部(おさかべ)鶴左衛門国次を招いた。

瑞巌寺の竣工は慶長14年3月26日、政宗は上棟(落慶)祝いに、自ら本堂前の庭に朝鮮出兵(文禄2年、1593年)から持ち帰った五葉松と紅白梅を手植えした。
臥龍梅と名づけられ現在樹齢400年になる。

まず、この写真を見て欲しい。 正面から参道を真っ直ぐ来ると最初の入り口の所から左に折れ曲がっている。



これなら瑞巌寺本堂が参道より直視できない。   つまり直線的に発射される飛び道具で
狙い撃ちは出来ないだろう。


下の写真は、本堂に向かって右側にある、庫裡(庫裏くり)である。(国宝:未公開)  庫裏とは、寺の事務所・台所・食堂






庫裡の「煙出し」は高所からの狙撃を可能とした「櫓」的機能をもったものと考えられています。

御成り玄関



本堂


さらに200人を収容するといわれる武者隠しの存在、銃弾が貫通しないよう内部が空洞となっている太鼓堀、矢弾をも防ぐであろう厚さ17cmの畳(通常の1.5倍)などいろいろとあげられます。
そんなところから第二の城と言われる由縁です。

改めて門から紹介しよう。

つづく


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