この写真が下の本「戦国残酷物語」に提供した写真です。
小次郎(伊達政宗の実弟)の墓所です。
この記事については「伊達小次郎の墓と伊達秀雄」でUP済みです。
以前の記事には、「毒殺未遂事件は、自白した者によると、政宗公を殺害し、弟小次郎を伊達家の家督に据えようとする母義姫の計画だった。」と記載した。
または、義姫の兄最上義家に「政宗を亡き者にして、蘆名攻めに手をそめていない弟の小次郎を立てれば、伊達家は秀吉に安堵されるだろう」とそそのかされたのでは?という説もある。
しかし、この本では「政宗の自作自演」つまり一人芝居であるとしています。
実は昔から、その説はあったのです。
そして、小次郎の記録も伊達家の古文書にも殆ど表れず。政宗が抹殺したのではないかと言われています。
この本に書いてありますが、江戸時代になると伊達家の家臣でも弟の存在を知らなかった者も居たようです。
何しろ、伊達家の墓は大年寺山にありますが、小次郎の墓は遠く離れた義姫の化粧地「本吉郡津山町横山」にあるのですから。
毒殺事件については、「片倉小十郎景綱と独眼竜政宗/小田原参陣と毒殺未遂事件」に簡単に書いてあります。
上記の記事に書いていない行動がありますのでここで紹介します。
4月15日政宗は黒川城(後の鶴ヶ城)を予定日より9日遅れて出発した。
南会津の大内に着いたところで、黒川城に戻ったのです。
この黒川城への引き返しを小和田哲男氏(静岡大学教授)は、「抗戦派の説得の為」と解釈している。
小田原参陣について政宗が迷い片倉景綱に相談したことは以前に述べていますが、家中には依然として徹底抗戦を主張する一派があった。
そのリーダーこそ一族である勇猛果敢な伊達成実であった。
成実に不穏な動きがという情報を得て、黒川城に引き返し、反対派の説得に尽力したのではないだろうか。
政宗がふたたび出発したのは、5月9日であった。
越後の上杉を通り小田原に着いたのは6月5日であった。
小次郎(伊達政宗の実弟)の墓所です。
この記事については「伊達小次郎の墓と伊達秀雄」でUP済みです。
以前の記事には、「毒殺未遂事件は、自白した者によると、政宗公を殺害し、弟小次郎を伊達家の家督に据えようとする母義姫の計画だった。」と記載した。
または、義姫の兄最上義家に「政宗を亡き者にして、蘆名攻めに手をそめていない弟の小次郎を立てれば、伊達家は秀吉に安堵されるだろう」とそそのかされたのでは?という説もある。
しかし、この本では「政宗の自作自演」つまり一人芝居であるとしています。
実は昔から、その説はあったのです。
そして、小次郎の記録も伊達家の古文書にも殆ど表れず。政宗が抹殺したのではないかと言われています。
この本に書いてありますが、江戸時代になると伊達家の家臣でも弟の存在を知らなかった者も居たようです。
何しろ、伊達家の墓は大年寺山にありますが、小次郎の墓は遠く離れた義姫の化粧地「本吉郡津山町横山」にあるのですから。
毒殺事件については、「片倉小十郎景綱と独眼竜政宗/小田原参陣と毒殺未遂事件」に簡単に書いてあります。
上記の記事に書いていない行動がありますのでここで紹介します。
4月15日政宗は黒川城(後の鶴ヶ城)を予定日より9日遅れて出発した。
南会津の大内に着いたところで、黒川城に戻ったのです。
この黒川城への引き返しを小和田哲男氏(静岡大学教授)は、「抗戦派の説得の為」と解釈している。
小田原参陣について政宗が迷い片倉景綱に相談したことは以前に述べていますが、家中には依然として徹底抗戦を主張する一派があった。
そのリーダーこそ一族である勇猛果敢な伊達成実であった。
成実に不穏な動きがという情報を得て、黒川城に引き返し、反対派の説得に尽力したのではないだろうか。
政宗がふたたび出発したのは、5月9日であった。
越後の上杉を通り小田原に着いたのは6月5日であった。
まぁ、各々の言い分で都合のいい話が残ったり。
歴史研究家の想像もあtりますからね。
この時代にタイムスリップできるなら行ってみたいところですよね。
言い伝えも、主観によって変わりますからね。
こんなハイテクな時代になってもまだまだ、嘘
がはびこってますからね
政宗でさえ若造だったわけですが、世渡り上手でないと この時代は生きていけませんからね。
戦場カメラマンがいたりして。
本能寺の変も 明智光秀に違った情報を流した。
という話がありますね。
この目で確めたいものです。
戦国の世、自身と家を守るためには肉親でも葬らねばならない。悲しいことです。
仮に小次郎が伊達家を継いでいたら、確実に秀吉に潰されていたでしょう。
真実はわからないし
まして
人の気持ちは~ね (^_-)~☆
けふの 「お江」 本能寺の変に際して、彼女が家康と行を共にしたという話ですが、
これも???
面白いですねぇ