ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

片倉小十郎景綱と独眼竜政宗/小田原参陣と毒殺未遂事件

2008年10月14日 15時15分00秒 | 仙台藩と伊達家のお話し
独眼竜の誕生

幼名:梵天丸、後の政宗は、四、五歳の頃天然痘にかかり右目を失明してしまうのです。

その病で眼球は飛び出し、醜い顔を嘆き、いわゆる引っ込み思案になってしまうのです。

人に言葉を掛けられると赤面し、恥らうのが常でした。

その様子を見ていた家中に者も、他家の家臣達も将となる器ではない、と陰口をたたく者が多かったそうです。

ある日、片倉小十郎が・・・・

「公! 自分が不要と思うのなら、それはもう必要の無いもの、取ってしまいなさい。
もし戦場で敵にその飛び出した眼を摑まれたらどうなさいます?」

政宗は自分で切る事ができず、小十郎に頼むのです。

小十郎は刀を取り出し、政宗の眼を抉り取ったのです。

しかしながら、伝説として残っているもので、史実としての文献は私も未確認です。
あしからず あくまでも俗説です。

独眼竜政宗遺骨は語る・・最後のカルテはこちらです。

白石城


小田原参陣と毒殺未遂事件

天正18年(1590) 伊達政宗24歳のことです。

政宗は、佐竹氏を破り、関東に馬を進める意気込みでした。
しかし、上方から「秀吉に服従せよ」 「小田原に即刻参陣し、秀吉に謁見して忠節を尽くすべし」という勧告が頻繁に届くのです。

政宗は重臣達を集め、「小田原参陣に遅れてしまった。進んで生死を定めるべきか・・・、退いて生死を極めるべきか」と評議を重ねるのです。

伊達成実(しげざね)らは、「小田原参陣はもはや手遅れ。秀吉の出馬を待ち受け、上方勢と戦い、いさぎよく討ち死にしょう。 恥を後世に残すよりも、名をとどめることが武家の本望だ」と主張します。

しかし、片倉小十郎らは小田原参陣を主張して譲りませんでした。

そこで悩んだ政宗は、三月十六日の深夜、密かに片倉小十郎を訪ねるのです。
片倉は言いました。
「秀吉勢は天下の大軍です。 夏の蝿のように一度に二、三百打ち潰しても、二度、三度と追い払っても、ますます数が増えるばかりです。」
と切々と説得しました。
すると政宗公は「来月(四月)六日」小田原への出立を決意するのです。

そこで事件は起こるのです。



 事前に説明しておきます。前年(1589)、摺上原(すりあげはら)の戦いにおいて芦名義広と合戦に勝利。政宗は、芦名氏の本城であった黒川城(鶴ヶ城)へ入る。これによって奥州の名門芦名家は滅亡。
この戦いについては、いづれ・・・


摺上原の戦いにチョット触れてます。伊達の忍者部隊「黒脛巾組」


出発前日の4月5日のことです。

黒川城の西館に住む母の義姫から、しばしの別れの挨拶と、食事に誘われるのです。
政宗は、喜んで食事に向かいました。
それは、弟小次郎を溺愛していた義姫からの言葉に嬉しくなったのでしょう。

久しぶりの歓談と御膳を終え「油いり菓子」か「膾(なます)」かを飲み下したあと、吐き出してしまいました。
母が公の額に手を当てた時”謀られた”と思った公は、邪険に母の手を払いのけました。
公は、片倉小十郎に背負われて帰城し、錦織郎休斎の「撥毒丸(はつどくがん」【解毒剤】を服用してことなきを得ました。

膳部係が毒見をするとたちまち吐血して絶息した。という話と
いや、毒殺計画を知り病気と称して帰城したとも言われております。

つまりこの事件は、自白した者によると、政宗公を殺害し、弟小十郎を伊達家の家督に据えようとする母義姫の計画だったのです。

一説には、・・・ショートカット・・・兄の最上義光に唆されたともいいます。

この事件の二日後の七日弟の小次郎は政宗に斬殺されたといいます。
この詳しい話は、後程・・・・

伊達小次郎の墓&斬殺の記事はここをクリック


こんな事があって、小田原参陣にますます遅れてしまったのです。

宮城野萩 県花です


追記

義姫の兄最上義光は天正17年5月、つまり前の年に寒河江光俊を名代として上洛させているので義光の口添えで秀吉に許しを乞えば、伊達家は安泰であると考えていたのです。

説には、この政宗暗殺計画は伊達家の実権を握ろうとする、兄義光の計画とも言われています。

戦っても負けるだろうし、小田原に遅れても処刑されるでしょう。

しかし、政宗は一枚上手でした。

秀吉の軍勢は二十数万で海には数千艘の船で埋めつくされていたようです。

参陣する前に何度も書状を出しています。つまり言い訳です。

それと、秀吉と謁見する際、政宗公は水引きで髪を束ね、白装束の姿・・・

秀吉の顔を仰ぐと平伏しました。

この時、政宗24歳、秀吉54歳でした。

政宗が退出する時、秀吉は「政宗、政宗」・・・「ここへ、ここへ。近くに寄れ、近くに寄れ」と声をかけました。

公は途中で脇差を差したまであることにに気がつき、脇差を抜きだし、かたわらの和久宗是に投げて、秀吉に近づきました。
秀吉は杖で地面を指しながら、「ここへ、ここへ」その場所まで進み平伏すると、
秀吉は、政宗公の首を杖で突きながら、「其の方は愛(う)奴だ。いい時期に来たものだ。もう少し遅くきたばらば、ここが危なかったな」といいました。

後年公は、この時首筋に熱湯をかけられたような思いだったといっております。 






次は、仙台城・白石城や大阪夏の陣についてチョット・・・
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33 コメント

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白石城は・・・ (丹治です)
2008-10-14 18:00:06
しばらく行ってませんが、二三度行ったことがあります。もちろん天守と大手門を復元してからです。

白石城の天守は、「歴史的建造物の再現」ということで建築基準法の特例が認められたのだそうですね。この法律によれば、三階以上の建物は木造では建てられないのだとか(由緒ある旅館や料亭が再建されないのはそのせいだとか)。

あの天守、高知城や掛川城と同じぐらいの規模なんだと聞きました。石垣の積み方も、天守と大手門では少し違ってます。

模擬天守と称してなかったものを作るのでなくて、復元する。外観復元ではなくて、伝統工法による復元。白石城は価値のある建物です。

また行ってみたくなりました。
白石城 (ほでなすいっく)
2008-10-14 18:31:51
1度行ったなぁ

義姫は岩下志麻で小次郎は岡本健一だったよ

小次郎は津山だったかしら?
うろ覚えです
へ~~~ (meme)
2008-10-14 18:38:49
へ~~~!!そうだったんですか~。
遅れた理由。毒殺未遂事件が・・・。
何か、スッキリした気分。
ずっと前から何で小田原へ遅れたのかと思ってました。
だけど、実母に?こわ~~い!!
丹治さんへ (ひー)
2008-10-14 19:41:25
お早いお着きで…
また職場にいました。
家でバタバタ打ち込んで来ました。
三階以上は鉄筋じゃないとダメなのは、聞いてました。
特別許可が出たのは、いいことですね。
だから、説明書きが所々にあったのですね。
中は、資料館になってるのかと思いきやガランとして何も無かったので、もったいないなぁ~と思ったのですが、建築物としてみれば、いいのですね。
鶴ヶ城の瓦が赤瓦に替えるそうで、黒い瓦のうちに、写真を撮っておこうかと思っております。
いっくさんへ (ひー)
2008-10-14 19:46:44
あっ、夕方サボってたな?
でもコメントは嬉しいので大歓迎です。小次郎のお墓が津山にあるんですよ。
それで津山って出てきたのかな?
memeさんへ (ひー)
2008-10-14 20:02:59
意外…memeさんが興味をもっていたとは……
政宗も流石に母を斬ることは出来なかったのでしょう。
小次郎を嫌いではありませんでしたが、小次郎が生きてるから、母は政宗を狙う…しかたがなかったのかも?
母はその後、実家に帰ったようです。
Unknown (虎龍)
2008-10-14 21:18:02
伊達政宗・・・
有名な割にはその生涯は全く知らない私です。
ひーさんと桃源児さんのブログを読んで勉強せねば^^
戦国時代・・・
いろんなドラマがあったんでしょうね。
お晩です (あーさん)
2008-10-14 21:36:34
いやぁ、ひーさんの筆の冴えもあって、益々面白いですねぇ ♪
(ノ_・、)そうだったっけ・・・ (みっちゃん)
2008-10-14 21:48:24
昔、TVでも観たような・・・
でも毒盛られるなんて・・・かなしー
今よりも政権争いって・・・大変だったわよね・・・涙
今度は・・・ (ぐずら)
2008-10-14 23:21:29
白石城に行ってきたんかい?
ほにほに、あっちゃこっちゃほっつぎ歩ってっちゃなぁ~
オラも再建して間もない頃に白石城に行ったげっと、併設のシアターで「戊辰の役」の3Dシネマ見っときに仙台の飲み屋のママさんたち(ほぼバッパ集団)の慰安旅行と一緒になって、そのテンションに圧倒されたのを覚えでます。
虎龍さんへ (ひー)
2008-10-14 23:24:07
戦国武将の歴史は、美化されることも多く、史実と違う場合もありますが、それはそれで楽しめばいいのかなと……
又は、真実を追求するのも面白いですね。
自分も勉強しながらですよ。
あーさんへ (ひー)
2008-10-14 23:30:20
以前聞いたことのある話しをくっつけて書いたり、本から抜粋したのも当然あります。
自分も新たな発見をしたり、これも火をつけたのは、あーさんですから…
みっちゃんへ (ひー)
2008-10-14 23:34:47
結局、生き残りを掛けて、どちらか得する方にくっつくんですね。
今の政治家と同じです。
ぐずらさんへ (ひー)
2008-10-14 23:39:45
ほっつぎ歩いてるのは、お互い様ですよ~
飲み屋のバッパでは…(x。x)゜゜゜

3D見ました。
丁度知りたかった、大阪夏陣でした。
秀吉軍は20万! (クロンシュタット)
2008-10-15 06:27:34
やっとこさ小田原参陣に出発しても、今度はやたらと遠回りしてますよね。
躊躇なのか様子見なのか。

でも、主戦派の成実は事あるごとにイケイケですね。
人取橋とか摺上原では大活躍でしたが、政治面になると少々・・・
そういえば、一時出奔した際には、家族や一族郎党が攻め滅ぼされていますよね。
小十郎よりも興味津々の人物ではあります。

成実の意見が通って、秀吉軍を迎え撃つことになれば、当然伊達家は滅亡してしまいます。
その場合は、現代の宮城県はどのような姿になっていたのでしょう。
県庁所在地は石巻でしょうかね・・・
クロンシュタットさんへ (ひー)
2008-10-15 07:34:11
義姫の兄最上義光は天正17年5月、つまり前の年に寒河江光俊を名代として上洛させているから義光の口添えで秀吉に許しを乞えば、伊達家は安泰であると考えていたのです。
説には、この政宗暗殺計画は伊達家の実権を握ろうとする、兄義光の計画とも言われています。
戦っても負けるだろうし、小田原に遅れても処刑されるでしょう。
しかし、政宗は一枚上手でした。
その通り秀吉の軍勢は二十数万で海には千艘船で埋めつくされていたようです。参陣する前に何度も書状を出しています。つまり言い訳です。
それと、秀吉と謁見する際、水引きで髪を束ね、白装束の姿で秀吉にあってます。
それが功を奏したのでしょう。
これも記事に入れようかと思ってましたが… 追記しておきます。
昨日夜から仕事でまだ職場です。
早く帰りたい。
歴史物が楽しくなりました。 (ミモザ)
2008-10-15 07:56:06
お早う御座います~♪
歴史小説とか歴史物が苦手でしたが、
だんだんと楽しくなりました。
政宗公と片倉小十郎の深い結びつき
仙台の歴史でもあり、大いに興味があります
Unknown (桃源児)
2008-10-15 08:01:24
白石城、美しい城ですね。
夏の蝿の話、聞いたことがあります。
母に毒殺されそうになり、弟を殺さねばならなかった政宗公、戦国に時代には、肉親でも殺し合わねばならなかった事例が多いですね。
悲しいことです。
ミモザさんへ (ひー)
2008-10-15 09:45:29
本を読むと、知らない家臣達の名前が沢山出て来て、頭が混乱して来ます。
だから、全部省略しわかりやすく、絞って書きました。
興味を持って頂ければ嬉しいです。
桃源児さんへ (ひー)
2008-10-15 09:57:22
確かに、そこまでしなくてもと思うのですが、やらなければ自分の身も危なくなりますからね。
暗殺は、いくらでもあったのかも?
仙台公園? (酔漢です )
2008-10-15 10:07:26
マンションの庭です。
欅の木が数本とその下には仙台萩が植えられております。萩は夏の間中も花をつけておりまして(蝉の声とのアンマッチが面白い)仙台とは風情が違うなぁ、とか思っております。
はてさて、展開が面白くなってまいりました。
それにしましても、皆さんかなりお詳しい。
勉強になります。
そうか! (ほでなすいっく)
2008-10-15 10:44:00
お墓が津山にあるんですね
むか~し、津山のもくもくランド(道の駅?)に行ったときに岡本健一の写真があったんですよ
だから小十郎ゆかりの地なんだろうなって思ってたんです


P.S.
なりすましコメント、笑わせてもらいました

間違えた (ほでなすいっく)
2008-10-15 10:45:05
小十郎じゃなくて、小次郎だった

さっ、仕事すっぺ
酔漢さんへ (ひー)
2008-10-15 11:56:07
皆、詳しくて私もハラハラです。
小さな小仙台があるんですね。
その欅と萩は、偶然ですか・・・・?
もし偶然ならそれも縁なのかも知れませんね。
いっくさんへ (ひー)
2008-10-15 12:02:52
ドキドキして読んだんじゃないの・・・ウヒ!
すまん!
ちゃんと仕事してる振りしさいんよ。
最後のくだりは (維真尽(^^))
2008-10-15 23:22:28
有名ですね (^_-)-☆

まさに~
生死をかけた芝居ですね 
維真尽(^_^)さんへ (ひー)
2008-10-16 08:23:22
この話し、島根まで届いてましたか~
政宗にとっても一つの賭けだったでしょう。
小田原行きは先延ばしでも・・・ (丹治)
2008-10-20 08:41:56
政宗の場合、情報収集は抜かりなくやっていたようですね。父親の輝宗が織田信長に鷹(だか馬だか)を贈ったように、中央とのパイプは維持していたのだと思います。

秀吉本人はともかく、前田利家や徳川家康などとの連絡は取っていたはずです。小田原参陣を促すために伊達家に派遣された使者の上郡山仲為は、もともと伊達の家臣の出だったそうです。この使者の人選も機微を得たものだと思いますが、政宗も「ここら辺りが潮時」と思ったんじゃないでしょうか(芳情と手を組んで秀吉に対抗するような画策もしていましたが)。

なお葛西と大崎ですが、中央の情勢に全く疎かったのではないようです。両家とも当時は頻発する家臣の争いを調停することが出来ず、当主が家を空けることが出来ない状態でした(現存する数少ない両家の古文書は仙石後期から末期、特に所領安堵の書状が多いのだそうです)。

成実は確かに伊達家の主戦派ですね。但し後年になって『成実記』を執筆。将軍家光の御前に召されて、奥羽の戦国時代の合戦のことを語ってもおります。戦に強い「だけ」の猪武者ではありませんでした。

但し小十郎とは、年の差があります。年の差は、経験の差や見識の差となって現れます。小十郎が慎重論を述べれば述べるほど、成実の言い分が「イケイケドンドン」に聞えたのではないでしょうか。

政宗の弟小次郎の墓が津山にあることは、『独眼竜政宗』でも紹介してました。子治郎の墓から遠くない所に、守役だった小原縫之助の墓もあるそうです。縫之助は小次郎の亡骸を津山まで運び、住職に頼んで小次郎を埋葬した後に自刃しました。

大河ドラマではその寺の住職を汐路章がやっていたと思います。

丹治さんへ (ひー)
2008-10-20 10:00:26
やっぱり大河ドラマを留守録しても見るべきでした。
小次郎なんとか命を取り留め黒川城を抜け出し守役と共に逃げたと読みました。
津山のお墓も、行きたいのですが、結局よらないで気仙沼まで遊びに行ってしまいました。

各大名とのパイプも太かったのでしょうね。
いずれ、諜報部員と言うか忍者部隊の黒ハバキ組について書きたいと思ってます。
大崎、葛西と聞くとセキレイの目の話しも面白いですね。
博物館では、穴の開いたサインは見つかってないようです。
Unknown (betelgeuse)
2014-06-19 15:52:37
創作キャラの政宗がどう眼帯化していったのかをブログに書いていて、
http://parasiteeve2.blog65.fc2.com/blog-entry-476.html

「目を切り落とした伝承」の政宗と小十郎との関係について、史料を見つけました。
事実かどうかはともかく、この伝承で目玉は政宗本人が切っており、しかも幼いときの話ではなさそうです。
原文(明良洪範)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990298/199
イラスト付き(内外教訓物語. 人之巻)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757967/168
betelgeuseさんへ (ひー)
2014-06-20 12:37:32
コメントありがとうございます。
眼帯などを着けている当時の絵図又は像は私も見たことがありませんね。
目玉をくりぬくシーンはあくまでも作家の演出の可能性もあります。
私もまるまる信じているわけではありません。伊達家の文書については、基本となる「貞山公治家記録」確か早稲田の図書館が管理していたかも知れません。「伊達治家記録」も重要の参考文献になります。
又は、側近の家臣が書いた古文書などがあればより確実でしょう。
つまり、当時の文書が非常に大事です。
それ以降に記載されたものは、やはり作家だったりするわけで、そのまま鵜呑みに出来ません。
明良洪範著については私もまだよく知りませんが、その信憑性については疑問です。
もう少し検証が必要かと?
しかし、それも歴史を楽しむ一つの話題ですね。いづれ私の記事も誰かが書いた文献を引用しているわけですから。
勉強させていただきます。

Unknown (betelgeuse)
2014-06-24 07:25:44
>眼帯などを着けている当時の絵図又は像は私も見たことがありませんね。
だいたい映画のせいだとは思うんでが、昭和初期とはいえ、史料としてはなかなか探すのが大変です。

正史での政宗失明については「性山公治家記録」内のものが、政宗の歴史史料を年代順に見れる超便利な本「伊達政宗卿伝記史料」に引用されていて近代デジタルライブラリーで読めます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880040/35

ご紹介された俗説は、
【年月不明ながら疱瘡で失明、その後目のまわりの肉が腫瘍化、手術をだれもやりたがらないので小十郎が飛び出た部分を切った】までが伊達家内での正史で、
【小十郎が「目が敵に掴まれると危険」と切るよう進言した】が明良洪範のころには伝わっていて、
それ以外の部分がさらに追加されているようです。

成実記や政宗公御名語集も読めて、近代デジタルライブラリー、ありがたい限りです。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783/127
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175199
betelgeuseさんへ (ひー)
2014-06-26 20:11:50
レス遅れました。
伊達家又は政宗など、同じものに興味を持っていても注目するところは、みなそれぞれですね。謎は沢山ありますからね。
私のブログにスペインのセビリア大学の学生さんから、メールが来たこともありました。彼は支倉常長の最期の死について、研究をしているそうです。自分のHPに支倉常長のページがあったからでしょう。英文のメールに四苦八苦しましたが。
これからもどうぞ追及してください。

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