平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

平和エッセイ2005年3月の投稿

2005年03月31日 | Weblog
3月 1日 遺伝子と因縁因果(4)
   2日 アインシュタイン(2005年2月)
   4日 遺伝子と因縁因果(5)
   6日 キリストの再臨(2004年10月)
   7日 遺伝子と因縁因果(6)
   9日 ミリからの贈り物(1)
  10日 ミリからの贈り物(2)
  11日 ミリからの贈り物(3)
  13日 平塚らいてう(1)
  14日 平塚らいてう(2)
  15日 平塚らいてう(3)
  16日 平塚らいてう(4)
  17日 終末論(2003年4月)
  18日 出家(1995年6月)
  19日 10年前の地下鉄サリン事件の日
  20日 昨年3月20日のバグダッドの平和行事(1)
  21日 無言館
  22日 バグダッドでの平和行事(2)
  23日 バグダッドでの平和行事(3)
  24日 バグダッドでの平和行事(4)
  25日 ミネハハさんと『ミリからの贈り物』とラズロ博士
  26日 ラズロ博士講演会「宇宙は記憶を持っている」(1)
  27日 ラズロ博士講演会「宇宙は記憶を持っている」(2)
  28日 ラズロ博士講演会「宇宙は記憶を持っている」(3)
  30日 サトルエネルギー学会

サトルエネルギー学会

2005年03月29日 | Weblog
3月26日、27日と新宿の工学院大学で開かれたサトルエネルギー学会に出席しました。

サトルエネルギー(subtle energy)とは、「物質や生体のもつ微細エネルギー」だそうです。具体的には、気とかオーラとか波動とかいった、何となく存在するようには思えるが、現代科学ではまだ検証できないエネルギーのことです。サトルエネルギー学会は、そういう微細なエネルギーを科学的に研究し、また実践的に応用するための集まりです。

サトルエネルギー学会のHP:http://www.subtle-eng.com/

全部の講演を聞いたわけではありませんが、いくつか印象に残った点だけを書いておきます。

(1)板倉リサさんの踊り
これは26日の夜の懇親会の席でのイベントですが、板倉リサさんの創作舞踊がありました。彼女の踊りが始まる前には、ヴェーダの詠唱があったのですが、周囲の人たちの会話や雑音で、その微妙な響きがかき消されてしまった感がありました。

しかし、板倉さんの踊りが始まると、会場はすべてあっという間に板倉さんに引きつけられました。私の周囲にすわっていた人の中には、感動のあまり涙を流している人が何名かいました。舞というのは、気によって人々の心を浄化する芸術であるということを見せてもらいました。まさに女神の舞、天女の舞でした。

(2)電磁波の影響
医学が進歩していると言われているにもかかわらず、以前にはなかったような奇妙な病気、新しい病気が増えています。色々な原因があるのでしょうが、その一つに電磁波があると言われています。

電磁波は元々自然界の中にも存在します。近年の科学技術は大量の電気製品を作り出しましたが、それらからは、一昔前までは自然界には存在しなかった様々な種類と波長の電磁波が放射されています。

電磁波の健康被害については、まだはっきりとした科学的な結果が出ているわけではありません。たとえば、携帯電話が人体にどの程度の悪影響を与えるのか、ということについては様々な議論がなされていますが、科学的に確定的な結論は出ていないようです。ただし、大きな被害がないとしても、無用な被曝を避けるにこしたことはないと思います。イギリスは、16歳以下の子供は携帯電話を使用しないように勧告しているということです。

http://babycom.net/eco/denjiha/4.html

サトルエネルギー学会である治療師の方が、金の針で体内から邪気=余分な電気を解放する治療法をビデオで紹介し、実践してくれました。アトピーや花粉症なども、体内に蓄積された過剰電気によって引き起こされている可能性があるということです。その場で治療を受けた何人かの方は、効果があった、と言っていました。

講演の中で気になったのは、携帯電話のことです。携帯電話を左胸のポケットに入れている人がいますが、これは心臓にたいへんよくないとのことです。ズボンのポケットに入れるのもよくないとのことです。携帯電話からは、使用していないときでも、微弱な電波が発せられているからです。携帯電話はバッグなどに入れるようにして、決して体に直接触れないようにしたほうがよいようです。

また、最近多くの場で使われるようになっている電気便座ですが、そこからはかなり強い電磁波が放射されているので、妊娠中の女性が使うと、胎児への被曝が避けられないということです。どうしても使いたいのであれば、便座が暖まったあと、使うときにはコンセントを引き抜いてください、ということでした。

電気毛布からも電磁波が出ており、妊婦が使うと胎児に悪影響を与えるという説もあります。

http://www.w-mama.com/ami/KORAM2/denjiha.html

今日では電気なしの生活は考えられません。しかし、電磁波の被曝を減らすように、十分に注意することが必要だと思いました。

ラズロ博士講演会「宇宙は記憶を持っている」(3)

2005年03月28日 | Weblog
講演のあと、ラズロ博士と龍村監督の対談になりました。色々な話題に触れられましたが、私の印象に残った点だけを書いておきます。

【ラズロ博士】スマトラ沖地震・津波のとき、ゾウをはじめ多くの動物が、津波が到達する前に危険を感じて逃げ出した。また、インド洋の小さな島には、文明を拒否して、昔のままの自然と一体になって生活している部族がある。津波のあと、救援チームが島に行ってみると、全員、高台に逃れて無事であった。彼らは津波が来るのを察知したのである。これらは、アカシック・フィールドからの情報をキャッチしたのかもしれない。

【ラズロ博士】人間の意識の研究をしてる知人の科学者が、研究の結果、人間の意識が死後も存在するということを確信するようになった。彼はそのことを、今まで誰にも言わなかったが(そんなことを言ったら、科学者としての立場を失ってしまいますからね)、ラズロ博士の新著を読んで、それには科学的な根拠があることがわかった、とのこと。その科学者によれば、死者の意識と交流し、死者からの情報を得ることもできるという。

【龍村監督】天河神社での「みたま送り」(灯ろうに死者の名前を書いて川に流す行事)のとき、真っ直ぐに流れていく灯ろうもあれば、何回流しても自分のところに戻ってくる灯ろうもあった。星野道夫の灯ろうはあっという間に流れ去ったが、宮下富実夫とジャック・マイヨールは何度も戻ってきた。何か僕に伝えたいことでもあるのかな、と思っていた。
 第5番のラズロ博士の撮影のために、イタリアのお宅におじゃましたら、その目の前の島は、なんとジャックが自殺したエルバ島であった。彼の家が今でもそのまま残っていて、中に入れた。
 ジャックはベートーベンの「月光」が好きで、「月光」を弾くとグランブルーの世界と同じ心境に入ることができる、と言っていた。『地球交響曲』にもジャックが「月光」を弾く場面がある。
 そのことを前もってラズロ博士に言ったわけでもないのに、ラズロ博士は第5番のために「月光」を弾いてくれた。ジャックも満足したのではないか。

(ジャック・マイヨール氏は2001年12月に自殺しました。以前、ある会合で龍村監督に自殺の原因について尋ねたところ、「彼はとてもわがままな人間で、いかにも彼らしい死に方という気がする」という返事をもらったことがあります。)

【ラズロ博士】(最後に「バタフライ効果」について話してほしい、という龍村監督の要請に応えて)ベルリンのルネッサンス劇場で講演をしているとき、バタフライ効果について触れた。そのとき、どこからか一匹の蝶が飛んできて私の講演原稿の上にとまった。12月のことで、そんな時期にベルリンに蝶がいるはずがないので、みんな驚いた。蝶はそのあと私の肩にとまり、どこかに飛んでいった。講演が終わったあと、みんなで会場を探してみてが、見つからなかった。蝶は、昆虫という動物ではあるが、また非常にスピリチュアルな存在でもある。

 最後の蝶の話題は、ユングが「共時性」の概念を作ったコガネムシのエピソードを思い出させます。

 ラズロ博士の説は、科学と宗教(霊性)を結びつける興味深い試みであると思います。『叡智の海』もぜひ読んでみようと思います。

ラズロ博士講演会「宇宙は記憶を持っている」(2)

2005年03月27日 | Weblog
アーカーシャとは、「虚空」を意味するサンスクリット語です。平凡社の大百科事典(CD-ROM版)の「虚空」の解説より――

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サンスクリットのアーカーシャの漢訳で,一般に大空,空間,間隙などを意味するが,古来インド哲学では万物が存在する空間,あるいは世界を構成する要素,実体として重要な概念の一つである。地・水・火・風の〈四大〉に虚空を加えて五元素ともいわれ,これに五感(香・味・色・触・声)を関連づけるサーンキヤ学派やバイシェーシカ学派の思想のもとでは虚空が聴覚と結びつき,音声は虚空の属性とされた(西洋哲学の〈エーテル〉の概念に相当)。仏教では〈六界〉の一つ(空界)とする一方,実在論的な部派では不生不滅の常住な存在(無為法)に高めた。広大無辺,永遠,清浄,無障礙(むしようげ)などのあり方を備えていることから,しばしば絶対者,超越,真理の概念と結びつけられる。
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アーカーシャという語がよく使われるようになったのは、近代において、神智学や人智学がインド思想を西洋風にアレンジして利用し始めてからのことではないかと思います(このへんのところは、詳しい方にお教え願いたいものです)。西欧的神秘思想では、宇宙には、世界のすべての出来事を記録する場(アカシック・フィールド)があり、超能力を開発すればその記録(アカシック・レコード)にアクセスし読み取ることができる、という観念が生まれました。日本語にも翻訳されているルドルフ・シュタイナーの『アカシャ年代記より』という本はその代表です。

ラズロ博士の考えは、最新の量子理論・宇宙論が存在の基底として示唆する量子真空場は、神秘思想で語られるアカシャと同じように、宇宙の一切の出来事を記録する情報場としての機能も持っている、というものです。

ラズロ博士講演会「宇宙は記憶を持っている」(1)

2005年03月26日 | Weblog
この講演会は、増田妙子さんという主婦の方が、『ガイア・シンフォニー』第5番を見て、「ラズロ博士に会いたい」と思ったことがきっかけになって実現しました。たまたま増田さんのご主人が柴田さんと親友であることがわかり、ラズロ博士の新著『叡智の海』(日本教文社)の邦訳版の出版記念をかねて、講演会の話が一気に進みました。ラズロ博士が著書の中で触れている「バタフライ効果」の実例のようなものですね。

数多くのボランティア団体、とくに『ガイア・シンフォニー』自主上映の関係の方々が協力して実現したようです。

「何でも、自分のやりたい事は、
やれるかどうか、
一度は試してみたほうがいいよ。
あきらめずに、
何でも信じてやったら、
必ず、奇跡が起きるよ。」

というミリさんの言葉通りです。

この日の行事は、増田さんの挨拶、『ガイア・シンフォニー』第5番から「アーヴィン・ラズロ編」の映写、ラズロ博士のピアノ演奏2曲(バッハとショパン)、博士の講演、博士と龍村監督の対談というプログラムで進行しました。

天才的ピアニストとして「神童」の名をほしいままにしたラズロ博士の演奏は素晴らしいものでした。ラズロ博士の演奏については、こちらに聴いた方の感想があります。

http://tetuhisa.at.webry.info/200503/article_31.html

講演は、新著の内容の簡単な紹介でした。ここでは、インターネット書店に出ている書籍案内から引用しておきます。

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わたしたちは万物が響きあう宇宙と一体である! 神秘思想においてアーカーシャ(空虚)として語られてきた、宇宙の一切を記録する情報場。現代科学はこの微細なゆらぐエネルギーの海を「ゼロ・ポイント・フィールド」という概念で捉える。本書でラズロ氏は、その概念を援用しつつ、量子力学、宇宙論、生物学、意識研究の各分野にわたって最新の成果を紹介し、万物を統合する理論の誕生とその発展を明快に語る。
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http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=r0116944

「ゼロ・ポイント・フィールド」(量子真空場)については、私も2月1日のブログ「生命の水」で少し触れています。まだお読みになっていない方はご覧下さい。

ミネハハさんと『ミリからの贈り物』とラズロ博士

2005年03月25日 | Weblog
3月23日(水)、八王子の駅前ビルで開かれた集会に行きました。

3時半過ぎに行事が終わると、白光会員のTさんが歌手のミネハハさんを連れて、会場に入ってきました。隣りの部屋で3時半まで別の会合に出ていたのだそうです。

ミネハハさんのコンサートは何回か聴いたことがありますし、ミネハハさんの友人であるTさんを通じて個人的にお話をしたこともあります。

「今日はこの本についてお話したのですよ」と言って、ミネハハさんに『ミリからの贈り物』を紹介すると、たいへん気に入って、「コンサートではこの中から朗読したいので、本を譲ってくれませんか」とおっしゃいました。私も1冊しか持っていないので、本当は譲りたくなかったのですが、これも天の導きだろうと思って、自分で1冊あとで買うことにして、実費でお譲りしました。

そのあと、私が翌日24日(木)にラズロ博士講演会に行くことを話したところ、「ラズロ博士にぜひ私のCDを贈呈してください」と言って、彼女のCD2点を預かりました。

ミネハハさんは3月28日に佼成図書館でコンサートを開くそうです。
http://kansha.exblog.jp/808272/

24日の夜、文京シビックホールで開かれたラズロ博士の講演会は1千名以上の参加者で、大盛況でした。

入口で龍村監督の奥様にお会いし、ホールに入ると龍村監督にお会いし、トイレに行く途中でブダペスト・クラブのアンバサダーである柴田光廣さんにお会いしました。ほかにも、ご縁のある方に次々にお会いしたのは不思議でした。

柴田さんからは、CDは講演後、帰りにロビーでラズロ博士にお会いして直接手渡してください、と言われたのですが、ロビーのラズロ博士の周囲は大勢の人だかりでしたので、柴田さんにお渡しして帰りました。

講演会の内容については次回書きます。

バグダッドでの平和行事(4)

2005年03月24日 | Weblog
 最後のスピーカーであった私は、キッパとペヨットを着ていたので、開かれた宗教的ユダヤ人としてどう受け入れられるだろうか、確信が持てませんでした。私はイラク語ではなく、パレスチナ語の方言を少ししか話せないのを謝りながらアラビア語で話したとき、聴衆はうちとけました。私は次のように言いました。「私は、私たちすべての宗教にとって聖なる都市であるエルサレムから来ました。数千年間にわたって、ここイラクではユダヤ人はアラブ人と共存して生きてきたことを忘れないでください。私たちの伝統において第二の最も聖なる本がこの地で書かれました。それはバビロンにちなんで名づけられ、『バビロニア・タルムード』と呼ばれています」

 それから私は言いました。「私たちはアブラハムの生誕地ウルの近くにいます。私たちは父親が同じです。私たちユダヤ人はイサクの子供たちであり、あなたがたアラブ人はイスマエルの子供たちです。つまり兄弟なのです。また多くのユダヤ人がパレスチナの友人と平和と相互理解のために働いていることを知って下さい。聖地のすべての人は、それが神の土地であることに同意しています。究極的には、我々すべてはアダムとイブの子供であり、すべて一つの家族であり、人間家族なのです」。イラクの人々はみな同意して頷いているのが見えました。

 私たちはそれから、国立劇場の前にピースポールを建立するために外へ出ました。国立劇場はバグダッドで最も交通量の多い交通網の1つに接しています。私たちがピースポールに触れ、平和の祝福を捧げる時、みんなも一緒に声に出して唱えました。最初はアラビア語で「アッサラーム・リルアーラミ・アジュマ」、次は英語で「may peace prevail on earth」(世界人類が平和でありますように)と。バグダッドの中心部のこのような公共的な場所で、私たちみんながオープンに集まったのを目にするのは、全く魔法のような瞬間でした。

 それから私たちは「May Peace Prevail on Earth」と書かれた平和の横断幕を掲げ、集合写真に写りました。 それ以上長い間、集団で外でぐずぐずしていたら危険であると言われましたが、私たちは誰もそこを立ち去りたくなかったのです。多くの人がそれを歴史的な瞬間だと感じていました。ライードは信じられない思いで、頭を振って言いました。「奇跡だ。今日ここで何が起こったんだ」。そう、イラクにとっての奇跡。「人々はこのことを長い間話すでしょう」。

 ドナはあとで、「ユダヤ人をイラクへ連れてくるのは危険であると警告されていました」と書いてきました。当地の反ユダヤ的感情は強くて深いからです。「イスラム教徒がユダヤ人と一緒に座って平和を祈るなんて! そんなこと聞いたこともない」とライードは叫んだのでした。

 その夜、私たちはホテルで一堂に会して、ジェームズ・トワイマンの誕生日(トワイマンは3月20日生まれ)を祝う歌を歌い、彼とドナとほかの人たちが企画したこの驚くべき集まりを讃えました。ヤロヴィトはシャーマン的瞑想をリードしました。それから私は出席しているイラクの友人たちと一緒に、私たちのグループを、ユダヤ教のサバトの儀式の伝統的な最後の儀式であるハブダラの歌と踊りに導きました。

 バグダッドの最後の夜、スー族のチーフの娘グレースと私は、ニューバグダッドにある運転手サヘルの家に招待されました。そこで私たちは彼の家族、彼の両親、兄弟、その妻たちと会いました。私たちはその夜、ヘブライ語とアラビア語、アラム語、ラコタ語の単語を比較して過ごしました。

 日曜日の朝、達成感と安堵の気持ちを感じながら、私たちはアンマンへ車で戻りました。イラクとヨルダンの国境でミサイルのモニュメントが解体されているのに気づきました。そのことは1つの徴に思えました。

 アンマンのホテルのロビーで、私たちの数人はイラクの部族長たちのグループとたまたま出会いました。それぞれが中央イラクで最も大きな部族を代表していました。彼らは私たちがちょうど、バグダッドのダウンタウンからイラクの人々とともに平和を祈って帰ってきたと聞いて、喜んでいました。一人の長老は言いました。「私たちはアブラハムがイラク人であったことを誇りに思っている。あなたがイラクへ戻ってきたいと思うときはいつでも、あなたは私たちの客として大歓迎です」。

 聖地に戻ってきて私は、ハマスのヤシン師の暗殺後、イスラエルでは緊張が高まり、イラクでは危機がいっそう深まっているというニュースを聞きました。それにもかかわらず、その日バグダッドで種が撒かれたのだと強く感じたのです。私たちのイラクの友人ライードは私たちの集まりについて次のように言いました。「私たちはまだ長い道のりを歩かなければなりません。しかし、これはおそらく最初の一歩なのです」

 このレポートはドナ・マルハーンの助けで準備されました。

 以下でこの行事の写真を見ることができます。
http://www.emissaryoflight.com/_.aspx?content=iraq_pictures

シャローム サラーム
エリヤフ・マックリーン

※トワイマン自身によるバグダッドの行事のレポート(日本語)は、以下にあります。
http://emissary.jugem.cc/?eid=22#sequel

バグダッドでの平和行事(3)

2005年03月23日 | Weblog
 3月20日の土曜日の午後、イラクの宗教的な伝統の多様性を代表する宗教的指導者たちや、幾人かの地方のイラク人や、様々なメディアから来たカメラ班たちが国立劇場に姿を現わし始めました。最初に到着したイラクの宗教的指導者たちは、バグダッドのスンニ派イスラム教の長老たちでした。彼らの後に、前日会ったスーフィーの太鼓団がついてきました。カルデア派キリスト教の主教と幾人かのキリスト教神秘主義者たちもやって来ました。

 さらにシーア派の僧侶が一人参加しました。彼は非常にユニークな神学施設で教えています。それはバグダッドの南のヒラにあるヒラ宗教学校です。この学校はキリスト教やユダヤ教のテキストを教えることも含めて、宗教間の寛容について若いイラク人に教えています。

 この学校については、
http://www.christiansciencemonitor.com/2003/1007/p01s04-woiq.html
で読むことができます。

 ジェームズ・トワイマンは、キリスト教の伝統から、聖フランシスの祈りを歌うことによってセレモニーを開始しました。「主よ、私をあなたの平和の道具となさしめたまえ。憎しみのあるところに愛をもたらせたまえ」

 次に、チーフ・アーヴォル・ルッキングホースは、彼のラコタ、ダコタ、ナコタの偉大なスー族の人々の話を物語りました――サウスダコタのブラックヒルズで行なわれたあらゆる被造物間の競争の末、二本足を持つもの(人間)が勝った。鷲は、地球を祝福するために空高く飛ぶことによって、人間に庇護を提供した。しかしながら、鷲が空高く飛べるのは、人々がタバコや歌や祈りの供物で鷲のために祈るときだけであった。祈りは弱くなり、今では鷲はガラクタの囲いの中で見られる。私たちはみな結びついているので、人類もまた不健康である。私たちにはウィルスや病気の黒雲が見える。それは、私たちは再び平和を祈り、母なる地球をケアしなければならないという、動物界から人類への警告なのである。

 ホゼ・アグエイアスはフルートを吹き、マヤの伝説のメッセンジャーとして語り、マヤ歴では時間がBC3133年にウルク(古代イラク)で始まり、このサイクルは2012年に終わると説明しました――マヤの予言によると、そのサイクルの終わりが近づくにつれて、物事は加速化され、混沌のように見える。私たちがこのサイクルの終わりまでに、調和のうちに生きることを学びさえすれば、到来する人類普遍的宗教は平和の宗教である。「私はこのメッセージを伝えにバグダッド、古代ウルクの近くに来たのです。それは予言の成就を助けるためです」

 それからスーフィーの長老アーマド・アジズと3人の他のクアディリ派のスーフィーがアラビア語で歌い、手に持った太鼓を演奏しました。それはみんなを非常に感動させました。3人のイラクの子供たちが歌い、次世代の声をもたらしました。次に皮革製品と毛皮を着たヤロヴィトがシャーマン的な祭儀の踊りと歌を捧げました。彼はその時、「平和のために。愛のために。アルハンヅリラー」と歌い、すべての人を自分の歌に巻き込みました。

 ケニヤからきたワリギアは、国の長老たちからイラク国民への祝福を伝えました。それから彼女は、彼女の10歳の娘ニャンブラの手紙を読み始めました。「戦争は何も解決しないでしょう。もし銃を降ろしさえすれば、殺すことは傷つけるだけであることが分かるでしょう。私たちみんなは心と魂において、1つの大きな家族であることを、彼らは見ようとしません。平和と愛をあなた自身の中に発見して下さい。そうすれば、戦争はもはや起こらないでしょう」。その手紙はすべての人の心に響きました。

 ヒラから来たシーア派の僧侶、シャイフ・アブド・アル・タエイは私たちに語りました。「どこへ行っても、私は愛の宗教を信じています。これが私の宗教です。出し惜しみという地獄ではなく、慈悲のしずくを私たちはどれほど必要としていることでしょう。平和と統一への私たちの使命は、緊急に必要なことです。私たちの間に橋を架けることは、溝を深めることよりもよいのです。私たちはすべての予言者がもたらしてくれたメッセージの神聖さと偉大さを実現しなければなりません」

 スンニ派の長老は、イスラエルの政策とイラクにおけるアメリカの駐留について、厳しい批判をしました。彼は平和と正義を求める祈りの叫びを付け加えました。

 それからバグダッドのカルデア教会の副司教シュレモン・ワードュニーは、イラクの古代キリスト教共同体について話し、イラクと世界の人々に平和の祈りを捧げました。バグダッドのカルメル会の修道院から来たシスター・ナディラ・キャイヤットは、アラム語でイエスの名において平和の祈りを捧げました。

バグダッドでの平和行事(2)

2005年03月22日 | Weblog
(1)の続き――

 木曜日の朝、イラクの国境へ向けて、私たちはアンマンを発ちました。2人のイラク・カルデア・キリスト教徒の運転手が運転をしてくれました。私は途中で「トフィラト・ハデレヒ」を唱えました。これは旅の安全を祈るユダヤ教の祈りです。アーヴォルはラコタの祈りを唱えました。車の中で、私は運転手のサヘルから口語アラム語を少し習いました。例えば「ハシュラマ・アルクーム」という言葉で、その意味は「あなたに平和がありますように」です。

 イラクの国境を越えたあと、私たちは車を止めて、バグダッドへの旅の安全と成功のために小さな祈りの円陣を作りました。ホゼ・アグエイアスはマヤの祝福を行ないました。チーフ・アーヴォルは言いました。「創造主よ、この平和の旅を助けたまえ。多くの人々が世界の平和と調和を祈っておりますし、私たちと一緒に祈っているのです」。ワリギアはスワヒリ語で祈りを捧げました。私はヘブライ語で祈りを捧げました。ヤロヴィトはロシア語の祈りを祈りました。

 国境のすぐ内側で、イスラエル方向に向かっているミサイルの形の記念碑に気づきました。私は第一回湾岸戦争の間、イラクからのミサイル攻撃を受ける側にいました。ですから、その記念碑は少し意気阻喪させるものでした。私たちのドライブは10時間半かかりました。そして広大で一見空虚な砂漠を何時間もドライブしたあと、ようやく沢山の木々や緑を見ました。ユーフラテス川に近づき、ラマディとファルージャの町を通りすぎたときでした。

 私たちがバグダッドのダウンタウンのアラブ・パレス・ホテルに着いた時、オーストラリア人のドナと若いイラク人のライードに歓迎されました。ドナはバグダッドでの彼女の仕事について話しました。彼女は、イラクの若者が、戦争のトラウマから癒されるのを助けるセンターを作っていました。私たちは、私たちのホテルが、前夜、爆破されたホテルから3ブロックしか離れていないのがわかりました。ホテルの7階の私の部屋から、爆破されたホテルを見ることができました。

 その夜は、たびたび停電になりました。それはバグダッドでは日常茶飯事です。私は戦車が通り過ぎる音を聞きました。外で非常に大きな爆発音を聞いたとき、私たちは少し不安になりました。私たちはじきに、そんな音はほとんど毎晩聞こえることを知りました。

 19日金曜日、私たちのグループの数人が、バグダッドで一番大きいスーフィーのモスクへ行き、翌日の祈りの集会へ来るようにスーフィーたちを招待しました。正門に近づきますと、祈りの数珠、スカーフ、聖典を売っている露天商人がいました。数人の若いスーフィーたちが通りに立って、太鼓を叩きながら、唄ったり、唱えごとをしたりしていました。彼らの周りには喜びのオーラが取り巻いていました。私たちは大きな聖所に入りました。そこはもっとも尊敬されたスーフィーの聖人の1人であるアブダル・クワデール・アルジラーニの墓を取り巻いていました。

 中庭に入ると、私たちは主席長老(シャイフ)との面接に案内されました。彼は私たちを彼の部屋の中に歓迎し、こう言いました。「イスラム教は平和の宗教です……私たちは、ユダヤ教とキリスト教を含めて、あらゆる宗教を尊敬しています」。私たちはモスクを離れて、先に見たスーフィーたちに近づき、国立劇場での集会に招待するチラシを手渡しました。

 金曜日の午後、私たちは国立劇場まで歩いて行きました。そして劇場のディレクターに歓迎されました。その劇場は、戦争のあと、家具などが略奪された後、修理された、と彼は説明しました。劇場のスタッフは私たち全員を暖かく迎え入れてくれました。私がユダヤ人でイスラエルに住んでいると言った時でさえも。私たちは翌日のセレモニーのために、リハーサルとして数曲歌いました。

無言館

2005年03月21日 | Weblog
3月20日、東京駅丸の内出口にある東京ステーションギャラリーで、無言館の絵画展を見てきました。

http://www.ejrcf.or.jp/gallery/index.asp

もっと早く知っていれば、皆さんにもこのブログで早めにお知らせできたのですが、私が行けたのは、東京での展覧会の最終日でした。

私がこの展覧会のことを知ったのは、久米信行さんという方のブログの3月15日の記事でした。

http://plaza.rakuten.co.jp/enginekimyo/diary/200503150000/

ステーションギャラリーのHPの説明にもあるように、無言館というのは、長野県上田市の郊外にある戦没画学生慰霊美術館のことです。(インターネットで検索すれば、いくつか紹介サイトが出てきます)

いずれステーションギャラリーのHPも変更されると思いますので、このサイトの「展覧会概要」を引用しておきます――

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平成17(2005)年は終戦から60年となります。戦争中、数多くの若い生命が戦地に駆り出され、戦場のツユと消えました。そうした中には、画家になることを一心に夢み、生きて帰って絵を描きたいと叫びながら死んでいった一群の画学生たちがいました。

戦没画学生慰霊美術館「無言館」は、そうした画学生たちが遺した作品と、生前の彼らの青春の息吹を伝える遺品の数々を末永く保存・展示し、今を生きる私たちの精神の糧にしてゆきたいという画家・野見山暁治氏(昭和18年東京美術学校卒・東京芸大名誉教授)の積年の希いをもとに、平成9年「信濃デッサン館」の館主・窪島誠一郎氏が、その分館として全国3000余名にもおよぶ協力者の芳志により開館したものです。

また、無言館がオープンしてからその活動に賛同する新たな戦没画学生の遺族による作品の寄託希望が相次ぎ、その数は600点を超えるまでになりました。絵を預けながら展示スペースの関係で未だ展示されていない遺作も数多くあります。

本展はそれら収蔵作品の中から未陳の作品を中心に、他館の戦没画学生の収蔵作品も併せ、58名の約130点の日本画・油彩・彫刻などの遺作と遺品資料を展示します。

「卒業をしたら戦地に引っ張り出される、まして戦地に行けば帰れないかもしれない、と分かっている。分かった上で、なおかつ絵を描く喜びに燃えていた」画学生のひたむきで初々しい情熱に溢れた気持ちが、平和な現代の我々に切々と訴えてきます。現代人が忘れかけている「家族の絆」や「ふるさとへの郷愁」、「生きている喜び」など人間が本来的に持つ濃密な感情といったものを、多くの遺作を通して感じ取っていただければと思います。
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絵それ自体は、芸術作品としてレベルが高いものではありません。しかし、1点1点から、魂の叫びが伝わってきます。久米さんも書いているように、涙なしには見ることができません。

絵と並んで、作者の写真と略歴が紹介されていますが、だいたい私の父と同じ年代から、それよりも10歳くらい上の方々でした。

私の父は大正11年(1922年)生まれで、徴兵されて満州に行きました。終戦直後、ソ連軍に抑留されましたが、シベリアに移送される直前に仲間とともに収容所を脱出し、奇跡的に一人だけ日本に逃げ帰ることができました。父の多くの戦友は、脱走途中に殺されたり、シベリアで死にました。

戦死した画学生たちもみな、私の父と同じように、日本に生きて帰り、家族と再会し、人生を完うしたかったに違いありません。そして再び絵筆を取り、絵を描きたかったに違いありません。

私の父が生き残ったのは偶然か天意かわかりませんが、ともかく奇跡であり、その奇跡の背後には無数の死が積み重なっています。父は、多くの戦友たちの犠牲によって、その代表として生かされたとも言えます(父は、死んだ戦友たちに対して申し訳ない、という気持ちから一生離れられなかったような気がします)。ということは、息子である私の生もまた、彼らの犠牲によって存在しているということになります。

このことは、私だけではなく、今日のすべての日本人に当てはまることなのではないでしょうか。先の大戦では、軍人であると民間人であるとを問わず、多くの日本人が殺されました。生き残った人々も、いつ死んでもおかしくはなかったはずです。生存者は、死者の犠牲の上に生を与えられたのではないでしょうか。戦後生まれの人たちも、彼らの犠牲によって生かされているのです。

そうであるならば、私たちは死者たちに対する感謝と敬虔な祈りを忘れてはならないと思います。そして、彼らの分もこの人生を有意義に生き、日本を、世界平和のために真に貢献できる立派な国に育て上げるように努力すべきであると思います。

ある戦争未亡人は、

 かくばかり みにくき国と なりたれば
   捧げし人の ただに惜しまる

という歌を残しました。

今日の私たちは戦没者たちに向かって、「あなたたちのおかげで、日本は、世界中から尊敬されるこんなに素晴らしい国になりました。どうぞご覧下さい」と胸を張って言えるでしょうか。

ただ自分の欲望と快楽の追求に明け暮れているのでは、死者たちは「私たちは何のために死んだのだ」と私たちに詰問することでしょう。

昨年3月20日のバグダッドの平和行事(1)

2005年03月20日 | Weblog
3月20日は、アメリカのイラク攻撃が始まった日です。2年後の現在でもイラクではまだ混乱が続いています。

戦争開始1周年の昨年の3月20日に、ジェームズ・トワイマンらによって、バグダッドで、イラクと世界の平和を祈る行事が開かれました。この行事に関するエリヤフ・マックリーン(Eliyahu McLean)さんのレポートを翻訳して紹介します。混乱の中にもかすかな光明の兆しを感じていただけたら幸いです。

本文を読んでいただければわかりますが、エリヤフさんは、ユダヤ人とパレスチナ人の平和のために尽力しているイスラエル人です。ご本人はユダヤ教徒ですが、他の宗教との対話と協力を目指して活動している方です。

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 最近、中東から来るニュースのほとんどは、聖地(パレスチナ)からもイラクからも、意気消沈させるようなものばかりです。このレポートが暗闇の中の1点の光として役立ってくれることを希望しています。

 イラクでの戦争が始まった記念日の3月20日に、イラクと全世界の平和を祈るために、宗教的指導者の一団がバグダッドに集まりました。私は、インターフェイス(interfaith・宗教間交流)代表団の一人として、バグダッドの中央にある国立劇場で催された祈りの集会へ参加するために、イラクに旅行しました。

 私たちは3月17日(水)にジェームズ・トワイマンとアンマンで落ち合いました。彼はミュージシャンで、スピリチュアルな平和活動家です。彼はヨルダンのアンマンからバグダッドまで陸路で行く、色彩豊かなグループに加わるように私を誘ったのです。私たちのグループには、ホゼ・アグエイアス(マヤ歴の専門家で予言者)と彼の弟子、チーフ・アーヴォル・ルッキングホース(スー族のチーフで聖なるホワイト・バッファロー・パイプの保持者)と彼の20歳の娘グレースがいました。さらに私たちに加わったのは、ロシアから来たシャーマンのヤロヴィトと彼の通訳、ケニアから来た霊的教師のワリギア、それにコロラド州のドュランゴから来たソフィア・ヴァン・サークサムで、彼女は旅行の手配を手伝ってくれました。

 私たちが最初にアンマンのホテルに集まった日の夜、バグダッドのダウンタウンのホテルが爆破され、多くの人々が殺されたというニュースを聞きました。そのニュースは私たちの使命が重要であるという決意を強くしてくれました。そして私たちは旅を続ける決心をしたのです。

10年前の地下鉄サリン事件の日

2005年03月19日 | Weblog
私は10年前の地下鉄サリン事件の日のことを今でもよく覚えています。

その日は私は世田谷区のMさんの白光の集会に出かけました。総武線の電車が秋葉原駅にさしかかったとき、車内放送で、「地下鉄で重大な事故が起こったようで、現在、地下鉄は動いておりません」という車内アナウンスがありました。どんな事故なのか、とくに説明もありませんでした。

午後1時半にMさんのお宅について、集会が始まったとき、集まってきた皆さんのお話によって、地下鉄で毒ガスがまかれたということがわかりました。

そのとき、ある年配のご婦人が、「実は自分の娘が毎朝、地下鉄で霞ヶ関に通っている。いつも通りの時間に家を出れば、事件にぶつかっていたはずであった。ところが、今まで一度も遅刻したことがなかったのに、不思議なことにこの日の朝に限って寝坊して遅刻してしまった。あわてて駅に駆けつけたが、もう地下鉄が動いていなかったが、おかげで事件に巻き込まれないで助かった」というお話をしました。

五井先生の『神と人間』には、守護霊さんが、肉体人間の頭脳の働きを一時的に止めて、危機を回避することがある、ということが書かれていますが、まさにそういうことが起こったわけです。

ちなみに、ご婦人自身は世界平和の祈りのメンバーですが、お嬢さんはとくに熱心な方ではないとのことでした。

日頃から世界平和の祈りを祈り、守護霊さん守護神さんに感謝していると、自分だけではなく、家族などの身近な人々も自然な形で守られるという実例を見せていただきました。

出家(1995年6月)

2005年03月18日 | バックナンバー
オウム真理教は信者を「出家」させて、修行させていました。出家に際しては、すべての財産を教団に寄進させるようなことも行なわれていました。こういう出家形式の宗教は、現代では無理があると思います。

これは、オウム事件の直後に書いた文章です。

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 出家とは、世俗の生活を捨てて修行の道一筋に生きることをいう。主として仏教で使われる言葉である。このような出家修行の形態は、すでにお釈迦様在世当時から取られていた。

 出家修行者といっても、やはり住む家も必要であれば、食べものや衣類も必要である。それでは、出家たちの生活はどのようにして支えられていたのか。それは、出家ならざる、在家の仏教信者の寄付・寄進によってであった。出家たちは在家の信徒たちの経済活動に依存しながら、世俗の営みに時間と労力をさかずに、ひたすら仏教修行の道を歩んだのである。

 しかし、もしすべての仏教徒が出家したら、当然のことながら、経済活動を行なう人びとがいなくなってしまう。すべてとはいわなくとも、あまりにも多くの人が出家するようになれば、その国の経済は停滞せざるをえないであろう。そのような理由から、昔の中国では出家行為が禁止されたこともあったのである。

 現代においては、仏教といわずどんな宗教においても、現実生活を捨てて宗教の修行だけに打ち込むことはいっそう困難になっている。一般的な生活費が高騰しているので、世間なみの生活を維持するだけでもけっこうお金がかかる。それでも、係累のない独身者であれば、自分一人の不自由を我慢すればすむことであるが、妻子や親兄弟がいる場合は、自分の宗教的願望だけを追求していては、家族に多大の迷惑をかけることになる。宗教の目的には、個人の救済と悟りだけではなく、他者の救済や幸福も含まれているはずである。もし出家という行為が、家庭を破壊したり近親者に迷惑をかけたりすることにつながるとするならば、それは宗教の本質に背くことになるのではなかろうか。

 したがって、今日の宗教生活のあり方は、一部の特殊な人びとを除いては、在家の修行ということにならざるをえない。しかし、世俗の生活の中にあって宗教的理想を追求することは、ある意味では出家的な宗教一筋の生き方よりも困難かもしれない。常に世俗の雑事に心が煩わされて、宗教的生活からはずれがちになるからである。そのような境遇の中で高い悟りに到達できたなら、それは出家者よりも素晴らしい成果ということになる。大乗仏教は在家の修行者を菩薩と呼び、その意義を高く評価したのである。

 一般大衆に可能な在家修行の道を切り開いたのが、浄土真宗の開祖・親鸞であった。浄土門は、日常生活の中でひたすら唱名念仏をすれば仏の世界に到達できる、と教えた。そして、在家の念仏者の中から、妙好人と呼ばれる人格者が多数生まれた。今日、この浄土門の教えは、現代的な形になって、世界平和の祈りに引き継がれているのである。

終末論(2003年4月)

2005年03月17日 | バックナンバー
オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしてからまもなく10年になるということで、最近、新聞ではこの事件に関係した記事をよく見かけます。

そこで、オウム真理教に関係したバックナンバーをいくつか紹介します。

オウム真理教は「終末論」を信じていました。というよりも、自分で終末を引き起こそうとしました。それが地下鉄サリン事件であったのです。

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 終末論とはユダヤ教やキリスト教にある考え方で、ごく簡単に言えば、現在の世界が未曾有の大災害や大戦争によって滅亡し、そのあとにメシアが出現して、神の国そのままの平和な世界が訪れる、という信仰である。この大戦争のことをハルマゲドンの戦いという。旧約聖書のエゼキエル書やダニエル書、新約聖書のヨハネ黙示録にそのような終末予言が記されている。

 したがって、終末論を信奉するのはキリスト教系の宗教に多いのだが、キリスト教以外にも終末論を説く宗教は少なくない。現代のように地球の環境破壊が進行し、戦争の危機が迫ってくると、世界の終わりは近いのかしら、とふと考える人もいるのだろう。そういうところに、どうにでも解釈できるもっともらしい予言が流布し、よけいに終末論がはやるのであろう。

 グレース・ハルセル著『核戦争を待望する人びと』(朝日選書)によると、キリスト教根本(原理)主義と呼ばれるアメリカの宗教グループは、終末論が告げる大災害や大戦争を待ち望むという、常識では理解できない期待をいだいているという。これらの人々は、終末が来ても、正しい信仰の持ち主である自分たちだけはメシアに救われるので、早く大惨事が起こってほしい、と願っているようなのである。当然のことながら、ローマ法王など伝統的キリスト教陣営は、原理主義は正しいキリスト教ではないと見なしている。

 レーガン元アメリカ大統領はキリスト教原理主義に影響され、一時期、ソ連こそ聖書に書かれている「悪の帝国」であって、現代に米ソの間でハルマゲドンが起こると信じていたらしい。そんな終末思想の持ち主が核兵器のボタンを管理していたのであるから、危険きわまりないことであった。

 だが、このような信仰は、宗教という名前はかたっていても、自分たちだけが救われればいいという一種のエゴイズムではないだろうか。世界の危機が迫っているからこそ、宗教者は、自分たちだけの救済を願うのではなく、人類全体の平和のために真剣に働かなければならないと思う。ハルマゲドンが起こってからメシアが現われるのでは遅すぎるのである。

 予言書に何が書いてあろうが、人類の未来は変更不可能な形で確定されているものではない。物質の世界でさえ、量子力学がニュートン力学の機械的世界運行を否定している。意識が作用する人類社会は、心の持ち方でどうにでも変化しうるものであり、一義的に定まったものではない。私たち一人ひとりが明るい未来を信じて、人類愛の心と平和への意志を世界平和の祈りに結集すれば、終末の世を大災害なしに乗り越え、世界平和を築くことが可能である。西園寺昌美・アーヴィン・ラズロ著『あなたは世界を変えられる』(河出書房新社)という本の題名の通りなのである。

平塚らいてう(4)

2005年03月16日 | 最近読んだ本や雑誌から
らいてうはさらに世界連邦建設同盟に入会し、平和運動にもかかわっていきます。ただし彼女の平和運動は、戦後の日本社会を風靡した左翼的な平和運動とはひと味違ったものでした。彼女は昭和22年の「心の平和運動」というエッセイの中で次のように書いています。

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――わたくしはこのいわゆる世界平和運動だけで、言いかえれば国と国との間の戦争を防止する運動だけでは人類の平和運動は完全なものだとは考えない。この運動と同時にこれと並行して各個人の内部生活のうちに平和を確立するための心の平和運動が力強く興ってこなければならないと思う。今かりに、外部に向かって働きかける世界平和運動を横の平和運動というなら、人間ひとりびとりの魂に働きかける心の平和運動は縦の平和運動といえよう。
 この内と外と、縦と横との二つの平和運動はなんらの矛盾なく併存しうるのはもちろん、そのいずれを欠いても地上人類の恒久平和は達成されないであろう。
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らいてうは市川房枝や山川菊栄などの女性解放論者、平和運動家とも協力しましたが、その本質は彼らとは異なっていました。尾形さんはらいてうの特質を以下のようにまとめています。

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 らいてうは参禅を体験しているだけあって、権利を主張すると同時に己の内部に静かに沈潜する。彼女は人間の本質が宇宙とつながった存在であり、「無限の能力を内在する尊厳なる神性」こそ、ほんものの自分であると主張し、また「無限の能力である神とのつながりなくして、真の解放はありえない」と言い、「神において一つである、人と人との関係において」男女平等を主張したのである。従ってらいてうの解放運動、平和運動は「人間の内部の神性」に基づいたものであり、山川や市川らの近代合理精神に基づくものとは異質の運動であったのだ。
 戦後の急激な経済発展の中で人々の生活が豊かになるにしたがって、精神面の軽視、物質面の重視、それに効率優先の社会になってきた時、らいてうは「本当の幸福は、時代がどうであれ、真の人間として女性の幸福はもっと高く、深く、ひろいところにあるとわたくしは思うのですが――」と、エッセイ「自我の確立へのたたかい」(「婦人公論」昭和40年11月)で述べている。
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らいてうは、根本に宗教精神をもって、女性の真の解放と内面的向上を目指したのです。

尾形さんは、

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 晩年らいてうは「何時死んでもいいのよ。もう十分に生きた。自分の好きなことをやってわたしの一生はとても幸せだった」と言い、泰然自若としていたそうである。
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と書いています。

らいてうのこのような姿を教えてくださった尾形さんに心より感謝申し上げます。尾形さんの論文は、このブログでは触れられなかった、らいてうの人生の軌跡をもっと詳しく扱っています。らいてうに関心のある方には尾形さんの論文を読んでいただきたいと思います。