平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

人間力(2005年7月)

2005年08月01日 | バックナンバー
 学習院院長の田島義博氏は、学習院での教育の目標を「人間力」の形成においている(『「人間力」の育て方』産経新聞社)。人間力というのは聞き慣れない言葉だが、これは田島先生の造語である。田島先生は、学問的専門は経済学であるが、近年の日本における様々な経済不祥事に強い危機感をいだいた。企業や官界の指導的立場にある一流大学出のエリートが、法を破り、嘘をつき、私腹を肥やす。今の社会は「お金のためなら、何でもあり」の世の中になってしまった。日本社会の倫理観が崩れてきている。これまでの日本の教育のあり方に根本的な間違いがあったのではないか。知育と体育はあっても、いちばん大切な人間としての教育、心の教育をなおざりにしてきたのではないか。

 田島先生は、「人間力」は「アタマ、ココロ、ハラ、カラダ」から成り立つと考える。アタマとカラダについては今さら説明するまでもないだろう。ココロというのは、包容力、他人を思いやる心、嘘や裏切り、不正、不公平を憎む心だという。ハラは、勇気、決断力、「渇しても盗泉の水を飲まず」とやせ我慢できる力。罪を部下になすりつけないで、自分がひとりで責任をとる度量である。

 日本にはかつては、こういうココロとハラをもった人々がかなりいたように思う。それはなにも西郷隆盛や勝海舟などいった歴史上の有名人ばかりではない。市井の平凡なおじさんやおばさんの中にも大勢いた。田島先生は事情があってお祖母さんに育てられたが、本書の中にかいま見られるお祖母さんも、まさにそういうココロとハラをもった人であったようだ。そういう人々が日本社会を底辺で支え、次世代のココロとハラをもった人々を育ててきたのであろう。

 これに対して、現代日本の政治、経済、官界、マスコミのトップにある人々には、このようなココロとハラがあまり感じられない。不祥事が起こっても、責任は他に転嫁して、ひたすら自分の保身をはかる。「金で手に入らないものはない」「稼ぐが勝ち」などと公言してはばからない。こういう人物たちを日々見て育つ子どもたちは、どういう大人になるのだろう。教育は、学校だけの問題ではなく、社会全体の風潮の問題でもある。

 まず親が、自分の子どもにどういう人間になってもらいたいと願っているのか、自分に問いかけてみるべきであろう。一流大学を出て、大企業に就職して、よい相手と結婚して、お金持ちになってほしい、とだけ思っているのでは、その子はココロもハラもない人間になることは必定である。自分の子どもには、何よりも心が立派な人間、「人間力」に富んだ人間になってもらいたい、と親が願うことが先決である。