平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

人類が心を一つに平和を祈る日

2007年07月31日 | 世界平和瞑想デー
毎年8月になると、日本人は平和の問題について否応なしに考えさせられます。8月6日の広島原爆記念日、9日の長崎原爆記念日、15日の終戦記念日があるからです。

これらの日々は、また祈りの日々でもあります。

8月6日の広島原爆の日には、8時15分から1分間黙祷が捧げられます。
8月9日の長崎原爆の日には、11時2分から1分間黙祷が捧げられます。
8月15日の終戦記念日には、正午から1分間黙祷が捧げられます。

今年の5月20日には「世界平和瞑想デー(Global Peace Meditation Day)」という行事があり、7月7日に「ライブアース」という行事があり、7月17日に「ファイアー・ザ・グリッド」という行事がありました。誰がどういうきっかけで呼びかけたにせよ、人類が心を一つに平和を祈ることは尊いことです。平和を祈る心の波動が一つに共鳴して、大きな力を発揮するからです。

そのエネルギーはおそらく「強さ(参加者の意識の高さ)×量(参加者の数)」によって決まるでしょう。平和を祈る人が一人でも多いほうが望ましいに違いありません。

しかし、その祈りを呼びかけるために「光の存在」だとか「宇宙存在」だとかの「お告げ」は必要ありません。まあ、そういうものが好きな精神世界系のオタクもいるのでしょうが、そういう怪しげなものから引いてしまう良識的な人々も多いわけです。

しかし、そんな「お告げ」がなくても、すでに

8月6日の8時15分
8月9日の11時2分
8月15日の正午

は過去60年間、毎年何千万人の日本人がともに祈りを捧げてきた日です。支持する政党が違い、信ずる宗教が違っても、この日に一度も平和の祈りをしなかったという日本人はいないのではないでしょうか。それができる日本人はやはりすごい民族だと思います。

一人ひとりの祈りは小さいかもしれないが、それが集まれば大きな力になります。

とくに8月6日、8月9日は、人類がこぞって祈りを捧げるべき日であると思います。それは、原爆犠牲者の冥福を祈る祈りでもよいし、世界平和の祈りでもよいでしょう。この日が、日本人だけの祈りの日にとどまるのではなく、全人類が世界平和を祈る日にならなければなりません。

今年はWorld Peace Prayer Societyが全世界の人々に、広島平和公園で行なわれる1分間の黙祷に全世界で同時に参加してくれるように呼びかけています。8月6日と8月9日が人類全体の祈りの日になる第一歩が踏み出されました。

世界人類が平和でありますように
May Peace Prevail on Earth



プレイバック・シアターin長崎

2007年07月27日 | Weblog
プレイバック・シアターとは――

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その場にいる一人が語り手となり、自分のストーリー(自分自身の出来事)を語ります。心に強く残っている場面や長い間とらわれている出来事、なにげない日常生活の中のひとこまなど、ストーリーとして語られることは様々です。語られたストーリーは役者(アクター)によって、即興の劇で表現されます。表現されたストーリーはその場の皆に分かち合われ、そしてまた語った本人に戻されます。実際には、この即興劇に至るまでのグループの一体感をつくるエクササイズや、役者(アクター)として自発的に表現する為のウォーミングアップ、即興劇の後のクロージングを含めた全体をプレイバック・シアターと呼んでいます。
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http://playbacktheatre.jp/index-1.html

ある人が、自分の心にかかっている自分の人生の一コマを語ります。それは愛する人を喪った悲しい出来事かもしれないし、人に裏切られたり虐待されたりというつらい出来事かもしれない。

役者はその話を即興劇にして演じます。その劇は語り手にフィードバックされ、修正されるかもしれない。そうやって、劇が進行し、語り手は自分の人生がそこにプレイバックされるのを見ます。そのプレイバックの中に、様々な気づきや癒しが生じます。

今度、8月4日に長崎でプレイバック・シアターが「愛と平和」をテーマにして開かれます。

[長崎] Summer Peace Gift 2007 ~長崎から~
日時:2007年8月4日
出演:NPO法人プレイバック・シアターらしんばん TATSUMAKI
会場:長崎市 メルカつきまち
住所:長崎市築町3-18 駐車場あり
入場料:500円

「愛と平和を私たちの身近なものとして感じ、そして音楽とプライバック・シアターで分かち合う」という主旨です。



原爆が戦争を終わらせたのか(10)

2007年07月24日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【広島・長崎の犠牲は人類を救った】

アメリカは国体護持の約束、昭和天皇の身柄保証を最後まで行ないませんでしたが、日本の降伏後、結局、この両方を認めざるをえませんでした。天皇という安定化の中心がなければ、日本には共産主義が浸透し、各地で革命暴動が起こったことでしょう。そして、日本がソ連の勢力下に入ることを阻止するために、アメリカは膨大な軍隊を追加派遣しなければならなかったことでしょう。

結局、終戦後、トルーマンは天皇問題についてグルーらの知日派の主張通りにせざるをえなかったのです。それならば、なぜグルーの建言を入れて、天皇制の承認と引き替えに早期に日本の降伏をかちとらなかったのか、ということになります。それはすでに沖縄戦以前に可能だった、という説まであります。沖縄では多くの日本人が悲惨な死を迎えましたが、米軍にも甚大な被害が出ました。天皇制を認めることにより、沖縄戦を回避していたら、米軍は多くの米兵の命を救うことができたはずです。原爆で数十万人の民間人を虐殺しても救わなければならないほど、一人の米兵の命が大切だというのであれば、なぜ沖縄戦を始める前に、日本と有条件降伏の交渉をしなかったのでしょう。

トルーマンは、日本の文化と国民性への無知のために間違ったのです。彼の誤り(その背後にあったのは無条件降伏を求めるアメリカの世論ですが)のために、広島・長崎に原爆が投下されました。その間違った政策決定を、「しょうがなかった」というあきらめや、「原爆のおかげで100万人の米兵の命が救われた」という偽りの神話でごまかすことは、歴史を直視しないことであり、また同じ過ちを繰り返すことにつながります。事実、その誤りは現在イラクでも繰り返されているのではないでしょうか? 相手の文化と国民性への理解と尊敬を欠いた、自分たちのやり方だけを正しいとする独善が、アメリカを泥沼に引きずり込み、イラクの国民に恐ろしい苦難をもたらしているのです。

多くのアメリカ国民は、今でも日本に対して行なった民間人の大量殺戮という戦争犯罪を直視しようとしません。そのために、広島・長崎への原爆投下を正当化することにつとめるだけではなく、原爆という兵器そのものを、核抑止力として正当化しています。

しかし、広島・長崎の大量殺戮についての、放射能の恐ろしさについての情報が漏れ伝わってきたとき、トルーマンは罪の意識を感じ、深く動揺したのです。それは一方においては、自分の原爆投下決定の事後的正当化の試みとなり、彼は徐々に「原爆100万人米兵救済神話」をつくり出していきます。他方、彼はこの悪魔の兵器の実戦使用に躊躇を感じはじめます。

朝鮮戦争のとき、劣勢に陥ったマッカーサーは、朝鮮と中国に原爆を投下して戦争を早期に勝利することを主張しましたが、トルーマンはマッカーサーを解任しました。この決定はトルーマンの人気を下げ、彼は次の大統領選挙に出馬することを断念せざるをえませんでした。

トルーマンがアメリカの世論に逆らってまで原爆の使用を断念したのは、明らかに広島・長崎の記憶のためです。広島・長崎の犠牲者の悲惨な姿が、彼に朝鮮戦争のときに原爆使用を思いとどめさせたのです。言い換えれば、朝鮮の人々、中国の人々は、広島・長崎の犠牲者によって救われたのです。

その後の東西冷戦の最中にも、核保有国の首脳は、何度か核ミサイルの発射ボタンに手をかけたことがあります。核を使うことを最後のところで躊躇させたのは、やはり広島・長崎をもっと大規模な形で繰り返すことへの恐怖でした。人類が核による破滅をまぬがれたのは、広島・長崎の犠牲者のおかげだと言っても過言ではありません。私たちは、8月6日、9日には、原爆犠牲者の冥福を祈るばかりではなく、彼らの尊い犠牲に感謝しつつ、心から世界平和を祈らなければなりません。

たいへん長くなりましたが、このテーマはこれで終えたいと思います。

原爆が戦争を終わらせたのか(9)

2007年07月22日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【昭和天皇の役割】

経済力、軍事力、科学力で圧倒的な力を誇るアメリカと戦って日本が勝てる見込みは、最初からほぼゼロでした。

連合艦隊司令長官であった山本五十六は、アメリカを視察して、日米の国力を差を知悉していました。彼は近衛文麿首相に、

「〔日米戦を〕是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません」

と述べていました。「初めの半年や一年暴れる」ために生まれたのが、真珠湾奇襲作戦でしたが、そんな勝利がいずれ雲散霧消することは時間の問題でした。

負けるに決まっているこんな無謀な戦争をどうして始めたのか、と後年の人々は考えるかもしれませんが、明治開国以降の日米の確執は、どうしても戦争という形でしか決着できない歴史的潮流に流されていたのです。伊藤整など、日米開戦当時の知識人の日記を読むと、戦争が始まったとき、多くの日本人が、頭上の暗雲が晴れたような爽快感を味わっていたことがわかります。

緒戦の大勝利が、ひょっとしたらアメリカに勝てるかもしれないという錯覚を日本人に与えてしまいました。戦局が悪化してきても、軍部は、天皇にも国民にも「大本営発表」という嘘の情報を流し続け、戦況の実態を隠蔽し続けました。(こういう情報隠蔽は現代でも続いています)

物量的に見たら、日本がアメリカに勝てるわけがないのに、軍部指導者はそれを精神力で補えると宣伝し、最後まで「神国日本」の敗北という考えを受け入れることができませんでした。沖縄が陥落したあとでも、本土決戦によってアメリカに一矢を報い、アメリカに国体護持を認めさせ、名誉ある停戦をしなければ、というのが軍首脳部の考え方でした。しかし、本土決戦などしていたら、日本はドイツ以上の悲惨な状況になっていたでしょう。

ヒトラーは自分の身を守るために、最後までドイツの降伏を許しませんでした。ようやく敗北が不可避になったとき、彼は、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と言い、ドイツの全土を焦土と化すことを命じました。つまり、彼はドイツの全国民を地獄への道連れにしようとしたのです。

ソ連軍がベルリン市内に殺到し、市街戦になり、逃げ場を失ってもうどうしようもない状況になって、ヒトラーは4月30日に自殺しました。ヒトラーという最高権力者がいなくなったので、誰が代表になって連合軍に降伏するかもしばらく決められない混乱状態の中で、各地の軍がばらばらに降伏し、5月8日「頃」に戦争が終わったのです。無条件降伏するにも、降伏を命令する中心者が必要なのです。ドイツは日本のような整然とした降伏ができませんでした。

もし日本でも、天皇陛下がヒトラーと同じように、日本人は最後の一人まで戦え、と命じていたならば、日本人は本当に戦ったでしょう。日本人の多くは、天皇陛下の命令とあらば、死ぬ覚悟でいたからです。私の母は大正12年生まれでしたが、動員先の工場で8月15日の玉音放送を聴いたとき、ラジオの音が悪くて内容がよくわからず、最後まで頑張って戦うように、という内容だと思い、これで自分もまもなく死ぬのだ、と考えたといいます。

天皇陛下の命令がなければ、日本軍人は戦争をやめることができなかったのです。そのことは、戦後になっても、横井庄一さんや小野田寛郎さんなどが、ジャングルの中に潜んで戦い続けていたことを見ればわかります。

しかし、戦争を継続していたら、大空襲と原爆によってすでに大きく破壊されていた日本は、さらに破壊され、あと数発の原爆を投下され、ソ連に北海道だけではなく本州の一部までも占領され、戦後の東西ドイツ以上の悲惨な運命に見舞われていたことでしょう。

軍部が戦争という自分たちが敷いた軌道から自力で抜け出せない中にあって、これ以上戦うことの愚をはっきりと見抜いていたのが昭和天皇でした。

ポツダム宣言には天皇の身柄を保証する文言は何ひとつ入っていませんでした。もし日本が無条件降伏すれば、天皇が戦犯として処刑される可能性もあったのです。それを恐れるがゆえに、軍部はアメリカから国体護持の保証が得られるまでは徹底抗戦すべきだと主張したのです。それはそれなりに天皇を思う心ではありました。もし昭和天皇がヒトラーのような自己顕示欲と世界征服への欲望をいだいていた独裁者であれば、天皇もまた、軍部の方針に従い、自分の身柄の保証が得られるまでは国民に戦うことを命じ、最後はヒトラーと同じ運命を選んだはずです。

しかし、昭和天皇はご自分の身の安全よりも国民の生き残りを優先し、戦争をやめることを決断したのです。このことは実に偉大なことであって、昭和天皇の御聖断のおかげで、日本はさらなる荒廃をまぬがれ、ソ連の北海道への侵攻を防ぎ、ドイツのような分裂国家となる運命をまぬがれたのです。

8月14日の昭和天皇の第2回目の御聖断のあとも、一部の軍人は天皇の意志に逆らっても戦争を続けようとしました。彼らはクーデターを起こし、天皇の終戦の詔勅を録音した録音盤を奪おうとしました。彼らにとっては、天皇も、自分たちの思想を貫くための御神輿、看板にすぎないのであって、自分たちに都合が悪ければ、現天皇を廃して、自分たちの思うままになる天皇を即位させればよいと考えていたのです。

それは何も終戦の時だけの話ではなく、日本の歴史上、何回も起こっていたことでしたし、明治以降の近代史でもそうでした。

昭和天皇がいなければ、日本は原爆を落とされても、ソ連に侵略されても、戦争をやめることができなかったでしょう。その先に待ちうけていたのは、日本全体の玉砕でした。しかし、そんな玉砕は軍部の自己満足にすぎません。その軍部を押さえることができたのは、昭和天皇しかいませんでした。日本がドイツのような状態にならないで、整然と戦争をやめることができたのは、国民の幸福を思う昭和天皇のおかげだったのです。



原爆が戦争を終わらせたのか(8)

2007年07月20日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【ソ連の役割】

アメリカが広島・長崎に原爆を投下した背後に、日本の無条件降伏を求める強い反日憎悪があったことはすでに述べました。それともう一つ大きな役割を演じたのは、ソ連の存在です。

ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3巨頭は、1945年2月、大戦終了後の世界を見すえて、クリミア半島のヤルタで会談しました。すでにナチス・ドイツの敗北と降伏が確実になっていたころです。この会談では、米英側とソ連の間で、戦後のヨーロッパと極東での勢力圏の線引きが行なわれました。

ヨーロッパで最も重要であったのは、ドイツとポーランドの扱いです。ドイツを米英とソ連で分割占領することは合意されました。問題はドイツとソ連の間に位置するポーランドでした。米英はポーランドに自由主義的な政権を作りたかったのですが、結局、ソ連の謀略によって、ポーランドにはソ連の傀儡政権が作られました。

1945年2月にはアメリカの対日勝利は明白でしたが、長引く戦争に、アメリカではルーズベルトに対する批判も出はじめていました。ストも起こりはじめていました。厭戦気分が広がってきたのです。このころには、原爆は開発中でしたが、完成できるかどうか、実戦で使用可能かどうか、まだまったくわかりませんでした。米軍の損害をなるべく少なくし、対日戦争をなるべく早く終えるためには、ルーズベルトはソ連の協力を必要としました。彼は、千島列島をソ連に渡す代わりに、ソ連が日本との中立条約を破り、対日参戦することを求めました。そのほかにも、中国の代表がいないところで、満州に対するソ連の権益も認めました。たいへん卑劣な取引です。これがヤルタの密約と呼ばれるものです。

ルーズベルトは、自国の損害を少なくして早く戦争に勝利するために、ソ連にあまりにも多くの譲歩をしてしまったのです。

ソ連は、東ヨーロッパからナチス・ドイツを駆逐すると同時に、そこに次々と共産党の傀儡政権を作っていきました。これは米英の怒りと疑念を招きました。大戦終了後には、米英側とソ連側の対立が起こることは明らかでした。すなわち、のちに冷戦と呼ばれる対立構造が始まっていたのです。

ルーズベルトの死によって大統領に昇格したトルーマンは、最初、ルーズベルトと同じように、ソ連の対日参戦による戦争の早期終結を期待していました。しかし、共産圏を拡大するソ連の出方に強い警戒感もいだいていたのです。極東におけるソ連の影響をできるだけ排除するためには、ソ連が参戦する前に対日戦争を終え、日本をアメリカだけで単独占領することが必要です。

グルーらのアメリカ政府内の知日派は当初から、天皇制の承認によって日本を早期に降伏させることができる、と主張していました。アメリカ政府は、日本の無線を傍受・解読して(マジック作戦)、日本政府が「国体護持」を唯一の条件として、ソ連にアメリカとの仲介を依頼することを検討していることも知っていました。ですから、ポツダム宣言に天皇制保持のことをはっきりと打ち出せば、日本は降伏交渉に応ずるだろう、ということもわかっていました。しかし、トルーマンとバーンズは、日本への憎悪に燃え、無条件降伏を主張するアメリカ世論に押されて、天皇条項を決して認めないで、あえて日本側にポツダム宣言を拒否させたのです。

なぜなら、ソ連の助けも借りないでも、天皇の問題で日本に譲歩しないでも、日本を無条件降伏させる新しい手段が手に入ったからです。それが原爆でした。それは、いかなる「悪」(日本、ソ連)にも譲歩しない強いアメリカという、自尊心を満足させてくれる武器でした。

トルーマンはポツダム会談の日程を7月半ばに設定しましたが、これは近づいてきた原爆の実験のスケジュールにしたがって設定されたものです。7月16日、ニューメキシコ州のトリニティで史上初の原爆実験が成功しました。翌17日からポツダム会談が始まりました。トルーマンは原爆という最強のカードをもってスターリンとの会談に臨んだのです。

この会談で、トルーマンはソ連の影響をできるだけ排除しようとしました。会談はトルーマン、チャーチル、スターリンの3者(3国)の間で行なわれたにもかかわらず、トルーマンは日ソ中立条約を理由に、スターリンをポツダム宣言に署名させませんでした。ポツダム宣言にソ連が参加していないことを知った日本は、ソ連が日ソ中立条約を守り、日米の間を仲介してくれるだろうという、誤った期待感を高めました。このことが日本の降伏を遅らせた原因の一つになりました。もしポツダム宣言にソ連の名があれば、日本は米ソという二大国と両面で戦争を続けることは不可能だ、ということを早期に悟ったかもしれないからです。

ソ連を排除し、アメリカだけで日本を早期に降伏させるためには、原爆の投下はトルーマンにとって既定の道だったのです。

ソ連の参戦が予想されなければ、沖縄を陥落させたあと、アメリカは日本をじっくり兵糧攻めにすれば、ほとんど損害なく日本を降伏に追い込むことができました。しかし、時間をかければ、そのうち、欧州戦線のソ連軍が極東に配備されます。ソ連の参戦は一度はアメリカが要請したものです。スターリンはその約束を忘れてはいません。ソ連の参戦を防ぎ、極東におけるソ連の影響をできるだけ抑え込むには、早期の日本の降伏が必要だったのです。アメリカは焦りました。

米ソの角逐が原爆投下の引き金になったと言えます。日本は、東西に分断されたドイツと並んで、米ソ対立の最初の痛ましい犠牲者になりました。

8月6日に広島に原爆が投下されたあと、ソ連は9日、ヤルタの密約をたてに、日本に侵攻しました。これは、日本が降伏する前に参戦して、自分の取り分をできるだけ多く確保しようという駆け込み的、火事場泥棒的な行為でした。8月15日に日本がポツダム宣言の受諾を発表すると、翌16日、スターリンはトルーマンに電報を打ち、千島列島だけではなく、北海道の釧路と留萌を結ぶ線の北半分をソ連に占領させろ、と要求しました。トルーマンはこのあつかましい要求を即座に拒否しました。

ここで、久間前防衛相の

「(米国は)日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。これなら必ず日本も降参し、ソ連の参戦を食い止めることができる、という考えだった。間違えば北海道まではソ連に取られてしまった」

という発言を考えてみます。

これまで私のブログをお読みいただいた方には、この発言の内容自体はかなり真実であることがおわかりでしょう。

しかし、この発言にはいくつかの歴史的前提が欠如しています。それは、

(1)アメリカ世論は対日憎悪の復讐心に凝り固まっていた。
(2)そのため、アメリカ政権内には、天皇制存続を認めれば、日本を早期に降伏させることができる、という知日派の意見が強く存在していたにもかかわらず、トルーマンとバーンズは世論に迎合する形で無条件降伏にこだわった。
(3)米ソ対立(冷戦)の開始。
(4)きざしはじめたアメリカの厭戦気分が広がらないうちに戦争を終えるために、ルーズベルトがソ連に譲歩しすぎた。

という歴史的文脈です。

そして何よりも忘れてはならないのは、必ずしも「原爆が落とされたから日本が降伏した」というわけではない、という事実です。なぜなら、日本の軍部は広島・長崎とソ連参戦のあとも、本土決戦を叫んでいたからです。戦争終結は昭和天皇の強い意志と決断がなければ不可能だったのです。


原発危機一髪

2007年07月18日 | Weblog
7月16日に起こった中越沖地震の被災者の皆様には心よりお見舞いを申し上げます。

赤十字を通して義援金を送ることができます。
http://www.jrc.or.jp/sanka/help/news/1247.html

郵便局の口座番号は 00510-5-26 です。

現在わかっている範囲で、この地震では343戸以上が全壊し、9人が死亡しました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070718-00000008-mai-soci

マグニチュード6.8で343戸の全壊にもかかわらず、9人という死者は、驚くほど少ない数です。亡くなった方、被災した方には申し訳ないのですが、本当に大難を小難にしていただいたという感が強くします。

今回の柏崎刈羽原発の事故について知ると、ますますその感を深くします。実は、今回の地震では、巨大な原発事故が起こる可能性がありました。

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原発の耐震安全性は根底から崩れた

2007年7月17日 原子力資料情報室

7月16日午前10時13分ごろ中越沖地震が起きた。この地震の揺れによって稼働中の柏崎刈羽原発4基が自動停止した。停止したのは2号炉、3号炉、4号炉、7号炉で、うち2号炉は定期検査の最終段階の調整運転のために原子炉を起動中だった。他は定期検査中で原子炉を停止していた。

震災にあわれた方々の苦痛はさらに続くだろうが、原子炉が緊急停止したのは不幸中の幸いというほかない。仮に停止に失敗していたら、放射能が大量に放出される原発震災に至る怖れもあった。

停止に続いて3号炉では外部電源を取り込む変圧器で火災が起きた。絶縁油が漏れ、何らかの理由で引火したためだろう。原因について詳細な発表はないが、漏れは地震により機器・配管に亀裂が入ったことで起きた可能性が高い。鎮火までに2時間近くもかかったのは、消火剤の調達に時間がかかったからといわれている。油火災への備えがなかったことは深刻な不備と言わざるを得ない。

変圧器が機能しなければ、外部電源喪失事故という特に沸騰水型原発では恐れられている事故となる。直ちに非常用のディーゼル発電機が起動することになっているが、この起動の信頼性は必ずしも高くなく、地震により起動しない恐れもある。炉心燃料は自動停止した後も高熱を発しているため冷却を続ける必要があり、これに失敗すると燃料は溶融して高濃度の放射能が環境に放出されることになる。場合によってはその後に爆発を伴うこともあり得る。それほど重要なことを内包する火災だったが、東京電力は変圧器が機能し続けていたか、非常用電源が起動したかなどの重要な情報を発表していない。

さらに東電は6号炉で放射能を含んだ水が放水口から海に放出されたと発表した。発表では6万ベクレルである。この発表がそのとおりとすれば、放射能による環境や人体への影響はほとんどないと言えるかもしれないが、そう言うには放射能の種類ごとのデータが不可欠だ。

また、漏れの原因については十分に調査されるべきである。使用済燃料プール水が揺れで溢れだした可能性は高いが、例えば、プールに亀裂が入っていることも、プール水循環装置からの漏えいも考えられる。このような場合、漏えいは止まらず、早急な対策が取られなければならない。水漏れから放射能の確認まで6時間近くたっており、原因究明が急がれる。使用済燃料プール水の溢れだしは地震のたびにおきていることからすれば、海への放出にまで至ったのは明らかな対策の不備である。

建屋内の情報が公表されないので被害状況が分からないが、機器や壁などがさまざまな影響をうけているに違いない。今回の地震の揺れは設計用限界地震(実際には起こらないが念のために想定する地震動)として想定した値を超えていた。東電の発表によれば、最も厳しい場合が1号炉でおよそ2.5倍に達している。今回の地震は東西30㎞、深さ25㎞の断層が破壊されたという。そして、原発建設時にはこの断層は検討されなかった。検討されていたのは20㎞も先の中越地震を起こした断層の一部だ。耐震設計の甘さが否めない。想定外の場所で想定を超える地震が発生したことから、陸域・海域を含め周辺の地盤や地層の十分かつ厳密な調査を欠くことはできない。東電はまずこれを進めるべきである。

2005年8月16日の宮城県沖地震、07年3月25日の能登半島地震、そして今回の中越沖地震、わずか2年ほどの間に3回もそれぞれの原発での設計用限界地震を上回った地震が発生している。原子力安全委員会は06年9月に耐震設計審査指針を28年ぶりに改定し、電力各社は既存原発に対して新指針に基づく耐震安全性チェックを進めているが、ほんらいはすべての原発を止めておこなうべきことであろう。原発を稼働しながら数年内にチェックを終えればよしとしている原子力安全・保安院の現在の姿勢は根本的に見直されるべきである。
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http://cnic.jp/modules/news/article.php?storyid=550

原発事故でいちばん恐ろしいのは、原発の停電です。

「変圧器が機能しなければ、外部電源喪失事故という特に沸騰水型原発では恐れられている事故となる」。

「炉心燃料は自動停止した後も高熱を発しているため冷却を続ける必要があり、これに失敗すると燃料は溶融して高濃度の放射能が環境に放出されることになる。場合によってはその後に爆発を伴うこともあり得る」。

おかしな話に思えるかもしれませんが、電気を作っている原発は、他の電源によって動いているのです。地震で原発が停電すると、炉心の冷却ができなくなります。そうなると、これはチェルノブイリ原発事故のような大規模な爆発事故につながります。柏崎刈羽原発は世界最大の原発基地で、そこに蓄積されている放射性物質は、チェルノブイリ原発の数倍、広島・長崎の原爆の数百倍と思われます。今回、火災にまでなりながら、そのような大規模災害にいたらなかったのは、まさに「不幸中の幸い」、僥倖以外の何ものでもありませんでした。

想定最大震度6.5で耐震設計をしているところに、6.8の地震が起こりました。よくもこれだけの被害ですんだものです。これが7.5の地震だったら? 東電や政府首脳、そして日本国民は、自分たちが今回、「偶然」によって救われたのだ、ということを認識しなければなりません。でも本当は「偶然」などないのです。その背後には目に見えない「大いなる力」が働いているのです。その「大いなる力」が日本を救ってくれたのです。

しかし、貧弱な耐震設計で、いつまでも「偶然」に安全を頼っているわけにはいきません。

いくつもの断層が走っているこの地域には、過去から何度も大きな地震が起こっていますが、それは大自然からの警告ではないでしょうか。このような場所に原発を設置していてよいのでしょうか。柏崎刈羽原発は全面停止・廃棄したほうがよいと思います。

各電力会社は、今回の事故を徹底的に検証し、すべての原発の安全性を高めなければなりません。想定最大震度を大幅にアップしなければなりません。これまでもたびたび事故情報の隠蔽を行なってきた東電は、すべての情報を開示しなければなりません。

最終的には、原発というエネルギー源は放棄されねばなりません。放射性廃棄物の処理方法が確立されていないからです。省エネを進める必要があります。太陽光や風力や地熱や潮力などの自然エネルギーやバイオ・エネルギーなどの利用をできるだけ拡大する必要があります。ただし、こうしたエネルギー源には限界があります。いずれ宇宙空間のゼロ・ポイントフィールドから無尽蔵のエネルギーを取り出す科学・技術が生まれることでしょうが、それまでは現在の技術を改善して、大規模原発震災が起こらないように、原発の安全性を高めて利用するしかありません。

柏崎刈羽原発がこのまま長期間停止したら、冷房によって電力消費が増える夏場には、首都圏では電力不足が起こる可能性があります。原発は危険ですが、すぐに全廃することもできないのです。

完全に自然調和型ではないけれど、現在の原発の代替案として私が関心を持っているのは、古川和男博士が提唱するトリウム型「原発」です。この「原発」は、小規模で安全に運行でき、しかも環境中に放射性物質を放出する危険性がないし、核兵器の原料となるプルトニウムも作れません。理論も基本技術も完成していると言われています。政府や電力会社は、過去の行きがかりにとらわれず、この新しい「原発」の可能性を検証してもらいたいものです。


原爆が戦争を終わらせたのか(7)

2007年07月17日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【日本国民の自由に表明する意思】

8月9日には長崎に原爆が投下され、同時に、ソ連が中立条約を破って満州に侵攻しました。ソ連の参戦は日本に大きな衝撃を与えました。というのは、それまで日本はソ連に、国体護持を条件としてアメリカとの停戦交渉を仲介してくれることを依頼していたからです。ところがソ連はアメリカとの間で、1945年2月に開かれたヤルタ会談で、ドイツの降伏後、中立条約を破って対日戦に参加することを密約していたのです。

そもそも、日露戦争の恨みを持ち、ナチス・ドイツと戦っているソ連が、日米の間を取りなしてくれるだろう、などという期待が甘かったのですが、当時の日本の指導者はそんなことにさえ考えが及びませんでした。

8月9日に開かれた最高戦争指導会議では、国体護持だけを条件にポツダム宣言を受諾すべきだとする鈴木貫太郎首相・東郷茂徳外相側と、そのほかに、戦争犯罪人の処罰は日本側で行なう、などの3条件を付け加えた阿南陸相らの軍部側の意見が対立して、最後まで結論が出ませんでした。この議論は、10日の深夜にもつれ込み、結局、昭和天皇の御聖断を仰ぐことになりました。昭和天皇は、

「本土決戦本土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、また決戦師団の武器すら不充分にて、これが充実は九月中旬以降となると云う。・・・之でどうして戦争に勝つことが出来るか。・・・しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下)

と述べ、結局、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾することが決定されました。

「本土決戦本土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、また決戦師団の武器すら不充分にて、これが充実は九月中旬以降となると云う。・・・之でどうして戦争に勝つことが出来るか」という昭和天皇のお言葉は痛烈です。ここには、天皇に正しい情報を伝えず、天皇の意志に反していたずらに中国大陸で戦線を拡大し、ついには日米戦に突入し、日本を破滅の淵にまで導いた軍部に対する厳しい批判が出ています。このような昭和天皇が、A級戦犯の靖国神社合祀に不快感をいだいたのは当然ですが、この問題については「富田メモと昭和天皇」で詳しく述べました。

「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおざることの了解の下に」というのは、日本側がポツダム宣言に条件を付けたわけです。

日本の返答は、米政府内で議論を呼び起こしました。スティムソンは降伏に際して天皇の権威を利用すべきだ、と主張しましたが、バーンズは無条件降伏にこだわりました。最終的には、

・降伏の瞬間から、天皇および日本政府の国家統治権は、連合国最高司令官に従属する(subject to)。
・日本政府の最終的形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定される。

という回答(バーンズ回答)が作られました。つまり、バーンズ回答は天皇制保証の言質を最後まで与えなかったのです。

日本側がこの回答を受けとったのは、8月12日の午前1時ですが、天皇制の保証について言及せず、しかも天皇が「連合国最高司令官に従属する」と述べているこの回答は、日本側に多大の議論を引き起こしました。これでは国体護持にならない、と軍部が激しく抵抗したのです。そのためにポツダム宣言の受諾がまたまた遅れ、その間にも多くの日本人が死にました。

木戸幸一内大臣がバーンズ回答について昭和天皇に報告すると、天皇は、

「それで少しも差支えないではないか。たとえ連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めて貰って少しも差支えないと思う」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下)

と答えました。昭和天皇は、百尺竿頭一歩を踏み出し、ご自分の身柄を国民の「自由意思」にゆだねることを覚悟したのです。

鈴木貫太郎首相は、8月14日に第2回目の御前会議を開きました。ここでも議論は紛糾し、天皇の御聖断を仰ぐことになりました。天皇陛下は、

「このまま戦争を継続しては、国土も、民族も、国体も破壊し、ただ単に玉砕に終わるばかりである。多少の不安があったとしても、今戦争を中止すれば、また国家として復活する力があるであろう。どうか反対の者も、私の意見に同意してくれ。忠良な軍隊の武装解除や、戦争犯罪人の処罰のことを考えるならば、私は情においてはどうしてもできないのであるが、国家のためにやむを得ないのである」(同)

と涙ながらに語り、居並ぶ者たちはみな嗚咽しました。昭和天皇は、ご自分の身の安全の保証よりも、国民、国家の存続のほうを優先したのです。

この御聖断によってようやく日本のポツダム宣言の受諾と降伏が決定しました。

原爆が戦争を終わらせたのか(6)

2007年07月15日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【真珠湾への報復】
ポツダム宣言以前に、原爆投下の命令書がスパーツ陸軍戦略航空隊司令官に下されていたことはすでに述べました。広島に原爆を投下した直後の大統領声明も、その1ヶ月以上も前の7月2日にその草案が作成されていました。

8月6日にトルーマンが発表した声明はこうでした。

「16時間前、米軍機が日本の重要な陸軍基地である広島に爆弾を落とした。この爆弾はTNT火薬2万トン以上の威力を持つ。これまで実戦で使用された最大の爆弾である英国の「グランドスラム」の2000倍以上の爆発力がある。
 日本は真珠湾への空からの攻撃で戦争を開始した。日本はその何倍もの報復を受けた。だが、戦争が終わったわけではない。この爆弾によって、わが国は成長を続ける軍事力を補足し、破壊力において新たに革命的な増強を遂げた。この種の爆弾は現在も製造中で、さらに強力なものを開発中である。
 これは原子爆弾で、宇宙の基本的な力を利用している。太陽がその力の源とする力が、極東に戦争をもたらした相手に解き放たれた。・・・
 ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。もしも彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、この地球上でかつて見られたことのないほどの空からの破壊力の雨を覚悟したほうがよい。こうした空からの攻撃のあとには、彼らがまだ目にしたことがないほどの海上および地上部隊による攻撃が、彼らの十分承知している戦闘技術によって実施されることになるであろう」
(仲氏著書下、214頁、リフトン/ミッチェル『アメリカの中のヒロシマ』上、岩波書店、3頁)

「ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した」とありますが、声明文が7月2日に作成され、原爆投下命令書が7月25日に下されていることを考えると、トルーマンははじめから日本がポツダム宣言を受諾しないと見越していたことがわかります。つまりトルーマンとバーンズは、グルーとスティムソンが作ったポツダム宣言の草案から天皇制維持に関する文言を取り除き、あえて日本が受諾しがたい内容にしておいたのです。ポツダム宣言は原爆の使用を正当化するための単なるアリバイづくりだったのです。

声明文で原爆投下の第一の理由にあげられているのは「真珠湾への報復」で、これがアメリカの本音です。

ポツダムでチャーチルが、日本の降伏を早めるために、日本のなにがしかの軍事的名誉を守ってやってはどうか、とトルーマンに言ったところ、トルーマンは、「日本には、守ってやるべき軍事的名誉なんてないですよ。少なくても真珠湾攻撃のあとではね」と答えたといいます。(上巻113頁)

アメリカ世論は真珠湾攻撃に激昂していて、トルーマンもそのアメリカ世論に支配されていたのです。

駐米日本大使館の不手際により、宣戦布告書の手渡しが行なわれる以前に始まった真珠湾攻撃は、アメリカにとってはたしかに卑劣な不意打ちでした(ただし、アメリカ側は日本の無線を傍受して、事前に察知していたという説もあります)。しかし、日本は真珠湾の軍事基地だけを攻撃したのであって、ハワイの一般住民を攻撃対象にしたわけではありません。ところが、アメリカは原爆によって非戦闘員である一般市民を無差別に大量虐殺したのです。

上の声明文に「日本の重要な陸軍基地である広島」という語句がありますが、原爆は軍事基地ではなく、一般人が居住する広島市のど真ん中に落とされたのです。広島は真珠湾ほどの重要な軍事基地ではありませんでした。

原爆の開発と製造に重要な役割を演じた人物の一人に、ジェームズ・コナントという人がいます。40歳でハーバード大学の学長になったという秀才です。彼は、原爆の使用について検討するスティムソンの「暫定委員会」のメンバーでしたが、そこで彼は、最も望ましい原爆投下の目標は、「労働者たちの家々にすぐ近くまで囲まれている重要な軍事基地」にすべきだ、と提案しています(仲氏著書上、102頁)。つまり、軍事基地であると同時に、その周辺に大勢の民間人が住んでいる場所がいい、と言っているのです。「陸軍基地」というのは、一般人への原爆投下を正当化するための理屈にすぎなかったのです。

長崎への原爆投下のあと、アメリカ軍部は、もし日本がそれでもまだ降伏しないのであれば、次は東京に原爆を投下すべきだ、と主張していました。東京はもちろん軍事基地ではありません。

原爆は、最初から民間人の大量殺戮をねらったものでした。

実はそれは原爆に始まったことではなく、すでに東京大空襲をはじめとして、米軍が行なってきた、日本焦土化作戦の延長線上に行なわれた行為でした。この焦土化作戦は、1945年2月のドレスデン大空襲を手本にして行なわれました。戦争が、軍だけの戦いではすまずに、民間人の無差別大量虐殺へと拡大したのです。その極点が広島・長崎への原爆投下だったのです。

ドレスデン大空襲は国際法違反の戦争犯罪だ、という声がヨーロッパでは強まっています。そうであるならば、東京大空襲も広島・長崎への原爆投下もそれ以上の戦争犯罪です。

戦争に勝利するためには、復讐を遂げるためには、いかなる手段でも許される、という狂気にアメリカが支配されていたことがわかります。日本の軍部も、広島・長崎のあとでさえも本土決戦を叫んでいたのですから、狂気の度合いではどちらが上かわかりませんが。

ハード・ピース派で、その狂気からいち早く目がさめたのはトルーマンでした。トルーマンは当初、原爆の成功に狂喜していましたが、広島・長崎の破壊についての情報が入ってくると、明らかに良心の呵責をおぼえはじめました。

リチャード・ラッセルという上院議員がトルーマンに、この機会に日本を徹底的に破壊してほしい、という手紙を出したとき、トルーマンは、

「日本人が野蛮であるからといって、われわれも同じように振る舞うべきだと自分の信じさせることはできません。ある国の指導者が「一徹」だからといって、その国のすべての人たちを抹殺する必要に迫られることは、私としては間違いなく残念に思っており、絶対に必要にならない限り、自分はそれをやるつもりはないことを、あなたにお伝えしておきます」

と返答しました。(仲氏著書下、239頁)

8月10日の閣議ではトルーマンは、「今後さらに〔原爆で〕10万人の人間を抹殺するなど、考えるだけでも恐ろしすぎる」と述べました。(同254頁)

トルーマンの中にも、かすかに良心がよみがえってきたのでしょう。このことが、のちの朝鮮戦争のときに、彼が原爆の使用を拒否することにつながります。


原爆が戦争を終わらせたのか(5)

2007年07月13日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【天皇制存続の問題】

ルーズベルトは「無条件降伏」をかかげてドイツとも日本とも戦いました。「無条件降伏」という言葉は、アメリカの南北戦争ではじめて登場したと言われています。ルーズベルトは日独に対する戦争で、この言葉を再び持ち出し、アメリカの世論を戦争へと煽ったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E9%99%8D%E4%BC%8F

しかし、敗れた敵国にいっさいの権利も名誉も認めないこの言葉は、敵方の死にものぐるいの反撃を呼び、戦争の終結を送らせました。ヨーロッパ大戦の名将で、のちにアメリカ大統領になったアイゼンハワーは戦後、ルーズベルトが無条件降伏にこだわったために、ドイツの降伏が数ヶ月遅れ、そのため死ななくてもすんだ米兵が死んだ、と批判しています。

ルーズベルトも無条件降伏の不毛さをうすうす感じていたのかもしれません。知日派のグルーを国務次官に登用したことには、彼が無条件降伏路線を変更することを考えはじめていたことがうかがわれます。

ルーズベルト大統領はアメリカ国民の圧倒的な信頼感をかちえていました。そういうルーズベルトであれば、たとえそれまでの反日宣伝を翻し、ソフト・ピースに乗り換えても、つまり無条件降伏を取り下げ、天皇制容認と引き替えに終戦しても、アメリカ国民はその決定に従っていたでしょう。

1944年11月7日に4期目の大統領に選出されたルーズベルトは、副大統領にトルーマンを指名していました。副大統領といっても、トルーマンはいわば飾り物で、ルーズベルトはヤルタ会談の内容もマンハッタン計画(原爆開発計画)のことも、トルーマンには教えていませんでした。重要な案件は自分が判断すればいい、と考えていたのです。

1945年4月12日にルーズベルトが脳卒中で急死、トルーマンが大統領に昇格しました。トルーマンは大統領としての心の準備はまったくできていませんでした。もちろんルーズベルトほどのリーダーシップもありませんでした。そういう人物が、日本との戦争の終結という難しい課題を与えられたのです。彼はルーズベルトの無条件降伏路線をそのまま引き継ぎます。

トルーマンが国務長官(外務大臣)に選んだのが、バーンズです。バーンズはトルーマンよりも5歳年長で、上院議員としてのキャリアもトルーマンよりもはるかに長かったのです。トルーマンにとって政界の大先輩です。トルーマンがバーンズの意見に強く影響されたのはやむをえませんでした。ポツダム宣言はバーンズの影響のもとで案文が決まりました。

ポツダム宣言のそもそもの起源は、ソフト・ピース派のグルー国務次官にあります。グルーは1932年に駐日大使となって来日し、1941年の日米開戦まで日本に滞在していました。彼は日本の政治、軍事、文化、国民性をよく知っていました。とくに昭和天皇が日米戦争に反対であったことを知っていました。日本を愛するグルーは、アメリカの空爆によって東京をはじめ日本の大都市が焦土となりつつあることに強い衝撃を受けました。グルーは、戦争を早期に終結するために、立憲君主制の天皇制存続の保証と引き替えに日本に降伏を促す「対日宣言」を出すことを構想しました。

グルーの案文はスティムソン陸軍長官に手渡されました。やはり知日派でソフト・ピース派のスティムソンはグルーの案文をほとんどそのまま生かした案文を、ポツダムに向かうトルーマンに渡しました。ですから、この案文には天皇制存続を保証する文言が含まれていたのです。

しかし、トルーマンに同行してポツダムに行ったのは、スティムソンではなく、ハード・ピース派のバーンズでした。そもそもトルーマンは、大統領になる前は、アメリカの国内政治家で、グルーやスティムソンのような広い外交的視野も日本に関する知識も有していませんでした。そういうトルーマンは、アメリカ世論の対日憎悪を体現するバーンズに完全にコントロールされることになりました。

ポツダム宣言の天皇制に関する箇所は、

「前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民が自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収する。」

と曖昧化されました。「日本国国民が自由に表明する意思」ということであれば、国民の意思によっては天皇制廃止も可、ということになります。このことが、日本政府内で議論を呼び、結局、ポツダム宣言の受諾が遅れ、その間に原爆が投下されることになったのです。

原爆が戦争を終わらせたのか(4)

2007年07月11日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【ソフト・ピースとハード・ピース】
1945年6月23日の沖縄陥落によって、日本の敗戦は、日本側にも連合軍側にも時間の問題となっていました。双方は、この戦争をどのように終結に持って行くか、という問題を真剣に考えはじめました。

戦争終結をめぐって、アメリカ側には「ハード・ピース」と「ソフト・ピース」という二つの考え方がありました。(上巻226頁)

〔ハード・ピース〕
 真珠湾のだまし討ち、フィリピンでの米軍捕虜虐待(バターン死の行進)、硫黄島や沖縄で激しい抵抗をやめない日本は、徹底的に屈服させ、ドイツと同じように無条件降伏させねばならない。軍国主義の中心である天皇も戦争犯罪人として処刑する。
 これを支持するのは、保守派、孤立主義者(モンロー主義者)、反共主義者で、その中心はバーンズ国務長官。

〔ソフト・ピース〕
 勝敗の帰趨が決した今、できるだけ流血少なく日本を降伏させるためには、「無条件降伏」というそれまでのスローガンを捨て、日本の軍部が戦争継続の根拠とする「国体の護持」=天皇制の存続を容認する。
 これを支持するのは、グルー国務次官、スティムソン陸軍長官などの知日派。

1939年にナチス・ドイツがポーランドを電撃的に侵略して第二次世界大戦が始まったとき、アメリカ国民は当初、遠いヨーロッパの戦争にアメリカが介入することに反対しました。そのようなアメリカの世論をひっくり返し、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦するきっかけになったのが、日本の真珠湾攻撃です。アメリカは日本に宣戦すると同時に、日本と軍事同盟を結んでいたドイツとイタリアにも宣戦布告しました。アメリカは、それまで目立たない形で軍事支援していた英仏側に立って堂々と戦争することができるようになったのです。日本の真珠湾奇襲は、アメリカにとってまさに「渡りに船」だったのです。

真珠湾を「だまし討ち」されたアメリカの世論は、日本に対する憎悪に燃え上がりました。その後もアメリカでは、日本に対する憎悪をかき立てる宣伝が繰り返されました。日本でも「鬼畜米英」という宣伝が行なわれましたが、アメリカでも同じようなものだったのです。

その反日宣伝の一つが、「バターン死の行進」でした。これは、フィリピンのバターンで、トラックがなかったため米軍捕虜を歩かせて収容所に連れて行く途中に、大勢の米兵と警護の日本兵がマラリアで死んだ事件です。これはアメリカによって、日本軍による米軍捕虜に対する意図的な虐待事件として宣伝されました。

ルーズベルト大統領は、日本に対する憎悪を意図的に煽り立てたふしがあります。日本の真珠湾攻撃も、事前に察知していながら、あえて隙を見せてしかけさせたという説も、日本ばかりではなく、アメリカ人研究者からも出されています(ロバート・スティネット『真珠湾の真実』文藝春秋社)。

このような反日宣伝に洗脳されたアメリカの世論は、ハード・ピースを支持していました。そして、戦争の最高責任者である天皇ヒロヒトに対する憎悪も激しかったのです。天皇とヒトラーの違いすら、アメリカ国民の大多数は知りませんでした。

アメリカは民主主義の国で、国民の世論を重視せざるをえませんから、いったんそういう憎悪がアメリカ国民の間に根づくと、それは対日政策に大きな影響を及ぼすことになりました。


原爆が戦争を終わらせたのか(3)

2007年07月09日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【第2の神話】原爆によって、100万人の米兵の命が救われた。

これについては、「萬晩報」というメールマガジンに同じテーマについて書かれていましたので、著者の許可をもらってここに転載させていただきます。

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原爆100万人米兵救済神話の起源

2007年07月08日(日)

東京大学教授 中澤英雄(ドイツ文学)

 久間章生氏の「原爆はしょうがなかった」発言につづき、米政府のロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)が7月3日に、広島・長崎への原爆投下について「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の数十万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と語ったという。
http://www.asahi.com/politics/update/0704/TKY200707040381.html

 アメリカは以前から、原爆は100万人の米兵の命を救った、として原爆投下を正当化してきたが、今度は、「何百万人もの日本人の命を救った」と、日本国民にまで、原爆投下に感謝せよ、と託宣するわけである。こんな議論に関して「ほとんどの歴史家の見解は一致する」というのであれば、どういう歴史家がそういう見解を述べているか、ジョセフ氏は明らかにすべきである。

 原爆が何百万人もの日本国民の命を救った、という神話はともかくとして、アメリカでは、原爆が100万人の米兵を救った、という神話が流布し、今でもそれを信じている米国民は少なくない。以下では、この神話がどのようにして生まれたかを考察する。資料は仲晃著『黙殺』上・下(NHKブックス)である。

 ■トルーマンがあげる3種類の数字

 『黙殺』上巻によれば、原爆投下の指示を出したトルーマン大統領は、戦後になって、原爆によって救われた米兵の数を少なくとも3種類あげている(122頁)。

(イ)25万人:1948年4月12日、妹に宛てた手紙
 「米兵25万人を救うため」(トルーマンは「lives」と書いているので、25万人の戦死者を救うため、という意味になる)。

(ロ)50万人:1955年に出版された回顧録
 「マーシャル将軍は、敵を〔原爆を使わないで〕本拠地で降伏させるには、50万人の生命が失われることになるかも知れないと私に告げた」

(ハ)100万人:1953年、シカゴ大学ケイト教授への手紙
 マーシャル陸軍参謀総長から、「アメリカ軍の戦闘犠牲者(カジュアルティーズ)は、少なく見積もっても25万人、多ければ100万人にものぼるかも知れない」と聞かされた。

 ここで注意しなければならないのは、戦死者(lives)と戦闘犠牲者(casualties)の違いである。米軍が「カジュアルティーズ」と言うときには、それは戦死者、負傷者、行方不明者を合計したものをいう。日米戦における米軍の戦死者は、全戦闘犠牲者の平均20~25%であった(『黙殺』上巻70頁)。負傷者の中には、数週間の治療で、戦線に復帰できる者たちも含まれる。

 (ハ)では「戦闘犠牲者(カジュアルティーズ)」という言葉が使われている。戦死者をその25%とすると、トルーマンは「少なくて6万2500人、多ければ25万人の戦死者」とマーシャルから聞かされていた、ということになる。

 トルーマンがあげる数字は、時と相手によって違っていて、とうていまともな根拠があるとは思えない。彼は数字の根拠を「マーシャル将軍」=「マーシャル陸軍参謀総長」に帰している。それでは、マーシャルがその時々に、違った数字をトルーマンに情報としてあげたのであろうか?

 ところが、マーシャルが日本上陸作戦によって生じる戦闘犠牲者数(=原爆投下によって救われた戦闘犠牲者数)を(イ)(ロ)(ハ)のような数字で推計し、トルーマンに報告したことを示す公式文書は一つも存在しない。

 マーシャル自身は、トルーマンのでたらめな数字について言及も反論もしなかった。仲氏は、

「トルーマン大統領が戦後、原爆投下の決定と関連して、マーシャル元帥の権威を利用して戦争犠牲者推定をクルクルと変えながら引用するのを見ても、当のマーシャルは一度も抗議はおろか、不平も漏らさなかった。ノーベル平和賞さえ受けたマーシャルが、自分の人間的評価を犠牲にしても貫いた彼なりの祖国への忠誠のかたちであった」(129頁)

と推測している。つまりマーシャルは、トルーマンの嘘に内心は不快感をおぼえながらも、「国益」のためにあえて沈黙を守ったのであった。

 ■1945年6月18日の最高会議

 沖縄戦の終結が間近に見えてきた1945年6月18日、今後の日本侵攻をめぐってホワイトハウスで最高会議が開かれた。日本上陸作戦には当然大きな損失が予想される。その被害を推計しないで作戦を立てることはできない。

「現在までの時点で、日本上陸作戦による米軍の被害を推定したもので、公式記録に残っている最も権威あるものは、1945年6月18日(月曜日)午後3時半から、米軍の文字通りの最高首脳部を集めて、ワシントンのホワイトハウスで開かれた会議での各種の発言である」(『黙殺』上巻131頁)

 この最高会議の資料として、「統合作戦計画委員会」は、日本を降伏させるための3通りの本土上陸作戦案を作成し、各作戦における戦闘犠牲者数も予測もした。

〔第1案〕南九州に上陸、次に北西九州に上陸。
 戦死2万5千人、負傷10万人、行方不明2500人(総計12万7500人)

〔第2案〕南九州に上陸、次に関東平野へ侵攻。
 戦死4万人、負傷15万人、行方不明3500人(総計19万3500人)

〔第3案〕南九州、次に北西九州、さらに関東平野へ侵攻。
 戦死4万6千人、負傷17万人、行方不明1万4千人(総計23万人)

 6月18日の会議では、マーシャルは戦闘犠牲者の推定については触れずに、作戦メモを読んだ。そのあとの議論では、マーシャル、キング、リーヒ、マッカーサーの各元帥が戦闘犠牲者の推定を述べた(マニラにいたマッカーサーは電報で)。それによると、推定戦闘犠牲者は最低3万1千人、最大6万5500人程度であった(135頁)。これは、統合作戦計画委員会の数字よりも著しく小さい。元帥たちはそれほど日本上陸作戦を楽観的に見ていたのである。この会議では結局、第2案が採用された。

 ■25万人の根拠

 トルーマンは「統合作戦計画委員会」の戦闘犠牲者推定を読んでいないが、会議の席で「推定戦闘犠牲者は最低3万1千人~最大6万5500人」という議論は聞いている。

 繰り返すが、6万5500人というのはあくまでも全カジュアルティーズの数である。戦死者はその4分の1ないしは5分の1である。大統領ともあろう者が、そのことを知らないはずはない。ただし、もしこれが戦死者の数であるとすると、全カジュアルティーズは、6万5500人×4または5=26万2千または32万7500に膨れあがるが、これは第3案の数字にほぼ対応する。

 トルーマンの(イ)の「25万」という数は、おそらくこの6月18日の会議の記憶によるものであろう。トルーマンが数字を膨らませていったプロセスは以下のようであろうと推測される。

(1)カジュアルティーズ約25万(1945年6月18日の会議から)
     ↓
(2)戦死者25万(カジュアルティーズを戦死者と読みかえ。「イ」の妹への手紙に対応。1948年)
     ↓
(3)戦死者が25万なら、全カジュアルティーズは100万になる。(「ハ」のケイト教授への手紙に対応。1953年)
     ↓
(4)戦死者50万人(戦死者数をさらに2倍に膨らます。「ロ」の回顧録。1955年)

 驚くべき数字の水増しだが、トルーマンが意識的にこういう数字の操作を行なったとは考えられない。意識的に数字を操作したのであれば、あとから嘘がすぐにばれるような矛盾した数字をあげるわけはない。仲氏は、

「トルーマンが次々と数字を膨らませたのは、広島と長崎での原爆による大量の死者に対する内心の動揺を鎮め、日本への原爆攻撃の妥当性について、1950年代に聞こえるようになった批判の声を沈静化させるためであった、とする見方が多い」(130頁)

と述べている。

 トルーマンは、自分の罪の意識を和らげ、非人道的な原爆投下を世界人類に対して正当化するために、無意識からの衝迫に突き動かされて、原爆によって救われた米兵の数を、戦死者とカジュアルティーズを混同することによって、次々と水増しせざるをえなかったのである。

 ところがその後、アメリカでは、トルーマン自身が直接は述べていないにもかかわらず、

(5)原爆によって100万人の米兵の命が救われた。

という新たな神話が生まれた。これは(3)の「100万人のカジュアルティーズ」が「100万人の戦死者」にすり替えられて出てきた数字である。そこではいつでも、戦死者とカジュアルティーズの混同という同じインチキ計算式が使用されている。

 この神話を宣伝しているのは、軍事史研究家のエドワード・ドリアやD・M・ジャングレコなどである(仲氏著書)。これは、トルーマンではなく、アメリカ国民が、みずからの行為を正当化し、罪の意識を和らげるためにつくり出した神話である。この神話にさえも安住できず、アメリカ国民は、「原爆は何百万人もの日本人の命を救った」という新たな神話まで必要としているのであろう。

 だが、事実を直視しないで、虚構で罪の意識を隠蔽しているかぎり、アメリカ人の心に永遠に平安が訪れることはなく、次から次へと新たな神話を必要とするのである――ちょうど、次々と数字を膨らませていったトルーマンと同じように。


7月7日、ライブアース+Intention Experiment

2007年07月06日 | Weblog
原爆問題については来週からにして、今日は別の話題です。

7月7日に「ライブアース」という世界的な音楽イベントが開かれます。

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 LIVE EARTHは7月7日に、オーストラリア・シドニーを皮切りに、世界全7大陸の各地で順次、開催され、米国の公演で幕を閉じます。日本では、幕張メッセをメイン会場とし、また気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書の採択の地・京都でスペシャルライブを開催します。

 LIVE EARTHは、2005年開催されたアフリカ貧困撲滅支援コンサート“ LIVE 8 ”でエミー賞を受賞したケビン・ウォールと、気候の危機を訴えた映画「不都合な真実 - An Inconvenient Truth」の作者である元アメリカ合衆国副大統領のアル・ゴアを中心メンバーとして発足された「地球温暖化の危機」解決に向けたグローバル・キャンペーン・プロジェクト“ SOS ”が最初に手掛ける巨大イベントです。

 SOS - SAVE OUR SELVES(自分自身を救え)をテーマに掲げ、各地のコンサートの模様は、インターネットやテレビ、ラジオ放送を通じて22時間100万人の観衆と20億人の視聴者に届けられます。7大陸で行われる”LIVE EARTH”の収益の全ては、Alliance for Climate Protection(気候保護同盟)とその会長であるアル・ゴアが中心となり、気候の危機の解決を目的とするグローバル・プロジェクト基金を設立し、それを基に新たな取り組みを継続的に実施していきます。
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http://www.liveearth-japan.jp/

アル・ゴア氏はすっかり温暖化防止運動の推進事業家になったようです。

映画『不都合な真実』は世界中でヒットしましたが、科学的にはかなりいい加減なところがあり、地球温暖化の危機を大げさに煽り立てているところがあるとも言われています。
http://anond.hatelabo.jp/20070125145018

ただし、この映画が一般大衆の意識を温暖化の問題に向けた功績は大だと思います。先日も、環境問題と取り組んでいるある方とお話ししたとき、『不都合な真実』以来、環境問題に対する人々の受け止め方が真剣になり、自分の話もよく聞いてくれるようになった、とおっしゃっていました。

ゴア氏がしかける次のイベントが「ライブアース」です。

音楽コンサートが温暖化防止にどうつながるのか、私にはよくわかりません。皮肉な見方をすれば、これだけ世界各地で大規模なイベントを行なえば、それに使われる大量の電気エネルギーは、CO2の量を増やし、温暖化を促進するのではないか、と考えられるからです。

しかし、世界中の人々を巻き込み、人々の意識を自然環境保護という目的に向けることはそれなりに意義のあることだと思います。この行事が、一過性のお祭り騒ぎやお金集めや売名に終わらないで、真に世界平和のためのイベントになることを期待します。

さて、7月7日にはもう一つ面白いイベントが企画されています。

2007年2月17日のブログで紹介した、『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』(河出書房新社)の著者であるリン・マクタガートが、7月7日に「The Intention Experiment 思念の実験」を計画しています。

世界中の人々がアリゾナ大学の実験室にあるムギの種に同時に思念(intention)を送って、これを発芽させよう、という実験です。思念を送る時間は、グリニッジ時間の7月7日午後5時で、日本時間では7月8日午前3時になります。
http://theintentionexperiment.ning.com/

インターネットを使って、世界中の人に同じ目的のために心を一つにするように呼びかける行事が年々増えています。これを正しく用いれば、世界平和のために大きな力を発揮することができるでしょう。

どうせなら、ライブアースでもThe Intention Experimentでも、世界中でいっせいに「世界人類が平和でありますように May Peace Prevail on Earth」と祈るように呼びかけたらよいのに、と思います。


原爆が戦争を終わらせたのか(2)

2007年07月05日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【第1の神話】日本政府(鈴木貫太郎首相)が、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を「黙殺」し拒絶したので、アメリカは原爆投下を決定した。

これは完全な嘘です。

ポツダム宣言は、1945年7月26日に、アメリカ合衆国、イギリス、中華民国の3カ国首脳の共同声明として発表されました。その当時、日本と中立条約を結んでいたソ連は、ポツダム会談には参加しましたが、この宣言には加わりませんでした。

ポツダム宣言に対して、日本側は、

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政府は、7月27日にポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に読売新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。鈴木貫太郎首相は同日、記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、昭和20年(1945年)7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80

という態度に出ました。日本がこのような「黙殺」という反応をしたのは、それまで日本が求めていた天皇制保持という条件について、ポツダム宣言がまったく言及していなかったからですが、この点についてはあとで述べます。

この「黙殺」、「拒否」によって、日本側に降伏の意志を示さなかったので、原爆使用に踏み切ったのだ、という説明を戦後一時期、アメリカは行なっていました。

ところが、戦後になって、ポツダム宣言の1日前である25日にすでに原爆投下の命令書がスパーツ陸軍戦略航空隊司令官に下されていたことが明らかになりました。この命令書は、スティムソン陸軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、アーノルド陸軍元帥の三者によって7月22日に作成されたものです。つまりアメリカは、ポツダム宣言に対する日本政府の反応いかんにかかわらず、それ以前にすでに原爆投下を決定していたのです。

そもそもポツダム宣言はいわゆる「最後通牒」でさえありませんでした。受諾するか否かの返答の期限も示されていなかったからです。トルーマン大統領も、日本の「黙殺」に別段の反応を示しておりません。

日本側の「黙殺」は、原爆投下のあとからこじつけ的に持ち出された理屈なのです。


原爆が戦争を終わらせたのか(1)

2007年07月04日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
自民党の久間章生氏は、「原爆はしょうがなかった」と発言し、その失言の責任を取って7月3日に防衛相を辞任しました。

事の発端は、氏の麗澤大学での講演です。

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久間章生防衛相は30日、千葉県柏市の麗沢大学で「我が国の防衛について」と題して行った講演で、太平洋戦争終結時に米国が広島、長崎に原爆を投下したことについて「米国はソ連が日本を占領しないよう原爆を落とした。無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったという頭の整理で、今しょうがないなと思っている」と述べた。被爆地・長崎の出身でもある現職閣僚が、原爆投下を部分的に肯定したとも受け取れる発言に対し、野党は閣僚の罷免を求めるなど激しく非難しており、波紋が広がっている。
 久間防衛相は当時の戦況について「(米国は)日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。これなら必ず日本も降参し、ソ連の参戦を食い止めることができる、という考えだった。間違えば北海道まではソ連に取られてしまった」などと分析した。
 原爆投下については「米国を恨む気はないが、勝ち戦と分かっている時に原爆を使う必要があったのか」と疑問を呈し、その一方で「国際情勢や戦後の占領を考えると、選択肢として戦争の場合は(原爆投下も)あり得るのかなと思う」と言及した。
 久間防衛相は同日夜、東京都内で記者団に対し、自身の発言が問題視されていることについて「ソ連の意図を見抜けなかった日本の判断ミスについて言った。そのために、私の(選挙区である)長崎なども悲惨な目にあった。しょうがない点もあるが、相手の意図を見抜かなければならない。それで『米国(のこと)はもう恨んでいない』と(いう趣旨のことを言った)。原爆を是認したわけではない」と釈明した。【田所柳子】
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070701-00000001-maip-pol

ここには、

・米国はソ連が日本を占領しないよう原爆を落とした。これなら必ず日本も降参し、ソ連の参戦を食い止めることができる、という考えだった。・・・間違えば北海道まではソ連に取られてしまった。
 →原爆投下がなければ、ソ連が北海道を取ってしまっただろう。だから、ソ連の侵入を防いだ原爆投下は肯定できる。
・無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったという頭の整理で、今しょうがないなと思っている。
 →原爆が戦争を早く終わらせたので、被爆者にはかわいそうだが、もっと多くの日本人が死ななくてすんだので、それはそれで肯定できる。

という考え方が見られます。

このような理解は正しいのでしょうか? この議論にきちんと反論しないと、いくら原爆を肯定するのはけしからん、と言ってみても、それは単なる感情的反発でしかありません。

久間氏がこんないい加減な歴史認識、おそらく、アメリカ人以上にひどい原爆肯定論を表明したことに、驚きと情けなさを感じます。日本の政治家は、原爆の問題について、正しい歴史認識を持ってもらいたいものです。以下では、私の見解を述べてみます。

原爆投下を肯定するアメリカ側の議論としてよく持ち出される議論がいくつかありますが、それらはすべて根拠薄弱なものです。以下では、主として仲晃著『黙殺』(NHKブックス)によりながら、アメリカ人、そして一部の日本人が信じているらしい「神話」を「脱神話化」してみます。


サミット(2007年5月号)

2007年07月03日 | バックナンバー
 来年二〇〇八年の夏、日本で先進国首脳会議、いわゆるサミットが開かれる。

 サミット開催となると、参加国の首脳ら代表団は計千五百人になるし、報道陣は約三千人にものぼると見られている。世界各地からこれだけの人々がやってくると、その土地は世界中に紹介されて有名になるし、経済的効果も大きい。というわけで、現在、各地でサミット開催を招致する運動が活発化している。

 前回の日本でのサミットは、二〇〇〇年に沖縄県で開かれた。今回、立候補しているのは、

・北海道洞爺湖地域の「洞爺湖サミット」
・横浜・新潟両市などの「開港都市サミット」
・大阪・京都・兵庫3府県の「関西サミット」
・岡山・香川両県の「瀬戸内サミット」

である。それぞれ、警備がしやすい、とか、国際会議の施設がある、などというメリットを強調しているという。

 これらの候補地の中で、筆者は以下の理由で京都を推したい。

 京都は日本の古都であり、サミット開催は日本の伝統文化を知ってもらうよい機会である。

 第二次世界大戦中、京都は原爆投下の第一の候補地であった。しかし、ルーズヴェルト大統領とトルーマン大統領の下で陸軍長官であったヘンリー・スティムソンは、文化都市・京都の破壊に反対し、その代わりの候補地として選ばれたのが広島であった。京都は広島によって救われた都市として、平和という価値と結びついている。

 京都はまた、一九九七年の地球温暖化防止京都会議(第三回気候変動枠組条約締約国会議)で作成された、いわゆる京都議定書の都市でもある。京都は、地球環境保護という、今日の人類共通の目標とも結びついている都市である。

 今年になって英BBC放送が公表した国際世論調査の結果で、世界各国の人々は、日本を、カナダと並んで、国際情勢に最も肯定的な影響を与えている国と見ていることが明らかになった。筆者も最近、何人かの、いわゆる開発途上国出身の人たちと話す機会があったが、彼らはみな、日本が行なった道路や病院の建設に心から感謝していた。

 日本は、軍事力で自国の理想を他国に強制する国ではない。自由と人権を抑圧する共産主義体制の国でもない。いま日本にとって最も大切なことは、世界の中における自国の立ち位置を明確にし、日本の特長を通じて世界平和に貢献することである。

 京都でサミットを開催することは、日本が世界に向かって、文化、平和、地球環境保護という価値観をアピールすることにつながると思う。

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この記事を書いたすぐあとに、サミット会場が北海道の「ウィンザーホテル洞爺」になることが発表されました。北海道は京都ほどのメッセージ性はありませんが、美しい自然は、海外からの来客に好印象を与えるでしょう。

今年の夏休みには「ウィンザーホテル洞爺」に行って、サミット会場の「下見」(?)をしてこようと思っています。