平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

平塚らいてう(3)

2005年03月15日 | 最近読んだ本や雑誌から
 終戦後、昭和21年に新憲法が発布され、23年には民法の親族篇、相続篇が改正され、法の上での男女平等が確立されました。

 63歳になったらいてうは「わたしの夢は実現したか」というエッセイで、そのときの彼女の想いを以下のように書いています。

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――もともと自分は人形でも、ロボットでも、女性動物でもないのだ。無限の生命を、無限の能力を内存する尊厳なる神性、それがほんものの自分なのである。この真理を、わたくしたち女性のひとりびとりが、自我の探究ということをとおして知らなければならないのだ。(中略)
 明治44年、26歳のとき、わたくしは、「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような青い月である」となげいた。しかし37年後の今日、わたくしはよろこびあふれて叫ぶ。
 「いまこそ、解放された女性の心の底から、大きな、大きな太陽があがるのだ。その日がきたのだ」
 わたくしの心は、いまかぎりないよろこびにあふれている。
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 これは、女性が家制度から解放されたことを素直に喜ぶ気持ちの発露です。しかし、らいてうは、単に法的・社会的な男女平等によって、彼女の究極の目的が達成されたとは考えていません。同じエッセイの中で、彼女は次のようにも語っています。

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 たといいまどんなに弱く愚かしくみえる自分でも、自分の心の内部を、正直に掘り下げてゆきさえすれば、その人は必ずその最深所において、神を(宇宙の本源である神とつらなる神性の実在を)掘り当てるに相違ないのだから。(中略)本当のゆるぎなき自信、絶えざる勇気、変わらぬ情熱は、無限の生命であり、無限の能力である神とのつながりなしに、その出所はないのである。
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 らいてうの理想はあくまでも、神なる自己の本質の発見であり、発揮でした。女性の法的・社会的解放は、その第一歩にすぎなかったのです。


平塚らいてう(2)

2005年03月14日 | 最近読んだ本や雑誌から
元始の女性を太陽にたとえた一文について、らいてうはのちに次のように説明しています。

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 ここにいう「太陽」――大円光体――は、いうまでもなく生命の根源の象徴であり、「隠れたる我が太陽を、潜めるわが天才を発現せよ」とは、各自がその自我の当体に到達することによって、失われた女性の生――創造力――の全的回復を求めたものであります。
 わたくしは、たまたま縁あって坐禅をやり、見性といわれる心的体験を通して、その境地に入りましたが、どんな道からでも極限に到達すればおなじであると信じていますから、読者から狭い意味に受けとられることを気づかって、禅という言葉を意識して使わないようにしていました(この場合だけでなく)。
 人間の偉さ、他の動物と区別される偉大さは集注力をもっていることだとおもいます。このすばらしい心の集注力で、人間は生命の本源を究め、宇宙と一体となり、大きな充実感のなかから無限の能力をいくらでもひきだすことができるのです。それだけに、女性は長い歴史のなかで、この集注力を失い、失わないまでも微弱なものにされ、現在見るような独立性のない無気力な存在になったのだから、わたくしたちはあきらめたりしないで、自分の努力でこの力をとりもどし、内に潜んでいる偉大な能力を大胆に打ち出してほしいといったわけで、つまり、女性の未来に大きな希望と期待をかけ、まず各自の内的革命を促したのでした。
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 らいてうは、ただ単に女性の社会的地位の向上を求めただけではなく、女性の「内的革命」、精神的覚醒を促したのでした。

平塚らいてう(1)

2005年03月13日 | 最近読んだ本や雑誌から
知人の尾形ゆき江さんから、立命館文藝会の同人誌「衣笠」11号をいただきました。この雑誌に掲載された尾形さんの論文「平塚らいてう――その崇高なる内面――」を読んで、これまで知らなかった平塚らいてうの姿を知ることができました。

平塚らいてう(1886~1971)といいますと、

「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような青い月である。」

という雑誌「青鞜」の冒頭の宣言によって、女権論者、日本のフェミニストの元祖として有名です。

しかし、尾形さんによると、こうしたらいてう像は、誤りとは言えなくとも、一面的であるとのことです。らいてうの行動と言葉の根本にあるのは深い宗教性であるというのが、尾形論文の主張です。

らいてうは日本女子大学に在学中から宗教に深く関心を寄せ、参禅し、見性体験をしています。この体験がどの程度のものであったのかはよくわかりませんが、ともかく彼女は自分を、女としてではなく、一個の人間として意識するようになったようです。

明治、大正、戦前の昭和期に生きた女性は、家制度の桎梏の中で、夫に従属することを強いられていました。女性にとっては、現在の私たちからは想像もできない不自由な世の中であったわけです。そういう中にあって、らいてうは世間の古いしきたりと制度に反逆し、自由人として生きようとしました。その根本にあったのが、霊なる自己の自覚であったのです。

ミリからの贈り物(3)

2005年03月11日 | 最近読んだ本や雑誌から
ミリさんは1992年生まれで、現在13才です。

ミリさんの言葉をいくつか紹介しましょう。

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嬉しい事もいっぱい、
悲しい事もいっぱい、
いろいろ経験出来たら、
それは、とても良い人生なんだよ。
両方から、
いろいろな事を学べるから。(6頁)

人間は自由だから、
自分の好きな仕事をやっていくと、
楽で、まっすぐな道が開けるよ。
だけど嫌いな仕事をやっていると、
まっすぐした道が迷路みたいになって
すっごく、きつくなり笑わなくなるよ。
そして、嫌いな事をやっていると心が狭くなり
それがまわりに反応するよ。
いじわるになったりして…
そうすると、人生がうまくいかなくなり、
苦しくなっていくよ。(7頁)

本当の自分自身を思い出したらいいよ。
そうすることで、
自分の心が助かるよ。(9頁)

何のために、人間は生まれてきたの?
それはね、
自然を学ぶ事と、
心の奥深くをよみがえらせるためだよ。
ただ、それだけの事だよ。(15頁)

何でも、自分のやりたい事は、
やれるかどうか、
一度は試してみたほうがいいよ。
あきらめずに、
何でも信じてやったら、
必ず、奇跡が起きるよ。(42頁)
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あまり書いていると、本を全部書き写して、著作権法に違反になりますので、このへんでやめておきます。

この本に興味のある方は、本屋さんで注文してみてください。

ISBN 4-924736-29-5
定価:1100円+税
中央文化出版 TEL 06-4802-4151
FAX 06-4802-4154


ミリからの贈り物(2)

2005年03月10日 | 最近読んだ本や雑誌から
お母さんの「まえがき」を紹介しましょう。

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現在小学四年生の娘が、五才位の時でした。

 悩んじゃいけないよ。
 苦しい時は、どうすればいいか考えればいいんだよ。
 悩んじゃうと、あー、もうだめだとか、がっくりきちゃうよ。
 だから、悩んじゃいけないよ。
 考えるようにすれば、自分の心が必ず助けてくれるよ。
 自分を信じる事が大事だよ。

こんな言葉を、当時仕事で悩んでいた私に語りかけました。
この本の言葉は、その後、現在まで娘が語った言葉の数々です。
最初はどうして五才の娘が、このような言葉を知っているのか、とても不思議でした。
しかし、日々、娘やまわりの子供達をみていると、もしかしたら、子供達は皆、こういう言葉を知っているのではないかなっと思うようになりました。
子供達の声に、ひとつひとつ耳をかたむけたら、私達を癒やしてくれる色々なメッセージが語られているような気がします。
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ミリからの贈り物(1)

2005年03月09日 | 最近読んだ本や雑誌から
2月20日にインディゴ・チルドレンについて書きました。インディゴのオーラが藍色だとすると、それとは違ったオーラの子供たちも生まれているそうです。それは虹色のオーラの子供たちで、彼らは「クリスタル・チルドレン」と呼ばれるのだそうです。

私はまだ読んでいませんが、『クリスタル・チルドレン』(ナチュラルスピリット社)という本もあります。

インディゴが改革的で、時には攻撃的になるのに対して、クリスタルは平和的で、許す愛を知っているのだそうです。

オーラが見えない私には、そのへんの区別はよくわかりませんが、近頃、とても霊性の高い子供が生まれているということは、事実だろうと思います。

最近、そういう子供さんが書いた本を入手しました。とても子供とは思えない英知にあふれた内容で、感心しました。それは、「みどりかわみり」と「みどりかわきよみ」の共著で『ミリからの贈り物』(中央文化出版)という絵本です。

文章の著者はミリさんという子供で、それにお母さんがとてもすてきな絵をつけています。ミリさんもきよみさんもペンネームです。

遺伝子と因縁因果(6)

2005年03月07日 | Weblog
仏教辞典によれば、業には3種類あります。

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行為のあり方により、身体にかかわる行為を「身業」、言語にかかわる行為を「口業」または「語業」、意思にかかわる行為を「意業」といって三業に区別される。
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業といいますと、過去世の「因」として理解されることが多いような気がしますが、実は、三業は「縁」としても作用します。過去世の三業が因となり、今生の三業が縁となり、因縁が和合して、そこに果が生ずると考えられます。そして、今生の業は、また来世の因につながっていきます。

この三業は、いずれも人間の行為として、人間の選択可能性の領域、つまり自由意志の領域に属しています。縁としての三業は、自分である程度選ぶことができるものです。

人間は過去世の業によって運命の素因は定まっているが、その素因をどのように発現させるかは、その人がどのような縁を選ぶか、によって変えられるということになります。つまり、運命は大枠では定まっていますが、心の持ち方を変え、三業を変えることによって、運命はある程度変えられるのです。

人間は、過去世の業に100%縛られた存在ではなく、業をもとにしながら、新たな人生を展開させることが可能な存在なのです。そこに、人類すべてが苦悩から脱却し、救済に到達することができる可能性があるわけです。

業と縁の関係は、遺伝子と、それを発現させる環境的刺激の関係と同じです。

肉体的遺伝子の発現のしかたを左右するのは、物理的、化学的、精神的の3つの刺激でした。霊的遺伝子である業の発現を左右する縁も3種類あります。これもよく似た構造です。

しかし、三業を物理的、化学的、精神的の三つの刺激と同一と考えることはできません。身業は、肉体的行為として、当然、物理的、化学的刺激を生み出します。たとえば、肉を食べれば、それなりの化学的変化が体内に生じます。しかし、仏教の三業では、いずれもそこに人間の意志、心の作用を認めています。心の作用が、身体的行為、言語的行為(ことば)、想念として現われます。仏教は精神的作用を最大限に重視しているということになります。

村上先生は、遺伝子の中にはいまだ発現していないよい遺伝子もたくさんあるはずで、環境を変えれば、それらの遺伝子がオンになる可能性を指摘しています。その中で、今までの科学で無視されてきたのが、精神的刺激の重要性です。

ご存じのように、仏教は「八正道」によって、人間の三業を正しいものに調整し、悟りを目指す道です。人間はたしかに過去世の悪業も背負ってはいますが、本来、仏性、神性であるので、素晴らしい愛、英知、能力もまた霊的遺伝子として持っていて、それを正しい行為、言葉、思念によって発現させることが可能だ、と考えているわけです。

現代科学と仏教、広くは宗教の領域は、接近しつつあるようです。

思いもかけぬ長い考察になってしまいましたが、「遺伝子と因縁因果」はこれで終わりたいと思います。

キリストの再臨(2004年10月)

2005年03月06日 | バックナンバー
琵琶湖マラソンでデリマ選手が登場したのにちなんで――

 数々の感動を残してアテネ・オリンピックが終了した。筆者がとくに印象に残ったのは、世界二〇二の国と地域が国旗を先頭に入場した入場式の光景であった。大国も小国も、肌の色や文化や宗教などのあらゆる違いを超えて、ともに一堂に会する姿は、未来の平和世界のあり方を先取りしているかのように見えた。

 しかし、ドーピングなど、フェアプレイの精神に反する不祥事が起こったことは残念であった。とくに最終日の男子マラソンで、先頭を走っていたブラジルのデリマ選手が、観客席から飛び出してきた男に妨害された事件には、世界中の視聴者が驚いた。

 この闖入者はアイルランド人の元司祭だということであるが、彼が背負っていたプラカードには、「イスラエルに関する予言の成就を聖書は語っている。再臨は近い」と書かれていた。

 聖書には黙示書と呼ばれる文書が含まれている。旧約聖書のダニエル書や新約聖書のヨハネ黙示録などがそうである。黙示(アポカリュプス) とはギリシャ語で「開示、啓示」という意味で、これらの文書は神の神秘、とくに未来の世界の運命を啓示するとされている。それらをつなぎ合わせて読むと、終末には、世界に離散していたイスラエル民族が国を再興し、その後、大戦争が起こり、メシア(イエス・キリスト)が再臨する、という解釈も可能である。キリスト教徒の中にはこういう予言を信じ、イスラエル建国を予言成就の第一段階と見なしている人々もいる。闖入者はこの予言を宣伝したかったのであろう。

 このような人々はキリスト教シオニストと呼ばれるほど、イスラエルに肩入れしている。彼らはとくにアメリカにおいて強い政治的影響力を行使し、アメリカがパレスチナ問題で公正な仲裁をすることを妨げている。

 この予言にしたがえば、イスラエルがパレスチナ人の土地を奪い、彼らを難民にしたのも神の意志ということになる。しかし、土地をめぐって争いあい殺しあうことが、神の心に叶うことであろうか。神とは愛のはずである。

 さらに予言が正しければ、大戦争のあとでなければ、キリストの再臨が起こらないことになる。そのため彼らの中には、核戦争が起こることを待望する人びとさえいるという。常識では理解できない考え方である。

 キリストの再臨とは、イエスという二千年前の人物が再び現われることではない。人類すべての心の中に愛、平和、真理がよみがえることである。大戦争が起こってからメシアが出現するのでは遅い。大戦争を防ぐために、世界平和の祈りによって、人類一人ひとりが小メシアとならなければならないのである

遺伝子と因縁因果(5)

2005年03月04日 | Weblog
さて、仏教的な因縁因果論では、人間の運命を過去世の「業(カルマ)」によって説明します。

カルマとは「作用」「行為」といういう意味のサンスクリット語ですが、やはり仏教辞典によると、この語は、

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輪廻転生をあらしめる一種の力として、前々から存在して働く潜在的な「行為の余力」を積極的に示すようになった。
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といいます。

これによりますと、業は「行為」に伴って生まれる一種のエネルギーで、それが輪廻転生の因になるということです。

人間が生まれる環境、たとえば性別、時代、地域、親、体質、容貌、才能などの環境素因は、生まれたときに決まっていて、自分ではどうにも変更できないものです。これは、業、つまり過去世の「因」によって定まると考えられます(もちろん、霊的に見ると、そこには生まれる前の自分の意志も関係してるわけですが)。

生まれながらに自分に与えられた素因は、その人の一生を大きく左右します。姓名判断とか占星術とか四柱推命学とか手相見などのような運命学は、その人の一生を大まかなところで推定できるわけですが、それは過去の原因から未来の結果を予測していることになります。

業は、その人の一生の運命を定める、いわば霊的遺伝子と考えることができます。しかし、人間の運命は、業によって完全に支配されているわけではありません。

肉体的遺伝子でさえ、外的条件の違いによって作用のしかたが大きく変化します。霊的遺伝子である業も同じではないでしょうか。業もまた、環境、すなわち縁に出合うことによって、はじめて現実化するからです。

そうすると、いわゆる因縁因果を、機械的な原因結果論と考えるのは単純すぎるということになります。人生における縁はまことに複雑多岐で、どのような縁に出合うかによって、果がまったく異なったものになりうるからです。たとえ過去世で悪因を作ったとしても、悪縁を作らなければ、それは悪果として現われない、ということも可能なはずです。それは、ガン遺伝子を持っていても、ガンにならないですむのと同じことです。因縁因果とは、運命は決まっていて変えようがない、という宿命論ではないということになります。

遺伝子の場合、遺伝子を発現させる外的刺激は物理的、化学的、精神的の3種類に分けられますが、霊的遺伝子(業)の場合、縁(外的条件)について、物理的と化学的はまとめて物質的と考えることができます。物質的な環境、たとえば、食べ物、運動、住居、居住地などによって、外的条件が変わり、果の現われ方が変化すると考えられます。

そして何よりも、精神的条件が果の現われ方に大きな影響を及ぼします。

アインシュタイン(2005年2月)

2005年03月02日 | バックナンバー
 今年二〇〇五年は、アインシュタインが特殊相対性理論を発表してから百年目に当たる。E=mc2という公式で知られるこの理論は、質量がエネルギーに変換されることを述べている。アインシュタインは当初、この現象は原子核の放射性崩壊のような微少なレベルでのみ起こりうると考えていたが、やがて彼の理論を実用化する形で、原爆や原子力発電所が造られるようになった。二〇世紀は核エネルギーの時代となった。

 原爆開発のきっかけを作ったのもアインシュタイン自身であった。一九三九年八月、彼は数名の科学者たちの代表として、アメリカ大統領ルーズベルトに原爆の製造を進言した。ドイツ系ユダヤ人である彼は、ナチス・ドイツを逃れてアメリカに移住していたが、ユダヤ人迫害を進めるドイツが、原爆開発に着手したとの情報に接し、強い危機感をいだいたのである。

 一九四五年に原爆が完成されたときには、ドイツはすでに降伏していた。日本の敗戦も間近と見られていた。もはや戦争で原爆を使用する必要性はなかった。しかし、同年八月、広島と長崎に原爆が投下され、数十万人の一般市民が一瞬のうちに殺害された。彼の個人的責任ではないとはいえ、一九二二年に訪日し、親日家であったアインシュタインにとっては、痛恨の事態であった。

 元来、平和主義者であったアインシュタインは戦後、いっそう平和運動に力を入れるようになった。彼の目標は核兵器の廃絶と世界連邦の樹立であった。一九五四年、ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験に危機感を深め、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに「ラッセル=アインシュタイン宣言」という平和宣言を出した。この宣言から、パグウォッシュ会議という科学者の平和会議が生まれ、湯川秀樹博士もその一員になった。アインシュタインは人類の行く末を憂慮しつつ、五五年に死去した。

 世界には今なお、アメリカ、ロシア、中国など、核兵器を保有している国がいくつかある。北朝鮮の核兵器開発疑惑、さらには実戦で使用可能な小型核兵器を開発しようとするアメリカの計画など、人類はいまだ核兵器と手を切ることができないでいる。核兵器を廃絶し、戦争のない世界を実現するというアインシュタインの理想を、人類はもう一度真剣に思い起こさなければならない。

 そのためには、原爆の最初の被爆国である日本が、アインシュタインの遺志を、「世界人類が平和でありますように」という祈りのもとに世界に訴えかけていく権利と責任がある。今年は、相対性理論百周年、アインシュタイン死後五〇周年であるばかりではなく、原爆投下六〇周年という節目の年にも当たる。

遺伝子と因縁因果(4)

2005年03月01日 | Weblog
しかし、生命現象になると、このような単純な因果関係は成立しません。そこには無数の条件がかかわってくるからです。

たとえば植物の種は原因で、実は結果と考えることができます。しかし、水や温度や肥料や土壌や日照などの様々な条件がととのわないと、種は実になりません。同じ遺伝子を持った種でも、栽培条件が違うと、まったく異なった実をつけます。私の家の庭ではごく貧弱なトマトしかならないのに、龍村仁監督の『ガイア・シンフォニー』第1番で紹介されている野澤重雄さんの巨大トマトでは、数万個の実をつけます。

別の例では、ウィルスはたしかに病気の原因です。しかし、インフルエンザが大流行していて、明らかにウィルスにさらされているにもかかわらず、インフルエンザにかからない人もいます。かからない人は、かかる人とは異なった条件(体質、食事、運動、睡眠、ストレス、家族、住居など)を持っているからです。

近代西欧医学は、物理学と化学の世界で成功した機械論的因果論に影響され、それをパラダイムにして成立しました。西欧医学は細菌やウィルスなどの原因が特定できる病気には一時的には見事な成功を収めましたが、それ以外の病気にはあまり有効ではありません。生命現象が複雑な条件に媒介されて出現する以上、それは当然のことなのです。

遺伝子は生命体の基本的情報で、生命現象の基本的原因、いわば原形と考えることができるでしょう。仏教辞典の用語を使うと、遺伝子は原因(直接原因)、環境は条件(間接原因、縁)に相当します。しかし、その原因が結果となって現われるためには、無数の条件がかかわってくることは、村上先生をはじめとして、現代の遺伝子研究が明らかにしつつあることです。

遺伝子決定論というのは、本来、物理や化学の世界にしか妥当しない、条件数がきわめて少ない場合の単純な因果論を、生命の世界にも当てはめた、誤った考え方であったわけです。