平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

世界宗教者平和会議

2006年09月30日 | Weblog
少し前の記事になりますが、毎日新聞より――

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記者の目:世界宗教者平和会議 丹野恒一(大阪学芸部)

 9・11米同時多発テロ以降、最大規模の宗教者会議--。こう位置付けられた第8回世界宗教者平和会議(WCRP)世界大会が8月下旬、京都市で開かれた。期間中、海外の参加者が「ヒロシマ、ナガサキの被爆を経験した日本の宗教者は、平和を追求するうえで特別な役割を果たす」と発言するのを何度も聞いた。しかし、私にはホスト国へのリップサービスにしか聞こえなかった。海外の宗教者が「今、そこにある対立、暴力」に向き合おうとしているのに対し、日本の多くの宗教者は過去の平和の誓いさえ忘れてしまったように感じたからだ。

 大会前、日本のある関係者が私にこう耳打ちをした。「正直言って、議論への積極的な関与は難しい」。耳を疑う私に、「命の危険と隣り合わせの国から来る宗教指導者が多い中で、平和に慣れきってしまった日本人が議論をリードするのは無理だ」と、彼は説明した。会議が始まる前から既に腰が引けていたのだ。

 開会式には、ホスト国として天台宗の渡辺恵進・座主をはじめ伝統教団や新宗教のトップが数多く出席した。しかし、彼らはまるで「ゲスト」のようで、実際の会議では一部が議事進行の補佐役を務めた程度。WCRP国際委員会が地域紛争の解決に向けて、イラクや中東の宗教指導者らによる秘密会合を果敢に仕掛けたのとはあまりにも対照的だった。

 「出席者の身に危険が及びかねない」「率直な議論のため」と、約65の会議・会合のうち50以上が非公開だった影響もあるが、日本の存在感は最後まで希薄なまま。天台宗の杉谷義純・元宗務総長が「仏の慈悲だの神の恵みだの言うが、結局は実践者として何をするのかが問われた」と語り、眞田芳憲・中央大教授(イスラム法)が「日本の宗教者は内向きで、海外の問題を解決するのは難しい」と話すのを聞くと、もどかしさが募った。

 海外の参加者は「危険な自国を離れ、安心して対話できる場がまず重要だ。その意味で日本は最高の国」としばしば口にした。確かに、今大会は当初、04年に米国開催の予定だったが、同時多発テロ後の世界情勢を勘案して「対立の当事国での開催は無理」と、日本開催に切り替わった経緯はある。しかし、日本の宗教者の及び腰を目の当たりにすると、「単なる場所貸しに過ぎないのか」とますます落胆は大きくなった。

 そもそもWCRPは、過去に国策を無批判に支持して戦争に加担した日本の宗教界が深い反省に立ち、主導的な役割を果たして設立された団体だったはずだ。1970年に同じ京都市で開催された第1回大会は「人類の奇跡」と呼ばれた。ベトナム戦争が議題になり、日本の宗教者は閉幕後、「平和使節団」を派遣して戦火の地で難民救済に着手した歴史もある。

 運営面、資金面で立正佼成会を中心とする新宗教教団が深く関与しているため、伝統教団が距離を置いている側面は否定できないし、WCRPだけが平和追求の場でもない。宗教をあくまで精神世界ととらえ、現実の政治と切り離せない和平交渉に宗教者がかかわることを敬遠する考えがあるのも事実だ。ただ、それが「行動しないこと」の言い訳に使われるのなら、私は言いたい。「その時々に人々の現実の『苦』に向き合ってこその宗教ではないのか」と。

 ウィリアム・ベンドレイ・WCRP事務総長は「宗教は、暴力や憎悪を扇動する急進主義者、政治家、メディアにハイジャックされ、悪用されている。宗教が素晴らしいからこそ、逆に人々は混乱してしまう」と繰り返した。宗教が対立をあおっているのではなく、求心力が強すぎることによる“副作用”だとの指摘である。裏返せば、その求心力の強さが紛争解決の大きな力にもなり得るが、日本の大半の宗教には今、そのような求心力はない。

 批判の矛先はもちろん宗教指導者だけに向けられるべきではない。

 宗派間の対立が激化するイラクのシーア、スンニ両派の指導者に同席を求め、取材した際、「インタビューを受ける前にまず聞きたい。日本人にとって宗教とは何なのか」と予想外の質問を受け、答えに窮した。限られた時間内のやりとりでは彼らの真意をつかみかねたが、日本人一般の宗教心の希薄さを見透かされた気がした。

 原爆の日やお盆があり、日本人が最も平和に関心を持ち、宗教心が高まる8月。その月に宗教都市・京都で開催された今回の世界大会は、皮肉にも日本の宗教の「現実」を露呈する場になった。誕生の地に帰ってきた今大会が、日本の宗教界にとって平和構築への努力を再開するきっかけになればと願う。

毎日新聞 2006年9月15日 0時21分
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http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060915k0000m070152000c.html

世界宗教者平和会議というのは、この記事にもありますように、「立正佼成会を中心とする新宗教教団」つまり「新宗連」が中心になって呼びかけ、設立された組織です。立正佼成会は法華系の教団ですが、創価学会とは違って、他宗を誹謗し攻撃する唯我独尊性はなく、他宗派との協調の中で世界平和を目指そうとする姿勢があります。

その第一回世界会議は1970年に京都で開催されましたが、今回はそれ以来の2度目の日本開催ということになりました。しかしながら、この新聞記事によると、会議では日本の宗教者は影が薄かったようです。

平和会議ということになると、どうしても平和を阻害している現実問題の解決に議論が集中しがちです。紛争、貧困、エイズなどの伝染病、差別、子供の虐待、環境破壊、地球温暖化・・・・問題は山積しています。海外の宗教者はそういう現実問題に立ち向かい、それなりの実践活動をしていますが、日本の宗教者は一般的にそういう面で消極的です。議論に加わることさえできないでしょう。

毎日新聞の記者は「その時々に人々の現実の『苦』に向き合ってこその宗教ではないのか」と問いかけています。

私も各種の宗教者平和会議に出席したことがありますが、この問いかけは昔からなされていて、「宗教者は祈ってばかりいて何になる。具体的行動を示せ」とよく言われてきました。もっともらしく聞こえるのですが、本当にそうなのでしょうか? 
たとえば貧困の問題だけでも、根本的に解決するのは困難をきわめます。貧困は究極的には現在のグローバルな資本主義体制の矛盾が、弱者に押しつけられたところに出現している現象です。それは基本的には政治・経済の問題であって、宗教の問題ではありません。宗教者が慈善事業として貧しい人々に食料や衣類やお金を配ることは、一時的に痛みを和らげる効果はありますが、問題の根本的解決ではありません。

よく、魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えろ、というたとえが使われます。一時的な慈善事業ではなく、貧しい人々が自立できるような教育や技能を施すべきだ、というのです。これもある程度は事実なのですが、現代ではまさに魚そのものが枯渇しているという大きな問題(グローバルな経済構造)があり、このたとえも部分的にしか有効でないのです。個々人の教育や技能をいくら改善しても、グローバルな資本の移動の中で、経済的弱小者はなすすべもなく翻弄されます。

そういう中で宗教者にできることは限られています。もちろんそのことは「行動しないこと」の言い訳に使われてはなりません。大切なことは、宗教者に何ができ、何ができないかを見きわめ、できることを全力をもって実践することです。

形の世界は心・意識が生みなしているものです。様々な現実問題も究極的には人間の自己中心性や自我欲望や二元対立意識から生み出されているわけです。そういう人類の心のレベルが飛躍的に進歩しなければ、苦悩はいつまでたっても形を変えて人類につきまとってくるだけです。宗教者の使命はあくまでも心の問題を根本的に解決することにあるはずです。

ところが、現在では、その宗教が紛争の原因となっているのですから、情けないことです。宗教が宗教どうしの対立をやめ、異宗教への憎悪や敵愾心を煽り立てることをやめ、ともに平和のために協力するだけでも、どれほど世界が平和になるかはかりしれません。それこそ宗教者としてまず第一にできることですし、しなければならないことであるはずです。

実は、五井先生は1970年の第一回世界宗教者平和会議の日本代表の一人でしたが、その場に参加して、議論が貧困や社会矛盾の解決という目先の政治や経済の問題にばかり集中し、心の問題がすっかり無視されていたことに、いったいこれが宗教者の会議なのだろうか、とあきれ、それ以降、この会議に参加しなくなりました。世界宗教者平和会議はそれ以降も同じような議論を重ねつづけているようですが、それによって世界平和に向かってどのような成果が生まれたのでしょうか。

とくに日本の宗教者はこの会議でどのような役割を演ずるつもりなのでしょうか。「ヒロシマ、ナガサキの被爆を経験した日本の宗教者は、平和を追求するうえで特別な役割を果たす」という期待を寄せられた日本の宗教者は、それにどのように応答するのでしょうか。新聞記事からは、日本の宗教代表者たちは何ら明確なメッセージを発することができなかったことがうかがわれます。残念なことです。

私ならこう答えます。「私たち日本人は、一瞬にして数十万人の民間人を殺された原爆に対しても、決して加害者たるアメリカに憎悪と復讐の念を向けることなく、その惨禍を、人類の恒久平和を祈る契機に変えた。憎悪と復讐の怨念の連鎖を断つことこそ平和への第一歩である。今日の世界の悲惨の原因の一つは宗教の不寛容にある。しかし、日本は寛容の精神で異なった宗教の共存を実現し、宗教間の闘争を乗り越えた。私たち日本の宗教者は、宗教宗派の違いを超えて、ともに世界平和を祈っている。どうぞ世界の宗教者もこの世界平和の祈りに加わってほしい」

そう言えるためには、まず日本の宗教者が宗教宗派を超えた世界平和の祈りを実践し、その模範を示す必要があります。宗教者の平和会議は、話し合い、議論、討論から一歩進み、ともに祈りあう場へと次元上昇しなければならないと思います。来年5月には富士朝霧高原で、そのような行事が開かれようとしています。

丹波哲郎さん、「大霊界」へ移行

2006年09月26日 | Weblog
映画俳優の丹波哲郎さんが9月24日、亡くなりました。享年84歳。

丹波さんは自分を「霊界の宣伝マン」と自称し、「大霊界」なる映画を作るとともに、死後世界を紹介する数多くの本を書きました。

丹波さん自身には霊能はなく、自分で霊界を見たわけではありませんが、スウェデンボルグや臨死体験の本をはじめ、数多くの関係書を読み、それらの情報を寄せ集めて、霊界の様子を紹介しました。いわば「受け売り」です。自分の書棚には霊界関係の本しかない、というから徹底しています。

丹波さんの本を読んで、どの程度の人が霊界の存在を確信するようになったかはわかりませんが、人間が霊的存在であることを知らせる、一つの啓蒙的な役割を演じた方でした。憎めないユニークなキャラクターでした。

丹波さんの霊界情報はここで読めます。

霊界(幽界)は自分の想念が作る世界ですから、丹波さんは今は霊界の4畳半にお住まいのことでしょう。

人身事故、自殺戦争、消費者金融

2006年09月19日 | Weblog
私は首都圏に住んでいますが、電車に乗っていると、「人身事故の影響でただいま○○線に遅れが出ています」というアナウンスを時々耳にします。多いときは週に数回あります。自分の利用している線でもそういうことが起こり、帰宅が大幅に遅れることがあります。

この人身事故というのは、たいていが電車への飛び込み自殺です。

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2002年以降、日本では年間3万2千人以上が自殺しており、人口に占める自殺率では先進国G7諸国中で1位、OECD加盟国では2位(1位はハンガリー)となっている。1日に平均88人、16分に1人が自殺している計算になる。2003年の年間自殺者数は3万4千人に達し、統計のある1978年以降で最大となった。人口10万人あたりの自殺者数を表す自殺率も27.0で過去最大であった。

国別の自殺率上位10位中、日本以外はすべて東欧・旧ソ連の旧社会主義国であり、旧西側諸国の間では日本が1位である。近年の日本では、フリーター、ニートに象徴される経済的な二極化の傾向が顕著である。

2004年の自殺者数は、警察庁の調べで32,325人を数えた。自殺率は25.3で、G8ではロシアに次いで2位であった。戦後最悪といわれる失業率と倒産件数を背景に自殺者が激増した。過去最多の2003年に比べれば2千人余の減少であるが、7年連続で3万人台が続いている。1日平均89人が自殺する現状である。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA#.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E7.9A.84.E3.81.AB.E3.81.BF.E3.81.A6.E3.82.82.E5.A4.9A.E3.81.84.E8.87.AA.E6.AE.BA.E8.80.85.E6.95.B0

世界的に見ても非常に自殺率の高い日本は、決して幸せな社会ではないようです。

日本の交通事故による死者は1年間に1万人前後ですから、その3倍にあたる人々が毎年自殺しているわけです。イラクで死んだ米兵はまだ3000人弱です。日本では1年間にその10倍の人が自殺しています。しかも8年連続で3万人以上です。これは異常な事態で、政府、各政党、マスコミはなぜもっと騒がないのでしょうか? 1970年に交通事故で年間で1万6765人が死亡し、この数が日清戦争での日本の戦死者(2年間で1万7,282人)と近くなったので、「交通戦争」という言葉が生まれました。今は「自殺戦争」という状況です。

自殺の原因のかなりの部分が経済問題ですが、その中には消費者金融の利用者もいます。昔はサラ金と言いましたが、名前が変わっても、要するに高利貸しであることにかわりはありません。

消費者金融の利用者が自殺すると、生命保険会社から金融会社に保険金が支払われます。

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 消費者金融10社が借り手全員に生命保険を掛けていた問題で、死因が判明しないまま保険金が支払われていたケースが05年度、大手5社で支払い総件数の半数以上の約2万件に上ることが分かった。遺族に死因を確認せず、業者が取得した住民票の死亡記載のみで保険がおりる場合が大半で、自殺も相当数含まれるとみられる。命を「担保」にした安易な債権回収を大手の生命保険会社が支えている実態が初めてデータで裏付けられ、生保の姿勢が問われるのは必至だ。
 金融庁などによると、消費者金融大手5社が05年度に生命保険の支払いを受けた3万9880件の中で、遺族に請求して入手した死亡診断書や死体検案書で死因や死亡状況が判明しているのは1万9025件。うち自殺は3649件を占める。一方、全体の5割超の2万855件は死因が不明だった。死因の判明した件数のうち自殺の割合は19.2%に達することになる。
 この生命保険は「消費者信用団体生命保険」(団信)と呼ばれ、借り手を被保険者として消費者金融が掛け金を支払い、死亡時に残った債権を保険で回収する。一般の生命保険の場合、保険会社は死亡確認のため、遺族に死亡診断書などの提出を求める厳格な運用をしている。
 しかし、団信では契約後1~2年以上たったり、債権額が少ないケースでは業者が市町村役場に請求した住民票で死亡の事実を確認するだけで保険を請求できる。一部の大手消費者金融は毎日新聞のこれまでの取材に「遺族に負担をかけないための保険であり、死亡診断書などで遺族から死亡確認するのが原則」と答えていた。
 大手5社はいずれも大手生保から短期・長期の巨額融資を受けている。生命保険協会は「死亡を確認する方法まで協会として承知しておらず、各社の問題だと考える」と説明している。【多重債務取材班】
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060914-00000007-mai-bus_all

私も住宅ローンを借りるとき、「団信」に加入させられました。私が何らかの原因(病気、事故など)でローンを完済しないうちに死ぬと、残った借金は団信から返済され、残された家族は担保の住宅を手放す必要がなくなります。

団信は本来、ローンの借り手とその家族を守るシステムであるはずなのに、消費者金融は、自分たちの債権を確保するためにこれを使用していたわけです。つまり、借り手が借金返済ができなくなれば、消費者金融は借り手を自殺させれば、元本が返ってくるわけです。消費者金融の取り立てが時には脅迫まがいになり、借り手を精神的に追いつめ、自殺にまで追い込むのは、背後にそういうシステムがあったからなのでしょう。そのような自殺は、自殺ではなく他殺と言うべきではないでしょうか? 大手生命保険会社は消費者金融に融資し、しかも団信によるそのような自殺=他殺システムを支えているわけです。自殺者は消費者金融と大手生命保険会社によって殺されたといっても過言ではありません。恐ろしいことです。

しかも、自殺者に関して消費者金融に対して支払われるお金は、結局、その他の一般の団信加入者の掛け金によってまかなわれているわけです。一般の団信加入者は消費者金融のために高い掛け金を取られていることになります。つまり、消費者金融を利用していない人々も、消費者金融によって搾取されているわけです。

このようなシステムは改められなければなりません。そのためには、「消費者金融の借り手が自殺した場合、団信の保険金は消費者金融に与えない」という法律を作らなければなりません。そうすれば、消費者金融は借り手を脅迫するような無理な取り立てをやめ、日本の自殺者も大幅に減るのではないでしょうか。




ローマ法王の発言

2006年09月18日 | Weblog
ローマ法王ベネディクト16世の発言がイスラム世界で反発を呼んでいます。

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ローマ法王「聖戦思想」批判で釈明

 【ベルリン=黒沢潤】ローマ法王ベネディクト16世が神学講義でイスラム教の「ジハード(聖戦)思想」を批判したとして、イスラム諸国に反発が広がっている。バチカン(ローマ法王庁)は16日、「発言がイスラム教徒を攻撃するように聞こえたことを非常に遺憾に思っている」とする法王の釈明を出したが、事態が沈静化するか不透明だ。

 法王は12日、ドイツ南部レーゲンスブルク大学で講義をした際、「(預言者)ムハンマドがもたらしたのは邪悪と残酷さだけだ」とする中世ビザンチン帝国皇帝の言葉を引用、「暴力は神の本質に反する」と語った。



 ローマ法王が神学講義で語った問題の部分(抜粋)は以下の通り。

 私は以前、ビザンチン帝国のマヌエル2世パレオロゴス皇帝とペルシャ人が1391年に交わした対話に関する書籍を読んだ。皇帝は対話の中でジハード(聖戦)について言及した。宗教と暴力の関係について皇帝が語った内容はこうだ。「ムハンマドが新しくもたらしたものを私に見せよ。邪悪と残酷さであり、彼が教えた信条を剣で広めたということだ」

 皇帝はこう述べた後、なぜ暴力を通じて信条を広めることが非理性的であるかを説明した。暴力は神の本質に反するものである。皇帝はこうも語った。「神は血を喜ばないし、非理性的な行動は神の本質に反する。誰かに信条を伝えようとする者は暴力や脅威を使わずに、的確に理を説かなければならない。理を説くには武器は必要ない」

 書籍の編集者はこう語った。「ギリシャ哲学の素養がある皇帝は、理性に基づかずに行動することを神の本質に反すると知っている。だがイスラムの教えでは、神は絶対的に超越した存在だ。その意思はわれわれが理解できるものではない」

 今回の講義は(他宗教への)批判ではない。理性という概念を考えるためのものだ。そうすることで今、必要とされている宗教間の真の対話をすることが可能になる。(ベルリン 黒沢潤)
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http://www.sankei.co.jp/news/060916/kok013.htm

「神は血を喜ばないし、非理性的な行動は神の本質に反する。誰かに信条を伝えようとする者は暴力や脅威を使わずに、的確に理を説かなければならない。理を説くには武器は必要ない」――これは真理です。イスラム教徒はこの言葉を否定するのでしょうか? もしイスラム教徒が「信条を剣で広め」ることを正当化するのであれば、そのような宗教観念はオウム真理教とたいしてかわりありません。

ベネディクト16世が批判されるべきなのは、キリスト教もまた十字軍や異端審問という「信条を剣で広め」た過去があったことを、自己批判しなかった点です。イスラム教の中東諸国はキリスト教ヨーロッパ人の「暴力」によって植民地化され、石油という富が搾取されてきました。ヨーロッパ人の反ユダヤ主義がユダヤ人をパレスチナに追いやり、イスラエルという国の建国を助け、その地にいたパレスチナ人を難民にしました。キリスト教ヨーロッパが行なってきた諸々の罪を反省し、それを償うことなく、イスラム教徒の聖戦思想だけを批判してみても、イスラム教徒は納得できないでしょう。ベネディクト16世は、はからずもキリスト教ヨーロッパ人の心の中にぬきがたく潜んでいるイスラム教徒に対する敵意と優越感を漏らしてしまいました。

前法王のヨハネ・パウロ2世はキリスト教の過ちを率直に謝罪し、神に赦しを請いました。そのような謙虚な姿勢がなければ、宗教間の対話と協力は困難でしょう。



オウム真理教事件

2006年09月16日 | Weblog
麻原彰晃こと松本智津夫被告の死刑が確定しました。オウム真理教が行なった犯罪の全貌はいまだ解明されていませんが、松本被告が裁判を拒絶している状態なので、これ以上裁判を引きのばしても、何も出てこないでしょう。

オウム真理教の事件は、宗教の思い込みがいかに恐ろしい事態を引き起こすか、ということを示しています。麻原の出発点は、ヨガや密教を自分なりにアレンジしたオカルト的な宗教でした。麻原の教えに参加したのは、「空中浮揚」などの神秘力に惹かれた若者たちでした。麻原は「グル」として絶対的な信仰の対象になりました。そのグルが命じた殺人を、弟子たちは神の命令として実行してしまいました。地下鉄サリン事件が起こされたのは、1995年3月20日のことです。

オウム真理教事件から、人類はいくつかの教訓を学び取ることができるでしょう。

(1)超能力、神秘力、霊能
 宗教とは単なる理論や哲学や倫理や儀式や葬式ではありません。宗教は、神や仏、その他の名称もあるかもしれませんが、物質的・肉体的レベルを超えた、何らかの高次の領域や次元と自己との関係の解明であり、そのための実践です。宗教的実践によってそういう領域と関係に入ると、多かれ少なかれ霊的現象が伴います。しかし、超能力、神秘力、霊能が自己目的化すると、それは宗教の本道からの逸脱になります。なぜなら、宗教が最終的に目指すものは、自我欲望の消滅であるのに対し、超能力、神秘力、霊能――他人にはない特別な力――の獲得は、まさに自我欲望の肥大化につながりかねないからです。超能力、神秘力、霊能をうたい文句にしたオウム真理教は、その出発点において道を誤り、その道は自他破滅の結果へと至りついたのです。心すべきは、宗教に何を求めるのかという根本姿勢であります。

(2)反知性主義
 宗教には科学の常識を超えた部分があります。たとえば、人間は死ねば存在しなくなる、というのが今日の常識であるとすれば、人間は死んでも霊的次元に生きつづける、というのは非・常識です。病気は薬や手術によって治る、というのが今日の常識であれば、祈りによっても病気が治る、というのは非・常識です。

 しかし、常識というのは、その時代の一般的な通念であるにすぎず、真理であるかどうかはわかりません。たとえば、中世においては地球はたいらで宇宙の中心にある、というのが常識でしたが、今日では、地球は球体で、太陽のまわりを回っている、というのが常識です。常識は必ずしも「常」なる知識ではありません。

 宗教には常識を逸脱する部分がありますが、かといって、宗教の主張をそのまま鵜呑みにして、反知性主義におちいるとしたら危険です。オウム信者は、殺人は相手のカルマを消滅させてやることだ、という教義を信じてサリン事件を起こしました。どんな教義であれ、自分の知性や良心に照らしておかしいものは拒絶する自由を人間は持っています。そうでなければ、人間はグルや教義に縛られ、自分の頭で思考できない奴隷になってしまいます。

(3)グル主義
 宗教の世界には偉大な先達がいます。仏陀、イエス、モハメッド・・・・。今日でも世界中の多くの人々は彼らを偉大な教祖としてあがめています。彼らはすでに肉体界に存在していませんが、彼らが残した言葉(とされるもの)は、今なお聖典として人々に大きな影響を及ぼしています。聖典にはもちろん素晴らしい教えもあるのですが、逆に今日の人類の心を縛っている部分もあります。大昔の彼らの言葉を絶対化するところには、自由ではなく不自由が生まれ、その行き着く先は、聖典の一字一画でも守ろうとする原理主義です。

 ましてや、そのような偉大な教祖が現に生きていたならば、彼らの言葉は弟子たちに絶対的な権威を持つことでしょう。麻原彰晃はもちろんそれほどの偉大な宗教家ではありませんでしたが、彼の弟子たちは彼を偉大なグルと受け取り、彼に絶対服従してしまったのです。

 偉大な宗教者に接しても、自分の自由を全面的に譲り渡すことは誤りです。もし絶対服従を要求をする宗教者がいたとすれば、それだけでその人物は本ものではない、ということがわかります。なぜなら、真理は人を自由ならしめるものであって、人を服従せしめるものではないからです。

(4)出家主義
 オウムは「最終解脱」を実現するために、出家主義を取りました。信者は、この世の仕事も財産もすべてなげうって(その財産はもちろん教団に寄付させるのです)、教団内での修行に明け暮れなければなりませんでした。仏教にしても、出発点はたしかに出家主義であり、今日でもその要素は残っています。しかし、専門的な僧侶しか悟れない、というのでは、一般大衆は永遠に救われません。その弊害を打破するために、法然・親鸞が在家主義の教え(易行道)を打ち出し、それによって救われの道が大きく拡大されました。今日の社会では、出家主義はごく一部の人にしか可能でありません。僧侶や牧師のような聖職者といっても、現実的には衣食住にお金がかかるわけで、信者の寄付や拠金によって生きているわけです。教団全体が出家主義になると、常に新しい出家信者からお金を巻き上げることが必要になります。これがオウムの堕落を引き起こした一つの原因です。

 今日の宗教は、現実生活と宗教生活を両立させる教えなければなりません。現実生活をないがしろにさせる宗教は、どこか無理があります。

オウム真理教でなくても、このような問題をかかえた宗教団体は現在でも存在するのではないでしょうか。

911から5年

2006年09月11日 | Weblog
911同時多発テロから5年がたちました。表面的に見たところ、この5年で世界の危機はいっこうに改善されていませんし、テロのマグマは依然としてくすぶっています。

アメリカの「テロとの戦い」は解決不可能な袋小路に迷い込んでいます。大量破壊兵器を持っていなかったイラクへの攻撃は、大義名分を失いました。イラクの内戦はアメリカを泥沼に引きずり込んでいます。アメリカの戦死者は2500人を超えました。アフガニスタンでさえ、タリバンの攻勢が伝えられています。

アメリカのやり方は、テロという表面に表われた病気を、病原菌と見なしたテロリストやテロ支援国家を壊滅することによって、根絶しようという発想です。しかし、病原菌に対して強力な薬剤を使えば使うほど、菌は耐性菌と化し、より毒性を増していくのと同じように、テロは潜在化し、いつかは爆発しようとします。現在はテロは一時的に抑え込まれているだけで、根本的に解決されたわけではありません。

アメリカがイスラム過激派のテロの標的とされたのは、アメリカの中東政策に問題があるからです。イスラエル支援のアメリカは、パレスチナ人の悲惨を放置してきました。イスラエル・パレスチナ問題の公正な解決なくして、アメリカはテロの危険からまぬがれることはできないでしょう。

2001年の9月11日は私にとっても忘れられない日です。その日はイスラエル女性の平和運動家ハギト・ラーナンさんの講演会がありました。その夜、講演会から帰宅して、NHKテレビのチャンネルをひねったところ、貿易センタービルの一つから煙が出ていました。そしてしばらくして、2機目の飛行機がビルに突入するのを見ました。

イスラエル・パレスチナ問題の講演を聞いた日に、この事件が起こったということは、私にはとても偶然とは思えませんでした。

ハギトさんの講演会の内容は、イスラエル・パレスチナの平和は両民族がともに平和の心に立ち返ることによって始まる、というものでした。そのために、彼女はイスラエル人とパレスチナ人の相互理解の交流をはかり、パレスチナの子供の負傷者に医療を提供する活動を行なっています。彼女は世界平和の祈りの熱烈な支持者であり、実行者でもあります。

戦争や闘争は決して永続的な平和を築くことはできません。どんなに迂遠に思われようと、平和は一人一人の心の中からしか生まれないのです。そのためには、人類一人ひとりが世界平和の祈りを祈り、いっさいの敵を見ない真の平和の心を確立しなければなりません。敵対する相互の勢力の間で、敵に対する恐怖心や闘争心が薄くなってくれば、お互いに譲り合って、問題を現実的に解決する叡智が生まれてきます。そうすれば、テロリストが生まれる圧力が減ります。それは、病原菌をたたくのではなく、体の生命力と免疫力を高め、病原菌が存在できないような体質に変えていくことに似ています。

祈りは波動であり、エネルギーです。祈りは人類の深層意識に働きかけ、人類の心を知らず知らずのうちに変えていきます。アメリカ人もイスラエル人もイスラム過激派も、いずれかならず、武力や暴力によっては平和は獲得されない、ということに気づく時が来ます。私たちはその時までひたすら世界平和の祈りを祈り続けるものです。

ハギトさんのホームページ

皇室の慶事

2006年09月06日 | Weblog
秋篠宮家に親王様が無事ご誕生とのことで、慶賀にたえません。

実は、私の娘が生まれるときにも、母親が前置胎盤になりました。しかし、どういうわけか、自然に胎盤が正常位置に直り、娘は自然分娩で生まれました。担当の産婦人科の先生のお力もあったと思いますが、どうも胎児が自分の力で直したようなのです(お腹の中で実に活発に動く子でした)。生命誕生の不思議さを感じました。紀子様は帝王切開ということでしたが、手術後の経過も良好なようで、一安心しております。

男子が誕生され、これで当分は皇室典範を改める必要がなくなり、日本の世論が皇室問題をめぐって分裂することは、しばらくの間はなくなりました。

今上陛下のあとは、皇太子殿下、秋篠宮様、新宮様と、男系男子が皇統を引き継ぐことになります。ただし、親王様が成人し、ご結婚されても、そこにまた男の子が生まれるという保証はどこにもありません。そのことを考えると、現在のように男系男子だけで皇統を受け継ぐということは、いつか行きづまりになる可能性があります。また何十年か後に女系天皇を認めるべきだ、という議論が出てくることでしょう。

しかし、私は皇室の将来に心配をしていません。私は、21世紀以降における天皇という制度において最も重要なのは、おそらく男系男子という血(遺伝子)の継承ではなく、霊系統の継承であると考えるからです。天皇とは、天の白い王、高級神霊の受け器であると思います。地球の次元が上昇し、人類の霊的意識が目ざめてくれば、誰がその時代の天皇であるか、ということがおのずとわかってくるでしょう。男子であろうと女子であろうと、男系であろうと女系であろうと、人々は、白光に光り輝くその高貴なるみたまを即座に天皇として認めざるをえなくなります。

しかし、そのような時代はまだしばらく先のことです。人々の霊性はまだ開いていません。そういう時代に女系天皇を認めることは、よけいな混乱を招き、いまだ時期尚早なのでしょう。そこで天は、男系男子の天皇後継者を与えてくださったのだと思います。

関連記事:紀子様ご懐妊に吉兆

日本沈没(2006年8月)

2006年09月02日 | バックナンバー
 『日本沈没』が映画化された。これは作家の小松左京氏の同名のSF小説の二度目の映画化である。最初は一九七三年であるから、それから三三年ぶりのリメイクということになる。

 筆者も若いころこの映画を見たが、日本の沈没の様子がかなりリアルに描かれていた。これは、数百万年、数千万年のタイムスケールで日本列島に起こる変動を、二年という短い期間に縮めて描いた事象であるという。映画には、地球物理学の専門家・竹内均東大教授も出演して、日本列島近辺の地殻構造について科学的に解説してくれた。プレート・テクトニクスという専門用語が一般に知られるようになったのも、そのころからではないかと思う。

 当時の日本は石油ショックの影響もあり、極度の物価高に見舞われ、戦後の高度経済成長にもようやくかげりが見え始めていた。日本人の多くは、日本の将来に漠然とした不安を感じ始めていた。そういう世相に合致したためでもあろうか、『日本沈没』は小説も映画もたいへんなヒット作になった。しかし、大部分の観客はこの映画を、想像力が描き出した、実際には起こりえない架空の出来事として観ていたと思う。

 しかしその後、阪神大震災が起こり、またスマトラ沖大地震・津波が起こり、日本沈没とまではいかなくとも、大きな自然災害が起こりうることが人々の意識にのぼってきた。地震学者は、関東地方や東海沖や南海沖で近い将来、巨大地震が起きる可能性を指摘している。原子力発電所、貯油タンク、新幹線、高速道路、ガラスを多用した高層ビル、自動車といったものに取り巻かれている日本の社会は、いったん大地震に見舞われれば、想像を絶する災害を被る可能性がある。

 今日の地震学では、地震は地殻プレートの動きや断層のずれなどで起こると考えられている。もちろん自然現象としてはそうである。しかし、人間の活動が自然界に大きな影響を与えていることも忘れてはならない。急速な温暖化は地球のバランスを崩している。大規模な自然破壊や核実験や戦争が地球に多大の悪影響を与えていることは言うまでもない。さらに、これはまだ今日の科学的常識には入っていないが、人間の想念は一種のエネルギーとして地球に影響を及ぼしている。その想念エネルギーは争いに満ちた不調和なものであるので、地球はそれによって地殻内部に不調和なエネルギーをため込んでおり、それが解放されるときに、地震が起こるとも考えられるのである。地震対策を進めることはもとより大切だが、それ以前に、人類が自然破壊をやめ、地球という生命の母に日々心から感謝を捧げることが、地震を小さくすることにつながるのである。