少し前の記事になりますが、毎日新聞より――
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記者の目:世界宗教者平和会議 丹野恒一(大阪学芸部)
9・11米同時多発テロ以降、最大規模の宗教者会議--。こう位置付けられた第8回世界宗教者平和会議(WCRP)世界大会が8月下旬、京都市で開かれた。期間中、海外の参加者が「ヒロシマ、ナガサキの被爆を経験した日本の宗教者は、平和を追求するうえで特別な役割を果たす」と発言するのを何度も聞いた。しかし、私にはホスト国へのリップサービスにしか聞こえなかった。海外の宗教者が「今、そこにある対立、暴力」に向き合おうとしているのに対し、日本の多くの宗教者は過去の平和の誓いさえ忘れてしまったように感じたからだ。
大会前、日本のある関係者が私にこう耳打ちをした。「正直言って、議論への積極的な関与は難しい」。耳を疑う私に、「命の危険と隣り合わせの国から来る宗教指導者が多い中で、平和に慣れきってしまった日本人が議論をリードするのは無理だ」と、彼は説明した。会議が始まる前から既に腰が引けていたのだ。
開会式には、ホスト国として天台宗の渡辺恵進・座主をはじめ伝統教団や新宗教のトップが数多く出席した。しかし、彼らはまるで「ゲスト」のようで、実際の会議では一部が議事進行の補佐役を務めた程度。WCRP国際委員会が地域紛争の解決に向けて、イラクや中東の宗教指導者らによる秘密会合を果敢に仕掛けたのとはあまりにも対照的だった。
「出席者の身に危険が及びかねない」「率直な議論のため」と、約65の会議・会合のうち50以上が非公開だった影響もあるが、日本の存在感は最後まで希薄なまま。天台宗の杉谷義純・元宗務総長が「仏の慈悲だの神の恵みだの言うが、結局は実践者として何をするのかが問われた」と語り、眞田芳憲・中央大教授(イスラム法)が「日本の宗教者は内向きで、海外の問題を解決するのは難しい」と話すのを聞くと、もどかしさが募った。
海外の参加者は「危険な自国を離れ、安心して対話できる場がまず重要だ。その意味で日本は最高の国」としばしば口にした。確かに、今大会は当初、04年に米国開催の予定だったが、同時多発テロ後の世界情勢を勘案して「対立の当事国での開催は無理」と、日本開催に切り替わった経緯はある。しかし、日本の宗教者の及び腰を目の当たりにすると、「単なる場所貸しに過ぎないのか」とますます落胆は大きくなった。
そもそもWCRPは、過去に国策を無批判に支持して戦争に加担した日本の宗教界が深い反省に立ち、主導的な役割を果たして設立された団体だったはずだ。1970年に同じ京都市で開催された第1回大会は「人類の奇跡」と呼ばれた。ベトナム戦争が議題になり、日本の宗教者は閉幕後、「平和使節団」を派遣して戦火の地で難民救済に着手した歴史もある。
運営面、資金面で立正佼成会を中心とする新宗教教団が深く関与しているため、伝統教団が距離を置いている側面は否定できないし、WCRPだけが平和追求の場でもない。宗教をあくまで精神世界ととらえ、現実の政治と切り離せない和平交渉に宗教者がかかわることを敬遠する考えがあるのも事実だ。ただ、それが「行動しないこと」の言い訳に使われるのなら、私は言いたい。「その時々に人々の現実の『苦』に向き合ってこその宗教ではないのか」と。
ウィリアム・ベンドレイ・WCRP事務総長は「宗教は、暴力や憎悪を扇動する急進主義者、政治家、メディアにハイジャックされ、悪用されている。宗教が素晴らしいからこそ、逆に人々は混乱してしまう」と繰り返した。宗教が対立をあおっているのではなく、求心力が強すぎることによる“副作用”だとの指摘である。裏返せば、その求心力の強さが紛争解決の大きな力にもなり得るが、日本の大半の宗教には今、そのような求心力はない。
批判の矛先はもちろん宗教指導者だけに向けられるべきではない。
宗派間の対立が激化するイラクのシーア、スンニ両派の指導者に同席を求め、取材した際、「インタビューを受ける前にまず聞きたい。日本人にとって宗教とは何なのか」と予想外の質問を受け、答えに窮した。限られた時間内のやりとりでは彼らの真意をつかみかねたが、日本人一般の宗教心の希薄さを見透かされた気がした。
原爆の日やお盆があり、日本人が最も平和に関心を持ち、宗教心が高まる8月。その月に宗教都市・京都で開催された今回の世界大会は、皮肉にも日本の宗教の「現実」を露呈する場になった。誕生の地に帰ってきた今大会が、日本の宗教界にとって平和構築への努力を再開するきっかけになればと願う。
毎日新聞 2006年9月15日 0時21分
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http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060915k0000m070152000c.html
世界宗教者平和会議というのは、この記事にもありますように、「立正佼成会を中心とする新宗教教団」つまり「新宗連」が中心になって呼びかけ、設立された組織です。立正佼成会は法華系の教団ですが、創価学会とは違って、他宗を誹謗し攻撃する唯我独尊性はなく、他宗派との協調の中で世界平和を目指そうとする姿勢があります。
その第一回世界会議は1970年に京都で開催されましたが、今回はそれ以来の2度目の日本開催ということになりました。しかしながら、この新聞記事によると、会議では日本の宗教者は影が薄かったようです。
平和会議ということになると、どうしても平和を阻害している現実問題の解決に議論が集中しがちです。紛争、貧困、エイズなどの伝染病、差別、子供の虐待、環境破壊、地球温暖化・・・・問題は山積しています。海外の宗教者はそういう現実問題に立ち向かい、それなりの実践活動をしていますが、日本の宗教者は一般的にそういう面で消極的です。議論に加わることさえできないでしょう。
毎日新聞の記者は「その時々に人々の現実の『苦』に向き合ってこその宗教ではないのか」と問いかけています。
私も各種の宗教者平和会議に出席したことがありますが、この問いかけは昔からなされていて、「宗教者は祈ってばかりいて何になる。具体的行動を示せ」とよく言われてきました。もっともらしく聞こえるのですが、本当にそうなのでしょうか?
たとえば貧困の問題だけでも、根本的に解決するのは困難をきわめます。貧困は究極的には現在のグローバルな資本主義体制の矛盾が、弱者に押しつけられたところに出現している現象です。それは基本的には政治・経済の問題であって、宗教の問題ではありません。宗教者が慈善事業として貧しい人々に食料や衣類やお金を配ることは、一時的に痛みを和らげる効果はありますが、問題の根本的解決ではありません。
よく、魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えろ、というたとえが使われます。一時的な慈善事業ではなく、貧しい人々が自立できるような教育や技能を施すべきだ、というのです。これもある程度は事実なのですが、現代ではまさに魚そのものが枯渇しているという大きな問題(グローバルな経済構造)があり、このたとえも部分的にしか有効でないのです。個々人の教育や技能をいくら改善しても、グローバルな資本の移動の中で、経済的弱小者はなすすべもなく翻弄されます。
そういう中で宗教者にできることは限られています。もちろんそのことは「行動しないこと」の言い訳に使われてはなりません。大切なことは、宗教者に何ができ、何ができないかを見きわめ、できることを全力をもって実践することです。
形の世界は心・意識が生みなしているものです。様々な現実問題も究極的には人間の自己中心性や自我欲望や二元対立意識から生み出されているわけです。そういう人類の心のレベルが飛躍的に進歩しなければ、苦悩はいつまでたっても形を変えて人類につきまとってくるだけです。宗教者の使命はあくまでも心の問題を根本的に解決することにあるはずです。
ところが、現在では、その宗教が紛争の原因となっているのですから、情けないことです。宗教が宗教どうしの対立をやめ、異宗教への憎悪や敵愾心を煽り立てることをやめ、ともに平和のために協力するだけでも、どれほど世界が平和になるかはかりしれません。それこそ宗教者としてまず第一にできることですし、しなければならないことであるはずです。
実は、五井先生は1970年の第一回世界宗教者平和会議の日本代表の一人でしたが、その場に参加して、議論が貧困や社会矛盾の解決という目先の政治や経済の問題にばかり集中し、心の問題がすっかり無視されていたことに、いったいこれが宗教者の会議なのだろうか、とあきれ、それ以降、この会議に参加しなくなりました。世界宗教者平和会議はそれ以降も同じような議論を重ねつづけているようですが、それによって世界平和に向かってどのような成果が生まれたのでしょうか。
とくに日本の宗教者はこの会議でどのような役割を演ずるつもりなのでしょうか。「ヒロシマ、ナガサキの被爆を経験した日本の宗教者は、平和を追求するうえで特別な役割を果たす」という期待を寄せられた日本の宗教者は、それにどのように応答するのでしょうか。新聞記事からは、日本の宗教代表者たちは何ら明確なメッセージを発することができなかったことがうかがわれます。残念なことです。
私ならこう答えます。「私たち日本人は、一瞬にして数十万人の民間人を殺された原爆に対しても、決して加害者たるアメリカに憎悪と復讐の念を向けることなく、その惨禍を、人類の恒久平和を祈る契機に変えた。憎悪と復讐の怨念の連鎖を断つことこそ平和への第一歩である。今日の世界の悲惨の原因の一つは宗教の不寛容にある。しかし、日本は寛容の精神で異なった宗教の共存を実現し、宗教間の闘争を乗り越えた。私たち日本の宗教者は、宗教宗派の違いを超えて、ともに世界平和を祈っている。どうぞ世界の宗教者もこの世界平和の祈りに加わってほしい」
そう言えるためには、まず日本の宗教者が宗教宗派を超えた世界平和の祈りを実践し、その模範を示す必要があります。宗教者の平和会議は、話し合い、議論、討論から一歩進み、ともに祈りあう場へと次元上昇しなければならないと思います。来年5月には富士朝霧高原で、そのような行事が開かれようとしています。
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記者の目:世界宗教者平和会議 丹野恒一(大阪学芸部)
9・11米同時多発テロ以降、最大規模の宗教者会議--。こう位置付けられた第8回世界宗教者平和会議(WCRP)世界大会が8月下旬、京都市で開かれた。期間中、海外の参加者が「ヒロシマ、ナガサキの被爆を経験した日本の宗教者は、平和を追求するうえで特別な役割を果たす」と発言するのを何度も聞いた。しかし、私にはホスト国へのリップサービスにしか聞こえなかった。海外の宗教者が「今、そこにある対立、暴力」に向き合おうとしているのに対し、日本の多くの宗教者は過去の平和の誓いさえ忘れてしまったように感じたからだ。
大会前、日本のある関係者が私にこう耳打ちをした。「正直言って、議論への積極的な関与は難しい」。耳を疑う私に、「命の危険と隣り合わせの国から来る宗教指導者が多い中で、平和に慣れきってしまった日本人が議論をリードするのは無理だ」と、彼は説明した。会議が始まる前から既に腰が引けていたのだ。
開会式には、ホスト国として天台宗の渡辺恵進・座主をはじめ伝統教団や新宗教のトップが数多く出席した。しかし、彼らはまるで「ゲスト」のようで、実際の会議では一部が議事進行の補佐役を務めた程度。WCRP国際委員会が地域紛争の解決に向けて、イラクや中東の宗教指導者らによる秘密会合を果敢に仕掛けたのとはあまりにも対照的だった。
「出席者の身に危険が及びかねない」「率直な議論のため」と、約65の会議・会合のうち50以上が非公開だった影響もあるが、日本の存在感は最後まで希薄なまま。天台宗の杉谷義純・元宗務総長が「仏の慈悲だの神の恵みだの言うが、結局は実践者として何をするのかが問われた」と語り、眞田芳憲・中央大教授(イスラム法)が「日本の宗教者は内向きで、海外の問題を解決するのは難しい」と話すのを聞くと、もどかしさが募った。
海外の参加者は「危険な自国を離れ、安心して対話できる場がまず重要だ。その意味で日本は最高の国」としばしば口にした。確かに、今大会は当初、04年に米国開催の予定だったが、同時多発テロ後の世界情勢を勘案して「対立の当事国での開催は無理」と、日本開催に切り替わった経緯はある。しかし、日本の宗教者の及び腰を目の当たりにすると、「単なる場所貸しに過ぎないのか」とますます落胆は大きくなった。
そもそもWCRPは、過去に国策を無批判に支持して戦争に加担した日本の宗教界が深い反省に立ち、主導的な役割を果たして設立された団体だったはずだ。1970年に同じ京都市で開催された第1回大会は「人類の奇跡」と呼ばれた。ベトナム戦争が議題になり、日本の宗教者は閉幕後、「平和使節団」を派遣して戦火の地で難民救済に着手した歴史もある。
運営面、資金面で立正佼成会を中心とする新宗教教団が深く関与しているため、伝統教団が距離を置いている側面は否定できないし、WCRPだけが平和追求の場でもない。宗教をあくまで精神世界ととらえ、現実の政治と切り離せない和平交渉に宗教者がかかわることを敬遠する考えがあるのも事実だ。ただ、それが「行動しないこと」の言い訳に使われるのなら、私は言いたい。「その時々に人々の現実の『苦』に向き合ってこその宗教ではないのか」と。
ウィリアム・ベンドレイ・WCRP事務総長は「宗教は、暴力や憎悪を扇動する急進主義者、政治家、メディアにハイジャックされ、悪用されている。宗教が素晴らしいからこそ、逆に人々は混乱してしまう」と繰り返した。宗教が対立をあおっているのではなく、求心力が強すぎることによる“副作用”だとの指摘である。裏返せば、その求心力の強さが紛争解決の大きな力にもなり得るが、日本の大半の宗教には今、そのような求心力はない。
批判の矛先はもちろん宗教指導者だけに向けられるべきではない。
宗派間の対立が激化するイラクのシーア、スンニ両派の指導者に同席を求め、取材した際、「インタビューを受ける前にまず聞きたい。日本人にとって宗教とは何なのか」と予想外の質問を受け、答えに窮した。限られた時間内のやりとりでは彼らの真意をつかみかねたが、日本人一般の宗教心の希薄さを見透かされた気がした。
原爆の日やお盆があり、日本人が最も平和に関心を持ち、宗教心が高まる8月。その月に宗教都市・京都で開催された今回の世界大会は、皮肉にも日本の宗教の「現実」を露呈する場になった。誕生の地に帰ってきた今大会が、日本の宗教界にとって平和構築への努力を再開するきっかけになればと願う。
毎日新聞 2006年9月15日 0時21分
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http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060915k0000m070152000c.html
世界宗教者平和会議というのは、この記事にもありますように、「立正佼成会を中心とする新宗教教団」つまり「新宗連」が中心になって呼びかけ、設立された組織です。立正佼成会は法華系の教団ですが、創価学会とは違って、他宗を誹謗し攻撃する唯我独尊性はなく、他宗派との協調の中で世界平和を目指そうとする姿勢があります。
その第一回世界会議は1970年に京都で開催されましたが、今回はそれ以来の2度目の日本開催ということになりました。しかしながら、この新聞記事によると、会議では日本の宗教者は影が薄かったようです。
平和会議ということになると、どうしても平和を阻害している現実問題の解決に議論が集中しがちです。紛争、貧困、エイズなどの伝染病、差別、子供の虐待、環境破壊、地球温暖化・・・・問題は山積しています。海外の宗教者はそういう現実問題に立ち向かい、それなりの実践活動をしていますが、日本の宗教者は一般的にそういう面で消極的です。議論に加わることさえできないでしょう。
毎日新聞の記者は「その時々に人々の現実の『苦』に向き合ってこその宗教ではないのか」と問いかけています。
私も各種の宗教者平和会議に出席したことがありますが、この問いかけは昔からなされていて、「宗教者は祈ってばかりいて何になる。具体的行動を示せ」とよく言われてきました。もっともらしく聞こえるのですが、本当にそうなのでしょうか?
たとえば貧困の問題だけでも、根本的に解決するのは困難をきわめます。貧困は究極的には現在のグローバルな資本主義体制の矛盾が、弱者に押しつけられたところに出現している現象です。それは基本的には政治・経済の問題であって、宗教の問題ではありません。宗教者が慈善事業として貧しい人々に食料や衣類やお金を配ることは、一時的に痛みを和らげる効果はありますが、問題の根本的解決ではありません。
よく、魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えろ、というたとえが使われます。一時的な慈善事業ではなく、貧しい人々が自立できるような教育や技能を施すべきだ、というのです。これもある程度は事実なのですが、現代ではまさに魚そのものが枯渇しているという大きな問題(グローバルな経済構造)があり、このたとえも部分的にしか有効でないのです。個々人の教育や技能をいくら改善しても、グローバルな資本の移動の中で、経済的弱小者はなすすべもなく翻弄されます。
そういう中で宗教者にできることは限られています。もちろんそのことは「行動しないこと」の言い訳に使われてはなりません。大切なことは、宗教者に何ができ、何ができないかを見きわめ、できることを全力をもって実践することです。
形の世界は心・意識が生みなしているものです。様々な現実問題も究極的には人間の自己中心性や自我欲望や二元対立意識から生み出されているわけです。そういう人類の心のレベルが飛躍的に進歩しなければ、苦悩はいつまでたっても形を変えて人類につきまとってくるだけです。宗教者の使命はあくまでも心の問題を根本的に解決することにあるはずです。
ところが、現在では、その宗教が紛争の原因となっているのですから、情けないことです。宗教が宗教どうしの対立をやめ、異宗教への憎悪や敵愾心を煽り立てることをやめ、ともに平和のために協力するだけでも、どれほど世界が平和になるかはかりしれません。それこそ宗教者としてまず第一にできることですし、しなければならないことであるはずです。
実は、五井先生は1970年の第一回世界宗教者平和会議の日本代表の一人でしたが、その場に参加して、議論が貧困や社会矛盾の解決という目先の政治や経済の問題にばかり集中し、心の問題がすっかり無視されていたことに、いったいこれが宗教者の会議なのだろうか、とあきれ、それ以降、この会議に参加しなくなりました。世界宗教者平和会議はそれ以降も同じような議論を重ねつづけているようですが、それによって世界平和に向かってどのような成果が生まれたのでしょうか。
とくに日本の宗教者はこの会議でどのような役割を演ずるつもりなのでしょうか。「ヒロシマ、ナガサキの被爆を経験した日本の宗教者は、平和を追求するうえで特別な役割を果たす」という期待を寄せられた日本の宗教者は、それにどのように応答するのでしょうか。新聞記事からは、日本の宗教代表者たちは何ら明確なメッセージを発することができなかったことがうかがわれます。残念なことです。
私ならこう答えます。「私たち日本人は、一瞬にして数十万人の民間人を殺された原爆に対しても、決して加害者たるアメリカに憎悪と復讐の念を向けることなく、その惨禍を、人類の恒久平和を祈る契機に変えた。憎悪と復讐の怨念の連鎖を断つことこそ平和への第一歩である。今日の世界の悲惨の原因の一つは宗教の不寛容にある。しかし、日本は寛容の精神で異なった宗教の共存を実現し、宗教間の闘争を乗り越えた。私たち日本の宗教者は、宗教宗派の違いを超えて、ともに世界平和を祈っている。どうぞ世界の宗教者もこの世界平和の祈りに加わってほしい」
そう言えるためには、まず日本の宗教者が宗教宗派を超えた世界平和の祈りを実践し、その模範を示す必要があります。宗教者の平和会議は、話し合い、議論、討論から一歩進み、ともに祈りあう場へと次元上昇しなければならないと思います。来年5月には富士朝霧高原で、そのような行事が開かれようとしています。