平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

平塚らいてう(4)

2005年03月16日 | 最近読んだ本や雑誌から
らいてうはさらに世界連邦建設同盟に入会し、平和運動にもかかわっていきます。ただし彼女の平和運動は、戦後の日本社会を風靡した左翼的な平和運動とはひと味違ったものでした。彼女は昭和22年の「心の平和運動」というエッセイの中で次のように書いています。

****************************************
――わたくしはこのいわゆる世界平和運動だけで、言いかえれば国と国との間の戦争を防止する運動だけでは人類の平和運動は完全なものだとは考えない。この運動と同時にこれと並行して各個人の内部生活のうちに平和を確立するための心の平和運動が力強く興ってこなければならないと思う。今かりに、外部に向かって働きかける世界平和運動を横の平和運動というなら、人間ひとりびとりの魂に働きかける心の平和運動は縦の平和運動といえよう。
 この内と外と、縦と横との二つの平和運動はなんらの矛盾なく併存しうるのはもちろん、そのいずれを欠いても地上人類の恒久平和は達成されないであろう。
****************************************

らいてうは市川房枝や山川菊栄などの女性解放論者、平和運動家とも協力しましたが、その本質は彼らとは異なっていました。尾形さんはらいてうの特質を以下のようにまとめています。

****************************************
 らいてうは参禅を体験しているだけあって、権利を主張すると同時に己の内部に静かに沈潜する。彼女は人間の本質が宇宙とつながった存在であり、「無限の能力を内在する尊厳なる神性」こそ、ほんものの自分であると主張し、また「無限の能力である神とのつながりなくして、真の解放はありえない」と言い、「神において一つである、人と人との関係において」男女平等を主張したのである。従ってらいてうの解放運動、平和運動は「人間の内部の神性」に基づいたものであり、山川や市川らの近代合理精神に基づくものとは異質の運動であったのだ。
 戦後の急激な経済発展の中で人々の生活が豊かになるにしたがって、精神面の軽視、物質面の重視、それに効率優先の社会になってきた時、らいてうは「本当の幸福は、時代がどうであれ、真の人間として女性の幸福はもっと高く、深く、ひろいところにあるとわたくしは思うのですが――」と、エッセイ「自我の確立へのたたかい」(「婦人公論」昭和40年11月)で述べている。
****************************************

らいてうは、根本に宗教精神をもって、女性の真の解放と内面的向上を目指したのです。

尾形さんは、

****************************************
 晩年らいてうは「何時死んでもいいのよ。もう十分に生きた。自分の好きなことをやってわたしの一生はとても幸せだった」と言い、泰然自若としていたそうである。
****************************************

と書いています。

らいてうのこのような姿を教えてくださった尾形さんに心より感謝申し上げます。尾形さんの論文は、このブログでは触れられなかった、らいてうの人生の軌跡をもっと詳しく扱っています。らいてうに関心のある方には尾形さんの論文を読んでいただきたいと思います。