平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

The Intention Experiment

2007年02月17日 | 江本勝と水からの伝言
「ことだま大実験」の提案に関して、IHMからご返事をいただきました。様々な事情――とくに「体力」の面――から、現在、IHMは「ことだま大実験」を行なえる状況にない、ということでした。

しかし、それに代わる興味深い実験が現在企画されているという情報を教えていただきました。それが、表題になっているThe Intention Experimentです。

『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』(河出書房新社)の著者であるリン・マクタガートは、今年の初めに『The Intention Experiment』という本を出版しました(まだ邦訳なし)。その中で彼女は、最新の科学理論を渉猟しつつ、意識が物質に影響を与える可能性があることを論じ、それを検証する実験を提唱しています。(ちなみに、この本では、江本さんの結晶写真のことも取り上げられているそうです)

すでに一度その試行実験が行なわれ、肯定的な結果が得られているようです。

その2度目の大規模な実験が3月24日に予定され、そのためのホームページが作成され、実験協力者を募集しています。

http://theintentionexperiment.com/index.php

実験目的は、大勢の人が同じ時刻に同じ考えをいだくと、その効果が強くなるかどうかを検証することです。具体的には、閉鎖された「ミニ・ガイア」という場を作り、Intention(意図、意志)の力でその温度を下げることを目指します。もしこれが成功すれば、地球温暖化を意識の力で解決できることになります。

たいへん興味深い実験です。私も参加してみようと思います。


水の結晶写真はニセ科学?

2007年02月07日 | 江本勝と水からの伝言
昨年の「第3回ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」でも書きましたが、江本勝さんの水の結晶写真はニセ科学だというキャンペーンが強まっています。

2006年12月18日のNHK「視点・論点」で大阪大学の菊池誠教授が水の結晶写真はニセ科学だと批判しました。
http://www.j-cast.com/2006/12/21004522.html

雑誌『論座』2007年2月号は、「蔓延するニセ科学」という特集を組んで批判しています。

毎日新聞2月7日朝刊も「教室にニセ科学」という記事を掲載しています。

言葉や想念が物質である水に影響を与えるはずはない、というのが現在の科学のパラダイムですから、「ありがとう」の水がきれいな結晶になり、「ばかやろう」の水が美しい結晶にならないという江本説は、当然、現代の科学からはニセ科学ということになります。

しかし、私は、意識と物質はどこかでつながっていて、想念が物質に影響を与えることは十分にありうることだと考えています。その証拠は、人間が、意識することによって体を動かせることです。意識→脳→神経→筋肉というルートで体が動くわけです。意識は物質ではありませんが、脳は物質です。意識と物質脳がどこかでつながらないかぎり、人間は意識によって体を動かせないはずです。

想念と物質がどこかでつながっているとしても、想念の水への影響が水の結晶写真という形で現われるかどうかはわかりません。これは、いまだ証明されていない仮説にすぎません。そして、江本さんがどれだけ結晶写真のデータを提出したところで、現代の科学者はそれを科学的データとして認めないだろうということは、すでに以前も述べました。

『論座』や毎日新聞の科学者の意見を読みましたが、彼らの意見が100%正しいとは思えませんでした。中には揚げ足取りのような批判もあります。たとえば、「shine」という文字を水に見せたらどうなるのか、という批判です。これを英語だと見なせば「輝く」でよい意味で、ローマ字書きだと見なせば「死ね」で悪い意味だ、その結晶写真はどうなるのか、というのです。(学習院大学田崎晴明教授)

問題は、文字そのものではなく、そこに込められた想念波動です。その想念波動が光明か暗黒かが問題です。

言葉を発しなくても、想念が人に伝わり、人に影響を与えることは事実です。祈りが病気を治すという研究結果もあります。日本の科学者に言わせれば、これもニセ科学なのでしょう。心の働きで遺伝子の働きが変わるという村上和雄さんの説もニセ科学なのでしょうか? 現在の科学は、意識と肉体(物質)の関係を十分納得がいくまでには解明していません。

想念が物質に影響を与えるかどうかを検証する、実に簡単な実験方法があります。それを私は「ことだま大実験」として提案しました。

私はこの提案をメールで江本さんの会社のIHMに伝えましたが、返事がありません。江本さんに伝わっているのか伝わっていないのか知りませんが、もし江本さんが、「ニセ科学」のレッテルを貼られ、社会的に抹殺されることを望まないのであれば、この実験をするしかありません。

その実験をしないというのであれば、やっぱりニセ科学だったのだ、と言われてもしかたありません。江本さんは「近々出版する著書で疑問に答えたい」と言っているようですが、そんな説明で納得するほど科学者は甘くありません。自分の「水伝信者」だけが納得すればいい、というのでは、宗教であって、科学ではありません。


第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(5)

2007年01月08日 | 江本勝と水からの伝言
江本勝氏の仮説に原理的な考察を加えたために、「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」の紹介が遅れてしまいました。

今回のフェスティバルの目玉はEMの比嘉照夫さんと船井総研の船井幸雄さんでしょう。比嘉さんの講演は何度か聞いたことがありますが。船井さんは初めてでした。

江本さんと比嘉さんは、同じころに船井さんによって「本物技術」として紹介され、有名になったそうです。

〇比嘉さん

比嘉さんのお話は、年々すごくなっています。現在の科学界からは、江本さん以上の「トンデモ科学」と見なされることは確実です。

EMというのはEffective Microorganism(有用微生物)の略号ですが、微生物をうまく使えば、農業や環境浄化に役立つ、というのは、現在の科学のパラダイムでも十分に理解できます。しかし、それでさえ、比嘉さんの説には、体制科学者からは、データが精密でない、実験が粗雑、再現性がない、など、江本さんと同じような批判が加えられました。しかし、EMを使うと実際に様々な効果があることから、徐々に広がりを見せています。

今回のお話は多岐にわたりましたが、私がいちばん驚いたのは、チェルノブイリの放射能汚染が、EMによって減少している、という話です。微生物が放射能を中和するのであれば、これはたいへんなことで、人類への福音です。それどころか、放射能汚染された畑でEMを使うと、作物が通常よりもよく生育し、収穫が倍増するのだそうです。常識的にはありえない話です。比嘉さんはこれを、EMが破壊的なエネルギーを蘇生的なエネルギーに変換しているからではないか、と説明していました。つまり、作物は、天からの太陽と地からの太陽(放射能)という二つのエネルギーをもらっているので、元気いっぱいに成長するのだそうです。

また、塩害になって農作ができなくなった畑でも、EMを使うとよみがえるそうです。それどころか、海水にEMを混ぜると、海水を畑にまくことができるそうです。海水が無害化されるだけではなく、肥料にさえなるそうです。ちょっと信じられない話ですが、比嘉さんが実際にそれを行なっているわけですから、驚きです。

沖縄は台風が多いところですが、近所のビニールハウスが台風で全滅しても、EMを使用しているビニールハウスは、軽微な被害に終わるのだそうです。これも、EMが破壊的エネルギーを蘇生的エネルギーに変換しているからではないか、とのことです。

コンクリートやアスファルトにEMを入れると、耐用年数が大幅に伸びるそうです。そういう素材で建てた建物は、地震が来ても揺れが小さいそうです。道路の摩耗も減るそうです。

EMをセラミックに入れて1200度に熱しても死なないそうです。そういうセラミックを身につけていると、電磁波などの有害な波動が蘇生エネルギーに変換されるので、疲労が少ないそうです。

EMを入れた試験管と、EMを入れない試験管で実験すると、EMを入れない試験管もしばらくすると、EMを入れた試験管と同じ成分になってしまうそうです。これは、EMが結局は波動的なエネルギーを出しているからだと考えられる、とのことでした。

こんなことは、現在の科学界からはとうてい受けいれられません。まさにとんでもない話です。しかし、比嘉さんは、現在の科学界をまったく相手にしていません。実証がすべてを語る、と考えているのです。

私は比嘉さんのあげた事象を自分で見たわけではありませんので、肯定も否定もできません。しかし、これだけのことを、大勢の人の前で、スライドを映写しながら自信たっぷりにお話しするからには、それなりの裏づけがあるのだろうと思います。

〇船井さん

船井さんは最初、江本さんの『波動時代の序幕』という本に推薦文を書いて、江本さんのデビューを応援したときの話をしました。

そのころ江本さんは、まだ水の結晶写真はやっておらず、MRAという波動測定器を使っていました。波動値の低い水に船井さんが気を入れると、波動値が跳ね上がったそうです。

船井さんは最近しばらく体調が悪かったそうですが、沖縄の全館EMを使ったホテルで、「EMカプセル」に入ったら、いっぺんに元気になったそうです。

船井さんは、気というか念の強い人で、波動測定器で測定してもらうと、体調に関係なく、自分が思った数値が出てしまうとのことです。ですから、波動測定器にかかるときは、想念をゼロにしなければならないそうです。また、自分で自分に気を入れることもできないようです。

通常、気を出すためには、気功などの訓練を行なうわけですが、船井さんは、そういうことは一度もしたことがなく、持って生まれた能力で、あらゆるものに気を入れることができるとのことでした。たとえば、タバコの煙からニコチンを抜くことができるそうです。それどころか、その気になれば、日本中のタバコからニコチンを抜くことも簡単だ、と豪語していました(ぜひやってほしい・・・)。かつて、ある人に会いたくなかったとき、「彼が頭痛でも起こせばいいな」と思ったところ、その人から電話がかかってきて、「今日はひどい頭痛で会えない」とのことでした。それ以来、恐ろしくなって、否定的な念は出さないように気をつけるようになったということです。

船井さんは、波動現象には4つの原理があり、この4つで世の中は成り立っている、と述べました。

(1)同じ波動は引き合う、共鳴する。
(2)異なった波動は反発しあう、不調和になる。
(3)自分が出した波動は自分に返ってくる。
(4)優位の波動は劣位の波動をコントロールできるが、逆はできない。

船井さんは、実験として、会場のすべての人(千人以上?)に、「えい」と気合いをかけて、良い気を入れました。実に簡単なやり方で、はたしてこんなもので効果があるのだろうか、という気合いでした。良い気が入ると、体が柔らかくなり、前屈ができやすくなるのだそうです。そうなった人がかなりいたようで、あちこちで歓声が上がりました。舞台に上がった江本さんも、前屈度が大きくなりました。

ところが、私と、一緒に来ていた妻は、まるで変化がありませんでした。結局、これは(4)の原理で、数十年間世界平和の祈りを続けている私たちのほうが優位な波動なので、船井さんの気や念には影響を受けないということなのでしょう。

昔、ある行者が五井先生を念力で倒そうと念を送ったところ、五井先生は何でもなく、その行者のほうが倒れてしまった、という話を斎藤秀雄長老から聞いたことがあります。(4)の原理で、その行者の念は五井先生に影響を与えることはできず、逆に(3)の原理で自分の波動を即座に自分で受けてしまったわけです。

船井さんは、過去世でそうとう念力の修行をした人のようです。しかし、否定的な想念を出さず、その念力を誤った方向に使わなかったので、今日でも活躍しているのでしょう。念力も、自分を生かし人を生かす正しい方向に使えばよいわけです。

船井さんは、自分は思ったことがすぐそのまま実現するが、それは自分が世の中の流れを多少先に行っているからで、いずれすべての人がそうなるのだ、と言っていました。「思ったことがすぐそのまま実現する」というのは、よいようで困ったことでもあります。よいことだけ、光明思想だけで生きている人にはこんな素晴らしいことはありませんが、心が汚れている人は、つらいこと、悲惨なことがすぐ実現してしまうからです。これからは、常日頃の想念が今以上に大切な世界になるのでしょう。


ことだま大実験

2006年12月29日 | 江本勝と水からの伝言
『AERA』でもう一つ批判されていたのは、ご飯に「ありがとう」と「ばかやろう」という言葉をかける実験です。「ありがとう」という言葉をかけたご飯は腐りづらく、「ばかやろう」という言葉をかけたほうは腐りやすい、と江本氏は言います。これに対する批判――

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 奥田教諭は教員を対象にした模擬授業で、言葉に関係なく同じように腐ったご飯粒やイチゴを示して、道徳の授業で取り上げるべきではないと説明した。
 「『科学的ではないが、素晴らしい本だ』という先生もいた。しかし、結論がいいからといって、子どもに信じ込ませてはいけない」
 と、奥田教諭は強調する。
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実は、私はこの実験は、想念波動と物質との関係(または無関係)を検証するための、たいへんよい実験方法だと考えています。

ご飯の腐敗は、そこに含まれる細菌や菌類によって引き起こされます。したがって、「ありがとう」の言葉を投げかけたご飯でも、腐敗菌が多く含まれていれば、当然腐敗し、奥田教諭のような結果になるわけです。また逆に、江本さんの雑誌に報告されているように、「ありがとう」のご飯が腐敗せず、「ばかやろう」のご飯が腐敗しても、それはたまたま「ありがとう」のほうには細菌が少なく、「ばかやろう」のほうに細菌が多かったからだ、という説明が可能です。ですから、実験の数が少なければ、いくら「ありがとう」が腐らなかったとしても、それは言葉の力の科学的証明にはなりません。また、奥田教諭が「ありがとう」という言葉をかけたご飯が腐った例を示しても、数例だけでは言葉が腐敗作用に無関係という証明にはなりません。実験開始時の条件がたまたまそうだった、と考えられる余地があるからです。

しかし、これを数千、数万という規模で行なったらどうでしょうか。

すべての実験の開始時点で、「ありがとう」のほうにいつも腐敗菌が少なく、「ばかやろう」のほうにいつも腐敗菌が多かった、ということはありえません。実験の数を多くすればするほど、細菌の数の多い少ないという初期の条件は、「ありがとう」と「ばかやろう」では五分五分になるはずです。

現在の科学の立場では、言葉は腐敗作用に何ら影響を及ぼさないはずですから、全体の統計を数万の規模で取れば、両方とも腐り方は同じになるはずです。このことは逆に、全体の統計を調べて両者の間に有意な違いが出てきたら、それは言葉が腐敗過程に影響を及ぼしたことの証明になります。

【ことだま大実験】

この実験では、同じ種類の透明なビン2個をよく洗い、両方にほぼ同じ量――たとえばスプーン一杯――のご飯(自宅で炊いたもの、コンビニ弁当などには添加物が含まれている可能性がある)を入れ、蓋をし、一方には「ありがとう」、他方には「ばかやろう」のラベルを貼ります。そして、同じ部屋にほぼ同じ条件で(気温や明るさや床からの高さ)、数メートル離して置き、一方には毎日「ありがとう」の言葉をかけ、他方には「ばかやろう」の言葉をかけ、一定期間観察します。「ばかやろう」という言葉を言うのが嫌いな人は、何も言わないで無視します。

ご飯が腐る、腐らないは、まず第一にその検体にどのような細菌がどのくらい含まれているか、ということで決まるでしょう。実験室ではなく、一般の家庭で行なうのですから、ご飯を入れたビンの一方には雑菌(腐敗菌)が多く、他方には雑菌が少ない、という場合がありますし、両方ともほぼ同じということもあります。

(A) 両方とも腐敗菌の数がほぼ同じ場合
 両方とも同じ時期に腐り始めるはずです。

(B) 両方のビンの雑菌の数が大きく違う場合
 ビンの組み合わせは――
 b1 「ありがとう」+細菌少ない & 「ばかやろう」+細菌多い
 b2 「ありがとう」+細菌多い & 「ばかやろう」+細菌少ない

の2種類になります(「多い」「少ない」は絶対数ではなく、比較です)。

実験数が少ない場合、「ありがとう」のビンが腐らず、「ばかやろう」が腐ったとしても、それは、言葉のせいではなく、たまたまb1のビンが多かったから、という可能性は否定できません。

しかし、検体が数千、数万、数十万と増えていけば、b1とb2はほぼ同じになるはずです。偶然によって、b1またはb2の組み合わせが一方的に多くなる確率はゼロに近づきます。

また、温度やその他の周囲の条件も、2個のビンでは同じではありませんが、これも数万の実験では、どちらが腐りやすいか条件か、ということも平均的にならされて、五分五分になると考えられます。両者の顕著な違いは、そこに加えられる言葉のエネルギーだけです。

現代の科学では、腐る・腐らないを決めるファクターは、細菌の種類と数と外界の条件であって、言葉は無関係ということになっています。数を大きく取れば、b1とb2は同じになります。したがって、「ありがとう」のご飯が先に腐るケースと、「ばかやろう」のご飯が先に腐るケースは、同じになるはずです。これは(A)のケースを加えても同じです。

逆に言えば、もし先に腐るのが、「ありがとう」と「ばかやろう」で有意な違いが出て、たとえば4:6のようになったら、それは言葉が腐敗作用に、つまり細菌の活動に影響を及ぼした証拠になります。

これを大規模に行なえば、言葉が細菌の活動に影響を与えるか与えないかが検証できるのです。江本氏と、江本氏に批判的な科学者や学校の先生は、共同で全国の小学生、中学生に呼びかけて、大規模な実験を行なったらどうでしょう。有意な差が出なかったら、江本氏の仮説は間違っていたことになりますし、有意な差が出たら、江本氏の仮説が正しいことになります。

しかも、この実験の利点は、実際に実験をし観察をするのは、論争の当事者の江本氏でも体制科学者でもなく、中立的な大勢の子供たちであることです。実験の結果は、各人が江本氏側と体制科学者側ならびにそれ以外の第三者に報告するようにすれば、インチキやデータの操作の入り込む余地はありません。

江本氏は自分の仮説が正しいと信じているわけですし、体制科学者は言葉が細菌に影響するはずはない、と信じて、両方とも自分が正しいと信じているのですから、この実験に賛成してくれると思います。

言葉と物質が無関係という結果が出れば、江本氏の「ニセ科学」が消滅し、日本の子供たちの科学的態度が養われます。もし言葉が物質に影響を与えるという結果になれば、科学界の革命的発見になるばかりではなく、道徳の時間で、「悪い言葉を使うのはやめよう。よい言葉を使おう」と子供たちに強い説得力をもって教えることができます。どちらにしても、よい結果が待ちうけています。これは名案だと思いませんか?

第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(4)

2006年12月27日 | 江本勝と水からの伝言
もう一度昨年12月5日の『AERA』の記事に戻りますと、そこで山形大学助教授の天羽優子氏は、

「水が情報を記憶することはないし、どんな結晶ができるかについては既に中谷宇吉郎博士が解明済みで、言葉や音楽とは無関係」

と断定していますが、本当にそうでしょうか?

「水が情報を記憶することはない」ということは、現在までの科学的知見ではそうだということで、これからもそうであるかどうかわかりません。治部眞里・保江邦夫著『脳と心の量子論』(講談社ブルーバックス)は、脳内の水が情報を蓄えている、という仮説を提唱しています。これはまだ仮説ですから、証明されたわけではありませんが、しかしそのような可能性に理論物理学者が言及していることは注目に値します。

次に、「どんな結晶ができるかについては既に中谷宇吉郎博士が解明済み」というのは、中谷宇吉郎博士の雪の結晶の研究のことを指しています。私は中谷博士の研究については、『雪』(岩波文庫)という一般書しか知りませんが、そこに紹介されている雪の結晶写真と、江本氏の氷結結晶写真とはかなり違います。江本氏の写真のほうがはるかに多様ではるかに美しいのです。雪も水からできていますが、それは空中で水蒸気からチリを核として生成されます。江本氏は液体の水を凍らせてから写真を撮るのですから、雪とは結晶の生成のしかたが違います。雪の研究をもってきて、「既に中谷宇吉郎博士が解明済み」というのは、水の氷結結晶写真に対する反論にはなっていません。

江本氏を批判するWikipediaの記事は、こう述べています。

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彼らの実験で作られる雪花状の氷は、雪や霜と同様に「気相成長」でできたもの、つまり種となる氷に周辺の水蒸気がくっついてできたものである。ひと言で言えば、「小さな霜」である。したがって、結晶の形は中谷宇吉郎が研究した雪の結晶形の成長条件に従い、雪花状に成長するかどうかは温度と水蒸気量で決まる。形こそ雪花状であるが、雪や霜がそうであるのと同様、分子構造は普通の氷と同じである。
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つまり、江本氏が撮影している結晶は、検体の水ではなく、「周辺の水蒸気」が作っているものであるというのです。しかし、これは証明されていない主張です。もしそれを主張したいのであれば、検体となる水のない状態で、空中の水蒸気から氷結結晶が生成され、同じような結晶写真が撮れることを実証しなければなりませんが、それは簡単なはずです。寒くなると、空中の水蒸気が窓ガラスに霜を作ります。その霜を顕微鏡で撮影し、江本氏が撮影したのと同じような写真が撮れることを証明すればよいのです。江本氏のトンデモ科学を具体的な証拠で反証するのは簡単なはずなのに、科学者はなぜそれをしてくれないのでしょう。

中谷博士は『雪』の中でこう言っています。

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〔雪の結晶には角板形のものがあり、その内部には様々な模様があるが〕角板の内部の模様の成因如何というような些細な問題すら解決がついていないのである。そんな簡単なこと位、専門家は誰でも知っているかと思われるかも知れないが、ただ今の所では世界中のどの学者にきいて見ても分らないのである。もっともそういうつまらぬことは誰も研究をしないから分らないので、ちょっと研究すれば直ぐ分るはずだという議論も出るかも知れないが、子供に「どうして雪があんなに不思議な形をしているのか」と聞かれて、何とも返答の出来ぬのもちょっと考え物である。これは雪の場合と限らず、大抵の自然の珍しい現象はまだ殆どよく分っていないのである。(93頁)
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本当の科学者はこのように謙虚な姿勢で自然を探究しているのであって、自分で実験もしないで「そんなことは既に解明済み」などと安易には言わないものです。

江本氏は、水の結晶は、いったん凍った水が溶け始めるときに一瞬その姿を現わすのだ、と言っています。そうすると、結晶写真は、周辺の水蒸気も関係しているかもしれませんが、やはり検体の水の影響もある、ということになります。雪のデータで「既に解明済み」などと論じることはできません。

私は水が想念波動の影響を受けることは、ありうることだと思いますが、それが結晶写真の変化という形で出現するのかどうか、科学者ではないので断定はできません。江本氏の説は一つの仮説だと理解しています。科学者が具体的な実験を行ない、江本氏の仮説を検証してくれればありがたいと思います。次回はその具体的な実験方法について提案してみます。

第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(3)

2006年12月23日 | 江本勝と水からの伝言
北海道大学・古川義純助教授は『AERA』の記事で、江本氏の実験のやり方を次のように批判します。

「実験のやり方も大雑把で、温度も水蒸気の量も一定でない。いろんな結晶ができるから、観察者がきれいな結晶を探せば見つかるだろう。50個中いくつにどのような結晶ができたのか、データを取らなければ意味がない」

→この批判はたしかにその通りだろうと思います。

しかし、この主張は、逆に言えば、実験のやり方が精密で、きちんとしたデータを取れば「意味がある」、ということを含意していることになります。それでは、精密な実験をして、きちんとしたデータを出せば、科学者は、音楽や想念波動が水に影響を与えることを、科学的事実として承認するのでしょうか? 私にはそうは思えません。

江本氏がどれほどデータを出したところで、そのデータは、物質と精神は無関係という現在の科学のパラダイムに根本的に反する以上、認められないでしょう。しかも、どんなデータにも必ずケチを付けることができます。なぜなら、どれほど精密な実験をしても、そこには必ず「ゆらぎ」があるからです。温度、水蒸気、気圧、重力、電磁波、容器・・・様々な物理的条件を完全に一致させることは、ほとんど不可能です。たとえば、温度が0.1度違っても、湿度が0.1%違っても、それは「同じ物理的条件」ではなくなります。Aという試験管とBという試験管は、厳密に言えば同じ条件ではありません。結晶写真の違いは、「愛・感謝」と「ばかやろう」の言葉の違いのせいではなく、0.1%の湿度の違いのせいだ、という可能性は否定しきれません。ましてや素人が行なった粗雑な実験では、いくらでもあらが探せます。その結果、現在の科学パラダイムの枠組みの中では、結晶の違いは、想念波動の違いではなく、物理的条件の違いだと解釈されるでしょう。

つまり、科学者は、一方においては、「実験の精度が粗い、データが出されていない」、と批判しつつ、他方、「そんなことは理論的にありえない、考えられない」という否定も用意しているのです。こういう二重の否定の前では、どんな「意味のある」実験も「トンデモ科学」に解釈されてしまいます。

江本氏はインタビューの中で、

「結晶の撮影は本来は温度や湿度のコントロールができた部屋でやるべきでしょうが、中小企業なので限界がある」

と述べていますが、実際にその通りだろうと思います。水の結晶写真は、非常に劣悪な条件の中で、科学に素人の江本氏が自己資金で独自に開発してきた技術なのです。

体制科学者は数億円もする立派な研究室や測定装置を持っていて、それなりの研究費をもらって、恵まれた条件で実験できます。もし、江本氏の説がトンデモ科学であり、こういうトンデモ科学が蔓延することが有害だと考えるのであれば、大学から預かっている自分の研究室で、物理的条件をほぼ一致させ、一方の水には「愛・感謝」の言葉を見せ、他方に水には「ばかやろう」を見せた水の結晶写真を撮り、その両者がほとんど同じようなデータになることを示せばよいのです。そうすれば江本説は一発で反証されます。雑誌やインターネットで批判するよりも、よっぽど強力な啓蒙活動になります。

ところが、体制科学者の中で、水の結晶写真を撮った人が一人もいないようなのです。実験検証もしないで、江本氏を批判ばかりしてもしかたありません。なぜ江本氏の仮説を検証しないのかといえば、実験をしても、結果は明らかだし、自分の業績にもならないので、時間と金の無駄だと考えているからでしょう。

江本氏は、『ちくま』という雑誌の2006年4月号でも斎藤貴男氏のインタビューを受けていますが、その中で、

「一番悲しいのは、〔私を批判する科学者が〕なぜここに来ないんですかと。現場を確認もせず、データも見ないでニセ科学だって。そのこと自体が非科学的でしょう」

と反論しています。江本氏を批判する科学者は、自分は実験しなくても、江本氏の実験を実際に見て、ここがおかしい、あそこを直せ、と具体的に指摘すればよいのです。そして、江本氏がそれを受けいれるか、受けいれないかで、江本氏が詐欺師かどうかの本質がわかりますし、江本氏が実験の手法を改善したことによって、データにどのような変化が出るかもわかります。そういう経路を通して科学的真実が徐々に明らかになるはずです。

しかし、そんなことは「考えられない」「あるはずがない」という思い込みが先に立てば、建設的な対話は不可能です。体制科学者は、そもそも江本氏と対話をする気さえないのです。科学に素人の江本氏は、大学で科学を教えている我々の説に従うべきだ、と考えているのでしょう。それを受けいれないので、江本氏はトンデモ科学者だということになるわけです。これは体制科学者の側の怠慢と傲慢だと思います。

第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(2)

2006年12月22日 | 江本勝と水からの伝言
江本氏は水の結晶写真を、言葉が水に影響を与える科学的証拠として提示しました。精神は物質に直接的に作用することはありえない、という見解が科学界を支配する中で、水に言葉を見せたり聞かせたりしたら水の性質が変化し、それが水の氷結結晶写真の変化となって現われた、などと言ったら、当然、ニセ科学と見なされます。科学界が江本氏をトンデモ科学として批判し始めたのは当然でした。

『AERA』という週刊誌(朝日新聞社)の昨年(2005年)12月5日号に、

『水からの伝言』の仰天――ベストセラーの「トンデモ科学」度

という記事が出ました。題名のつけ方からして、この週刊誌がどういう姿勢かよくわかります。内容は、江本氏の『水からの伝言』の紹介と、江本氏へのインタビュー、それに対する科学者の批判です。

科学者の批判を紹介し、それに対する私の感想を述べてみます。

北海道大学・古川義純助教授はこう述べています。

「無機の物質である水が言葉や音楽に反応するというのは考えられない。荒唐無稽な話で、ニセ科学の典型的な例だ」

→「考えられない」ということで、はじめから検証する気がないわけですが、検証しないで判断を下すというのは、非科学的な態度だと思います。江本氏の説はそれほど「荒唐無稽」でしょうか?

人間は音楽に反応します。当たり前ですね。動物も音楽に反応します。モーツァルトを聴かせた牛は、乳の出が良くなることが知られていて、実際に応用されています。これは音楽という音情報の持つリラックス効果と考えられます。

ところが、耳を持たない植物も音楽に反応するのです。これは、龍村仁監督の来年公開の『ガイア・シンフォニー』第6番に描かれるはずです。微生物も音楽に反応します。モーツァルトを聴かせて醸造したワインや酒がまろやかな味になることが経験的に知られていて、実際に応用されています

しかし、体制科学者は、こういう事実さえも、「気のせいだ」とか、「考えられない」から「ありえない」として否定するのでしょう。結局、それは目の前にある事実に目をふさいでいることで、そういう人には、どのような説明をしても無駄かもしれませんが、一応、説明をしてみます。

植物も微生物も耳を持っていません。でも、生命体が音に反応することがそんなにおかしいことでしょうか? 目がない生命体でも光には反応することはどんな科学者も否定しないでしょう。生命体が音楽の持つ音のエネルギーに何らかの反応をする可能性は否定できません。

では無生物である水と音楽の関係はどうでしょうか? 音楽は音波、空気の振動です。音波が物質である水に何らかの作用を及ぼすことは当然です。

音楽(音波)が水に作用を及ぼすことまでは科学者は否定できないはずです。あとは、その影響が水にどのように残存し、どのように検出できるか、という問題です。それは現在の水科学ではわかっていないし、そもそも検出しようとさえしないのです。なぜなら、そんなことは「考えられない」からです。

音楽による水の変化が温度やPhや比重の変化でないことは当然です。その影響が氷結結晶の形として現われる、というのは江本氏の仮説です。その仮説は実験によってのみ肯定、もしくは否定できるはずで、「考えられない」というのはまさに思考停止です。

科学のブレイクスルーは、誰も考えなかったことを考えることによってのみ起こります。ニュートンしかり、アインシュタインしかり。ここにはノーベル賞の種が潜んでいるのかもしれないのです。人のやっていることの後追いばかりしていれば安全ですが、革命的な理論も発明も生まれません。

江本氏はさらに、言葉や文字も水に影響を与える、と主張しています。これを江本氏は「波動 HADO」と名づけ、それが量子力学と関係しているかのような説明をしています。その部分の説明はやはり非科学的です。私は江本氏の理論を100%認めているわけではありません。

量子力学が対象としているのは、素粒子という物質波動です。しかし、言葉や文字が発しているのは、想念波動です。物質波動と想念波動の区別をしないで、それを「波動 HADO」という語で一緒くたにするのは誤解を招きます。音楽は物質波動ですから、それが物質である水に影響することは当たり前です。それでは想念波動は物質に影響を与えるのでしょうか?

想念波動というものは現在の科学では、その存在が認められていません。しかし、念力やESPやテレパシーという現象が現実に時々観測されていることは否定できません。現在の科学で検出できない、ということと、存在しない、ということとは別問題です。科学は、そういうことについてはまだよくわからない、と言うべきでしょう。



第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(1)

2006年12月17日 | 江本勝と水からの伝言
最近、仕事のほかに、色々な催し物に参加することが多く、ブログの更新が滞っています。

昨日(12月16日)は、日本教育会館で開かれた第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」に参加しました。今年は、江本勝さんが(株)IHMを創立して20周年ということで、それを記念してかなり盛大に行なわれました。

プログラムは、江本さんのこれまでの仕事を、関係者や協力者のスピーチもまじえながら紹介するというもので、それに、EMの比嘉照夫さん、船井総研の船井幸雄さんの講演も加わるという内容でした。

江本さんは、MRAという波動測定器に出合い、「波動」という目に見えないエネルギーが存在することを確信し、そしてさらにそれを目に見えるようにするために、水を凍らせてその結晶写真を撮影するという活動を始めました。その結果、水が様々なエネルギーの影響を受ける一種の情報媒体であると考えるようになりました。水に影響を与えるエネルギーには、気や言葉や想念なども含まれます。

江本さんの撮影した水の結晶写真は、その美しさともあいまって、世界中に大きく広まりました。

ところが、江本さんの活動が有名になるにつれて、科学者の側からの江本さんに対する風当たりも強くなってきました。

Googleで「江本勝」というキーワードで検索すると、「江本勝 トンデモ」「江本勝 疑似科学」「江本勝 カルト」という項目が出てくるのには笑ってしまいます。こういうキーワードで検索する人が多いからなのでしょうか?

このように江本さんが批判されるのは、江本さんの側と科学者の側の両方に問題があるからだと思います。

そもそも現代の科学は、気や言葉や想念が独自のエネルギーや波動であるということを認めていません。現在の科学の理論的枠組み(パラダイム)と測定装置でとらえられないものは、存在しない、というのが99%の科学者の信念です。とくに、物質と精神はまったく別もので、両者の間に直接、相互作用が起こるということはありえない、というのが現代科学の大前提です(デカルト的パラダイム)。

ですから、たとえば念力でスプーンが曲がる、などということは現在の科学理論では起こりえないことなのです。そこで、そういう現象にぶつかると、インチキ・手品に違いない、と考え、その証拠を求め、少しでも怪しく見えるそぶりがあれば、やっぱりインチキだった、と結論するわけです。実際またインチキ・手品のたぐいが少なくありません。一つでもインチキが発見されれば、それ見たことか、すべてインチキだ、となるわけです。

そこには、念力なるものがあるかどうか、虚心坦懐に検証してみようという態度はまったく見られません。ある科学者がそういう公平な態度で実験しようとすると、それだけでうさんくさい目で見られますし、もし念力の存在が証明できたなどと言おうものなら、それを追検証しようとさえせず、その科学者は「トンデモ科学者」というレッテルを貼られ、猛烈なバッシングに見舞われ、大学や研究所にいられなくなります。ですから、本当は念力なるものがあるかもしれない、と思っている科学者でも、それを自分の研究テーマとして採り上げ、本格的に実験することはとうていできません。そういうことをやったら、科学者としての自分の死を意味するからです。

そこで、念力の研究は、せいぜい「超心理学」というカムフラージュをして、大学の片隅で細々と行なわれるだけで、それさえ科学の主流からは無視されています。東大や京大で念力の研究をしている学者がありますか? そういう講座がありますか? そんなことをしたら、その科学者は即座に一流大学から追放されます。

このような雰囲気の中では、本格的な念力の研究など行なわれるはずはありません。