平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

(11)富田メモ

2006年08月08日 | 富田メモと昭和天皇
私はこれまで、富田メモの真偽を検証しつつ、その背後にかいま見える昭和天皇の真意をさぐってきました。これまでの検証によって、この言葉の語り手は昭和天皇以外にはありえない、というのが私の結論です。このメモは、これまで側近らの証言によって推測されていた昭和天皇のお気持ちを明確に示す物証です。

靖国神社問題をどのようにするかは、国民一人一人に投げかけられた課題です。

その際、次のような問題を明確にしておく必要があります。

A. 心の問題か?

小泉首相は次のようにコメントしました。

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[東京 20日 ロイター] 小泉首相は、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示していたとされる問題で、自身の靖国参拝に影響はあるかと聞かれ「ありません。それぞれの人の想いだからだ。強制するものではない」と答えた。官邸内で記者団に語った。
 小泉首相は、今後の参拝について「心の問題だ。行ってもよし、行かなくてもよし、誰でも自由だ」と明言を避けた。また、どのような追悼施設が望ましいかとの質問には「国としてどのような施設がいいのか、様々な意見があると承知している」とし「今後検討されていくものだ。今どういうものがいいかというのは結論が出にくい」と述べた。
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A級戦犯が祀られている靖国神社への参拝を「心の問題だ」と言えるのは、私人たる一国民です。しかし、首相として参拝することは、「日本国は東京裁判史観を否定する」という主張につながります。とくに中国に対しては、日中共同宣言を否定することになります。個人や評論家が東京裁判史観を否定するのは自由です。A級戦犯に尊崇の念を表するのも自由です。しかし、首相が靖国神社参拝という形でそれを行なうのであれば、その根拠を関係諸国に明確に説明しなければなりません。その説明なしに「心の問題だ。心の問題を批判するのはおかしい」というのは通用しません。

靖国神社はどこの町にでもある神社の一つでもないし、キリスト教や仏教のような宗教法人でもありません。きわめて政治的な装置なのです。政治家がそこに参拝するということは(参拝しないということも)、心の問題だけではなく、あるイデオロギーを支持するかしないかという、明白に政治的な行為でもあるのです。小泉首相の「心の問題だ」というのは、言い逃れです。こういう不誠実な対応が中国、韓国との外交関係を悪化させた一面があったことは否定できません。

B. 天皇の政治利用か?

富田メモを根拠に靖国神社問題を論ずること(公式参拝に反対したり、A級戦犯の分祀を求めたり、べつの慰霊施設について論じたりすること)は、天皇の政治的利用だ、という意見が、靖国派の中から強まっています。たしかに、それは一種の天皇の政治的利用です。

ところが、靖国派も天皇を政治的に利用していたのです。

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昭和天皇は、自らの名の下に日本が戦った第二次世界大戦とその犠牲者について、誰よりも深い哀悼の想いを抱いておられたはずだ。戦いで、或いは東京裁判をはじめとする戦争裁判で、犠牲になった全ての人々の慰霊を何よりも大切な務めだと思っておられたはずだ。だからこそ、陛下は靖国神社に関して悲痛ともいえる和歌を残している。

「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」と詠まれたのは、昭和61(1986)年8月15日である。前年の85年、中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝し、中国がそれを非難した。氏は中国の非難を恐れてその後は参拝を中止した。右の歌はそのような政治の軋轢のなかで翻弄される靖国神社と、合祀されている“A級戦犯”をも含めた全ての人々に対する深い想いを表現したものだ。

昭和63(1988)年8月15日、崩御の4ヵ月半前にも和歌を詠まれた。

「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」

何の兆しがあるかの解説は、無論ない。だが、世の中の靖国を巡る空気は、たしかに柔らいでいたのではないか。
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   櫻井よしこ、『週刊新潮』 '05年6月9日号、日本ルネッサンス 第168回

櫻井氏はじめ靖国派は、A級戦犯の合祀を憂えていた昭和天皇の歌を、まったく逆の意味に解釈して靖国神社公式参拝を推進しようとしていたのです。その上、世界平和を祈る「やすらけき・・・・」の歌を、靖国神社問題に絡めるのはこじつけとしか言いようがありません。

しかし、昭和天皇の真意はその逆だったのです。すでに引用した朝日新聞の記事ですが、

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 87年の8月15日。天皇は靖国神社についてこんな歌を詠んだ。
 この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし
 徳川氏によると、この歌には、元歌があった。それは、靖国に祭られた「祭神」への憂いを詠んだものだったという。
 「ただ、そのまま出すといろいろ支障があるので、合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた」
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「元歌」を出せば、昭和天皇の真意は一目瞭然となります。

靖国神社という政治的テーマを歌っている歌の解釈は、どのような解釈をするにせよ、解釈するという行為そのものが政治的行為になり、天皇の「政治利用」にならざるをえません。

天皇制を支持するにせよ反対するにせよ、そもそも天皇制という制度そのものが政治的です。天皇は多かれ少なかれ政治的役割をまぬがれえません。

昭和天皇は、立憲君主として、戦前も自分の意志を政治に直接反映させることは控えましたが、しかしそういう政治的行為を一切しなかったわけではありません。昭和天皇はことあるごとに、中国大陸の問題を平和的に解決すること、アメリカとの戦争を避けることを政治家や軍人たちに要請しました。しかし、それは常に間接的な要望にとどまり、専制君主として自分の政治的意志を貫くことはありませんでした。

そういう陛下が直接、政治的決断を下したのは、二・二六事件と終戦の時です。二・二六事件については、軍事クーデターであり、岡田首相は暗殺されたと思われていて(実際には助かっていた)、内閣が機能しなかったので、立憲君主制を守るために昭和天皇が自分の意志を発動しました。終戦の時は、一刻も早く日本の進路を決しなければならないときに、閣議が分裂して結論を出せなかったからです。

もちろん、立憲君主制を軽々に破り、何でもかんでも天皇の意志を聞くということはあってはならないことです。しかし、政治が機能不全に陥り、日本国民が右するか左するか決めかねているとき、その決断を陛下におまかせするというのは、あってもいいことだと思います。

現在の日本は明らかに靖国問題で暗礁に乗り上げています。戦死した一般の兵隊や軍人を追悼するということに反対する日本人はいないと思います。靖国神社は戦没軍人を追悼する場として確立しています。もし、靖国神社に対する中国・韓国の非難を受けいれて、首相が靖国神社の参拝をやめたり、神社がA級戦犯を分祀したら、これは中韓の外圧に屈したことになります。外圧に屈したという屈辱感は、鬱屈した恨みを醸成し、ますます反中・嫌韓のナショナリズムを煽ることになるでしょう。それは極東の平和を脅かしかねません。

しかし、昭和天皇のご遺志を尊重する形で改めるのだ、ということにすれば、これは外圧に屈したことにはなりません。それどころか、中韓に昭和天皇の意義を認めさせることにもつながります。

※神道では、特定の御祭神を分けて取り除くというようなことはできないのだ、という教義上の議論がありますが、ここでは立ち入りません。参考:

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A級戦犯合祀問題を解消するため、A級戦犯のみを分祀するという案が挙げられることがあるが、祭神の宗教的位置づけや、靖国神社には戦没者の霊魂を取り扱う「位牌(物質的象徴)」がなく、分祀の対象(実物としての位牌)が存在しないため、そもそも分ける事ができないといった理由から、靖国神社が分祀を受け入れることはないと考えられている。しかし、それは分祀したくないものたちが、本来A級戦犯を廃祀したうえで別に祭ればよいという意味で分祀できるとする分祀意見を字面だけを曲解したものでしかなく分祀は可能だという意見もある。事実過去に徳川による豊国大明神廃祀など多くの神社において政治的廃祀は実行されてきた歴史的事実がある。 また、靖国神社においても間違って合祀されたとして祭神簿から抹消された実例は多々ある。有名な例としては横井庄一や小野田寛郎の例がある。彼らは戦死者として靖国神社に合祀されていたが、後年、生還すると、「死亡していない以上、もともと合祀されていなかった」と靖国神社は柔軟な対応をしている。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C#A.E7.B4.9A.E6.88.A6.E7.8A.AF.E3.81.AE.E5.88.86.E7.A5.80

私は「富田メモ」は、二・二六事件と終戦に次ぐ、第3の御聖断となりうると思います。

いずれにせよ、「何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」という昭和天皇の遺言を、私どもは深くかみしめ、今後の日本のあり方と諸外国との関係を築いてゆかなければならないと思います。そして、日本一国の平和にとどまらず、

「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」

というお歌に示された、世界平和の実現を望む昭和天皇の遺命を果たすように努力しなければならないと思います。

富田メモについての考察はひとまずこれで終えたいと思います。

なお、8月末までこのブログは休みにさせていただきます。


(10)富田メモ

2006年08月07日 | 富田メモと昭和天皇
昭和天皇がA級戦犯の一人一人をどのように見ていたのかは、判断のしようがありません。ごくわずかの人物についてを除いては、証言がこのされていないからです。富田メモの「A級が合祀されその上 松岡、白取までもが」というのは、昭和天皇がA級戦犯全員に不快感を持っていたことを必ずしも示すものではありません。

「泥酔論説委員の日経の読み方」の以下の指摘はたいへん適切だと思います。

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昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に不快感を抱いてことを書き記した故富田朝彦宮内庁長官の日記・手帳(富田メモ)は、政界や研究者の間に大きな反響を巻き起こした。富田メモは現代史を考える上で、どのような意味を持つのか、今後どのような検証作業が必要なのか。作家の半藤一利氏と、東大教授の御厨貴氏に話し合ってもらった。

半藤氏も御厨氏も、A級戦犯合祀そのものが天皇の靖国不参拝の理由であり、「文句なしに決着した。解釈は入らない。この問題に関しては結論が出たと考えていい」(半藤氏)、という立場を取っています。
これに対して泥酔は、天皇はA級戦犯全体を指弾しているのではなく、わざわざ名指しした松岡洋右外相と白鳥敏夫駐伊大使の合祀をとりわけ問題視しており、これが参拝しなくなった決定的理由だという説です。
仮に前者を広義説、後者を狭義説と呼ぶことにしますが、広義説を敷衍すると、では東京裁判で政治的な理由からマッカーサー元帥によって不問に付された天皇ご自身の戦争責任をも背負っていった東條首相らに対し、あまりにも冷酷ではないかという疑問がでてきます。
戦犯指名された東條大将らに対し、「余の忠臣であった」と嘆かれたと伝えられていますが、広義説を取るとどうもそれと整合性がありません。
一方、『昭和天皇独白録』や『侍従長の遺言』などの資料では、天皇の危惧をよそに三国同盟を結んだ松岡外相への不信感が強かったという記述もあります。
以上を総合的に判断すると、「A級戦犯が合祀された上に、三国同盟を進めた松岡、白鳥までが合祀されるに及び、それを強行した松平宮司に抗議する意味で参拝をとりやめた」というのが狭義説です。
ただ、広義説だけでなく狭義説にしても天皇は東京裁判の結果は受容れているのだなという点について一致しており、これは今後の議論のテーマとなりましょう。
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http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=329372&log=20060723

A級戦犯処刑の日の昭和天皇のご様子は狭義説を支持しています。さらにまた以下のような東条元首相の孫である東条由布子さんの証言も狭義説を補強します。

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 昭和天皇さまからは東条はいろいろなお気遣いを賜わっておりました。昭和23年12月23日に7人が処刑されて以来、毎年、祥月命日には北白川宮家から陛下のお使いの御方が見えられ、御下賜のお品を頂戴し、また”東条の家族は今どうしておるだろうか?”というお言葉まで頂戴しておりました。祖母からその話を聞きましたときは、感動で胸がいっぱいになったことを覚えております。ですから、陛下が”富田メモ”にあるような事をいわれる御方とはとても思えないのです
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  週刊新潮2006年8月10日号、28頁

東条英機は、GHQの逮捕の直前に拳銃で自殺しようとしますが、未遂に終わりました。その後、東京裁判で彼は、戦争の罪を天皇に代わって自分が全部引き受ける証言をして、天皇を連合国側の訴追からまぬがれさせようとしました。東条のこのような「忠義」に、昭和天皇が心を動かされたことは疑いありません。

A級戦犯とひとくくりにされていますが、個々の戦犯に対する昭和天皇の想いは、一人一人違ったはずです。それが生身をもった人間というものです。昭和天皇とてその例外ではありません。

しかし、その個人的な想いと、天皇という公的立場とは違います。昭和天皇が東条家に心配りをしたのは、あくまでも個人としての立場であり、日本国の象徴である天皇として東條英機を顕彰したわけではありません。東条英機はあくまでも、日本が受けいれた東京裁判で戦争の最高責任者とされた人物であり、その人物を公的立場の天皇が評価し直すことはできないからです。

また、「一視同仁」の立場上、天皇陛下の個人的評価や好き嫌いを元に、A級戦犯をさらに分類して、靖国神社に祀ってよい人物と祀ってはならない人物に分類するなどということは、とうていできません。

だとすると、A級戦犯については、天皇の個人的評価は別として、同じような扱いをするしかありません。

A級戦犯を靖国神社に合祀し、そこに天皇なり首相が正式に参拝するということは、日本国全体が東京裁判を否定し、大東亜戦争を正義の戦争と評価することにつながります。しかし、昭和天皇はあの戦争を悲劇とお感じになり、決して正義の戦争だとは思っておりませんでした。

ところが、松平宮司が求めていたのは、まさにA級戦犯が合祀されている靖国神社に天皇や首相を参拝させることによって、東京裁判史観を覆すことでした。そのようなイデオロギー的闘争に天皇陛下が与することはとてもできませんでした。「A級が合祀されその上 松岡、白取までもが」という富田メモ言葉は、

「A級戦犯を靖国神社に合祀することは、日本の戦前の軍国主義を肯定し、戦後の平和主義を否定することにつながり、日本国のあり方として問題があると思う。さらにその上、松岡や白鳥のような、国を誤らせた外交官まで合祀するのはとくに個人的に納得しがたい」

という意味に私は解釈いたします。

すなわち、私は、昭和天皇個人の評価としては狭義説を採りますが、昭和天皇が靖国神社の参拝を取りやめたのは広義説によるものと考えます。


富田メモ(9)

2006年08月05日 | 富田メモと昭和天皇
※週刊新潮の記事についての補足
 週刊新潮は、富田メモの「私は 或る時に・・・・それが私の心だ」の部分しか検討していません。そのため、富田メモの①の部分のほか、②の「戦争の感想を問われ 嫌な気持を表現したが・・・・」の部分も検証していません。「つらい」を「いやな」に言い換えた理由を説明している②が徳川侍従長の発言ではありえないことは、すでに(4)で述べました。

以下では「A級戦犯」ということについて考えてみたいと思います。

昭和天皇がなんとかして戦争を回避しようとしたことは、すでに数多くの証言、資料から明らかになっています。昭和16年9月6日の御前会議では、「四方の海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらん」という明治天皇の御製を読み上げ、

「余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである」(近衛手記)

とおっしゃいました。

しかし、日米の対立は交渉によっては解消されず、日本はついにアメリカとの戦争に突入しました。

昭和天皇は常に、明治天皇を鑑として仰ぎ、立憲君主制を守ろうと努めました。日本国民の代表である内閣が戦争を選択した以上、立憲君主はそれを裁可するしかありません。

※昭和天皇の立憲君主制へのこだわりは、本ブログの「三島由紀夫について」でも詳しく触れています。

日本は、昭和天皇の「御聖断」によって敗戦を受けいれました。天皇の政治的決定は内閣が機能不全になった行なわれたものです。

戦後、「戦争を終わらせる力が天皇にあったのであれば、そもそもなぜ天皇は戦争開始の許可を下したのか?」という疑問が、国の内外から出されました。極東軍事裁判(東京裁判)においても、天皇が訴追され、戦争犯罪人として処罰される可能性もありました。裁判に対する弁明書として準備されたのが、『独白録』という文書です。

その結論で昭和天皇は、

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 開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異なる所はない。
 終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまヽその裁断を私に求めたのである。
 そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。
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と述べています。

さて、中国大陸への侵略や日米戦争は、明治開国以降の日本が欧米列強との帝国主義的な覇権闘争の末におもむいたところであり、藤尾正行氏が述べるように、日本の邪悪な侵略意図だけで生じたものではありません。日本が100%の悪で、連合国側が100%の正義ということはありえません。日本には日本の言い分、日本の正義があります。しかし、戦争の結果として、日本だけでも300万人、中国をはじめアジア全体では2000万人の人々が戦死しました。このような大惨禍に直面して、昭和天皇は平和こそが何よりも尊い価値であることを確信したのです。

昭和天皇は昭和63年4月25日の記者会見で、

「何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。」

これは、戦争の中で苦しみ抜き、ご自分の命をかけた御聖断で戦争を終わらせた昭和天皇の心の叫びであり、遺言でもあります。

そのような昭和天皇には、日本を結果的には戦争の惨禍に導いた政治・軍事の指導者たちに対して複雑な感情があったであろうと推測されます。

A級戦犯とは、極東国際軍事裁判において「平和に対する罪」について有罪判決を受けた戦争犯罪人をさします。裁かれた戦犯にはB級とC級もあります。A,B,Cの区別は、ナチス・ドイツと日本を裁くために導入されたものです。

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A項「平和に対する罪」に関連する犯罪は、ドイツ-ニュルンベルクの国際軍事裁判所と日本-東京の極東国際軍事裁判所で審理され、それ以外のB項「通例の戦争犯罪」・C項「人道に対する罪」を主とした犯罪は、各地の連合軍と犯罪が行われた各国において審理された。

B項「通例の戦争犯罪」とは、戦時国際法における交戦法規違反行為を意味する。C項「人道に対する罪」とは「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」と定義されたが、この法概念に対しては当時から賛否の意見が分かれていた。なお、このC項は、日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。

一又正雄(国際法学者)は、東京裁判研究会編『共同研究パル判決書(上)』(講談社、1984年)「第一章 パル判決の背景 東京裁判の概要」においてB級は指揮・監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、兵士、軍属であるという主旨の説明している。

なお、A級、B級、C級の区別は国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判所条例(英:Charter of the International Military Tribunal for the Far East)における単なる分類であり、しばしば誤解されるように罪の軽重を指しているわけではない。

また、「BC級戦犯」という呼称はアメリカ合衆国や日本で使われるものであり、イギリスやオーストラリアでは「軽戦争犯罪裁判(英:Minor war crimes trials)」と呼ばれている。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF

A,B,Cは罪の重さの等級ではなく、罪の種類による分類です(ですから、野球やサッカーの試合で、「敗戦のA級戦犯は○○だ」などという言い方は不適切です)。このうち、Aの「平和に対する罪」とは、

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平和に対する罪(へいわにたいするつみ、Crime against peace)とは、国際法で、不法に戦争を起こす行為のことをいい、宣戦を布告せるまたは布告せざる「侵略戦争または国際条約・協定・保障に違反する戦争の計画・準備・開始および遂行、もしくはこれらの行為を達成するための共同の計画や謀議に参画した行為」として、第二次世界大戦後の東京裁判とニュルンベルク裁判の時に人道に対する罪とともに初めて用いられた戦争犯罪の一種である。

平和に対する罪は侵略戦争に関する個人の責任を対象としており、東京裁判やニュルンベルク裁判では平和に対する罪をa項と規定している。

日本ではこれに問われた戦争犯罪人はA級戦犯と呼ばれている。また、法律的には第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判のために制定された「事後法」であるとして、 刑法の国際的な原則からすると、罪状としては成立し得ないとする国際法学者の意見もあり、現在ではそれがほぼ常識になっている。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E7%BD%AA

「不法に戦争を起こす行為」とはどういう行為でしょう? 誰が不法な戦争かどうかを決定するのでしょう? アメリカのイラク攻撃やイスラエルのレバノン攻撃は不法な戦争にしか見えませんが、処罰されていません。

またC級についていえば、アメリカの広島・長崎への原爆投下や東京空襲は明らかに、ナチスのユダヤ人虐殺にも匹敵する「人道に対する罪」ですが、アメリカの戦争犯罪は処罰されませんでした。また、米軍は日本兵に投稿を呼びかけながら、投降した日本兵を射殺したことが知られていますが、これも明らかに戦争犯罪です。東京裁判(極東軍事裁判)が、裁判という名を借りた、勝者による敗者の処罰という「暗黒裁判」の一面があったことは否定しようがありません。

A級戦犯は「平和に対する罪」によって訴追された人々ですが、このような罪は、「刑法の国際的な原則からすると、罪状としては成立し得ない」ものです。しかしながら、日本は、東京裁判の判決を受けいれるしか独立の道はありませんでした(サンフランシスコ平和条約)。

東京裁判が法的には不当なものであり、日本の正義が反映されていないとはいえ、日本人と近隣諸国民を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちは、政治的責任、結果的責任はまぬがれえません。日本が戦争の道に入ってしまったのは、決してA級戦犯として訴追された人々だけに責任があったわけではなく、そのほかの政治的、経済的、軍事的、思想的指導者にもその政治的責任はありました。しかし、A級戦犯は、すべての指導者の代表として責任を負わされたのです。

そして、日中国交回復の時にも、「日本の軍国主義の行いにより被害を受けたのは中国とアジア各国の人民だけではない。日本の人民もまた被害者だった」という解釈によって、A級戦犯の罪を再確認したのです。

しかしながら、昭和天皇にとってみれば、A級戦犯もすべて自分の臣下です。

週刊新潮も引用していますが、『木戸幸一日記』には、天皇の「日本人が日本人を裁くのは情において忍びない」「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」という言葉が記されています。

A級戦犯として起訴された28名のうち、7名に死刑の判決が下されました。

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 A級戦犯に判決が言いわたされたのは、この年(昭和23年)十一月十二日のことだった。そして七人の戦犯が処刑されたのは十二月二十三日の未明である。天皇はいずれの日も政務室にとじこもったままであった。侍従の村井長正は、「この二日とも、陛下は目を真っ赤にされておられました」と証言している。
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   (保坂正康『昭和天皇』266頁)

東条英機以下、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、武藤章、松井石根、広田弘毅という処刑された7名に対して、昭和天皇は胸も張り裂けんばかりの想いをいだいたに違いありません。

富田メモやその他の側近の証言から、昭和天皇は、A級戦犯の中でも、とくに松岡洋右と白鳥敏夫の合祀を批判していたと推測されます。この二人はA級戦犯として起訴されましたが、死刑にされることなく獄中で病死しました。日本を誤らせた三国同盟を推進した外交官であり、戦死したわけでもなく、処刑されたわけでもない二人が、なぜ他の戦死者――いわば彼らの被害者――と一緒に靖国神社に祀られたのか、昭和天皇は納得することができなかったのでしょう。

富田メモ(8)

2006年08月04日 | 富田メモと昭和天皇
昭和天皇がとくにお怒りになったのは、「松岡、白鳥」のような、軍人でもない外交官までもが合祀されたことです。

昭和天皇は米英との戦争を避けようと最初から最後まで腐心なさいました。昭和天皇がとくに心配なさったのは、日独伊三国同盟の締結により、米独戦により日本も対米戦に巻き込まれることでした。ところが松岡洋右は、当時、欧州大戦で破竹の勢いで進撃するナチス・ドイツとの同盟を選択しました。その時の合い言葉が「バスに乗り遅れるな」でしたが、そのバスは奈落に転落するバスだったのです。

誤った政治判断をして、日本国民を塗炭の苦しみに突き落とした責任者の二人を、しかも戦場で「天皇陛下万歳」を叫んで散華したわけでもない外交官を、どうして軍人を祀る靖国神社に祀るのか――これが昭和天皇のお怒りです。

昭和天皇はすべての国民に対して「一視同仁」でなければならないそのお立場上、公の場では、決して個々の政治家や軍人について批判めいたことはおっしゃいませんでした。新聞記者が陛下の率直な意見を聞き出そうとして、記者会見の場でそういう質問をすると、それに対する陛下のお答え常には、「人物の批判とかそういうものが、加わりますから、今ここで述べることは避けたい」ということでした。富田メモに、「関連質問 関係者もおり批判になるの意」とあるとおりで、公の場では個々人への批判につながるような「関連質問」にはお答えにならなかったのです。

しかし、そのことは、昭和天皇として個人の意見や想いがなかったということではありません。実際はその逆で、昭和天皇にはかなり激しい好き嫌いの感情がありましたが、それを強い理性で抑制されていたのです。『独白録』の松岡洋右に対する評などは、かなり辛辣なものです。

そういう率直な想いは、『独白録』ほか、側近たちの日記にもかいま見えます。昭和天皇は心を許した側近たちにはそういう想いを常々語っていたことがうかがわれます。靖国神社についてもそういう想いがあってもおかしくありません。

実は、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に反対して靖国神社の参拝を取りやめたのだ、という説は以前から出ていました。それは、側近の人々の発言から推測されていました。

富田メモの発言主として一部の人々から嫌疑をかけられた徳川侍従長も、その説の源となった一人です。ある記者が次のように述べています。

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 昭和の最後の2年間、私は宮内庁を担当していました。昭和天皇について知りたいことはたくさんありましたが、その一つは、なぜ1975年11月を最後に靖国神社へ行かなくなったのか、ということです。この問いに答えられる人は天皇の側近である徳川義寛・侍従長しかいません。何日も朝駆けし、出勤途中を待ちかまえて尋ねました。徳川侍従長は口が堅く、ほとんど無言の行でしたが、A級戦犯合祀と関係があるらしいこと、徳川侍従長も合祀に批判的だったことは分かりました。

 後に侍従長を退いてから同僚の記者が取材した証言録によると、以下のような経緯でした。――靖国神社の合祀者名簿は例年、10月に神社が出してくるが、1978年は遅れて11月に出してきて、A級戦犯を合祀したいという。その10年ほど前に総代会はA級戦犯を合祀する方針を決めていたが、旧皇族である宮司の筑波藤麿さんが先延ばししてきたのに、宮司が代わると間もなく合祀を実施した。徳川氏は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただしたが、押し切られた。

「靖国神社は元来、国を安らかにするために奮戦して亡くなった人をまつるはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も一緒に合祀するのは異論も出るでしょう」「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、徳川氏は語っています。昭和天皇は、戦後も1952年を初めとして数年おきに靖国神社へ参拝していましたが、事実として、A級戦犯の合祀後は行っていません。
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http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html

侍従長勇退のおり、「乾徳をつねに仰ぎてひたぶるに 仕へまつりぬこの五十年を」と歌った徳川侍従長は、昭和天皇のお心をよく理解し、その御心を体して発言し行動したことは、毫も疑いえません。その徳川侍従長の靖国神社に対する考えは、昭和天皇のお考えと一つであったと思われます。

またそれ以前に侍従長だった入江相政(すけまさ)氏の1979年4月19日の日記には、

「朝刊に松岡、白鳥などの合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになっちまふ。」(『入江相政日記』第5巻)

とあります。この日にA級戦犯らの靖国合祀の報道がなされたのです。「いやになっちまふ」という入江氏の感情の背後には、当然、昭和天皇のお心があったことでしょう。

すでに引用した朝日新聞の記事には、別の側近たちの証言も出ています。

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 A級戦犯合祀に不快感を抱いている――。その思いは、複数の元側近らから聞いていた。
 「陛下は合祀を聞くと即座に『今後は参拝しない』との意向を示された」
 「陛下がお怒りになったため参拝が無くなった。合祀を決断した人は大ばか者」
 ・・・・
 その頃、別の側近はこんなことを語っていた。 「政治家から先の大戦を正当化する趣旨の発言があると、陛下は苦々しい様子で、英米の外交官の名を挙げて『外国人ですら、私の気持ちをわかってくれているのに』と嘆いておられた」
********************

昭和天皇は終戦後、数年に一度、靖国神社に参拝(正式には親拝というのだそうです)されていましたが、昭和50(1975)年11月21日の参拝が最後です。A級戦犯が合祀された1978年以降は一度も参拝されていません。

※週刊新潮2006年8月10日号が「「昭和天皇」富田メモは「世紀の<大誤報>」か」という特集を行なっています。その記事のまとめはこちらのブログに出ています。
http://blog.goo.ne.jp/tech_innovation/e/42ecb8bb7232195c6c079936a3077dd3

週刊新潮の記事は、ネットで出ていた徳川侍従長説を補強したものです。私もその記事を読みましたが、富田メモは昭和天皇の言葉である、という私のこれまで検証を覆す論拠は見出せませんでした。それぞれの論点に簡単に触れておきます。

1.徳川義眞(よしさね)氏(徳川侍従長のご長男)…「父の発言ににている」「…父は軍人が嫌いでした…」

 徳川侍従長の発言に似ていることはたしかですが、徳川侍従長が昭和天皇のお心に反したことを言うはずはありません。たとえメモが徳川侍従長の言葉であったとしても(私はそうは考えませんが)、天皇のお心と同じだと思います。

2.東條由布子氏(東條閣下のお孫さん)…「陛下が富田メモのような事を言われる御方とはとても思えない…」

 これについては明日以降述べます。

3.所功氏(京都産大・日本法制史)…陛下はA級戦犯というくくりかたをされるはずがない

 これについては明日以降述べます。

4.神社本庁関係者…参拝について言及
5.中西輝政氏(京大)…昭和天皇は軍人のことを股肱の臣といって、ことのほか親しく感じておられました。

 「股肱(ここう)の臣」というのは、「自分を手足のように支えてくれる家臣」という意味で、一般的な表現です。昭和天皇が「股肱の臣」という言葉を使って一番有名なのは、二・二六事件のとき、「朕が股肱の老臣を殺りくす。此の如き凶暴の将校等その精神に於て何ら恕すべきものありや、と仰せられ、又、朕が最も信頼せる老臣を悉(ことごと)く倒すは、真綿にて朕の首を締むるに等しき行為と漏らさる」(『本庄繁日記』)とおっしゃったことです。昭和天皇が軍人(青年将校)の無謀を怒り、重臣たちをことのほか頼りにしていたことを示すお言葉です。

6.元宮内庁職員…親の心子知らず、筑波がよくやった、は侍従長発言としてOK

 これは1.と同じ主旨ですね。

7.当時の宮内庁記者…25日の会見は15分ほど。陛下の体調は悪く、天皇誕生日の記事を出す各社は、富田氏らにブリーフィングしてもらわねばならなかった。

 ということは、富田氏がそのブリーフィングについて後日、昭和天皇に報告したはずで、富田メモがその時の会話のメモである可能性がいよいよ高くなります。

8.八木秀次(高崎経済大)…昭和天皇の言葉使いとしては違和感がある

 八木氏は昭和天皇の日常の言葉づかいを知っていたのでしょうか?

9.日経新聞社長室 「富田メモは今年5月に入手したものです。日記が10冊と手帳が二十数冊です。すべてに目を通して点検し、歴史家などの意見も聞いて、検証を加えた上で報道しました。報道した発言が昭和天皇以外の方のものであることはあり得ません」-検証方法は?「詳細については申し上げられません。取材の舞台裏をこと細かに説明するということはしておりません。今後、われわれが必要と判断すれば紙面で明らかにしていきます」
10.御厨貴氏(東大)「私は、公表されたあの部分のメモしか見ていません。…」
11.富田広士氏(富田氏のご長男)…「…(精査の上で)公開すればいいのでは、と思っています」
12.徳川侍従長の動向…4/13侍従職退官、4/26(火)侍従職参与に就任し、火、木出勤となる。28(木)は参与として初出勤。(宮内庁記者)
13.富田氏の動向…4/28(木)は富田氏が、記者たちのために陛下にお会いして改めて伺ったメモ、とされている。ただし、陛下のお具合が悪いので、侍従長から富田氏がお話を聞く、ということはありうる(宮内庁記者)。

 この「侍従長」はもちろん徳川氏ではありません。

徳川侍従長説では、富田メモの①の部分(昨年の記者会見を回顧している部分)がどうしても説明できません。



富田メモ(7)

2006年08月03日 | 富田メモと昭和天皇
④のその次には

「=奧野は藤尾と違うと思うが
  バランス感覚のことと思う
  単純な復古ではないとも。」

とありますが、これは誰の発言でしょうか。

実は富田氏は「=」という記号をその上でも使っていました。①の「=(2)については記者も申しておりました」というところです。この文章は明らかに富田氏の発言です。

とすると、「=」という記号は、富田氏が昭和天皇に申し上げた自分の言葉をメモするときに使った記号であると推論することができます。つまり、昭和天皇が藤尾元文相にも言及されたので、それに対して富田氏が、奥野氏と藤尾氏の違いについて自分の考えを申し上げ、そのことをメモしたものと推測されます。その発言は、「奥野氏には藤尾氏と違いバランス感覚があり、単純な復古主義とは言えないかと思います」という内容であったと思われます。

昭和天皇には、富田氏の発言が奥野氏を擁護するように聞こえたのかもしれません。そこで、天皇はご自分のお気持ちを率直に吐露することにしたのでしょう。

********************
 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ
********************

まず固有名詞の説明から――

「松岡」は日独伊三国同盟を締結した松岡洋右元外相(故人)です。
「白取」は白鳥敏夫元駐伊大使(故人)で、松岡洋右の片腕として、三国同盟の締結を推進しました。
「筑波」は筑波藤麿・靖国神社元宮司(故人)です。1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀を見合わせました。
「松平」は、終戦直後の最後の宮内相、松平慶民氏(故人)です。「東京裁判対策や『独白録』の聞き取りなどに当たり、天皇退位論が高まった時も「退位すべきではない」と進言した有力な側近だった」(朝日新聞、すでに引用した記事)
 ※その後、宮内省は宮内庁になりました。
「松平の子」は、慶民氏の息子で、1978年に筑波氏のあとに宮司になった松平永芳氏(故人)です。

松平慶民氏は、昭和天皇の率直な大戦回顧録である『昭和天皇独白録』の聞き取り役の一人でした。天皇の独白をつぶさに聞いた松平慶民氏が、天皇の平和への強い意志を知り、「平和に強い考があった」ことを昭和天皇は確信していたのです。

ところが、その息子で靖国神社の宮司になった松平永芳氏は、「親の心子知らず」だと昭和天皇は断定しています。

松永氏は宮司になった直後の1978年10月にA級戦犯を合祀しました。松平氏はその経緯を、雑誌『諸君』92年12月号に掲載の「誰が御霊を汚したのか――『靖国』奉仕十四年の無念」という文章の中で語っています。この文章は『靖国神社をより良く知るために』(平成四年十二月二十五日、靖国神社社務所発行)というパンフレットの中にも収録されています。論文全体はインターネットにアップされてはいませんが、その主な内容は「Web版正論」でも知ることができます。

「誰が御霊を汚したのか」を読んで私が最初に驚いたのは、松平氏がまったく神職の教育を受けておらず、軍人からエンジニアという経歴の持ち主であったということです。神学校で学ばない牧師、仏教大学やお寺で修行をしない僧侶というものは考えられません。通常の神社では、やはり神職養成の学校に行かなければ、宮司になることができません。

ところが靖国神社だけは、一切の宗教的訓練がいらない「無免許宮司」が可能な神社なのです。

********************
神職を養成する学校へ行かず、講習も受けたことのない人が靖国という別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)、勅祭社(ちょくさしゃ)--勅祭社というのは特に勅使を差遣され、幣帛(へいはく)(神への捧げもの)を奉られる神社のことだが、そういう社格の高い神社のトップにどうしてなれるのだろうか。それは靖国が神社本庁に属していないからである。つまり靖国は独立王国のような存在で、独自の規則と社憲によって運営されている。そこには「宮司は神職でなければならない」という決まりはない。
********************
   「Web版正論」

もちろん、神学校で学んだから立派な牧師であるとは限らないし、仏教大学を出た生臭坊主も大勢います。しかし、宗教や信仰の世界にまったく無縁だった世俗の人が、63歳で宮司になり、戦没者のみたまを祀る中心者になったということは、霊や魂の世界を多少は知っている人には、違和感をおぼえざるをえない事態です。すなわち、そういう人物ははたして神やみたまの真の心を感受できるのか、ということです。

松平氏は自分の宮司としての霊的資格について考えたことはなかったようです。

********************
・・・・宮司になって考えましたのは、何かの決断を要する場合、御祭神の意に添うか添わないか、ご遺族のお心に適うか適わないか、それを第一にしておこうということです。
 靖国神社がよそのお社と異なるところは、古事記や日本書紀に出てくる「何々の命(みこと)」といった古くからの神様をお祀りしているんじゃない。自分の父親や兄弟が祀られている、わが子、わが夫が祀られている、そういう神社だということです。・・・・
 私は「無免許宮司」ですが、祭式は、所作が決まってますので、習えば苦にならない。あの装束だって、どうせ百年前は、われわれの祖父たちが着けていたような衣裳ですから、違和感はない(笑)。一等の問題は、ご遺族と相接するとき、どうしたら一番お気持ちにお添いできるか、ということでした。
********************
  「誰が御霊を汚したのか」

そもそも神道にはキリスト教神学や仏教の経典に相当する難しい教義もありません。どうやら神社の宮司という職は、形の上からは見よう見まねで簡単になることができるようなのです。

松平氏は「御祭神の意に添うか添わないか」を考えたといいますが、それは結局は氏自身の信念、氏のイデオロギーに合致した「御祭神の意」でした。精進潔斎し、禊ぎし、鎮魂帰神し、自分を「空」にしたところから感受される神の心ではありません。氏はそもそもそういう修行をいっさいしたことがない俗人だったのです。

松平氏のイデオロギーはこういう観念でした。

********************
・・・・いわゆるA級戦犯合祀のことですが、私は就任前から、「すべて日本が悪い」という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々書類や総代会議事録を調べますと、その数年前に、総代さんのほうから「最終的にA級はどうするんだ」という質問があって、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預りとなっていたんですね。私の就任したのは五十三年七月で、十月には年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく、そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、「まだ間にあうか」と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって十四柱(A級戦犯)をお入れしたわけです。
********************
   「誰が御霊を汚したのか」

松平宮司は、「東京裁判史観を否定し」、「日本の精神復興」を行なうために、あえてA級戦犯を合祀したのです。東京裁判史観を否定するためには、東京裁判で戦争犯罪人とされた人々の名誉回復をしなければなりません。東京裁判史観を否定するためには、A級戦犯の合祀は絶対に必要です。これは、自分のイデオロギーを貫くために靖国神社を利用したことです。もちろん、松平宮司と同じイデオロギーの持ち主――奥野誠亮氏や藤尾正行氏――はそれに賛同するでしょうが、それに賛同できない人々は反発するでしょう。そのイデオロギーの正否は別として、現在の日本では賛否両論のある観念です。

北海道大学教授の高井潔司氏はこう述べています。

********************
・・・・それ以上に注目したいのは、合祀の裁可は戦前、靖国神社側から上奏して天皇から受けていたことだ。松平宮司のいうように、靖国側では現在もこのプロセスを踏襲している。しかし現在では一宗教法人に過ぎない靖国神社に対し、宮内庁が公式にそのような手続きに関与できないはずだ。恐らく形式的に名簿を宮内庁に送り、戦前に手続きを倣って進められているに違いない。もちろん裁可はしていないはずだ。
 ということは、A級戦犯の合祀は、宮内庁で裁可も却下もできないことを悪用して勝手に進めたことになる。そうしたことも、昭和天皇の不快感を高めたのであろう。「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と」と述べられたのも、そのためだろう。
********************
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2239822/detail?select_id=0

A級戦犯の合祀という非常に重要な問題を松平宮司は、昭和天皇の御心も斟酌することなく、自分のイデオロギー的信念を貫くために強行したのです。神の心を感受する能力のない松平氏は、最低限、昭和天皇の御心が奈辺にあるか、侍従たちに謙虚に尋ねるべきであったでしょう。

富田メモ(6)

2006年08月02日 | 富田メモと昭和天皇
中曽根首相はその後、雑誌『正論』の平成13年9月号で、靖国神社の参拝を取りやめたのは、胡耀邦中国共産党総書記の失脚を防ぐためだった、と述べています。

トウ小平の改革開放路線の推進者であった胡耀邦は、中国の経済発展のために日本との友好関係を重視しました。1983年11月に訪日し、中曽根首相と首脳会談を行ない、日中関係の進展を目指しました。しかし、彼の進歩的な政治姿勢と親日的な態度は、共産党内の保守派の反発を招いていました。1985年の中曽根首相の靖国参拝は、共産党内における胡耀邦の立場を明らかに悪化させました。胡耀邦が失脚することは日本にとってマイナスになるとの判断で、中曽根首相は翌年の靖国参拝を取りやめたというのです。

しかし、中曽根首相の靖国参拝の取りやめにもかかわらず、胡耀邦は1987年1月に失脚します。胡耀邦が引き続き権力の座にとどまっていたならば、日中関係も現在とはかなり異なっていたものになっていたでしょう。

さて、富田メモの次のパラグラフは、その中曽根首相の靖国神社参拝に言及しています。

********************
4.28 ④
  前にあったね どうしたのだろう
  中曽根の靖国参拝もあったか
  藤尾(文相)の発言。
 =奧野は藤尾と違うと思うが
  バランス感覚のことと思う
  単純な復古ではないとも。
********************

「前に(も)あったね どうしたのだろう 中曽根の靖国参拝もあったか(=が)」というのは、奥野氏の4月22日の靖国参拝とその後のインタビュー記事に触発されて、3年前の中曽根首相の靖国参拝ことを想起している言葉でしょう。「この前の中曽根首相の時といい、靖国神社をめぐっては、どうして政治家のこういう強硬な発言がなされ、国の内外で問題が起きるのだろう」という昭和天皇の想いと解釈されます。

次の「藤尾(文相)の発言」の藤尾とは、1986年第3次中曽根内閣で文部大臣に就任しながら、入閣直後の7月に歴史教科書問題で問題発言をし、最終的には中曽根首相によって罷免された藤尾正行氏のことです。

インターネットで出回っているもう一つの「捏造説」は、富田メモは、昭和天皇の発言ではなく、「中曽根総理大臣の靖国参拝を中止したことが話題になっていた当時の、藤尾(元)文相の発言」だという説です。

********************
藤尾氏と奥野氏、同じタイプのタカ派と呼ばれていましたが、実は靖国参拝を推進する奥野氏と違い、藤尾氏は靖国参拝をしていないのです。
また「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」にも参加していません。
つまり、藤尾氏のこの発言は同じタイプと言われるが行動が異なる奥野氏のことに触れるとともに、自分(藤尾氏)が何故、靖国参拝をしないのか、その理由を発言したものなのです。
********************
http://oiradesu.blog7.fc2.com/blog-entry-1359.html

という解釈です。

中曽根氏が8月15日の参拝を取りやめたのは、昭和61年8月です。藤尾氏が文部大臣の座にあったのは昭和61年7月22日~9月8日です。ところが、富田メモは「63.4.28」、すなわち昭和63年4月です。「中曽根総理大臣の靖国参拝を中止したことが話題になっていた当時の」というのは当てはまりません。

さらに、メモの内容は、どう見ても藤尾氏の思想とは一致しないのです。

現在、「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛が話題になっていますが、愛国主義的な歴史教科書を作成しようという試みは、『新しい歴史教科書』(扶桑社)が最初ではありません。昭和61年には、「日本を守る国民会議」編纂の高校用歴史教科書『新編日本史』が作成され、教科書検定も合格しました。ところが、その内容に不適切な内容があるとの朝日新聞の報道に触発されて、中国と韓国から強い抗議が寄せられ、検定合格後に4回も書き直されるという異常事態が起こりました。

藤尾氏は、文部大臣に就任した直後の昭和61年7月25日に、『新編日本史』に触れて次のように発言しました。

********************
 東京裁判が客観性を持っているのかどうか。勝ったやつが負けたやつを裁判する権利があるのか、ということがある。世界史が戦争の歴史だとすれば、至るところで裁判をやらなきゃいけないことになる。そうなら、同一基準で審判されるべきだ。
 ・・・・〔教科書検定のことで〕文句を言っているやつは世界史の中でそういうことをやっていることがないのかを、考えてごらんなさい。
********************
  (朝日新聞、昭和61年7月27日朝刊)

※この発言を最初に報道したのは産経新聞ですが、産経新聞を参照できなかったので、朝日新聞からの引用にしておきます。

この発言に対して韓国外務省が、

********************
発言が事実とするならば、韓国の国民感情の次元で、決して見逃すことができない重大なことだ
********************
   (朝日新聞、同)

と反発しました。

藤尾氏は自分の真意を『文藝春秋』同年10月号(発売は9月初め)でより詳しく語りました。雑誌がつけたタイトルは、「”放言大臣”大いに吠える」。以下にその要点を箇条書きします。

********************
・侵略、侵略というが、はたして日本だけが侵略という悪業をやり、戦争の惨禍を世界中にまき散らしたのだろうか。〔イギリスの〕阿片戦争は、人道上許すべからざる最も悪質な侵略戦争だ。
・戦争において人を殺すことは、国際法上では殺人ではない。
・自分は韓国や中国のことは一言も言っていないのに、産経新聞の記者がそういうふうに書いたので、騒ぎが広まった。
・南京事件と、広島・長崎への原爆投下を比べれば、どちらが規模が大きく、意図的で、かつ事実として確実か。原爆の場合は、アメリカ大統領の決定である。
・東京裁判は事後立法による一種の暗黒裁判、日本を軍事的に弱体化させるための政治的パニッシュメントだ。
・「新編日本の歴史」(と藤尾氏は呼んでいる)は、文部省、外務省、中曽根サイドによって手を入れられたが、外交的配慮で歴史の事実を曲げることは許されない。
・日清・日露戦争は日本の安全を守るための戦争。日韓の合邦にもそれなりの歴史的背景があるし、伊藤博文と高宗の合意の上で成立した。だから、韓国側にもある程度の責任がある。
・昨年行なった閣僚の靖国神社の公式参拝を、外国から文句をつけられたからといってやめるのは軟弱外交だ。
・A級戦犯の合祀がまずいというのは、問題のすり替え。A級戦犯の合祀をやめることで事態を解決しようとした中曽根の姿勢は間違っている。
********************

間近に韓国訪問を控えていた中曽根首相は、自分を呼び捨てにして真っ向から批判したこの「放言大臣」を罷免しました。

このような藤尾氏が、「A級が合祀されて以来参拝していない それが私の心だ」などと言うはずはないのです。言うのなら、「A級が合祀されて以来参拝するようにした それが私の心だ」でしょう。したがって、「藤尾正行説」も間違いであることがはっきりしました。

富田メモ(5)

2006年08月01日 | 富田メモと昭和天皇
奥野国土庁長官とは、1987年(昭和62年)11月6日に成立した竹下登内閣で国土庁長官に任命された奥野誠亮(おくの せいすけ)氏のことです。奥野氏はその当時、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会長で、昭和63年4月22日(春の例大祭)に靖国神社に参拝したあと、記者会見を行ないました。

※「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は、1978年4月に結成された「英霊にこたえる議員協議会」から発展したもので、1981年3月に結成された。初代会長は竹下登氏。

奥野氏の靖国参拝とその後の記者会見の様子は、4月22日の夕刊から23日の朝刊にかけて報道されました。各紙の見出しはこうです。

********************
朝日:奥野国土庁長官、靖国神社参拝批判を批判 侵略者は白色人種だ 1988.04.22 東京夕刊 18頁 2社 (全485字)
読売:靖国参拝で公私を問うな 奥野国土庁長官が強調 1988.04.23 東京朝刊 3頁 (全260字)
毎日:奥野発言に韓国紙一斉反発 1988.04.23 東京夕刊 2頁 2面 (全210字)
毎日:奥野国土庁長官がトウ小平氏の発言を批判 1988.04.23 東京朝刊 3頁 3面 (全552字)
読売:奥野国土庁長官の靖国神社参拝発言 韓国各紙も反発
********************
http://d.hatena.ne.jp/rna/20060725

昭和天皇はこのような報道を読み、それを踏まえて4月25日の記者会見で、「大戦はつらい思い出」という予定稿を「大戦は一番いやな思い出」に変えたのです。「大戦は一番いやな思い出」は明らかに「大戦はつらい思い出」よりもネガティブな感情が強まっています。昭和天皇は奥野氏の発言を看過しえないと感じたのです。

それでは、昭和天皇は、奥野氏の発言のどのような部分に問題を感じたのでしょうか?

朝日新聞1988年4月26日が奥野氏の発言要旨を詳しく伝えています。

********************
 奥野国土庁長官の22日の記者会見での発言要旨は次の通り。

 (奥野氏が靖国神社に参拝したのは公人としてか私人としてか、の問いに)それは占領軍に聞いてみて下さいよ。占領軍は昭和20年12月に「公務員の資格で、いかなる神社にも参拝してはならない」と禁止指令を出した。再び米国に立ち向かえるような体制はとらせない、とにかく団結を破壊したい、ということだった。神道は祖先を氏神さまとして祭ろうというもので、人はみな死ぬと神になる。氏神さまの頂点にあるのが天皇家だ。

 参拝が公人か私人かでいま問題になっているが、戦後43年たったのだから、占領軍の亡霊に振り回されることはやめたい。中国はいろいろ誤解しているが、共産主義国家だから宗教への理解が少ない。だんだん理解してもらえるのではないか。トウ小平氏の発言に国民みんなが振り回されているのは情けないことだ。中国の悪口を言うつもりはないが、中国とは国柄が違う。占領軍は国柄、国体という言葉も使わせなかった。神道に関することは教科書からも削除したが、神話、伝説をもっと取り上げたらいいと思う。

 白色人種がアジアを植民地にしていた。それが、日本だけが悪いことにされた。だれが侵略国家か。白色人種だ。何が日本が侵略国か、軍国主義か。開国して目をさましてみたら、軍事力強化の立場に追い込まれていた。トウ小平さんが言っていることを無視するのは適当ではないが、また日本の外交当局がそれなりに対応されていいと思うが、日本人の性根を失ってはならない。
********************
http://d.hatena.ne.jp/rna/20060725

奥野氏が言及している「トウ小平が言っていること」とは、トウ小平が1987年5月5日に発表した、日中関係に関する講話のことを指しているものと思われます。その中でトウ小平は、

********************
中日関係に何か問題があるとすれば、それは中国の人民が憂慮するように、日本の非常にごく一部 ――その中には政治的影響力のある人物もいるかもしれない―― に、軍国主義復活の傾向があることだ。1世紀余り前から、日本の軍国主義の行いにより被害を受けたのは中国とアジア各国の人民だけではない。日本の人民もまた被害者だった。
********************
http://j.people.com.cn/2004/12/29/jp20041229_46433.html

と述べています。

「日本の軍国主義の行いにより被害を受けたのは中国とアジア各国の人民だけではない。日本の人民もまた被害者だった」――これは日中が国交回復を行なったときの日中の共同認識でした。

1972年9月に田中首相と周恩来首相の間で結ばれた日中共同宣言では、

********************
 日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立つて国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。

5  中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
********************
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1972Japan-China.html

とうたわれています。中国が日本に対する「戦争賠償の請求を放棄する」理由づけが、「日本の軍国主義の行いにより被害を受けたのは中国とアジア各国の人民だけではない。日本の人民もまた被害者だった」から、ということだったのです。

しかし、その代わり日本は、「過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という道義的な枷(かせ)を与えられたのです。

この共同認識に基づいて、日本は中国に対して、他のアジア諸国に対して行なったような賠償金の支払いをまぬがれたのです。中国への正式な賠償金は膨大な額になったことでしょう。しかし、日本が中国に金を払うことは両国の間の暗黙の了解事項でした。賠償金の代わりに、日本は無償援助も含めた膨大なODAを中国へ行なうことになります。中国側ではこれを「賠償金と等しいもの」と考え、日本側からの当然の支払いとして受け取りました。

ここに両国の「ボタンの掛け違い」が始まります。いわゆる「タダほど高いものはない」ということが起こったのです。

日本のODAで作られた空港や道路や建物にも、日本の援助のことは何一つ記されておらず、中国人はそれらをあたかも自国の力で建設したものと考えました。のちにそのことを知った日本側は不快感をおぼえます。中国政府は日本のODAについて中国国民には何も知らせなかったので、多額のODAにもかかわらず、中国人側には、日本は日中戦争の賠償をしていないという誤解が生まれます。日本側には、中国はいくら援助しても感謝するどころが、恩を仇で返すような反日教育をしている(江沢民時代になってたしかに反日教育が盛んになりました)という反発が生まれました。

中国は、自分は日本に侵略されたのに、その賠償金も取らず、日本を許してやった、と思い、自国を道義的な高みに置くことができました。その背後には、伝統的な中華―夷狄思想も作用していたことでしょう。そこから、日本は歴史認識問題では中国側の認識に従うのが当然、という中国側の思い上がりが生まれ、日本側では、ことあるごとに靖国問題や教科書問題で口出しする中国に対する反感が年々強くなり、ナショナリズムの風潮が高まってきました。

賠償に関する曖昧な解決は、日中関係に非常に大きな禍根を残したと言わざるをえません。賠償金は賠償金として支払い、そこで戦前の日本の侵略行為に関する決着をつけ、両国は対等な関係になっておくべきだったと思います。

さて、「日本の軍国主義の行いにより被害を受けたのは中国とアジア各国の人民だけではない。日本の人民もまた被害者だった」という共通解釈では、戦争の責任は「日本の軍国主義」、具体的には戦争当時の軍部と政治の指導者、すなわち東京裁判で「A級戦犯」として処刑された人々に押しつけられました。悪いのはA級戦犯だけであって、それ以外の日本人民は軍国主義の被害者だ、というのです。しかし、これは歴史の実際に反したフィクションです。

そのA級戦犯が合祀された靖国神社に日本の首相が公式参拝するということは、中国側からすれば、まさに日中国交回復時の共通認識への裏切りということになるのです。

トウ小平の指摘する「軍国主義復活の傾向」というのは、具体的には、1985年8月15日の中曽根首相の靖国神社公式参拝のことをほのめかしているでしょう。公式参拝の前日の8月14日に中国政府は、

********************
日本軍国主義が発動した侵略戦争はアジア・太平洋地域各国の人民に深い災難をもたらし、日本人民自身もその損害を被った。東條英機ら戦犯が合祀されている靖国神社への首相の公式参拝は、中日両国人民を含むアジア人民の感情を傷つけよう
********************
 (田中伸尚『靖国の戦後史』岩波新書、169頁)

という声明を出して警告しました。これは、日中国交回復時の共通認識に戻れ、という中国側の要求です。トウ小平は87年の講話の中でもそれを繰り返したわけです。

これに対して奥野氏は、戦前の日本は全面的な侵略国家や軍国主義ではなかった、侵略というなら、むしろアジアを植民地にした白人国家こそ侵略国家だ、と主張したわけです。このことは、世界史的な事実としてはまさにその通りです。日本だけが中国をはじめアジア諸国を侵略したわけではありません。イギリスもアメリカもフランスもドイツもロシアも中国やアジア諸国を侵略しました。また、明治以降の日本の軍国主義は、欧米帝国主義への対抗として発したことも事実です。

奥野氏の発言には、日本だけが悪かったわけではない、という日本人のホンネが出ています。そして、そのホンネにはある程度の事実の裏づけもあるわけです。

しかし、日本にどんな言い分があるにせよ、日本が中国を全然侵略しなかったとは言えません。

昭和天皇は、奥野氏の発言の、戦前の歴史を正当化しようとするようなニュアンスに不快感を表明するために、「一番いやな思い出」という強い表現にしたものと思われます。そして、あとでも詳しく述べますが、天皇の意向を無視した軍の専横な振る舞いこそ、戦前の昭和天皇がいきどおった出来事、まさに「一番いやな思い出」であったのです。

さて、1985年に靖国神社を公式参拝した中曽根首相ですが、その後、韓国、シンガポール、香港、ソ連からも強い批判を受け、翌年からは靖国神社への参拝を取りやめました。その理由づけは、

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昨年夏の公式参拝は、A級戦犯への礼拝ではないかとの批判を近隣諸国に生んだので、わが国の戦争への反省と平和友好の決意に対する不信にもつながりかねない
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 (田中伸尚『靖国の戦後史』岩波新書、175頁)

というものでした。靖国神社公式参拝を定着させて「戦後政治の総決算」を目指した中曽根首相の意図は腰砕けに終わったのです。