平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ことだま大実験

2006年12月29日 | 江本勝と水からの伝言
『AERA』でもう一つ批判されていたのは、ご飯に「ありがとう」と「ばかやろう」という言葉をかける実験です。「ありがとう」という言葉をかけたご飯は腐りづらく、「ばかやろう」という言葉をかけたほうは腐りやすい、と江本氏は言います。これに対する批判――

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 奥田教諭は教員を対象にした模擬授業で、言葉に関係なく同じように腐ったご飯粒やイチゴを示して、道徳の授業で取り上げるべきではないと説明した。
 「『科学的ではないが、素晴らしい本だ』という先生もいた。しかし、結論がいいからといって、子どもに信じ込ませてはいけない」
 と、奥田教諭は強調する。
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実は、私はこの実験は、想念波動と物質との関係(または無関係)を検証するための、たいへんよい実験方法だと考えています。

ご飯の腐敗は、そこに含まれる細菌や菌類によって引き起こされます。したがって、「ありがとう」の言葉を投げかけたご飯でも、腐敗菌が多く含まれていれば、当然腐敗し、奥田教諭のような結果になるわけです。また逆に、江本さんの雑誌に報告されているように、「ありがとう」のご飯が腐敗せず、「ばかやろう」のご飯が腐敗しても、それはたまたま「ありがとう」のほうには細菌が少なく、「ばかやろう」のほうに細菌が多かったからだ、という説明が可能です。ですから、実験の数が少なければ、いくら「ありがとう」が腐らなかったとしても、それは言葉の力の科学的証明にはなりません。また、奥田教諭が「ありがとう」という言葉をかけたご飯が腐った例を示しても、数例だけでは言葉が腐敗作用に無関係という証明にはなりません。実験開始時の条件がたまたまそうだった、と考えられる余地があるからです。

しかし、これを数千、数万という規模で行なったらどうでしょうか。

すべての実験の開始時点で、「ありがとう」のほうにいつも腐敗菌が少なく、「ばかやろう」のほうにいつも腐敗菌が多かった、ということはありえません。実験の数を多くすればするほど、細菌の数の多い少ないという初期の条件は、「ありがとう」と「ばかやろう」では五分五分になるはずです。

現在の科学の立場では、言葉は腐敗作用に何ら影響を及ぼさないはずですから、全体の統計を数万の規模で取れば、両方とも腐り方は同じになるはずです。このことは逆に、全体の統計を調べて両者の間に有意な違いが出てきたら、それは言葉が腐敗過程に影響を及ぼしたことの証明になります。

【ことだま大実験】

この実験では、同じ種類の透明なビン2個をよく洗い、両方にほぼ同じ量――たとえばスプーン一杯――のご飯(自宅で炊いたもの、コンビニ弁当などには添加物が含まれている可能性がある)を入れ、蓋をし、一方には「ありがとう」、他方には「ばかやろう」のラベルを貼ります。そして、同じ部屋にほぼ同じ条件で(気温や明るさや床からの高さ)、数メートル離して置き、一方には毎日「ありがとう」の言葉をかけ、他方には「ばかやろう」の言葉をかけ、一定期間観察します。「ばかやろう」という言葉を言うのが嫌いな人は、何も言わないで無視します。

ご飯が腐る、腐らないは、まず第一にその検体にどのような細菌がどのくらい含まれているか、ということで決まるでしょう。実験室ではなく、一般の家庭で行なうのですから、ご飯を入れたビンの一方には雑菌(腐敗菌)が多く、他方には雑菌が少ない、という場合がありますし、両方ともほぼ同じということもあります。

(A) 両方とも腐敗菌の数がほぼ同じ場合
 両方とも同じ時期に腐り始めるはずです。

(B) 両方のビンの雑菌の数が大きく違う場合
 ビンの組み合わせは――
 b1 「ありがとう」+細菌少ない & 「ばかやろう」+細菌多い
 b2 「ありがとう」+細菌多い & 「ばかやろう」+細菌少ない

の2種類になります(「多い」「少ない」は絶対数ではなく、比較です)。

実験数が少ない場合、「ありがとう」のビンが腐らず、「ばかやろう」が腐ったとしても、それは、言葉のせいではなく、たまたまb1のビンが多かったから、という可能性は否定できません。

しかし、検体が数千、数万、数十万と増えていけば、b1とb2はほぼ同じになるはずです。偶然によって、b1またはb2の組み合わせが一方的に多くなる確率はゼロに近づきます。

また、温度やその他の周囲の条件も、2個のビンでは同じではありませんが、これも数万の実験では、どちらが腐りやすいか条件か、ということも平均的にならされて、五分五分になると考えられます。両者の顕著な違いは、そこに加えられる言葉のエネルギーだけです。

現代の科学では、腐る・腐らないを決めるファクターは、細菌の種類と数と外界の条件であって、言葉は無関係ということになっています。数を大きく取れば、b1とb2は同じになります。したがって、「ありがとう」のご飯が先に腐るケースと、「ばかやろう」のご飯が先に腐るケースは、同じになるはずです。これは(A)のケースを加えても同じです。

逆に言えば、もし先に腐るのが、「ありがとう」と「ばかやろう」で有意な違いが出て、たとえば4:6のようになったら、それは言葉が腐敗作用に、つまり細菌の活動に影響を及ぼした証拠になります。

これを大規模に行なえば、言葉が細菌の活動に影響を与えるか与えないかが検証できるのです。江本氏と、江本氏に批判的な科学者や学校の先生は、共同で全国の小学生、中学生に呼びかけて、大規模な実験を行なったらどうでしょう。有意な差が出なかったら、江本氏の仮説は間違っていたことになりますし、有意な差が出たら、江本氏の仮説が正しいことになります。

しかも、この実験の利点は、実際に実験をし観察をするのは、論争の当事者の江本氏でも体制科学者でもなく、中立的な大勢の子供たちであることです。実験の結果は、各人が江本氏側と体制科学者側ならびにそれ以外の第三者に報告するようにすれば、インチキやデータの操作の入り込む余地はありません。

江本氏は自分の仮説が正しいと信じているわけですし、体制科学者は言葉が細菌に影響するはずはない、と信じて、両方とも自分が正しいと信じているのですから、この実験に賛成してくれると思います。

言葉と物質が無関係という結果が出れば、江本氏の「ニセ科学」が消滅し、日本の子供たちの科学的態度が養われます。もし言葉が物質に影響を与えるという結果になれば、科学界の革命的発見になるばかりではなく、道徳の時間で、「悪い言葉を使うのはやめよう。よい言葉を使おう」と子供たちに強い説得力をもって教えることができます。どちらにしても、よい結果が待ちうけています。これは名案だと思いませんか?

第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(4)

2006年12月27日 | 江本勝と水からの伝言
もう一度昨年12月5日の『AERA』の記事に戻りますと、そこで山形大学助教授の天羽優子氏は、

「水が情報を記憶することはないし、どんな結晶ができるかについては既に中谷宇吉郎博士が解明済みで、言葉や音楽とは無関係」

と断定していますが、本当にそうでしょうか?

「水が情報を記憶することはない」ということは、現在までの科学的知見ではそうだということで、これからもそうであるかどうかわかりません。治部眞里・保江邦夫著『脳と心の量子論』(講談社ブルーバックス)は、脳内の水が情報を蓄えている、という仮説を提唱しています。これはまだ仮説ですから、証明されたわけではありませんが、しかしそのような可能性に理論物理学者が言及していることは注目に値します。

次に、「どんな結晶ができるかについては既に中谷宇吉郎博士が解明済み」というのは、中谷宇吉郎博士の雪の結晶の研究のことを指しています。私は中谷博士の研究については、『雪』(岩波文庫)という一般書しか知りませんが、そこに紹介されている雪の結晶写真と、江本氏の氷結結晶写真とはかなり違います。江本氏の写真のほうがはるかに多様ではるかに美しいのです。雪も水からできていますが、それは空中で水蒸気からチリを核として生成されます。江本氏は液体の水を凍らせてから写真を撮るのですから、雪とは結晶の生成のしかたが違います。雪の研究をもってきて、「既に中谷宇吉郎博士が解明済み」というのは、水の氷結結晶写真に対する反論にはなっていません。

江本氏を批判するWikipediaの記事は、こう述べています。

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彼らの実験で作られる雪花状の氷は、雪や霜と同様に「気相成長」でできたもの、つまり種となる氷に周辺の水蒸気がくっついてできたものである。ひと言で言えば、「小さな霜」である。したがって、結晶の形は中谷宇吉郎が研究した雪の結晶形の成長条件に従い、雪花状に成長するかどうかは温度と水蒸気量で決まる。形こそ雪花状であるが、雪や霜がそうであるのと同様、分子構造は普通の氷と同じである。
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つまり、江本氏が撮影している結晶は、検体の水ではなく、「周辺の水蒸気」が作っているものであるというのです。しかし、これは証明されていない主張です。もしそれを主張したいのであれば、検体となる水のない状態で、空中の水蒸気から氷結結晶が生成され、同じような結晶写真が撮れることを実証しなければなりませんが、それは簡単なはずです。寒くなると、空中の水蒸気が窓ガラスに霜を作ります。その霜を顕微鏡で撮影し、江本氏が撮影したのと同じような写真が撮れることを証明すればよいのです。江本氏のトンデモ科学を具体的な証拠で反証するのは簡単なはずなのに、科学者はなぜそれをしてくれないのでしょう。

中谷博士は『雪』の中でこう言っています。

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〔雪の結晶には角板形のものがあり、その内部には様々な模様があるが〕角板の内部の模様の成因如何というような些細な問題すら解決がついていないのである。そんな簡単なこと位、専門家は誰でも知っているかと思われるかも知れないが、ただ今の所では世界中のどの学者にきいて見ても分らないのである。もっともそういうつまらぬことは誰も研究をしないから分らないので、ちょっと研究すれば直ぐ分るはずだという議論も出るかも知れないが、子供に「どうして雪があんなに不思議な形をしているのか」と聞かれて、何とも返答の出来ぬのもちょっと考え物である。これは雪の場合と限らず、大抵の自然の珍しい現象はまだ殆どよく分っていないのである。(93頁)
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本当の科学者はこのように謙虚な姿勢で自然を探究しているのであって、自分で実験もしないで「そんなことは既に解明済み」などと安易には言わないものです。

江本氏は、水の結晶は、いったん凍った水が溶け始めるときに一瞬その姿を現わすのだ、と言っています。そうすると、結晶写真は、周辺の水蒸気も関係しているかもしれませんが、やはり検体の水の影響もある、ということになります。雪のデータで「既に解明済み」などと論じることはできません。

私は水が想念波動の影響を受けることは、ありうることだと思いますが、それが結晶写真の変化という形で出現するのかどうか、科学者ではないので断定はできません。江本氏の説は一つの仮説だと理解しています。科学者が具体的な実験を行ない、江本氏の仮説を検証してくれればありがたいと思います。次回はその具体的な実験方法について提案してみます。

国連加盟50周年

2006年12月24日 | Weblog
コフィー・アナン氏は12月31日をもって国連事務総長を退任します。

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 ガーナ出身のコフィー・アナン氏は国連の第7代事務総長である。同氏は1997年1月1日、国連職員から選出された最初の事務総長として就任した。国連総会は2001年6月29日、安保理の推薦により、アナン氏に対し2期目の任期を全会一致で任命し、この期間を2002年1月1日から2006年12月31日までとした。

 アナン氏の事務総長としての優先課題は、包括的改革プログラムを通じて国連を活性化すること、開発および国際の平和と安全の維持という分野で国連の伝統的な活動を強化すること、人権、法の支配、および、国連憲章に謳われた平等と寛容と人間の尊厳という普遍的価値観を奨励、唱道すること、ならびに、新しいパートナーに手を差し伸べるとともに、同氏の言葉を借りるとすれば「国連を人々に近づける」ことによって、国連に対する世論の信頼を回復することである。
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http://www.unic.or.jp/know/annan.htm

アナン氏は立派な国連事務総長であったと思います。

あるアメリカ人からこういう話を聞いたことがあります。アメリカは国連を自国の国益に都合のいい範囲でしか利用しようと考えていません。国連事務総長も、当然、アメリカに都合のいい人物を選ぼうとします。アメリカは、自国がどうにでもコントロールできる、御しやすい人物として、国連職員であったアナン氏を国連事務総長に選出させました。ところが、アメリカの見込み違いでした。このアナン氏は、アメリカの意向に逆らってまでも、国際社会の平和と協調を目指す気骨のある人物だったのです。アメリカのイラク攻撃もはっきりと「国際法違反」と断じました。アナン氏によって、アメリカは何回も煮え湯を飲まされる想いがしたでしょう。

アナン氏はまた、私が参加している国連NGOのWorld Peace Prayer Societyの理解者、協力者で、WPPSの行事には何度もメッセージを送ってくれました。アナン氏の理想は、「国連を人々に近づける」こと、すなわち、国連を、各国政府の代表者だけの集まりとするのではなく、平和と公正を求める市民のフォーラムとすることでした。

アナン氏の理想は、氏の在任期間中には実現されませんでしたが、国連が有効な組織として発展するためには、氏の理想の方向に向かうしかありません。次期国連事務総長予定者の潘基文氏も、アナン氏の高い理想主義を継承してもらいたいものです。

日本は、今年12月で、国連に加盟して50周年を迎えました。これを記念して、アナン氏は日本にメッセージを送りました。

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日本に「非核」堅持求める・国連総長がメッセージ

 【ニューヨーク17日共同】日本の国連加盟から18日で50年となるのに合わせ、アナン国連事務総長が日本に寄せたメッセージの全文が17日、明らかになった。「世界で偉業を成し遂げるために国家が核兵器を保有する必要はない」と明言、北朝鮮による10月の核実験を受けて核保有論議が交わされている日本に非核政策の堅持を求めた。

 今月末に退任するアナン氏は2期10年の任期中、米国主導のイラク戦争を阻止できなかったことが「最も残念」と振り返っている。軍国主義に走り第二次大戦に敗れた日本への最後のメッセージは、核保有論議を事実上けん制する内容となった。

 メッセージは18日、天皇、皇后両陛下が出席され、東京都千代田区の九段会館で開催される日本の国連加盟50周年記念式典で、田中信明・国連軍縮局長(事務次長)が代読する。(01:50)
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http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20061217STXKA007217122006.html

アナン氏の「世界で偉業を成し遂げるために国家が核兵器を保有する必要はない」というメッセージを聞いた天皇・皇后両陛下も、「わが意を得たり」とお思いになったことでしょう。

また、画家の佐和貫利郎氏は、【国際文通週間(国連加盟50周年)切手デザイン】を描きました。とても素晴らしい絵です。

この切手を買おうと思いましたが、郵便局ではすでに売り切れでした。ところが、最近、ある方からこの切手を貼った手紙を受け取り、うれしくなりました。

第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(3)

2006年12月23日 | 江本勝と水からの伝言
北海道大学・古川義純助教授は『AERA』の記事で、江本氏の実験のやり方を次のように批判します。

「実験のやり方も大雑把で、温度も水蒸気の量も一定でない。いろんな結晶ができるから、観察者がきれいな結晶を探せば見つかるだろう。50個中いくつにどのような結晶ができたのか、データを取らなければ意味がない」

→この批判はたしかにその通りだろうと思います。

しかし、この主張は、逆に言えば、実験のやり方が精密で、きちんとしたデータを取れば「意味がある」、ということを含意していることになります。それでは、精密な実験をして、きちんとしたデータを出せば、科学者は、音楽や想念波動が水に影響を与えることを、科学的事実として承認するのでしょうか? 私にはそうは思えません。

江本氏がどれほどデータを出したところで、そのデータは、物質と精神は無関係という現在の科学のパラダイムに根本的に反する以上、認められないでしょう。しかも、どんなデータにも必ずケチを付けることができます。なぜなら、どれほど精密な実験をしても、そこには必ず「ゆらぎ」があるからです。温度、水蒸気、気圧、重力、電磁波、容器・・・様々な物理的条件を完全に一致させることは、ほとんど不可能です。たとえば、温度が0.1度違っても、湿度が0.1%違っても、それは「同じ物理的条件」ではなくなります。Aという試験管とBという試験管は、厳密に言えば同じ条件ではありません。結晶写真の違いは、「愛・感謝」と「ばかやろう」の言葉の違いのせいではなく、0.1%の湿度の違いのせいだ、という可能性は否定しきれません。ましてや素人が行なった粗雑な実験では、いくらでもあらが探せます。その結果、現在の科学パラダイムの枠組みの中では、結晶の違いは、想念波動の違いではなく、物理的条件の違いだと解釈されるでしょう。

つまり、科学者は、一方においては、「実験の精度が粗い、データが出されていない」、と批判しつつ、他方、「そんなことは理論的にありえない、考えられない」という否定も用意しているのです。こういう二重の否定の前では、どんな「意味のある」実験も「トンデモ科学」に解釈されてしまいます。

江本氏はインタビューの中で、

「結晶の撮影は本来は温度や湿度のコントロールができた部屋でやるべきでしょうが、中小企業なので限界がある」

と述べていますが、実際にその通りだろうと思います。水の結晶写真は、非常に劣悪な条件の中で、科学に素人の江本氏が自己資金で独自に開発してきた技術なのです。

体制科学者は数億円もする立派な研究室や測定装置を持っていて、それなりの研究費をもらって、恵まれた条件で実験できます。もし、江本氏の説がトンデモ科学であり、こういうトンデモ科学が蔓延することが有害だと考えるのであれば、大学から預かっている自分の研究室で、物理的条件をほぼ一致させ、一方の水には「愛・感謝」の言葉を見せ、他方に水には「ばかやろう」を見せた水の結晶写真を撮り、その両者がほとんど同じようなデータになることを示せばよいのです。そうすれば江本説は一発で反証されます。雑誌やインターネットで批判するよりも、よっぽど強力な啓蒙活動になります。

ところが、体制科学者の中で、水の結晶写真を撮った人が一人もいないようなのです。実験検証もしないで、江本氏を批判ばかりしてもしかたありません。なぜ江本氏の仮説を検証しないのかといえば、実験をしても、結果は明らかだし、自分の業績にもならないので、時間と金の無駄だと考えているからでしょう。

江本氏は、『ちくま』という雑誌の2006年4月号でも斎藤貴男氏のインタビューを受けていますが、その中で、

「一番悲しいのは、〔私を批判する科学者が〕なぜここに来ないんですかと。現場を確認もせず、データも見ないでニセ科学だって。そのこと自体が非科学的でしょう」

と反論しています。江本氏を批判する科学者は、自分は実験しなくても、江本氏の実験を実際に見て、ここがおかしい、あそこを直せ、と具体的に指摘すればよいのです。そして、江本氏がそれを受けいれるか、受けいれないかで、江本氏が詐欺師かどうかの本質がわかりますし、江本氏が実験の手法を改善したことによって、データにどのような変化が出るかもわかります。そういう経路を通して科学的真実が徐々に明らかになるはずです。

しかし、そんなことは「考えられない」「あるはずがない」という思い込みが先に立てば、建設的な対話は不可能です。体制科学者は、そもそも江本氏と対話をする気さえないのです。科学に素人の江本氏は、大学で科学を教えている我々の説に従うべきだ、と考えているのでしょう。それを受けいれないので、江本氏はトンデモ科学者だということになるわけです。これは体制科学者の側の怠慢と傲慢だと思います。

第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(2)

2006年12月22日 | 江本勝と水からの伝言
江本氏は水の結晶写真を、言葉が水に影響を与える科学的証拠として提示しました。精神は物質に直接的に作用することはありえない、という見解が科学界を支配する中で、水に言葉を見せたり聞かせたりしたら水の性質が変化し、それが水の氷結結晶写真の変化となって現われた、などと言ったら、当然、ニセ科学と見なされます。科学界が江本氏をトンデモ科学として批判し始めたのは当然でした。

『AERA』という週刊誌(朝日新聞社)の昨年(2005年)12月5日号に、

『水からの伝言』の仰天――ベストセラーの「トンデモ科学」度

という記事が出ました。題名のつけ方からして、この週刊誌がどういう姿勢かよくわかります。内容は、江本氏の『水からの伝言』の紹介と、江本氏へのインタビュー、それに対する科学者の批判です。

科学者の批判を紹介し、それに対する私の感想を述べてみます。

北海道大学・古川義純助教授はこう述べています。

「無機の物質である水が言葉や音楽に反応するというのは考えられない。荒唐無稽な話で、ニセ科学の典型的な例だ」

→「考えられない」ということで、はじめから検証する気がないわけですが、検証しないで判断を下すというのは、非科学的な態度だと思います。江本氏の説はそれほど「荒唐無稽」でしょうか?

人間は音楽に反応します。当たり前ですね。動物も音楽に反応します。モーツァルトを聴かせた牛は、乳の出が良くなることが知られていて、実際に応用されています。これは音楽という音情報の持つリラックス効果と考えられます。

ところが、耳を持たない植物も音楽に反応するのです。これは、龍村仁監督の来年公開の『ガイア・シンフォニー』第6番に描かれるはずです。微生物も音楽に反応します。モーツァルトを聴かせて醸造したワインや酒がまろやかな味になることが経験的に知られていて、実際に応用されています

しかし、体制科学者は、こういう事実さえも、「気のせいだ」とか、「考えられない」から「ありえない」として否定するのでしょう。結局、それは目の前にある事実に目をふさいでいることで、そういう人には、どのような説明をしても無駄かもしれませんが、一応、説明をしてみます。

植物も微生物も耳を持っていません。でも、生命体が音に反応することがそんなにおかしいことでしょうか? 目がない生命体でも光には反応することはどんな科学者も否定しないでしょう。生命体が音楽の持つ音のエネルギーに何らかの反応をする可能性は否定できません。

では無生物である水と音楽の関係はどうでしょうか? 音楽は音波、空気の振動です。音波が物質である水に何らかの作用を及ぼすことは当然です。

音楽(音波)が水に作用を及ぼすことまでは科学者は否定できないはずです。あとは、その影響が水にどのように残存し、どのように検出できるか、という問題です。それは現在の水科学ではわかっていないし、そもそも検出しようとさえしないのです。なぜなら、そんなことは「考えられない」からです。

音楽による水の変化が温度やPhや比重の変化でないことは当然です。その影響が氷結結晶の形として現われる、というのは江本氏の仮説です。その仮説は実験によってのみ肯定、もしくは否定できるはずで、「考えられない」というのはまさに思考停止です。

科学のブレイクスルーは、誰も考えなかったことを考えることによってのみ起こります。ニュートンしかり、アインシュタインしかり。ここにはノーベル賞の種が潜んでいるのかもしれないのです。人のやっていることの後追いばかりしていれば安全ですが、革命的な理論も発明も生まれません。

江本氏はさらに、言葉や文字も水に影響を与える、と主張しています。これを江本氏は「波動 HADO」と名づけ、それが量子力学と関係しているかのような説明をしています。その部分の説明はやはり非科学的です。私は江本氏の理論を100%認めているわけではありません。

量子力学が対象としているのは、素粒子という物質波動です。しかし、言葉や文字が発しているのは、想念波動です。物質波動と想念波動の区別をしないで、それを「波動 HADO」という語で一緒くたにするのは誤解を招きます。音楽は物質波動ですから、それが物質である水に影響することは当たり前です。それでは想念波動は物質に影響を与えるのでしょうか?

想念波動というものは現在の科学では、その存在が認められていません。しかし、念力やESPやテレパシーという現象が現実に時々観測されていることは否定できません。現在の科学で検出できない、ということと、存在しない、ということとは別問題です。科学は、そういうことについてはまだよくわからない、と言うべきでしょう。



硫黄島

2006年12月20日 | Weblog
クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」が話題になっています。私も年末年始の休みには観ようと思っています。

硫黄島には今でも多くの日本兵の遺骨が眠っています。戦死した日本兵の中には、いまだに地縛の霊となって、霊界に移行できない人々も多いようです。

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さまよい続ける英霊…自衛隊員が語る「硫黄島」

 英霊が眠る硫黄島。島内には、米国からの攻撃を逃れるため、日本兵が掘った無数の洞穴(写真左、ロイター)がある

 クリント・イーストウッド監督(76)の大作映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の舞台となったことで注目が集まっている硫黄島。現在、海上自衛隊の航空基地があり、約350人の自衛官が常駐しているが、地下には多数の戦死者の遺骨が眠ったままだ。それだけに戦死者の霊についてのうわさが絶えない。英霊の御霊(みたま)は何を訴えかけているのだろうか。

 硫黄島は東京都の南約1200キロにある太平洋上の島。一般人の立ち入りができないためなじみは薄く、同島を巡るすさまじい攻防戦も一般には注目されてこなかった。

 東西約8キロ、南北約4キロの小さな島を舞台に、昭和20年2月16日から3月26日まで日本軍と米軍の間で戦闘が行われた。太平洋戦争後期の島々を巡る戦いの中でも、米軍地上部隊の損害が日本軍のそれを上回る有数の激戦地となった。

 米軍の戦死者は約6800人、戦傷者は約2万1900人で合わせて約2万8700人。対する日本軍の戦死者は約2万100人、生き残ったのは捕虜になった約1000人。
 米軍の戦死者は全員収容されたが、日本軍将兵の遺骨で回収されたのはこれまでに約8500柱。毎年収集作業が行われているが、今のペースでは作業終了までにあと200年はかかるといわれる一方、3年後には遺骨収集作業が打ち切られるという話もある。

 「島は全体が墓地のような所。至る所に坑道があるので、足下にも遺骨が埋まっていることになる」と島を訪れたことのある自衛隊幹部。それだけに戦死者の霊を見たという話は数多い。

 「夜も枕元や部屋の入り口に水を入れたコップをおいて寝る隊員は多い。火山性のこの島では水が貴重品で、戦闘の際も水がなくて大勢の将兵が苦しんだ。だから霊も水を求めている」(自衛隊幹部)

 霊と酒を酌み交わした、夜中に何百人もが行進する音を聞いた…という話は枚挙にいとまがない。硫黄島を離れる時、靴の溝に入り込んだ砂粒一つまで落としてから帰る隊員も多いという。

 現在島内には慰霊碑などの施設が多数あり、「研修や訓練で訪れる自衛官もほとんどが水を持参して参拝している」(海上幕僚監部)という。

 島を訪れた際には、「英霊の御霊が常にこの島には存在しているのだということを意識して勤務する」とある自衛隊高級幹部も表情を引き締めながら話す。

 多数の遺骨がまだ回収されていない最大の理由は、砲爆撃などで地形が変化したり、戦闘で坑道の入り口が塞がれたことに加え、火山性の島で坑道内が60度にもなり、ガスが発生している場所もあることだ。

 しかし、この坑道があればこそ、米軍が5日で陥落させられるとみていたのに反して、日本軍は1カ月以上も持ちこたえた。当時一般的だった海岸線で敵を迎え撃つ作戦を変更し、全長18キロにも及ぶ坑道を構築させたのは指揮官の栗林忠道中将だ。「現代の作戦から見ても合理的な戦術だ」と自衛隊高級幹部はいう。

 映画「硫黄島-」のなかで、栗林中将は最後の攻撃の直前、将兵を前に、後世の日本国民は自分たちが硫黄島で戦ったことを必ず思いだしてくれる、という内容の訓示をする。

 米国人の作った映画のこのせりふにあるように、まだ硫黄島の地下に眠る英霊に対する慰霊の心を持ち続けることことこそ、最良の供養になるのではないだろうか。 

ZAKZAK 2006/12/19
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http://www.zakzak.co.jp/top/2006_12/t2006121916.html

関西のテレビ局が最近、硫黄島を取材しました。そのビデオがあります。

キャスターが涙ながらに語っているのは、彼を通して多くのみたまたちが訴えかけているからでしょう。

私は10数年前、世界平和の祈りの仲間たちと一緒にフィリピンのモンテンルパに日本兵の慰霊に行ったことがあります。モンテンルパというのは、首都マニラの南24kmにある町ですが、そこに戦犯刑務所があり、戦後、大勢の日本兵が死刑になったり、収容中に病死したりしました。歌手の渡辺はま子が「あゝモンテンルパの夜は更けて」という歌を歌って有名になりました。

マニラからモンテンルパに向かってバスに乗ったときから、涙がとまらないのです。異国の地で死んだ日本兵たちがどれほどつらい想いをし、どれほど私たちを待ちこがれていたかが伝わってきました。私の父も満州で従軍しました。父は奇跡的に生き延びましたが、私の父と同じ世代の多くの人々が無念の死を遂げたのです。刑務所跡にピースポールを建て、世界平和の祈りの祈りを捧げました。私たちの涙は感謝の涙に変わりました。大勢のみたまが心から喜んでいることが感じられました。

モンテンルパにはこれまでも多くの遺族や関係者が訪れて、慰霊の儀式を行なってきたはずです。しかし、それでも、みたまたちは本当には救われていなかったのでしょう。モンテンルパで祈ることができて本当によかったと思いました。

ぜひ硫黄島に行って戦没者たちに祈りを捧げ、彼らを行くべき世界に行かせなければならないと強く思います。



第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」(1)

2006年12月17日 | 江本勝と水からの伝言
最近、仕事のほかに、色々な催し物に参加することが多く、ブログの更新が滞っています。

昨日(12月16日)は、日本教育会館で開かれた第3回「ウォーター・フォー・ライフ・フェスティバル」に参加しました。今年は、江本勝さんが(株)IHMを創立して20周年ということで、それを記念してかなり盛大に行なわれました。

プログラムは、江本さんのこれまでの仕事を、関係者や協力者のスピーチもまじえながら紹介するというもので、それに、EMの比嘉照夫さん、船井総研の船井幸雄さんの講演も加わるという内容でした。

江本さんは、MRAという波動測定器に出合い、「波動」という目に見えないエネルギーが存在することを確信し、そしてさらにそれを目に見えるようにするために、水を凍らせてその結晶写真を撮影するという活動を始めました。その結果、水が様々なエネルギーの影響を受ける一種の情報媒体であると考えるようになりました。水に影響を与えるエネルギーには、気や言葉や想念なども含まれます。

江本さんの撮影した水の結晶写真は、その美しさともあいまって、世界中に大きく広まりました。

ところが、江本さんの活動が有名になるにつれて、科学者の側からの江本さんに対する風当たりも強くなってきました。

Googleで「江本勝」というキーワードで検索すると、「江本勝 トンデモ」「江本勝 疑似科学」「江本勝 カルト」という項目が出てくるのには笑ってしまいます。こういうキーワードで検索する人が多いからなのでしょうか?

このように江本さんが批判されるのは、江本さんの側と科学者の側の両方に問題があるからだと思います。

そもそも現代の科学は、気や言葉や想念が独自のエネルギーや波動であるということを認めていません。現在の科学の理論的枠組み(パラダイム)と測定装置でとらえられないものは、存在しない、というのが99%の科学者の信念です。とくに、物質と精神はまったく別もので、両者の間に直接、相互作用が起こるということはありえない、というのが現代科学の大前提です(デカルト的パラダイム)。

ですから、たとえば念力でスプーンが曲がる、などということは現在の科学理論では起こりえないことなのです。そこで、そういう現象にぶつかると、インチキ・手品に違いない、と考え、その証拠を求め、少しでも怪しく見えるそぶりがあれば、やっぱりインチキだった、と結論するわけです。実際またインチキ・手品のたぐいが少なくありません。一つでもインチキが発見されれば、それ見たことか、すべてインチキだ、となるわけです。

そこには、念力なるものがあるかどうか、虚心坦懐に検証してみようという態度はまったく見られません。ある科学者がそういう公平な態度で実験しようとすると、それだけでうさんくさい目で見られますし、もし念力の存在が証明できたなどと言おうものなら、それを追検証しようとさえせず、その科学者は「トンデモ科学者」というレッテルを貼られ、猛烈なバッシングに見舞われ、大学や研究所にいられなくなります。ですから、本当は念力なるものがあるかもしれない、と思っている科学者でも、それを自分の研究テーマとして採り上げ、本格的に実験することはとうていできません。そういうことをやったら、科学者としての自分の死を意味するからです。

そこで、念力の研究は、せいぜい「超心理学」というカムフラージュをして、大学の片隅で細々と行なわれるだけで、それさえ科学の主流からは無視されています。東大や京大で念力の研究をしている学者がありますか? そういう講座がありますか? そんなことをしたら、その科学者は即座に一流大学から追放されます。

このような雰囲気の中では、本格的な念力の研究など行なわれるはずはありません。

南京上空に現われたUFO

2006年12月13日 | Weblog
今年8月17日に、中国は南京市の上空にUFOが現われ、ビデオで撮影されました。

http://video.google.com/videoplay?docid=-7598721960325807175&q=ufo+china

日本や欧米では、「UFO市場」とでもいったものがあり、その写真や動画が、雑誌に掲載されたりテレビで放映されたりして、「お金」になります。そのため、かなりの数のイカサマもあります。

しかし、中国ではそのような「UFO市場」はまだありませんから、わざわざ手間暇とお金をかけて、偽映像を作ろうという動機がありません。これはおそらく偶然撮影されたリアルな映像だろうと推測されます。

最初このビデオを見たときには、導入部の字幕には音楽がなかったのですが、今日再度見たところ、変な音楽がつけられていて、かえって作り物めいた雰囲気になったのが残念です。

いわゆるアダムスキー型円盤です。

拡大映像では、胴体周辺からまばゆい光の筋を放射し、一瞬のうちに消滅するさまがよくわかります。

どうやら、他の天体から地球を訪れた知的存在が地球を観測しているようです。



イマジン・ピース・タワー

2006年12月10日 | Weblog
12月8日はまた、ジョン・レノンの命日でした。

ジョン・レノンはビートルズの一員として、「イマジン」の作者として、その曲は永遠に歌われ、その名は永遠に残るでしょう。

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イマジン(拙訳)

〔特定の宗教信者だけが入れる〕天国なんかないと想像してごらん
そんなことはやってみれば簡単なんだ
地面の下には〔異教徒が堕ちる〕地獄なんかない
僕らの頭上に広がるのは美しい空だけだ
すべての人々が〔未来や死後のことを思い煩わず〕今日の
一瞬を真剣に生きているのを想像してごらん

国なんかないと想像してごらん
難しいことじゃない
殺したり死んだりする理由もなく
宗教もない
すべての人々が平和に生きているのを
想像してごらん

財産なんかないと想像してごらん
君にできるだろうか
欲張ったり飢える必要もなく
人類はみな兄弟姉妹
すべての人々が全世界を分かちあっているのを
想像してごらん

君は僕のことを夢想家だと言うかもしれない
だけど僕ひとりじゃない
いつの日か君も僕たちの仲間になって
世界が一つになれたらいいと思う
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レノンの奥さんのオノ・ヨーコさんが、「イマジン・ピース・タワー」というものを企画しています。

http://k.d.combzmail.jp/t/9m1z/60iwzy004asjodecsb
(「イマジン・ピース・タワーへウィッシュを送る」をクリックして下さい。)

これは、アイスランドの首都レイキャビクに建設され、レノンの誕生日の2007年10月9日に完成予定だそうです。

この平和の塔は、物質でできた塔ではなく、宇宙に向かって光の柱が立つ、という仕掛けの塔です。

その基盤に、世界中の人々の平和を願うメッセージが収められます。その願いが光とともに宇宙に放射されるわけです。上記のサイトから、インターネットでご自分のメッセージを送ることができます。

世界人類が平和でありますように
May Peace Prevail on Earth




1941年12月8日

2006年12月08日 | Weblog
65年前の今日は、真珠湾攻撃によって日米戦争が勃発した日です(アメリカの日付では12月7日)。アメリカはこの戦争を、民主主義対全体主義の戦い、自分たちを世界を隷属から解放する正義の軍隊と位置づけました。しかし、戦争の真の原因は、中国支配・アジアの覇権をめぐっての日米の利害の対立でした。日独伊3国同盟を結んでいた日本を戦争に引きずり込んで、ヨーロッパでナチス・ドイツとの戦争に参加するという目的もアメリカにはありました。

日米戦争はポツダム宣言の受諾により、1945年8月15日に終結しました。その後、アメリカは日本に乗り込み、日本の社会を根底から変革しようとしました。アメリカは日本に新憲法を押しつけ、日本を、ほぼアメリカの望むような民主主義の国に変えることができました。アメリカはまたドイツ(西ドイツ)やイタリアも民主化することに成功しました。

日本は敗れることによって、神がかり的な軍国主義から解放され、戦争放棄の憲法を手に入れました。その憲法のおかげで、戦後60年間、戦争に直接巻き込まれることを避け、その間、経済復興に集中することができました。いわば「負けるが勝ち」を獲得したのです。

しかし、アメリカにとっては、軍事的勝利と民主化という政治的勝利の成功体験が、その後の外交・軍事にマイナスの影響を与えたことは否定できません。つまり、自分たちの軍隊は正義の軍隊であり、自分たちの戦争は正義の戦争であるという思い込みが生まれました。アメリカは次々と正義のための戦争を起こしました。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争。

イラク戦争は、露骨に欲望(石油)と謀略(大量破壊兵器の嘘)から始まった戦争でしたが、そこにもイラクを独裁者サダム・フセインから解放し、民主化するための戦争という美しい大義名分が掲げられました。しかし、イラクは日本ではなかったし、フセインは昭和天皇ではなかったのです。イラク戦争がもたらしたのは、いつ終わるとも知れない破壊と混乱です。アメリカの犯した罪は大きい。そのカルマは深い。その報いは必ず受けることになります。

イラクはアメリカの好戦主義の終点となるでしょう。そしてイスラエル偏重の中東政策の転換点になるでしょう。いずれ中東の激変は避けられません。敗戦後の傷心のアメリカをどう支えていくかが、アメリカの友好国である日本の課題ですが、アメリカの言いなり、アメリカのポチであるだけでは、もはやすみません。日米関係も大きな転機を迎えることになるでしょう。

清水勇著『ある日の五井先生』(オンブック)

2006年12月05日 | Weblog
清水勇氏の著書が発売になりました。清水氏からお預かりした紹介文――

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『ある日の五井先生』は若い人たちが推進している祈りによる世界平和運動の同人誌『ラブリーアース・パル通信』の誌上に、平成8年(1996年)から平成14年(2002年)までの6年間に亘って連載したものを加筆、修正、削除して1冊に纏めたものです。

 著者の白光青年部時代そして白光真宏会職員時代を通して、五井先生ご帰神までの16年間の中で、先生からの直接のご指導はもとより、日常の何気ないお言葉の中から、尊い御教えとして著者の心に残った貴重なエピソードを、思い起こすままに綴った書です。

 本書から霊覚者五井先生の偉大さを感じ取っていただければ幸甚です。

定価2100円(本体+税)A5版 232頁 (株)オンブック
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その内容の一部は、ここに掲載されています。




世界宗教者平和会議(2006年11月号)

2006年12月01日 | バックナンバー
 八月下旬に京都で第八回世界宗教者平和会議世界大会が開かれた。この平和会議は、日本の宗教者が世界の諸宗教の代表者に呼びかけて発足したもので、第一回も一九七〇年に京都で開催された。不定期に四~五年に一度、世界各地で開催されてきたが、今回は三六年ぶりに日本での開催となった。

 今日、世界各地で多発している紛争の原因の一つが宗教対立にあることは否定できない。九・一一事件以降、キリスト教・ユダヤ教世界とイスラム教世界との「文明の対立」が激化している感がある。宗教は本来、人間の心の中に平和を築き、平和世界の建設に貢献するべき活動であるはずなのに、残念なことである。そのような時に、様々な宗教の代表者がともに世界平和を目指して一堂に会して話し合うということは、たいへん有意義なことだと思う。

 ただし、「平和会議」となると、平和を阻害している具体的な問題の解決がどうしても話題の中心になりがちである。今回の会議でも、「紛争予防」「武器拡散、軍縮、安全保障」「暫定的公正と人権」「子供とHIV/エイズ」「貧困撲滅」「環境」などの問題について分科会が開かれた。いずれも重要な問題ではあるが、宗教者の会議で具体的な成果を得ることは困難であろう。とくに日本の宗教者は対社会的な実践活動が苦手である。会議の日本関係者は、「正直言って、議論への積極的な関与は難しい。命の危険と隣り合わせの国から来る宗教指導者が多い中で、平和に慣れきってしまった日本人が議論をリードするのは無理だ」と述べたという(毎日新聞)。実際、日本の宗教者の影は薄かったようだ。海外の代表者は、「広島・長崎の被爆を経験した日本の宗教者は、平和を追求するうえで特別な役割を果たす」と何度も述べたが、これに対して日本の宗教者はまともな応答ができなかったのである。

 しかし、日本の宗教者は本当に世界の宗教界に対して何も提言できないのだろうか?

 白光真宏会の前会長である故五井昌久師は、第一回会議の日本代表の一人であった。五井師は会議で、「宗教者の役割は政治や経済の問題の解決ではない。宗教者の本分はあくまでも、そういう問題を生み出す人間の心の問題の解決である。様々な宗教が対立を超えるためには、誰もが納得できる世界平和を希求する共通の祈りを定め、ともに祈ることが必要だ」と提案した。この提言は今日ますます重要である。祈りは単なる心弱い願望ではない。人類の集合的意識を変える強力なエネルギーの発振である。まず日本の宗教者が、宗教の違いを超えてともに世界平和を祈る姿を世界人類に模範として示すべきであろう。