平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

5月22日の第1回「世界平和交響曲」

2005年05月24日 | Weblog
最近、本業のほうがたいへん忙しく、なかなか投稿できなくなっています。

5月22日に白光真宏会・富士聖地の野外会場で催された、第1回世界平和交響曲は、画期的な行事となりました。

行事は前半と後半の2部に分かれ、前半は各国の国旗の入場から始まりました。美しい行進で壮観でした。

次に各宗教の代表による世界平和の祈りが祈られました。今回は、ヒンズー教、キリスト教カトリック、キリスト教プロテスタント、イスラム教、神道、ユダヤ教、仏教真言律宗、仏教真言宗です。

プログラムには、各宗教の祈り言葉が印刷され、かなが振られていたので、参加者もともに祈ることができました。

世界各地で行なわれたこれまでの宗教者平和会議では、各宗教の代表が祈りを捧げても、ほかの人はただ聞いているだけです。今まで宗教の協力ということが言われても、話し合いとか共同の平和宣言を出すとかという程度で終わって、他宗教の祈りを祈りあうというところまでは進みませんでした。しかし、今回は約1万人の参加者が全員その祈りを祈りました。これには、参加した各宗教の代表者も心から感銘を受けたようでした。

各宗教の祈りを聞いて、それぞれにひびきは違っても、心から感動するものがありました。私個人としては、とくにヒンズー教の「オーム」とユダヤ教の祈りに心が深く動かされました。

各宗教の祈りのあと、白光真宏会で行なっている「人類即神也の印」の披露が行なわれました。

15分の休憩をはさんで後半は、印による世界各国の平和の祈りで、192カ国の国旗の掲揚とともに、日本語と英語で世界平和を祈りました。これが1時間もかかったのは、初めての人には長すぎたと思います。

その後、各宗教代表者の挨拶、来賓の挨拶、新しいピースソングの合唱となり、行事は3時すぎに終わりました。行事の終わり頃から雨になったのは残念でした。

第1回目としては大成功であったと思います。

比叡山延暦寺(1994年8月)

2005年05月20日 | バックナンバー
5月22日に富士山のふもとの朝霧高原にある白光真宏会富士聖地で、

世界平和交響曲

という行事が開かれます。私も土日にかけて参加します。

これは世界の諸宗教のそれぞれの世界平和の祈りをともに祈りあうという行事です。類似の行事はいろいろと行なわれ、私もいくつか参加したことがありますが、今回の行事は、それとはひと味もふた味も違ったものになりそうです。

今回はまだ1回目ですから、規模も小さなものでしょうが、この行事は、世界の宗教界の流れを変える可能性を秘めています。詳しい内容は来週にでもご報告できると思います。

以前に参加した行事に関するバックナンバーを紹介します。

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比叡山延暦寺(1994年8月)

 平成六年六月十九日に、比叡山延暦寺根本中堂で、世界各国の平和を祈る集いが開かれた。

 今からおよそ千二百年前、若き修行僧最澄は比叡山に登り、草庵を結び、修行生活を開始した。最澄はその後、西暦八〇四年に入唐して、天台宗を学び、日本天台宗を確立し、伝教大師と尊称された。最澄の草庵のあとには本堂の根本中堂が建てられた。

 だが、比叡山はただ天台宗という一宗派の総本山にとどまるだけではない。ここで学び、修行した学僧たちの中からは、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など、きら星のごとき宗教的天才が輩出した。これらの偉人がいなければ、日本人の宗教生活ばかりではなく、日本の文化も、かなりレベルの低いものになっていたであろう。ある意味では、比叡山延暦寺は、日本仏教と日本文化の「根本」と言えるかもしれない。

 しかし、延暦寺は常に宗教的聖地であったわけではない。派閥争いもあれば、政治的な野心に駆られて、僧兵という軍事力を持ったことさえあった。織田信長の叡山焼き討ちは、延暦寺にまつわる業生を焼き尽くす、浄化の炎であったのだろう。

 今年亡くなられた前座主山田恵諦師の呼びかけによって、今から七年前、比叡山に世界の宗教指導者が集って、「比叡山宗教サミット」が開かれた。この催しには、仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の指導者をはじめ、海外から二四人の代表が参加し、比叡山上でともに世界平和を祈った。そのとき、山田師は、「地球上での宗教にかかわる多くの紛争は、なお後を絶たず、また核戦争による地球壊滅という大問題を抱えている。宗教者の取るべき道は、宗教者がお互いを理解し合うことだ」と述べたが、この言葉は現在でもそのまま当てはまる。

 そのときの祈りは、各宗教のそれぞれの祭式に則っての祈りであった。中には、仏像という他の宗教の偶像の前では祈れない、という、形式にこだわる頑迷な宗教もあったそうだが、それに対して、他の宗教の代表者を自宗の聖地の中に招き入れ、その宗教の祈りを許した延暦寺の、ひいては日本仏教の寛大さとふところの深さは、さすがに偉大であると思われる。このような寛容の精神こそ、世界平和の基盤であろう。

 このたび延暦寺根本中堂で開かれた行事は、「世界人類が平和でありますように。○○国が平和でありますように」という、一切の宗教形式、教義の対立を超えた、端的に平和を祈る行事であった。この次は比叡山に世界の宗教代表者が集って、世界平和の祈りを祈ってもらいたいものである。



ウズベキスタン

2005年05月18日 | Weblog
ウズベキスタンでは反政府暴動が起こり、多数の死者が出たようです。

ウズベキスタンのサマルカンドには平和博物館という施設があります。

ウズベキスタンの平和博物館

館長のアナトリー・イオネゾフさんという方は大の親日家です。私も一度お会いしたことがありますが、日本が世界平和のために積極的に起ち上がってくれることを期待していました。ホームページの右上にある写真の中央の方です。といっても、小さすぎてよくわからないと思いますが。

ウズベキスタンが一日も早く、平和で民主的な国になるよう、「ウズベキスタンが平和でありますように」とお祈り下さるとありがたいです。

ホロコースト慰霊追悼碑

2005年05月17日 | Weblog
ベルリンのホロコースト慰霊追悼碑が5月10日に完成したそうです。

写真

これについては4月26日の投稿で触れています。私は2001年の夏に工事現場を見ましたが、それが完成したわけです。

いろいろな意見があると思いますが、この写真を見て、私は愛、感謝、希望といった、光明の波動を感じることはできませんでした。

悲惨な過去をいつまでも手放すことができないということは、犠牲者であるユダヤ人にとっても悲しいことです。

この場所の中央にいつの日か世界平和を祈念する言葉を記したオベリスクが建てられ、周囲には万国旗が立ち並び、この場が、民族と宗教の違いを超え、人々がともに世界平和を祈り、愛と感謝を分かち合える場となることを祈るものです。

ダライ・ラマと村上和雄先生の対談(4)

2005年05月15日 | 最近読んだ本や雑誌から
最後に村上先生は、中国によるチベットの占領について質問します。

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 猊下はご自身の半生を振り返りながら、ある時「中国側がチベット人に加えてきた様々な攻撃やおびただしい弾圧についてもそのような事実を明らかにするのはどうしても必要であるが、中国人そのものに対する憎悪の念をいだくことは決してない」という考えを示しておられます。
 普通の人ならば強い敵対意識を持つところを、中国を敵と見ないその慈悲深いお気持ちに強く驚嘆いたしました。
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ダライ・ラマはこう答えています。

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 個人でも集団でも敵と思えるような相手に出会ったら、それを忍耐や寛容を与える修行だと考えてみてください。そのように考えると、敵は私たちの師であり、先生だといえます。敵はとてもありがたい存在なのです。人生の苦しい時期は、有益な経験を得て内面を強くする最高の機会なのですから。
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ダライ・ラマは、『ダライ・ラマ平和を語る』(人文書院)という本の中で、こう語っています。

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 私の日々の実践の中で、私は中国人について瞑想し、彼らに対する尊敬の念を成長させ、慈悲心を開発するように努めています。なぜかといいますと、彼らもまた苦しんでいるからです。私は彼らの否定的な感情と行動を自分に引き受け、彼らの意見を自分のものとして理解します。
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いっさいの敵を見ないダライ・ラマの心境には脱帽します。ダライ・ラマは、人間の本心・本体と、業想念をはっきりと区別しているのです。私も彼のこういう心境を見習いたいと思います。

しかし、中国がいつまでもチベットを支配し弾圧することは、中国の悪業を増大させることになります。そのカルマの結果はいつかは中国自身にはね返ってきます。現状を放置することは、中国人にとっても不幸であり、マイナスです。

チベットは、自力では中国から解放されることはできません。だからこそ、国際社会は、チベットの事態を公表し、中国にチベット弾圧をやめさせるように働きかける責務があります。それは、決して中国を憎悪することではありません。中国が真に立派な国になる手助けをすることです。この点において、日本の政府もマスコミもきわめて消極的であるのは残念なことです。

ダライ・ラマと村上和雄先生の対談(3)

2005年05月13日 | 最近読んだ本や雑誌から
ダライ・ラマは、倫理は科学からも涵養することができると考えているようです。

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 近代の世の中は、科学者の様々な発見が宗教的な信心の裏付けとなり、またそういうものが一つに合わさって、いろいろなことを考えていかなくてはならない時代に入ってきています。私は、人に対する愛や思いやり、優しさ、そういったものが心の平和、精神的な健康面において非常に重要であり、それには科学と宗教の両方の見方がたいせつなのではないかというお話をしております。
 他の人たちとの非常に温かい友人関係を保っていくためにも、優しさや温かさ、思いやりは一番大切なキーポイントになっていると私は信じておりまして、それは村上先生がおっしゃっている遺伝子的な観点からも裏付けられていると思うのです。
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ご存じのように、村上先生は神という言葉を使わず、「サムシング・グレート」とおっしゃるわけですが、村上先生の見解の中には、宗教によらない倫理観というものが見うけられます。ところが、科学から生まれた倫理観が、愛や思いやりや生命の尊重といった宗教の本質と一致することが面白いところです。

龍村仁監督の『ガイア・シンフォニー』には、ガイア仮説の提唱者ラブロック博士のような科学者も登場しますが、彼らの中には、高度の倫理性と精神性が感じられます。科学研究を突きつめていくと、宇宙の神秘、生命の神秘への畏敬の念につながるのでしょう。そういう科学面から生命尊重や自然保護のようなモラルを教えることは、宗教を持つ人にも持たない人にも受け入れられることだと思います。

ダライ・ラマは科学者との対話を重視していますが、仏教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のように、特定の聖典を絶対化しませんので、科学の知見も柔軟に取り入れることができるのでしょう。

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 私自身は、もちろん釈尊の教えに従う仏教の修行者です。百%仏陀の弟子なわけですけれども、技術を駆使して科学者が発見してくださっていることが、よりリアリティーがあり現実に近いという思いは否定することができないのです。むしろ最近の科学者のリサーチによるもののほうが、よほど信頼性があるように思います。
 幸運にも釈尊は、私の教えをむやみに信じるのはいけない、自分の頭でよく考え分析して、正しいと思ったら信じなさい、とおっしゃってくださっています。私たちにはその選択の自由があるわけなんです。
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 私は、ダライ・ラマのこういう柔軟な姿勢がとても好きです。

ダライ・ラマと村上和雄先生の対談(2)

2005年05月12日 | Weblog
ダライ・ラマはこう語っています。

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 ローマ法王は、キリスト教徒として生きていくには、直接的ではないのですが、宗教的倫理観、それにプラス信心が必要だというふうに述べられました。その点について、私は必ずしも宗教的な倫理観が必要とは思っていないのです。・・・
 モラルというものは必ずしも宗教的な面から出てくる必要はありません。世俗の倫理観が持っている可能性、あるいはその能力で十分であるとお話ししているわけなのです。ですから世俗的な倫理観、宗教に対する信心という二つの方向性から人間の可能性を高めていけるのではないかと考えます。
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ダライ・ラマは、倫理というものは必ずしも宗教に基づく必要はない、と考えているようです。たとえば日本の武士道というものは、神や仏を信ずる、いわゆる「信心」とは違いますが、高い倫理性があります。そういう倫理でも、よいものならそれを活用すればいいではないか、というのがダライ・ラマの立場だと思います。

これに対して、ヨハネ・パウロ二世は宗教と倫理は一体である、と考えていたようです。

これは、ダライ・ラマとヨハネ・パウロ二世との違いというよりも、仏教とキリスト教の違いなのかもしれません。

キリスト教的ヨーロッパでは、倫理は常にキリスト教との密接な関わり合いの中で生まれてきました。現在でもキリスト教世界では倫理と宗教を区別しがたいのでしょう。

そこで、キリスト教世界では、たとえば同性愛を認めるか否か、家族計画(産児制限)を認めるか否か、ということが宗教上の大問題になります。ブッシュ大統領が再選されたのも、こういうキリスト教モラル面での訴えかけに、多くのキリスト教徒が賛同したからです。

私のような非キリスト教徒にとっては、これは宗教の問題というよりも、社会道徳や社会政策の問題だと思われるのですが、キリスト教ではそれは宗教上の問題となるわけです。

ユダヤ教やイスラム教では、倫理と宗教の結びつきはさらに強いと思われます。そこでは、戒律を守ることが宗教生活の重要な一部になっているからです。

しかし、モラルを宗教と結びつけますと、ヨーロッパではキリスト教、中東ではイスラム教というように、多くの国では国教か主流派の宗教が決まっていますので、モラルの強調はどうしても、特定の宗教あるいはその宗教的価値観の押しつけになる可能性もあります。

ヨハネ・パウロ二世は偉大な法王でしたが、教義面・倫理面では保守派であったと言われています。産児制限を認めなかったので、カトリックのラテン・アメリカで人口が増大し、貧困が解消しなかった、とヨハネ・パウロ二世を否定的に評価する人もいます。新法王ベネディクト16世はヨハネ・パウロ二世の右腕だった人ですので、やはり保守派だとして批判を受けています。

しかし、宗教と倫理が一体であれば、宗教を守るためにはどうしても倫理面でも保守派にならざるをえないでしょう。

これに対して、ダライ・ラマは倫理に対してはるかに自由な立場を取っているようです。(続く)

ダライ・ラマと村上和雄先生の対談(『致知』2005年6月号より)

2005年05月11日 | 最近読んだ本や雑誌から
今年4月にダライ・ラマが来日しました。10回目の訪日だそうです。そのときに、遺伝子研究の村上和雄先生と対談をなさいました。

村上先生がダライ・ラマと会うのは3回目だそうです。最初は2003年に東京で開かれた仏教者と科学者の対話でした。この時は、ノーベル物理学賞の小柴先生も出席しました。2回目は昨年10月のダラムサラだそうです。村上先生は仏教者と対話する8人の科学者の中の一人だったそうです。3回目の今回は熊本市のホテルでの対談となりました。

最初に村上先生が、ヨハネ・パウロ二世の逝去についてダライ・ラマの感想を聞きました。ダライ・ラマはこう答えています。

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ローマ法王が亡くなったと知った時、大きな喪失感に襲われました。法王と私は生きてきた環境がとても似ているのですね。ローマ法王は全体主義政権下の祖国ポーランドで抑圧を受けながらお過ごしになりましたし、私もまたチベット本国が中国の侵攻を受けて、1951年から59年までの間、その厳しい抑圧下にいたという経験を持っています。このように歴史的に共通の背景を持っていることで、最初から親近感を持っていました。
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ダライ・ラマは次にヨハネ・パウロ二世の功績を3点あげています。

(1)平和への貢献
(2)精神的な面の強調
(3)他宗教との対話と協力

しかし、ダライ・ラマは、ヨハネ・パウロ二世とは考え方が必ずしも一致しない点もあった、と率直に語っています。(以下続く)

ヤルタの過ち

2005年05月09日 | Weblog
ブッシュ大統領が、ヤルタ会談の合意は過ちだった、と述べました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050508-00000491-reu-int
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[リガ 7日 ロイター] ラトビアを訪問中のブッシュ米大統領は7日、リガ市内で講演し、ソ連が中東欧諸国を支配したことは「史上最大の過ちの一つ」との認識を示した。
 大統領は、第二次世界大戦末期の1945年、米英ソの3カ国首脳が欧州の戦後処理を決めたヤルタ合意で欧州が分割されたことに言及し、米国にも責任があると述べた。
 また、終戦から1991年までソ連に併合されていたバルト諸国への同情を表明。
 大統領は、ヤルタ合意当時、「小国の自由は犠牲となった」と振り返ったうえで、「安定のため自由を犠牲にしたこの試みは、欧州大陸を分断し、不安定にした。何百万人もの中東欧諸国の人々が捕らわれの身となったことは、史上最大の過ちの一つとして記憶されるだろう」と批判した。(ロイター) - 5月8日16時2分更新
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ヤルタ会談というのは、1945年2月にクリミヤ半島のヤルタで開かれた、ルーズベルト、スターリン、チャーチルの会談です。この会談で戦後の国際社会の大枠が決められたので、戦後の国際社会がヤルタ体制と呼ばれることがあります。

ただし戦後体制は、ヤルタだけですべてが決まったわけではなく、その後のサンフランシスコ会議(4月)、ポツダム会議(7月)によって決められました。その主な内容は――

(1)ドイツの分割統治
(2)戦勝国による国連の創設(the United Nationsとは「連合国」の意味)
(3)国連における大国の拒否権
(4)東欧をソ連の勢力圏と認める
(5)ソ連の対日参戦、北方領土のソ連への編入
(6)フランスなど旧植民宗主国の権益の承認

などです。

ブッシュ大統領がヤルタ合意を部分的にでも「過ち」だったと認めたのは、バルト3国の歓心を買い、「自由を広める」という戦略の一環なのでしょうが、画期的なことです。せっかく対独戦勝を記念しようと思っていたロシアにとっては、面白くない発言でしょう。

戦後60年が経過し、ヤルタ合意は善だった、という認識を根本から変えなければならない時期にさしかかっていることはたしかです。

60年というのは、東洋では還暦の年、物事をリセットしてやり直す年です。色々な面でリセットが起こりつつあるようです。

何のための対独戦勝60周年記念式典?

2005年05月08日 | Weblog
5月9日にモスクワで「対独戦勝60周年記念式典」なる行事が開かれます。

いまアメリカのブッシュ大統領、中国の胡錦濤国家主席など、世界約50カ国の首脳が集まりつつあります。

この式典は何のための式典なのでしょう? ソ連がドイツに勝ったことを記念し、誇るための行事なのでしょうが、自分は勝ったぞ、強いんだぞ、と自慢し、国威を発揚するためであるのなら、何とも幼い20世紀的な発想です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050508-00000321-jij-int
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「戦勝国」を内外にアピール=中国主席、ロシアに出発
 【北京8日時事】新華社電によると、中国の胡錦濤国家主席は8日、ロシアの対独戦勝60周年記念式典に出席するため、モスクワに向かった。
 中国共産党は7日、抗日戦争・反ファシスト戦争勝利60周年記念活動を積極的に進めるよう関係部局に通知。内外の記念活動を通じ、「戦勝国」の立場をアピールし、国際社会に「大国」としての地位を示す方針だ。 (時事通信) - 5月8日15時0分更新
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中国も幼いですね。真の「大国」として認めてもらいたければ、まず他国の外交施設や商業施設を破壊したことを、素直に謝罪することです。そういう礼節をわきまえれば、おのずと尊敬される国になります。「礼節」という言葉はたしか中国から来たはずですが。

現在の大国の政治指導者はみな、「ドラえもん」のジャイアンにも及ばない精神年齢のようです。

正しかったから勝ったわけではないし、間違っていたから負けたわけでもない。軍事力が強かったから勝ち、弱かったから負けただけです。勝敗と正邪は別問題です。しかし、戦争は「勝てば官軍」という論理によって、勝者が正当化されてしまいます。

ソ連はナチス・ドイツと同盟を結び、東欧を侵略しました。カチンの森ではポーランド人軍人を大量虐殺しました。戦後は東欧諸国を属国にしてしまいました。共産主義の重圧のもとで、どれほど多くの人々が呻吟したことか。スターリンの粛正はナチスのホロコーストと同じです。

ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破り、昨日の投稿にもあるように、多くの民間人を虐殺し、日本人捕虜をシベリアへ拉致し殺しました。日本の固有の領土を奪って、返えそうともしない。そういう国が戦勝を誇るということは、自分の恥をさらし、宣伝していることである、ということに気がつかないおかしさ、愚かしさ。

世界各国に戦勝記念日は山ほどありますが、戦敗記念日というものは一つもありません。

戦勝国があれば、戦敗国がある。いつまでも戦勝を誇るということは、戦敗国を侮辱しているということになります。

その中にあって、わが日本だけは、敗戦の日である8月15日を「終戦記念日」としました。これを「敗戦記念日」としないのは、日本特有の言葉によるごまかしだ、という意見もありますが、私はそうは思いません。

敗戦は屈辱であり、恨みが残ります。その恨みは、いつかは仕返しし、今度は戦勝国になろうという思いにつながります。しかし、終戦とは、戦争が終わったことであり、そこには、自国を打ち破った敵を憎む思いは出てきません。そして、戦争全体を悲劇としてとらえ、二度と戦争を起こさないようにしよう、という発想につながります。

戦後日本は8月15日を終戦の日とし、戦死者を追悼し、世界平和を祈る日としました。これは、戦勝を誇る幼い国々にはとうてい理解のできない偉大な行ないなのです。

国民の精神的レベルが向上すれば、世界各国はいずれ戦勝を誇ることを恥じるようになるでしょう。

その人は売春婦だった(高橋英雄さんの個人誌『神人』2005年4月号より)

2005年05月07日 | 最近読んだ本や雑誌から
神人列伝(13)

その人は売春婦だった   高橋英雄

昭和20年8月9日
ソ連軍は突然 国境を破って
満州に攻め入って来た
ソ連の大軍はたちまち日本軍をけちらし
南下し全満州を占領してしまった
幾多の兵士や一般人の血が流れた

ソ連軍は囚人部隊だったという
無学文盲、強盗、強姦、殺人鬼どもだった
日本人はソ連兵の目に触れないよう
婦女子を男装させ家の中にかくしたが
動物的臭覚で忽ちかぎつけ
女を出せ! と機関銃をつきつけた
幾多の女性が彼らの獣欲の犠牲になった

ある集団にもついに牙がむけられた
一人の女性を出さなければならなくなった
行ったら最後ひどい目にあうのは必定
生きて帰れないのはわかっていた
だから皆 下を向き息をひそめるだけだった
その時
「私が行きましょう」
と起ち上がった女性がいた
みんなはホッとした
ソ連兵は彼女を連れ去った

彼女は娼婦だった
みんなに侮辱され軽蔑されていた売春婦だった
彼女の人身御供によって
日本人の女性たちは助かった

観音様は三三に身を変じ
人々を救うという
彼女は娼婦に身を変じた観音さまだった
極限の状態に身がおかれると
人間の本性が現われる
売春婦だった彼女の神性が現われたのである

【編集後記より】
神人列伝に書かれた女性の話は、当時、少女だった婦人からきいた実話で、たまたま海外からの引揚者の話の中の一つのエピソードでした。勿論、この売春婦だった人は帰らぬ人となりました。生き残った人々が彼女の菩提をとむらったかどうかはわかりませんが、少女も今は80に近い人となり、世界平和の祈りを祈る人となっておりますので、売春婦に身を現じた観音さまも満足していることでしょう。

 こういう無名の人々の行跡は、年とともに過去に葬りさられますが、終戦60周年を迎える本年、たまたま引揚者の一人の口のはにのぼり、無名婦人の天命がこれで完うされたことになったと思います。

5月4日の中国

2005年05月05日 | Weblog
5月4日の五・四運動記念日は、中国では大きな反日暴動もなく過ぎたようです。

これは、中国政府当局が反日デモを徹底的に抑え込んだからです。抑えようと思えば、抑えられるのです。ということは、4月の反日暴動は、抑える気がなかったということになります。というよりも、あれは中国政府当局がやらせた反日デモであったわけです。

今回は、反日デモを抑え込みましたが、反日教育によって若い世代に植え付けられた反日感情はそう簡単には消えないでしょう。こういう憎悪を吹き込む教育は、日本にとって迷惑なだけではなく、憎悪を吹き込まれた中国人にとっても悲惨なことです。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」というメールマガジンに、ある読者の方のこういう意見が出ていました。

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 先年、ポルポトの暴虐を逃れたカンボジア系米国移民のTVルポを観て、心底感動したことがあります。亡命した親たちは、子供たちに無用な憎しみを植付けひねくれた暗い性格の人間に育ててしまうことを恐れて、同胞から受けた謂われ無き非道について、子供たちに一切教えなかったというのです。

 憎しみも恨みも自分だけで背負って墓場にもっていこうというのです。私はこれほど深い慈愛に満ちた親心というものがあるのだと、その親たちと、彼らを育んだカンボジアの文化に深い畏敬の念をもちました。

 このたび(有難くも中国政府の許可をもらって)中国の歴史教科書について日本も物申すそうで、何が飛び出すか楽しみにしておりますが、そこで思うのは、議論のスタンスです。

 「日本人として」いうのは当然ですが、できうれば、かのカンボジア難民の顰に習い、より志を高く持ち「人類の名において」物申すだけの気概をもってほしいと思います。

 中国共産党や韓国政府がうら若い億千万の国民に植え付けた日本への憎しみ、当事者でないだけに消し去る術もないネガティブな感情、、、。

 これは日本人に対してである以上に、そのような洗脳を受け、やり場無き憤りと悲しみを生涯に亙って植え付けられた当の億千万の民に対する「人道上の大罪」以外の何物でもありません。同じ人間として許されざる罪である、という批判のスタンスが是非必要だと思います。

 これに関連して、最近憂慮していることがあります。中国共産党や一連のハネッ返り中国人を軽蔑するあまり、同じ次元に落ち込んだ低劣な言説をなす日本人が増えているように思えてならないのです。在留邦人のブログなどを注意深く読むと、上海のデモ隊に向かって「こんなことして何になるんだ!」と怒号する老いた中国人などが散見されたらしく、彼の地の住民は、流連荒亡の歴史で鍛え抜かれた面従腹背のアナーキストですから、さもありなんと思います。仕事の議論などでも、日本人なら顔を紅潮させる場面ですら、どこか平然とした余裕を感じる人が多く、よくも悪くも独特の懐の深さについては、素直に他山の石とすべきとすら思います。

 「騙されたから騙し返せ」的な議論は自らを貶めるものです。本当に言葉(と心)を届けるべき相手は誰なのか、それをよくよく絞って考えれば絶対に出てこない発想だと思います。私が言葉を届けたいと思うのは、彼の地で家族のために辛苦に耐えつつ報われない無数の無辜の民であり、圧政を逃れ亡命した民主活動家であり、彼らと心を同じうする多くの精神的亡命者の数々です。

 批判は絶対にすべきです。しかし、それがもし「人類」の名において、民主・自由といった普遍的(いろいろ欠陥はありますが、ここ当面はこれ以上の政治体制は見当たらないという意味において普遍的な)理念に照らしてなされるものでないとすれば、日本の批判は世界の軽蔑を招くことにしかならない、そう危惧します。
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経済学、経営学は基本的に間違っている(月刊『Hado』2005年5月号より)

2005年05月04日 | 最近読んだ本や雑誌から
筑波大学名誉教授・小林弥六先生の言葉

 アダム・スミス以来の経済学の根本思想は、水も空気も無機質で生命や心がなく、かつ、無償で無限だというのが前提です。
 本来、経済学のなかには、環境問題と資源問題はありません。環境問題も80年代、90年代以降、多少は取り上げられるようになってきました。
 環境経済学というものがありますが、どうも全体としてのイメージに穴がありますね。これは市場の売買や、市場につく値段を軸として動くことで、最適な経済運営ができるという信仰です。これは政・経・社会のリーダーたる面々の、耳目を疑わんばかりのモラルの低下と結びついています。
 つまり、西欧の「私悪=公益」、エゴイズムが公共の益になるという理論は、経済学の至上命題です。・・・
 つまりエゴイズムが満足すれば、全体としてバランスがとれる、公益になるというのがアダム・スミス以来の近現代の経済学の根本前提ですね。
 ところが、アダム・スミスや、現代ではフリードマンらが唱えるように、私悪が公益になるなんてことは絶対にあり得ないんですね。このことは学術的に証明できます。
 個々の人々や企業が、欲求のために悪を犯し、ほかを潰しても奪いたいという欲望や貪りをして、全体が良くなることは絶対にあり得ないのです。
 この考え方が、地球の破壊の根本原因であり、人類社会の破壊の原因になったわけなのです。(28ページ)


日勤教育と失敗学

2005年05月02日 | Weblog
JR福知山線の大事故から1週間が過ぎました。お亡くなりになった方々と、ご家族の皆さまには、心からの祈りを捧げたいと思います。

事故の全貌も徐々に見えてきましたが、その中で、JR西日本が行なっていた「日勤教育」という「教育」には驚きました。

人間であるからには、どんな人にもミスや失敗はつきものです。失敗をしたときに、どういう対処をするかで、その失敗を活かすことも、逆に次の――より大きな――失敗に膨らませることもできるのです。

失敗から学ぶことを「失敗学」といいます。JR西日本には真の意味での「失敗学」はありませんでした。

報道されたところによると、「日勤教育」は、オーバーランなどのミスを犯した運転手に、反省文を書かせたり、草むしりをさせたり、という内容だったそうです。そして、こういう処罰を受けた運転手は、月給やボーナスが減らされるそうです。数回ミスを起こすと、運転手から降ろされるそうです。運転の技術的な再訓練はなかったようです。

日勤教育を命じられた人からは、一種のいじめであった、との指摘さえあります。

日勤教育は、恐怖を与えることによって人間を緊張させ、ミスを起こさせまいとする、徹底的にネガティブな条件付けです。しかしこれでは、生身を持った人間はたまりません。こういう環境に置かれれば、逆に萎縮し、ミスを起こしやすくなることは、ちょっと自分を振り返って考えてみればすぐに分かることです。

日勤教育は失敗であった――このことを素直に認めるところからしか、JR西日本の再生は始まりません。そして、「失敗学」を必要としているのは、JR西日本だけではありません。

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失敗学(2002年12月)

 失敗は成功のもと――とは必ずしも言えない。人生には失敗はつきものだ。とくに新しいことを始めるときには、誰でも失敗する。失敗の中から様々なことを学び、それが次の成功の土台となる。ただし、そのためには、失敗と正しくつき合う方法を知らなければならない。それを知らなければ、失敗は次の失敗のもとになるだけだ――と畑村洋太郎東大教授は述べる。

 政治、経済、外交、教育、科学技術、医療など、日本のあらゆる領域で、不祥事、事故、組織腐敗が起こっている。これらはすべて失敗の諸形態と呼ぶことができる。あるいは、失敗にうまく対処できなかった失敗とも言える。失敗を隠そうとして、次のより重大な失敗が引き起こされる。あるいは、失敗を恐れ、必要以上に慎重になり、疑り深くなり、果敢な決断や行動が取れなくなれば、それもまた失敗につながる。今の日本は失敗の悪循環におちいっているのかもしれない。

 畑村教授の専門は機械工学であるが、新しい機械の設計にはよく失敗が起こるという。機械が計算したとおりに動いてくれないのは日常茶飯事だ。しかし、その失敗の原因を徹底的に解明することによって、次の進歩が生まれる。失敗の本質を正しく認識し、失敗と前向きにつき合うことが大切だ、という体験から、畑村教授は「失敗学」なる新しい学問を提起している。

 失敗学のいくつかのキーワードをあげると、「失敗情報は伝わりにくく、時間が経つと減衰する」「失敗情報は隠れたがる」「失敗情報は単純化したがる」「失敗情報は変わりたがる」「失敗は神話化しやすい」「失敗情報はローカル化しやすい」(『失敗学のすすめ』講談社)――いずれも、ははんと思い当たることばかりである。

 誰でも失敗はしたくない。しかし、失敗が人生の一局面である以上、失敗のない人生は存在しない。失敗にどう取り組むかということを学ぶことが大切である。失敗をきちんと活かすことができれば、それは次の創造、次の発展につながる。失敗を隠蔽したり、他に責任転嫁しているような個人や組織は、いずれ衰退する。

 失敗を活かす出発点は、失敗を失敗として認めることである。失敗を失敗と認めることができなければ、いつまでも同じ失敗を繰り返すことになる。失敗を認めるためには、正直な心と勇気が必要である。次に、その失敗にいつまでもくよくよして、自分を過度に責めないことである。また、周囲の人も、失敗した人を批判ばかりしていてはいけない。失敗は学びの経験としてとらえ、失敗の原因を自分なりに把握し、二度と同じ失敗を繰り返さないことが大切である。そうやって、失敗を活かすことができる人は、失敗を通して豊かな人生へと成長することができるだろう。

精神神経免疫学(2005年4月)

2005年05月01日 | バックナンバー
 筑波大学名誉教授の村上和雄先生は、高血圧の原因物質であるレニンの発見者として知られているが、最近は、笑いが遺伝子のオン/オフに影響を与えることを解明して、大きな話題を呼んだ。

 村上先生の近著『遺伝子オンで生きる』(サンマーク出版)によると、アメリカでは現在、祈りの科学的研究が盛んに行なわれているという。「たとえば、ハーバード大学、コロンビア大学、デューク大学などアメリカでも権威ある有名大学で、祈りの効果が研究されはじめ、すでに研究事例は一二〇〇を超えている。そして《精神神経免疫学》という新しい学問分野が開かれようとしている」とのことである。

 祈りがなぜ体によい効果を与えるのか、その理由について、ハーバード大学医学部のH・ベンソン博士は、「祈りや瞑想行為は、脳の思考活動を遮断する。そうすると、循環器系を管理する脳幹、記憶や学習を管理する海馬、集中力を管理する脳部分が活発化する。その結果、体がリラックスして、さまざまな病気の症状を軽減する」と説明している。禅などの瞑想も同じ効果があるそうだ。

 祈りや瞑想のこのような生理的効果は、これまでの医学や生理学でも十分に説明がつく。しかし、祈りにはそれ以上の不思議な作用があるという。というのは、自分が祈るのではなく、他人に祈ってもらっても、祈りが有効であることが示されたからである。

 デューク大学医学部で、八組の祈りのグループが、遠隔地から患者が回復するように祈りを送った。祈りの効果の査定は合併症率の有無で行われた。そして、他人に祈ってもらった患者の合併症が起こる確率は、祈られなかった患者グループの五〇%という結果が出た。明らかに、祈ってもらったほうが、合併症率が低下したわけである。

 祈りの作用は「プラシーボ」効果ではないか、という反論もあるという。プラシーボというは「偽薬」という意味で、ただのデンプンの固まりでも、お医者さんが「これは素晴らしい効果がある最新の薬ですよ」と言って与えると、患者の信念の力で効いてしまう、という現象である。しかし、患者が、祈られていることを知らない場合でも、祈りの効果が確認されているので、祈りの力はプラシーボ効果では説明できない。

 祈りがなぜよい効果を発揮するのか、そのメカニズムはまだ解明されていない。しかし、効果があるのであれば、祈ったほうが得だということになる。身近に病人がいれば、その方のために祈りを捧げていただきたい。自分でも日頃から祈る習慣をつけていれば、自分の健康状態が改善されることは、「精神神経免疫学」が保証してくれている。

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