平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

出家(1995年6月)

2005年03月18日 | バックナンバー
オウム真理教は信者を「出家」させて、修行させていました。出家に際しては、すべての財産を教団に寄進させるようなことも行なわれていました。こういう出家形式の宗教は、現代では無理があると思います。

これは、オウム事件の直後に書いた文章です。

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 出家とは、世俗の生活を捨てて修行の道一筋に生きることをいう。主として仏教で使われる言葉である。このような出家修行の形態は、すでにお釈迦様在世当時から取られていた。

 出家修行者といっても、やはり住む家も必要であれば、食べものや衣類も必要である。それでは、出家たちの生活はどのようにして支えられていたのか。それは、出家ならざる、在家の仏教信者の寄付・寄進によってであった。出家たちは在家の信徒たちの経済活動に依存しながら、世俗の営みに時間と労力をさかずに、ひたすら仏教修行の道を歩んだのである。

 しかし、もしすべての仏教徒が出家したら、当然のことながら、経済活動を行なう人びとがいなくなってしまう。すべてとはいわなくとも、あまりにも多くの人が出家するようになれば、その国の経済は停滞せざるをえないであろう。そのような理由から、昔の中国では出家行為が禁止されたこともあったのである。

 現代においては、仏教といわずどんな宗教においても、現実生活を捨てて宗教の修行だけに打ち込むことはいっそう困難になっている。一般的な生活費が高騰しているので、世間なみの生活を維持するだけでもけっこうお金がかかる。それでも、係累のない独身者であれば、自分一人の不自由を我慢すればすむことであるが、妻子や親兄弟がいる場合は、自分の宗教的願望だけを追求していては、家族に多大の迷惑をかけることになる。宗教の目的には、個人の救済と悟りだけではなく、他者の救済や幸福も含まれているはずである。もし出家という行為が、家庭を破壊したり近親者に迷惑をかけたりすることにつながるとするならば、それは宗教の本質に背くことになるのではなかろうか。

 したがって、今日の宗教生活のあり方は、一部の特殊な人びとを除いては、在家の修行ということにならざるをえない。しかし、世俗の生活の中にあって宗教的理想を追求することは、ある意味では出家的な宗教一筋の生き方よりも困難かもしれない。常に世俗の雑事に心が煩わされて、宗教的生活からはずれがちになるからである。そのような境遇の中で高い悟りに到達できたなら、それは出家者よりも素晴らしい成果ということになる。大乗仏教は在家の修行者を菩薩と呼び、その意義を高く評価したのである。

 一般大衆に可能な在家修行の道を切り開いたのが、浄土真宗の開祖・親鸞であった。浄土門は、日常生活の中でひたすら唱名念仏をすれば仏の世界に到達できる、と教えた。そして、在家の念仏者の中から、妙好人と呼ばれる人格者が多数生まれた。今日、この浄土門の教えは、現代的な形になって、世界平和の祈りに引き継がれているのである。