平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

湯川スミさん

2005年10月31日 | Weblog
毎日新聞の湯川スミさんの記事を掲載しておきます。

http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/news/20051021dde012040066000c.html

この国はどこへ行こうとしているのか--湯川秀樹氏夫人・湯川スミ氏
 ◇時間が欲しい95歳--京都からの発言

 ◇9条を世界連邦の大会で紹介すると「えらい、いいな」って世界の人が言うてくれる。日本がやめたんでは困る

 地下鉄の駅の階段を上りきって鴨川沿いに出ると、川面からひんやりとした風が吹いてきた。「京都の空は広いなぁ」。そんなことを考えながら橋を渡り、しばらく歩くと湯川スミさん(95)のお宅にたどり着く。

 「どうぞ、どうぞ」。ひじかけのある椅子にすっぽり納まるように腰掛けた湯川さんが、まあるい声で迎えてくれた。正面からお顔を拝見して驚く。若い。手はすべすべ、しわもない。つやつやした頬(ほお)にオレンジ系の口紅が映えている。黒地に白い線で花を描いたブラウスに、長い真珠の首飾り、暖かそうなひざ掛け。背後の大きな本棚には、すっかり茶色くなった背表紙に「素粒子論 湯川秀樹」の文字が見えた。

 「10年ほど前に入院してな。なんでか、足がこっち(右)の方が短くなってんな。毎日午前と午後にリハビリの先生がきはって、それから月曜日と金曜日の午後には人がきてお風呂に入れてくれはる。空いた時間に、部屋の中を手押し車を持って100歩ずつ1日に5回。外も1日1回歩くようにって先生に言われています。1日5回ゆうと大変です。時間がなかなか。自由になる時間が少なくてね。ほ、ほ、ほ、ほ、ほ」

 ●アインシュタイン

 湯川秀樹博士(1907~81年)が、原子核の中に陽子と電子の中間の重さの粒子(中間子)が存在すると予想する論文を発表したのは1935(昭和10)年。その後、宇宙線から予想通りの粒子が発見され、49年に日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞する。

 敗戦で打ちひしがれた日本人にとって、まさに英雄だった。核兵器にも強く反対し、がんで亡くなる直前まで、世界連邦政府をつくり、戦争のない世界を実現するという運動に取り組んだ。

 「原爆が落ちたのが昭和20(1945)年。昭和23年にアメリカのプリンストン高等研究所に秀樹さんが教授として招かれ、私も行ったんです。そこにアインシュタイン博士もいらした。日本人が来ているそうだから会いたいとおっしゃって、お部屋に呼ばれた。研究室から見ていると、博士が若い大きな男を2人連れて来はった。ボディーガードですね。ご自分の家から10分ほどのとこですけど、ヒトラーに殺されかけてアメリカに来てはったから、よっぽど怖かったんですね。両手でこう私たちの手を一つずつ取って『自分はユダヤ人でヒトラーに殺されかけて怖かったから、ヒトラーをなんとかできないかと言うたのが原爆になった。罪もない日本人を殺して申し訳がない』。そうゆうて泣かはった。私たちは『あなたが悪かったんじゃありません、日本が戦争の仲間入りしたからいけなかったんです』と話したんです」

 ●人生いろいろ

 「いろんな……ことがありますわ、ほ、ほ、ほ。あの翌年、コロンビア大学に招かれてニューヨークに引っ越してすぐ、スウェーデンからノーベル賞を差し上げたいからきてください、というのが来たんです。支度がもう大変で。どうぞどうぞ、お茶召し上がって」

 スミさんは、アインシュタイン博士との出会いを何百回も語ってきた。湯川博士の生前はともに、そして死後は意を継いで、核兵器の廃絶を訴えてきたからだ。90歳をとうに超えた今でも、依頼があれば車椅子で講演に赴く。

 よく笑うスミさんを、部屋に飾られた壮年の湯川博士の絵が見守っている。1961年、湯川博士は世界連邦世界協会(本部ニューヨーク)の会長に就任。「世界連邦は昨日の夢であり、明日の現実である。今日は明日への一歩である」と語るほどの信念だったが、その歩みは順調ではなかった。亡くなる年の1月、毎日新聞の対談でこう語っている。

 「私は常に世界連邦の理想を説いているのだが、人類が平和になるというこんな簡単なユートピアの原理が科学者たちにはわからない。戦争はばかげたことだという大きな考えがわからない。社会のことは社会科学者に任せたらいいという見識の狭さがある。先進国の学者の方がその傾向が強い。それはいかんと私は強く警告しているんです」

 日本という国は、自分の利益だけを考え、社会に対して黙っている人が得するようにできているのかもしれない。だが、博士はそんな生き方を選ばなかった。どこかの政治家の「人生いろいろ」とは深さが違う。

 ●逃げられない

 でも、大人も若者も、私自身も、とりあえず今日、自分さえ楽しければ音楽を聴いたり、おいしいものを食べたり、幸せに過ごせればほかのことは考えない……そんなふうになりがちだ。

 「そうですか。けど、みながそういうふうにできるようにするにはお金や資源がいりますでしょ。今、イラクにも自衛隊とかたくさん軍隊が行っていて、そういうものにもものすごいお金がいります。それらをすべて生活の方に回したら、生活がえらい楽になる。そう説明すると『なるほどそやなぁ』と分かる人には分かってもらえますな」

 「水爆とかどんどん強いものができてきましたわね。こんなものでやりあったら人類、地球は滅びてしまうかもしれん。『どこへ逃げたらいいやろか』って、地球が滅びたらどこの国もないようになります。実際のその威力を知ったら怖さが分かりますな。世界的にも分かる人には分かってきたようやな、近ごろな。始めごろは(世界連邦は)夢やみたいに言っていたけど」

 ●便せん

 確かに、欧州連合(EU)は統合を果たし、国際刑事裁判所(ICC)も発足した。日本の国会でも衆院が8月2日、世界連邦実現に努力するとの決議案を可決。だが一方で、憲法9条の改正論議も活発化している。

 「憲法9条を世界連邦の大会で紹介すると『えらい、いいな』『それを手本にしよ』って世界の人が言うてくれる。それなのに日本がやめたんでは困るとゆうてるとこです。せっかくいいもの持っているのに、また外国に上手して……アメリカに上手すんのかな、政治の人は。おかしいです。変えられんように努力しているとこですけど。だからほんとに……。どうぞ、これ(コーヒー)先に飲みましょうや。お菓子もおいしいから、よろしいもの取ってな。核兵器の廃絶と世界平和を訴えた『ラッセル・アインシュタイン宣言』(1955年に湯川博士ら11人の学者が署名)な、あれが実現されていたら、今のような心配はいらんのですけど。なかなか。いいことって、なにしてくれませんなぁ」

 ひざには言いたいことをメモした便せんが何枚も。あふれるように語りは続いた。

 ●自由時間

 「宇宙に星がたんとあるでしょう。そのなかで、生きている、生き物が生活しているのは地球だけでしょ。地球が、その中でやりあって、戦うようになったらしまいやな」

 それにしてもすごい熱意、すごいパワー。思わず「何か健康法は」と聞いてみた。

 「最近主治医が言いはってな、食事の後30分だけあおむけに寝て、胃がこなす間、胃が働きやすいようにしなさいよって」。あとは極めて規則正しい生活。朝起きて食事して、食休みしてリハビリ。それから仕事。「朝は7時、夜は大体9時すぎぐらい。テレビは時間があったら。なかなか自由な時間がないから、ほ、ほ、ほ。原稿書いたりすると時間がかかるでしょ。今もう5時なの? お金やら資源やら知恵やらを、人を殺すものにたくさん使わずに、生活の方ばかりに使ったらよろしいわな。私、時間がいくらでもほしいな」

 ●ハトのサブレー

 長居を謝して門に向かうと、キンモクセイの香りが降ってきた。薄暗くなりかけた中、湯川博士もよく散歩したという下鴨神社の糺(ただす)の森に足を運んだ。樹齢200~600年もの木々が立ち並ぶ森で、博士は何を考えたのだろう。人は何のために生きるのか、博士なら「自分が選んだもののために生きる」と言い切ったのかもしれない。

 鴨川沿いに戻った時には日が落ち、いわし雲のかかった西の空に大きな大きな一番星が輝いていた。バッグの中にハト形のサブレーが1枚、入ってるのに気がついた。スミさんが最後にすすめてくれ、家の方が入れて下さったのだろう。

 割れないように、ハンカチで包んだ。【太田阿利佐】

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 ■人物略歴

 ◇ゆかわ・すみ

 1910年、大阪市生まれ。22歳で秀樹氏と結婚、息子2人を育てる。世界連邦世界協会婦人委員長などを歴任。現在、世界連邦運動名誉会長。著書に「苦楽の園」。

湯川博士の霊界通信(5)

2005年10月29日 | 最近読んだ本や雑誌から
(前回からのつづき)

 アメリカもソ連もスイスも連邦になってからは、その国の中での戦争はなくなり、国全体の幸福を考えるようになった。世界も連邦になれば地球上で戦争はなくなり。国別の軍備は無用の長物となり、みんなが生き抜くための努力にのみ力を入れることになるだろう。私共の祖先は、明治維新で、「廃藩置県」を行った。昔は沢山の大名があって、小さな藩として分れていたのを府や県にして、日本共通のことは政府や国会に任せることにした。これ以後、日本国内に戦争はなくなった。交通の便が進んだ今日、この単位を一段大きくして「世界の廃藩置県」をしょうというのである。

 アインシュタイン博士と秀樹は研究所から別々の部屋をあてがわれ、各々自分の研究をしていたが、昼食とかティーの時間にはこの研究所の人達は、みんな一つの食堂に集まって自由に談笑しながら過ごすことになっていた。博士は秀樹の姿を見つける毎に相談を持ちかけられ、秀樹もどうしたら早く世界の連邦制を実現させることが出来るだろうかと考えていた。その内に哲学者のパートランド・ラッセル博士も、「原爆のような兵器が出現しては、このまま放って置くと、地球上は大変なことになるのではないか」と心配して、イギリスからわざわざ研究所を訪ねて来られ、この三博士が発起人となって十一人の心ある学者に呼びかけて、「バグウォッシュ会議」が発足した。バグウォッシュと言うのは、世界地図で調べても載っていないようなカナダの小さな町で、この町の篤志家が三博士を深く信頼して会議を開催するよう協力して下さり、第1回バグウォッシュ会議として世界の学者に呼びかけたのである。この会議は今もなお続いており、各国持ち回りで開催されている。しかし、学者の中にも目先の金儲けのことしか考えられない人もあるらしい。核兵器を製造すると、他の学者の月給の何倍かの俸給にありつくことに目が眩み、核爆弾を大きくすることが、自分も含めて人間全体をどんなひどい状態にするかを考えることの出来ない人もいる。三博士の何十年か後を見越しての提案に耳を貸さず、どんどん大きい威力をもつ原爆や水爆を製造するグループが絶えなかった。学者だけでなく、一般の人々もこの原爆の恐ろしさを感じて、ここにWorld Association of World Federalists(略称WAWF、世界連邦世界協会)が設立された。日本でも丁度秀樹とアインシュタイン博士が話し合っていた昭和23年に、尾崎行雄先生や賀川豊彦先生を中心として心ある人々が8月6日のヒロシマ原爆3周年を期して、「世界連邦建設同盟」を発足させた。WAWFは現在では38カ国の56団体が参加し、日本の建設同盟もその一つの団体として大いに活躍を続けている。このころのアインシュタイン博士の有名な言葉に、「全体的破壊を避けるという目標は、他のあらゆる目標に優位せねばならぬ」とある。意味深長であるとともに、その後30年近い現在、益々必要かくべからざる言葉になってきたと思う。(引用終わり)

湯川博士の霊界通信は、本物か虚構か、その真偽はわかりません。

しかし、「心は無ではない。思いや意識は無ではない。空の中にエネルギーとして存在する。人々に宇宙のしくみを教えて下さい。神を敬い、自然を敬い、人を愛し、平和な美しい地球に立ち戻らねば、法則は成り立たず、破滅へとつながってしまう。今こそ真理を説く時です。宗教としてではなく、宇宙の一員として守るべき心がまえとして説かれるべきです」という言葉は、真理だと思います。

また、アインシュタインが日本への原爆投下にどれほど心を痛めていたかもよくわかりました。

米田晃さんに心より感謝申し上げます。



湯川博士の霊界通信(4)

2005年10月26日 | 最近読んだ本や雑誌から
(前回からのつづき)

湯川スミさんの著書『苦楽の園』の一節「アインシュタイン博士との会見」

 「アインシュタイン博士から私たち二人に会いたいと電話がかかったから、午後僕の部屋へ来なさい」との秀樹の言葉に従って、研究所へ出かけた。窓から外を眺めていると、広場の向こうから体格の立派な白髪の老人が、しっかりした足取りで、護衛らしき若者二人を左右に従えてやって来る。勉強机に向かっている秀樹に言うと、「そうだ、あれがアインシュタイン博士だ」という。アインシュタイン博士は私たちの顔を見るなり、二人の手をご自分の両手で強く強く握りしめて、「罪もない日本人を原爆で殺傷して申し訳ない」と涙をボロボロと流されて詫びられた。博士はユダヤ人だから、戦争中にヒットラーに虐殺されかけて、首に高い賞金をかけられて探しまわられ、命からがらアメリカへ逃げてきた。その後もヒットラーのあまりの残忍な行為を心配して、何とかしなければ大変だと強く感じ、「原子の力を爆弾に利用することも出来るだろう」と一寸もらしたのが、当時の大統領ルーズベルトの耳に入り、世界中の実験物理学者の頭脳の結果によって、あの原子爆弾が出来た。ところが、出来上がったものは、学者達の想像以上の大きな威力を持つ爆弾になり、その上、結果としては、ヒットラーでなく日本人が犠牲になった。博士は言葉を続けて、「ご存知のように、学者というものは、一つのものを考え出したら、それをもっと深く、もっと広く研究して行くものである。広島や長崎に落とされた原爆でさえ、一個で即死20万人、後遺症による原爆病の人、数しれずという。その上に、研究を重ねて段々大きい爆弾を作るようになったら、地球の人類は全滅してしまうだろう。そんなことにならぬうちに、この地球上を戦争の起こらない仕組みにしなければならない。それには世界を連邦にする以外に道はない。これを実現さすのに何かよい考えはないものか」と熱心に話された。世界連邦の考えは昔から欧米でも日本でも言われてきたことである。それぞれの国の政治はその国の政府に任せるが、人類共通のことは、世界連邦政府や世界連邦議会に責任を持ってもらい、世界の平和と安全を守るための世界警察をつくり、国と国との争いは、最終的には世界法による世界裁判所で裁いてもらうようにしようというのである。一つの国が連邦制になっている例は沢山ある。

(つづく)

湯川博士の霊界通信(3)

2005年10月25日 | 最近読んだ本や雑誌から
(前回からのつづき)

湯川です。ありがとう。今日、私は空の中を旅しています。空は空であって空ではない。不思議でしょう。宇宙はなんとも表現出来ない体系に満ちている。しかし、一定の法則があり、全てがその法則の下で生態系をくりかえしている。それは美しいまでに荘厳で神と呼ぶしかない。人間は小さな宇宙の泡つぶにしかすぎない。しかし、小さな泡つぶに生まれる確率は無限分の一としか言えない程ひくいのです。全ては神の意図の下に生命は生まれ、また宇宙へ帰るのです。生にこだわらず、死にこだわらず、しかし、生を楽しみ、死を楽しむ心のゆとりを持って下さい。貴方方の大半が自我に心を汚す時、宇宙の法則は貴方方の心の中から消滅します。大宇宙に戻るには自分の心もまた宇宙の一部として透明に開け放たなければもどれません。大宇宙へ魂を戻すには戻れる資格を持った魂を持つことです。心こそが宇宙と通じるとびらなのです。心は無ではない。思いや意識は無ではない。空の中にエネルギーとして存在する。人々に宇宙のしくみを教えて下さい。人間がいかにおろかであるか教えて下さい。神を敬い、自然を敬い、人を愛し、平和な美しい地球に立ち戻らねば、法則は成り立たず、破滅へとつながってしまう。今こそ真理を説く時です。宗教としてではなく、宇宙の一員として守るべき心がまえとして説かれるべきです。このメッセージは私湯川が愛している地球人へ送ります。地球が永遠に続く事を蔭ながら念じ、いつかまた美しい地球に生まれ落ちたいと思います。ああ楽しみだ。では皆さん、ありがとう。ありがとう。
湯川秀樹 天空の一点より
一九九四年九月十日 10時30分AM

(つづく)

湯川博士の霊界通信(2)

2005年10月23日 | 最近読んだ本や雑誌から
(前回からのつづき)

一方、湯川博士の霊界からのメッセージを受け取ったMさんとの関係をお話しょう。1994年、第3回「覚醒ネットワークの集い」を開催した時、Mさん夫妻が参加していて、参加者が車座になってワークやディスカッションをした時、Mさんが、チャネリング(自動書記)で天から伝えられたと言うメッセージを披露した。その時の内容は覚えていないが、大変飛んだ内容だったように思う。その時、一主婦であるが、何かスピリッチャルで特殊な能力を持つMさんに興味を持った。その後、Mさん夫妻と会った時、その後、度々受信しているメッセージを記した文書を頂いた。それらは、覚醒を促すようなメッセージで、スジャータや観自在と名乗る意識からのものだった。

私が講演した世界連邦建設同盟横浜支部の会合に、Mさん夫妻を誘って参加頂いたのが縁で、二人とも世界連邦建設同盟に入会頂いた。それから、度々、会合や大会に出席頂くようになり、湯川スミさんにMさん夫妻を紹介して、スミさんに会う機会が時々あり、Mさんが世界連邦の会合でメッセージを紹介したりしていた。

もう10年程前になるが、そんな1994年9月のある日、突然Mさんの手がひとりでに動いて、本棚にあった一冊の本を掴んで取り出した。その本はMさんさんが随分前に買って、本棚に仕舞っていた湯川秀樹博士の著書物理学の本だった。そして、その後、Mさんに自動書記がかかってきた。Mさんが言うには、受けたメッセージを書いている最中は、書いている内容が自分でもよくわからないまま綴っているようである。書き終えて見たら湯川博士からのメッセージだった。その後、また自動書記がかかり、今度は、湯川博士から夫人のスミさんに宛てた手紙のようなメッセージだった。Mさんから私に、こんなことがあったと、湯川博士の霊界からのメッセージを渡されて、私から湯川スミさんに渡して欲しいと頼まれた。その時、直ぐにスミさんに会う機会がなかったので、メッセージを受信した経緯を手紙に書いて、そのメッセージをスミさんに郵送した。湯川博士からスミさんに宛てた手紙は、プライバシーに関わる内容なので、コピーを残さなかったので、書かれていた内容は覚えていないが、スミよ!から始まるスミさんとの生活を懐かしみ、スミさんに伝えたい思いが込められた内容だったように思う。臨死体験者が見たように霊界からは、現界で生活している人の様子が見えると思う。そして、必要によってその人を特定して関わることが出来るように思われる。憑依現象もしかり、三次元の物質界、肉体界は四次元以上の高次元界に含まれる。第62号Part12、「臨死体験の考察」に記したように! 

霊界の湯川博士は、Mさんの霊能力(自動書記)と私との関係を見越してメッセージを託されたように思える。以下に、Mさんから頂いた湯川博士の霊界からのメッセージを原文のまま記す。(つづく)

湯川博士の霊界通信

2005年10月21日 | 最近読んだ本や雑誌から
10月21日の毎日新聞(夕刊)に、湯川秀樹博士の奥様の湯川スミさんのインタビュー記事が出ていました。現在95歳だそうですが、お元気に世界連邦運動と憲法第9条について語っていらっしゃいました。

中間子論によって、日本人で初めてノーベル賞を湯川博士は、アインシュタインの感化を受けて、世連運動にも熱心でした。湯川スミ夫人は、博士の遺志を引き継いで、現在も世連運動をなさっているわけです。

地球マネジメント学会という学会があります。
http://homepage3.nifty.com/earth-management/

その学会通信の中で、米田晃さんという方が、湯川博士の霊界通信の話を書いていますので、紹介します。以下は、第65号に掲載されたエッセイを米田さんの許可を得て、このブログに載せるものです。

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私(米田さん)が親しくしている女性(主婦)が、霊界に居る湯川秀樹博士からのメッセージと湯川スミさん(湯川秀樹博士の奥様)に宛てた霊界からの手紙を受信したことがあったので、その経緯と湯川秀樹博士のメッセージを紹介する。

ただ、湯川秀樹博士(物理学者、中間子論ノーベル科学賞受賞者)の霊界からのメッセージをそのまま記しても本当かどうか疑いを持たれることもあるかと思うので、少し長くなるが、親しくしていた森本よしみさんが霊界の湯川秀樹博士(以下湯川博士と記す)からメッセージを受信したことに、湯川博士が創始した世界連邦世界協会(国連カテゴリーⅡNGO)や湯川スミさんと私が関係していた経緯を知って頂くことで理解を深めることが出来ると思うのでそのことから記すことにする。

子供の頃、科学者になりたい夢を抱いていた私は、成人して湯川博士に憧れ湯川博士の著書を読み、創造性開発研究の一人の師として仰ぎ、学ぶところが多かった。思いは通ずるもので、ある人に誘われて世界連邦建設同盟(現在は世界連邦運動WFAと称する)の会合に出席して、世界連邦建設同盟の会長湯川スミ夫人にお会いした。

この世界連邦世界協会は昭和23年、湯川博士がアメリカのプリンストン高等研究所に招聘されて行った時、アインシュタインと出会って「戦争のない平和な世界を創ろう」と始めた運動であり、湯川博士が4代目の世界連邦世界協会の会長に就任、その後、湯川博士夫人湯川スミ氏が3代目の日本の世界連邦建設同盟会長に就任した。世界連邦世界協会創設の経緯を、湯川スミさん(以下スミさんと記す)から頂いた著書『苦楽の園』(スミさんの半生記:講談社1976年発行)に記しているので、後にその一節を紹介する。世界の人との友好と世界平和に関心を持っていたので会員になり、その時オランダで開催された世界連邦世界大会に、湯川スミ会長他に同行して参加した。その後、全米大会に日本代表団に加わって参加したり、毎年開催する日本大会のスタッフとして、熱心に活動していたので、スミさんと親しくさせて頂いていた。

京都で開かれた婦人大会に出席した時、京都の下鴨にあるスミさんの自宅に案内頂いて、湯川博士がノーベル賞として頂いた宝石が散りばめられた王冠や遺品などを拝見した。湯川博士は大変感性が豊かな方で、漢詩や書を嗜まれていて、多くの書が残されている。その時、スミさんから、湯川博士のこと(後に続く若い学者を育てるために、頂いた賞金をそっくり寄付したこと等)を色々伺い、湯川博士が書いた色紙を頂いた。所属していた横浜支部で、私が提案、世話役をして毎月「国際問題を考える会」を開催したり、青年層に世界連邦運動を広げるために「青年の集い」を企画して、各地で開かれる日本大会に連動して開催することにした。

1995年10月30日、第18回世界連邦日本大会を東京青山の国連大学で開催した時、『地球の未来を見つめて』をテーマに第2回「青年の集い」を、代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで開催(10月28日、29日)した。龍村仁監督に『私の見た一つの地球』と題した基調講演をして頂き、その時完成していた「地球交響曲」第1番、第2番を上映した。私が、東洋大学の石井薫先生と出会って「地球マネジメント学会」に参加するようになったのはこの時の縁からで、その時、石井先生が学生を連れて参加下さり『環境と地球』《地球のためのマネジメント》と題して講演頂き、石井先生には『環境と地球』分科会に学生と共に参加頂いて地球環境の現状認識、討論を行った。懇親会にはスミさんに出席頂き参加者と交流頂いた。その後、世界連邦建設同盟の理事に就任して、毎回、湯川スミ会長が出席する理事会に同席してスミさんと親しく交流させて頂いていた。まだまだ、記したいことやエピソードが沢山ある。生前、湯川博士と直接お会い出来なかったが、スミさんを通して尊敬する湯川博士とご縁を頂いていた。

また、湯川博士との関係では、京都大学物理学科で湯川博士から学んだ天野仁氏(理学博士、米国国際地球環境大学教授)にご縁を頂いて親しくさせて頂いている。天野氏と出会ったのは、横浜市にある横浜発明振興会が主催した天野氏を迎えた講演会に出席した時で、その後、自宅を訪ねたりして、湯川博士の研究室で弟子として過ごした頃の話を色々伺った。天野氏は湯川博士の弟子だけあって、最先端の物理学の研究者であるが、大変感性が豊で、天体の研究から忍者の研究、日本の伝統文化、歴史などの研究をされており、多数の著書を刊行している。天野氏のことは、高次元の科学について論ずるとき記すことにして、ここでは天野氏が話した、湯川教授の物理学の授業の一端を紹介するに止めたい。

天野氏は、もともと文学部を専攻したかったが、物理学にも興味を持っていた。大学に入るとき文学的なことは歳をとっても学べるが、物理学(理論物理学は数学とも言える)は、頭が緻密に働く若いときにしか学べないから、先に物理学を勉強しようと思い立ち、京都大学の理学部に入学した。そこに湯川教授が居て、人柄に傾倒して、湯川研究室の弟子になった。湯川教授の授業は、物理学の講義をするのではなく、何時も面白く興味を掻き立てる話をして、教えるのではなくて自分で勉強しょうとする思いを持たせる授業であったようである。「物理学は私が書いた本や多くの先人の学者が研究して著した本で勉強すればよい。折角、生徒の皆さんと顔を合わすのだから、本に書いているようなことを話すのは時間がもったいない、本を読んでわからないことがあれば、研究室へ聞きに来なさい」と口癖のように言っていたそうである。天野氏は、湯川博士が亡くなったあと、京都に湯川秀樹記念館を設立したことに貢献している。天野氏に、2002年4月20日に開催した第7回「覚醒ネットワークの集い」の講師として参加頂き、「全宇宙の統一的理解」と題した講演をして頂いた。(つづく)


エチゼンクラゲ

2005年10月16日 | Weblog
今、日本近海でエチゼンクラゲという巨大なクラゲが増え、漁業に大きな被害を与えています。

エチゼンクラゲの写真:
http://www.tbs.co.jp/seibutsu/zukan/museki/htmls/museki_05.html

近年になってどうしてこのようなクラゲが大発生しているのか、その原因について、クラゲの専門家、安田徹さんは4つの原因をあげています。
http://hokuriku.yomiuri.co.jp/hoksub2/kodomo/ho_s2_03111901.htm

(1)前年度のクラゲの卵が日本近海でかえった
(2)海水温の上昇と降水量の減少
(3)発生地域の海水汚染
(4)海の護岸工事や埋め立て工事の拡大

(1)と(2)は海水温の上昇、地球温暖化の問題です。
(3)と(4)は環境破壊の問題です。

あと、

(5)魚の乱獲

という指摘もあります。クラゲの幼生を食べる魚が少なくなったのではないか、と推測されています。

エチゼンクラゲの異常発生は、人類に対する自然界からの警告なのでしょう。

エチゼンクラゲは東シナ海で発生し、海流に乗って日本近海に北上します。海の汚染は、もちろん日本にも責任の一端がありますが、経済発展に伴う中国の環境汚染が大きな要因ではないかと思われます。

工業化が進む中国では恐るべき環境破壊が進行しています。

以下の驚くべき写真をご覧下さい。
http://blog.livedoor.jp/safe_food_of_asia/archives/2005-06.html

日本でも30~40年前は、河川に洗剤の泡が浮かぶ、という時代もありましたが、これほどひどくはありませんでした。その後、様々な規制によって、日本の河川もだいぶきれいになってきました。

環境汚染を放置している中国政府、地方政府の責任は重大です。これでは、中国人の健康に大きな被害が及びます。それだけでなく、これは地球に対する犯罪です。

日本は中国から多くの食料を輸入しています。時々、中国産食品から高濃度の農薬が検出されたという報道がありますが、さもありなんと思われます。我が家では、いくら安くても、中国産の野菜や食品は絶対に買わないようにしております。日本人が中国産食品を拒否することが、中国に反省を促し、環境問題の重要性を教えることになります。

パキスタンの大地震

2005年10月09日 | Weblog
10月8日にパキスタン北部で大きな地震が起こり、数千名、ひょっとすると1万名以上もの死者が出た模様です。インドやアフガニスタンでも被害が出ているということです。

地震が起こったのは、印パの間で長年紛争が続いているカシミール地方です。人間世界の不調和な波動が、大地にも影響を及ぼし、その歪みが消えていくために、このような形で表に現われたのかもしれません。

昨年末から、スマトラ沖大地震・大津波、日本をはじめ東アジアにおける巨大台風、アメリカを襲ったカトリーナや、中米を襲ったスタンなどの巨大ハリケーンなど、大きな自然災害が連続しています。

これらは地球自身の浄化作用であり、いつまでも天地の恩恵を無視続けている人類に対する警告なのでしょう。

スマトラ沖大地震によって、アチェにおける民族紛争に話し合いの機運が生まれてきました。カシミールの地震によって、カシミール問題に関しても印パの間で話し合いの機運が生まれれば、災いを転じて福となすことができます。


持続可能な開発(2005年9月号)

2005年10月01日 | バックナンバー
 東京の国連大学で七月二九日に「未来をつくる教育を考えるシンポジウム」が開かれた。これは、二〇〇二年の第五七回の国連総会において、二〇〇五年からの一〇年を「国連・持続可能な開発のための教育の一〇年」とすることを決議したことを受けての行事の一つである。

 「持続可能な開発」とは日常生活でよく使う言葉ではないが、これは英語の「sustainable development」の邦訳語である。人類はこれまで常に、自然を開発して文明を築き、豊かな生活を享受してきた。しかし、地球は有限である。樹木を伐採しすぎれば、かつての大森林も砂漠と化すし、海の魚介類も、乱獲すれば絶滅する。近年の人類の経済活動は、環境に回復不可能な負荷を与えつつある。今日の私たちが豊かな生活を送るために地球に過度の損傷を与えることは、私たちの子供や孫たちの生存を脅かすことにもつながりかねない。「持続可能な開発」とは、現代の世代が、将来の世代の利益を損なわない範囲内で環境を利用し、物質的要求を満たすべきである、という考え方である。このような理念が最初に打ち出されたのは、一九八〇年の国連の「世界環境保全戦略」においてであった。

 「持続可能な開発のための教育」は、このような「持続可能な開発」を実現するためには、何よりも教育が重要であるとの認識に立って行なわれる取り組みである。シンポジウムの内容は多彩で密度も濃かったので、とてもこの小欄では紹介しきれないが、筆者の印象に強く残ったのは、世界が緊密なつながりの中に存在し、一人ひとりの行動やものの考え方が、世界に思いもかけない影響を及ぼしている、という事実であった。

 たとえば、ヤシの実から採られるパーム油は、洗剤、石けん、マーガリンやインスタント食品などで広く使われている。植物性ということで、地球にやさしい、体にいい、というイメージがあるが、ヤシの木を大量に植えるために、熱帯雨林が伐採されている。それによって生物多様性が失われ、海洋汚染も引き起こされている。原住民の入会地であった森林が、特定の企業の所有地になり、原住民の生活が破壊される。また、味噌、醤油、豆腐、納豆などの材料として、日本人の食生活に欠かせず、健康食品としても人気の高い大豆は、今日、大部分が海外から輸入されている。その輸入大豆の一部は、ブラジルの熱帯雨林を伐採して栽培されているという。

 私たちが「地球にやさしい」「健康的な」食品や製品を、安価に入手しようとすることが、環境破壊に手を貸すことになりかねない。私たちは、まずこうした事実をしっかりと認識し、その認識の上に立って、いかなる行動を取るべきかを考えなければならない。このような「教育」は、子供だけでなく、大人にとっても重要なものである。