平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

よいお年をお迎え下さい

2005年12月25日 | Weblog
年末年始は、このブログを休ませていただきます。

明日、12月26日は、スマトラ沖大地震・津波から1周年です。被災者の冥福を祈るとともに、地球に感謝の祈りを捧げたいと思います。

皆さま、どうぞよいお年をお迎え下さい。

1月は7日くらいに復帰する予定です。

三島由紀夫と2・26事件(17)

2005年12月23日 | 三島由紀夫について
 昭和天皇と三島由紀夫の相違は、

(1)憲法への忠実と憲法無視
(2)平和主義と軍国主義

の2点において際立っています。

 昭和天皇がいかに明治憲法(大日本帝国憲法)に忠実であろうとなさったかは、すでに詳述しました。昭和天皇は、憲法を無視した二・二六事件の青年将校らの暴挙を断じて許すことはできなかったのです。また、新憲法、すなわち戦後の日本国憲法も昭和天皇は、その発布を「深くよろこび」、終始、憲法に忠実でありました。

 これに対して、三島は二・二六事件の青年将校らを英雄視しています。そして、テロリズムは宮廷の「みやび」文化の一形態であり、国家危急の場合には、法を無視したテロも是認されるべきだ、と主張していますが(『文化防衛論』)、テロリズムを「みやび」に結びつける議論は、あまりにも論理飛躍していると言わざるをえません。

 三島はさらに、

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 菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から与えられなければならない。現行憲法下法理的に可能な方法だと思われるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、軍の儀杖を受けられることはもちろん、聯隊旗も直接下賜されなければならない。
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と述べ、戦前のように天皇が軍との直接的結びつきを回復すべきだ、とも主張しています。現代でも三島の影響を受けた、こういう考え方はなくなっていません。

 しかし、日本の歴史を振り返ると、天皇が「大元帥」として軍服をまとったのは、日本が対外侵略をはかった明治から昭和20年までの一時期のことで、これは例外と見なすべきで、天皇は日本史の大部分において、それこそ「みやび」という「文」(菊)の中心であり、「武」(刀)の中心でなかったことは明白です。三島はここでも日本の歴史と文化をねじ曲げています。

 五井先生は、著書の中で一度だけ三島由紀夫に言及しています。『日本の天命』(白光出版)の中の「私の愛国心」の章です。この文章は、昭和46年の初め、つまり三島割腹事件のすぐあとに書かれています。

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 三島氏割腹事件以来、憲法改正、再軍備の問題が、表面にはっきり浮び上がってきて、外国でも日本の軍国主義化を警戒の眼でみはじめている。四次防防衛費の急速なる増大予算は、保守的な人々の心にも、左傾の人々の心にも、本格的軍隊の姿を感じさせてきた。
 三島氏を愛国者とみる人々は、愛国ということと天皇中心ということ、それに軍備増強ということが結びついて離れないようである。天皇を元首として表面に出す、ということと軍隊ということを、どうして結びつけて出さねばいけないのか。私にとっても不思議でならないし、天皇ご自身にとっても甚だ迷惑なことではないのか、と思うのである。
 天皇をはっきり日本の元首と打ち出すことに私はなんの異論もない。しかし、天皇元首ということも軍隊ということも、すべて憲法改正に結びつく。そこで、天皇元首ということと軍隊ということが憲法改正というところで一つに結びついてしまう。かえって結びつけて考えようとしている人々も随分とある。
 自衛隊をすっきり軍隊として取扱うための憲法改正、これはまた別の話として、それと同時に天皇元首説が出てくるので、天皇が主権を握れば、また再び軍隊が生れ、軍国主義に日本がなってゆく、というように連想されてゆくのは、日本にとって実に不幸なことといわねばならない。天皇はあく迄、平和の天皇であって、軍国主義の天皇ではないのだから、こんな想い違いを多くの日本人や諸外国にさせてしまっては、大変なことになる。
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 五井先生が書くように、「天皇はあく迄、平和の天皇であって、軍国主義の天皇ではない」のです。三島由紀夫は、天皇を根本的に誤解していたと言わざるをえません。それは、磯部浅一ら二・二六事件将校らの誤解と同じ誤解でした。

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 今年は三島由紀夫と2・26事件に関係する出来事が奇妙に集中しました。不思議な偶然の一致ですが、その背後には霊的な意味があると私は感じています。私がこのような文章を書いたのもそのためです。

 私が気がついただけでも、

(1)河出文庫版『オリジナル版・英霊の声』の刊行

(2)映画「春の雪」の完成と上映
http://www.harunoyuki.jp/

(3)映画「憂国」のネガフィルムの発見
http://www.sankei.co.jp/enak/2005/aug/kiji/20mishima.html

(4)処刑された青年将校ら17人の遺書の発見
http://show.yomiuri.co.jp/photonews/photo.php?id=7602
 「2・26事件」(1936年2月26日)で、処刑された陸軍の青年将校ら17人分の遺書45枚が69年ぶりに見つかった。処刑前に入っていた陸軍刑務所の看守にあてたものなどで、自宅に保管していた仙台市太白区の平田俊夫さん(77)から、将校らの遺族で作る「仏心会」に届けられた。七十回忌が営まれる12日、東京・港区の賢崇寺で関係者に公開される(神奈川県葉山町で)。

(5)三島由紀夫研究会事務局長の三浦重周氏の割腹自殺
http://nippon-nn.net/

 三島由起夫と二・二六事件は、日本のあるべき姿、とくに天皇、憲法、靖国問題への鋭い問いかけを行なっていますが、女系天皇問題、自民党の憲法改正草案の作成、靖国神社問題にも見られるように、過去は現在と共鳴しているのです。

 これらの出来事はまさに、三島由起夫と二・二六事件関係の「英霊」の、現代日本人への呼びかけであると私は理解しております。本論は、仏教的に言えば今なお成仏できていない彼らに語りかける、鎮魂と慰霊の諭しです。

 この三島由紀夫論は、ちょうど1ヶ月前の11月23日に始まり、12月23日に終わりましたが、今日はまた今上陛下の誕生日でもあります。この日に当たり、明仁陛下は、皇室のあり方とは「国民と苦楽をともにすることに努め、国民の幸せを願いつつ、務めを果たしていくこと」だとおっしゃっておられますが、これは昭和天皇のお心そのものでもあります。昭和天皇は明治天皇を鑑とし、今上陛下は昭和天皇を鑑とされているのです。

 皇室のあり方は時代によって変化しますが、その根本に流れている日本国民への愛情と、世界平和を願うお気持ちは一貫して不変のものです。それを言い換えれば、天皇とは、無私・無我の中心空の存在だということになります。この務めを果たすことは困難なことですが、明治以降の日本が、その任にふさわしい天皇をもってきたということは、大変幸せなことです。

 私は、三島由紀夫と2・26事件を背景にして、天皇の本質について書きたかったのです。

 以上、「三島由紀夫と2・26事件」を思いもかけず長々と書いてしまいました。書き残した論点は多々ありますが、それについては別の機会に取り上げ、今回は一応これで終わりにしたいと思います。

三島由紀夫と2・26事件(16)

2005年12月21日 | 三島由紀夫について
 昭和天皇は昭和21年の年頭の詔書の冒頭に「五箇条の御誓文」を掲げ、日本が戦争に敗れても、日本人が日本の伝統を決して見失うことなく、日本人としての誇りを忘れないで、民主的な平和国家の建設に邁進してほしい、と念願されたのです。「人間宣言」の部分は付録でした。しかし、付録の部分も大切なことを語っています。

 「朕と爾等国民との間の紐帯」が「単なる神話と伝説とによりて生ぜるものに非ず」、「終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ」ているというのは、天皇と国民との結びつきは「神話と伝説」だけで生じているものではない、もっと大切なものは「終始相互の信頼と敬愛」である、ということです。

 これは至極当然なお考えです。天皇家が天照大神の子孫であるという「神話と伝説」に基づいていることはたしかですが、どんなに古い「神話と伝説」があろうと、「天皇」を肯定し支持する国民がいなければ、「天皇」という制度は存続できません。昭和天皇は、「天皇」という制度について、当たり前のことをあらためて確認しているだけです。

 また、「天皇をもって現御神とし、且日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有す」という観念を、昭和天皇は「架空なる観念」として否定しています。この観念には、先にも述べたように、幼稚な自民族中心主義が表われており、まさに否定されてしかるべきです。

 「現御神」について、昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で、

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 又現神〔現人神と同意味。あきつかみ〕の問題であるが、本庄だったか、宇佐美〔興屋〕だったか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。
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と語っています。まったく当たり前のことです。ですから、天皇にとっては「神格とかそういうことは二の問題」であり、「自分がはじめから持っていない神格を否定するということはどうだろうか」と思ったのです。しかし、昭和天皇が「現御神」であることを否定しても、神道の大祭司であることまでを否定したわけではありません。

 私は今回、この詔書をあらためて読み、昭和天皇の平和への願いを確認し、深く感動しました。

「旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上を図り、新日本を建設すべし。」
「我が国民が現在の試練に直面し、且徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束を全うせば、独り我が国のみならず全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。」
「それ家を愛する心と国を愛する心とは我が国において特に熱烈なるを見る。今や実にこの心を拡充し、人類愛の完成に向い、献身的努力をいたすべきの秋なり。」
「我が国民がその公民生活において団結し、相より相たすけ、寛容相許すの気風を作興するにおいては、よく我が至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。かくのごときは実に我が国民が人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以なるを疑わざるなり。」

 ここに表われているのは、軍国主義との決別、平和国家建設の願いです。

 もし日本人が天皇陛下のお心を深く理解し、「官民挙げて平和主義に徹し」「人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す」ことに努力していたならば、世界平和に貢献する素晴らしい「新日本」が建設されていたことでしょう。しかし、その後の日本は、東西冷戦の中でアメリカの属国と化し、昭和天皇が示された高い理想を忘れ、ひたすら経済発展に邁進することになります。そこに、三島の言う「ものうき灰いろ」が始まったのですが、その原因は、決して天皇陛下の「人間宣言」にあるのではありません。

三島由紀夫と2・26事件(15)

2005年12月20日 | 三島由紀夫について
 昭和天皇は、明治憲法とそれに基づく民主主義は、明治大帝の神への誓いによって定められた大切な国是である、と信じていました。まだ皇太子のころには、6ヶ月にわたりイギリス(昭和天皇はとくにイギリス王室との親善を大切にしていました)をはじめヨーロッパ諸国を歴訪し、自由と民主主義の大切さを実地に見聞していました。

 先に、近代天皇には、

(1)神道の大祭司(宗教的)
(2)立憲君主(世俗的)

という二つの機能がある、と述べました。昭和天皇は、近代立憲君主としての役割を、明治大帝の「神への誓い」に由来するものと理解することによって、この二つを統一しようとしたのです。したがって、憲法を遵守し、立憲君主としてのご自分の立場を逸脱しないことは、いわば尊い神の掟に従うことにも似ていたのです。昭和天皇は、立憲君主という世俗的義務を、あたかも宗教的・神的義務のように遂行なさったとも言えるでしょう。

 昭和天皇が立憲君主の立場を守ろうと強く意識したのは、張作霖爆死事件とその後の田中義一内閣の辞任がきっかけになっています。

 昭和3年の張作霖爆死事件は、河本大作大尉を首謀者とする軍部の謀略でした。田中首相は最初、河本大佐を処分し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりだ、と昭和天皇に奏上したのですが、閣議で河本の処分をうやむやにすることになり、その旨を天皇に奏上したところ、昭和天皇は、

「それでは前言と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」

と田中に強い語調で言ったのです。昭和天皇は謀略や嘘を心から嫌っていました。

 田中は恐れ入ってただちに辞表を提出しました。天皇の一言はそれほどの重みがあったのです。田中はその2ヶ月後に急死していますが、自害の可能性もあります。そうでなかったとしても、天皇の叱責が精神的ショックとなって、命を縮めた可能性は否定できません。田中義一の辞任後の早すぎる死に、昭和天皇は大きな衝撃を味わったことでしょう。

 この辞任事件のあと、イギリス式の立憲君主制を理想とする西園寺公望は、「天皇たる者は自分の意見を直接に表明するべきではない」と昭和天皇を戒められました。のちに天皇は、「あの時は自分も若かったから」(当時27歳)と若気の至りを反省していますが、それ以来、昭和天皇は、立憲君主として、たとえ自分の意に染まぬ案件でも、政府や軍の決定に「不可」を言わないようになったのです。

 「天皇機関説事件」でも天皇は明白に立憲君主制の立場に立っています。

 「天皇機関説」というのは、「統治権(主権)は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として他の機関の参与・輔弼(ほひつ)を得ながら統治権を行使する」という学説です。これに対立する学説は、天皇に主権があるとする「天皇主権説」でした。大正デモクラシーの時代には、天皇機関説が一般的な学説でした。

 しかし、軍部の力が増大した1935年、貴族院本会議の演説において、菊地武夫議員が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)の天皇機関説を、国体に背く学説であるとして攻撃しました。二・二六事件の前年のことです。

 この事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に、「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言っています。つまり、自分は立憲君主であって、主権を主体的に行使する専制君主ではない、ということです。

 昭和天皇は戦後、天皇の命令で戦争を終えることができたのであれば、なぜ戦争の開始を抑止できなかったのか、という質問をたびたび受けました。つまり、天皇は、戦争の開始も終了も一存で決められる専制君主ではなかったか、という詰問です。これに対して天皇は以下のように答えています。

********************
 開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下における立憲君主として已むを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主となんら異る所はない。終戦の際は、しかしながら、これとは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまま、その裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信ずる所によりて、事を裁いたのである。(『昭和天皇独白録』)
********************

 天皇陛下は、「二・二六の時と終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏み間違えた」とおっしゃっています(入江相政『天皇さまの還暦』)。政治(内閣)が機能しなくなった非常事態に、やむなく立憲君主としては行なってはならないことをしてしまった、と言うのです。しかし、この2回はまさにやむを得ざるもので、それによって昭和天皇を非難することはできません。

※二・二六事件は、立憲君主制それ自体に対する挑戦でした。しかも岡田首相は暗殺されたと思われていて(実際には助かっていた)、内閣が機能しなかったのです。終戦の時も、廟議で戦争継続派と終戦派が同数で、決断が下せなかったのです(というよりも、鈴木貫太郎首相がそういう形にもっていったというのが正確です)。天皇の決断がなければ、戦争はずるずると続き、もっと多くの日本人が死んでいたでしょうし、国体の保持どころか、敗戦後は日本もドイツと同じように米ソの間で分割占領され、戦後も悲惨な運命をたどらなければならなかったでしょう。終戦の御聖断は、日本国民を破滅の淵から救った決断でした。

 ここには、「律儀」と言えるほど憲法に忠実に立憲君主であろうとした昭和天皇のお姿を見ることができます。

三島由紀夫と2・26事件(14)

2005年12月19日 | 三島由紀夫について
 このインタビューからもわかるように、昭和天皇は、お祖父様である明治天皇を非常に尊敬していて、いつも「明治大帝」とお呼びになっています。

 昭和16年9月6日の御前会議において、昭和天皇は明治天皇の、

「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ」

という御製を読み上げ、

「余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである」(近衛手記)

と仰せになったことは有名なエピソードです。昭和天皇にとって、明治天皇は常に心の指針でした。

 昭和天皇は、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条の御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができた」とおっしゃっていますが、これはまさに「欽定憲法」どころか、「欽定民主主義」とでもいうべき考え方で、民主主義になれた現代人の多くは、違和感をいだくと思います。さらに、「神に誓われた」という部分は、かなり神話的・宗教的で、もっと違和感があるでしょう。しかし、これは昭和天皇にとってはごく自然な発想だったのです。

 そもそも明治以降の近代天皇には、次の二つの機能があります。

(1)宮中にて神事を執り行なう神道の大祭司。
(2)近代世俗的(=非宗教的)国家における立憲君主。

 (1)は過去から現在に至るまで、変わることなく執り行なわれている天皇家の伝統行事です。しかし、(2)は明治以降になって天皇に与えられた新しい役目です。近代世俗国家は政教分離を建前としていますので、厳密に考えると、この二つの役目は矛盾します。近代天皇は、常にこの相矛盾する役割を両立させねばならないという困難な立場に置かれているのです。

 戦争末期の天皇陛下がご自分の身を犠牲にしても成し遂げねばならないと思ったのは、「赤子(=国民)の保護」と「国体護持」でした。この二つを護ることが、(1)としての天皇の「皇祖皇宗」に対する義務であったのです。

※「皇祖」とは天照大神のことで、「皇宗」とは歴代の天皇を指します。

 国民のことを「赤子(せきし)」と呼ぶのは、神道的家族国家観です。「国体」には「三種の神器」が含まれていました。「三種の神器」が失われてしまえば、「国体」も滅びるので、本土決戦は避けねばならない、と昭和天皇は考えていたのです(『昭和天皇独白録』)。これはきわめて神話的な観念であると言えます。

 結果的には、昭和天皇がこの神話的な観念を強く持っていたからこそ、終戦の御聖断を下せたとも言えます。

 三島の「などてすめろぎは人間となりたまひし」というのは、「すめろぎ」=天皇が、(1)の役割を放棄し、もっぱら(2)になってしまった、という非難であると思います。

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屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人、神として御身を保たせ玉い、
そを架空、そをいつわりとはゆ宣(のたま)わず、
(たといみ心の裡深く、さなりと思(おぼ)すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなお奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかずき、
神〔=天皇〕のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎(いつ)き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間となりたまいし。
********************

 「英霊」はこのように昭和天皇を非難します。

 しかし、たとえ昭和天皇が、のちに「人間宣言」と誤って呼ばれるようになった詔書を出したとしても、神道の大祭司の役目を放棄したわけではありません。天皇が、

「祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなお奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかずき、
神〔=天皇〕のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りて」

いらっしゃることには、戦前も戦後も毫も違いはありません。皇祖皇宗の神前にて祈ることは、天皇の最も大切なお役目なのです。

 三島は、「ただ斎き、ただ祈りてましまさば、何ほどか尊かりしならん」と、あたかも昭和天皇が自分の保身のために(1)の役目を捨て、その聖性を失い、(2)になりきったかのように非難していますが、まったくの誤りです。三島もそんなことは当然知っていたはずですが、三島はこう非難をせずにはいられなかったのです。なぜなら、それは三島の背後の磯部の深い怨念から湧き出てきたものであったからです。

三島由紀夫と2・26事件(13)

2005年12月18日 | 三島由紀夫について
 「人間宣言」は、ハロルド・G・ヘンダーソン中佐という人が書いた英文の草稿が元になっていると言われています。それを宮内省に取り持ったのは、学習院の英語教師であったR. H. ブライス(妻は日本人)でした。

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〔・・・・〕GHQよりブライスが受け取った最初の英語の草案〔・・・・〕が日本語に訳され、それが天皇に届けられた。天皇は、この声明は私の考えと全く同じであるが、自分がはじめから持っていない神格を否定するということはどうだろうかと言ったという。しかし、世界各国の人々が、天皇が現人神を以て自認していると信じている今日、天皇がみずからそれを否定されることは重要であり、意味があると側近は伝えた。すると天皇はそれに同意するとともに、「万機公論に決すべし」と世論を重視した祖父明治天皇の「五箇条御誓文」を付加して宣言することを希望したといわれる。このようにして用意された草案をもとにして幣原喜重郎首相と前田多門文部大臣がこの詔書(英文と日本文)を書き上げたということである〔・・・・〕。いずれにせよ、この「人間宣言」の内容は、天皇自身の考えを示すものであることは確かだと理解してよいであろう。(武田清子『天皇観の相克』)
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 「最初の英語の草案」がどのような文言だったかはわかりませんが、そのメインは、まさに「人間宣言」の部分であったと思われます。この英文草案は、その当時高まっていた「天皇を戦犯として裁け」という国際的圧力を緩和するために、GHQ(その背後には当然、マッカーサーがいました)と親日派米英人が天皇の身を守るために工夫した声明であったのです。それは元来、天皇ご自身の発案ではありませんでした。

 ところが、それを陛下にお見せしたところ、それは「私〔昭和天皇〕の考えと全く同じ」であったのです。しかし、陛下にとってはそれはあまりにも当たり前のことなので、「自分がはじめから持っていない神格を否定するということはどうだろうか」と、いったんは躊躇しましたが、「世界各国の人々が、天皇が現人神を以て自認していると信じている今日、天皇陛下がみずからそれを否定されることは重要であり、意味がある」という側近の意見を入れたのです。

 しかし、天皇陛下ご自身にとっては、新年の詔書でもっと重要だったのは、「五箇条御誓文」のほうであったのです。それが詔書の冒頭にあることも、天皇陛下のお考えをはっきりと示しています。

 昭和天皇ご自身、のちに記者会見で、この詔書を出した目的を以下のように語っています。

********************
記者
 ただそのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の「五箇条の御誓文」というのがございますけれども、これはやはり何か、陛下のご希望もあるやに聞いておりますが。

天皇
 そのことについてはですね、それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。
 それを述べるということは、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。
 民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条の御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。
 それで特に初めの案では、五箇条の御誓文は日本人としては誰でも知っていると思っていることですから、あんなに詳しく書く必要はないと思っていたのですが。
 幣原がこれをマッカーサー司令官に示したら、こういう立派なことをなさったのは、感心すべきものであると非常に賞讃されて、そういうことなら全文を発表してほしいというマッカーサー司令官の強い希望があったので全文を掲げて、国民及び外国に示すことにしたのであります。

記者
 そうしますと陛下、やはりご自身でご希望があったわけでございますか。

天皇
 私もそれを目的として、あの宣言を考えたのです。

記者
 陛下ご自身のお気持ちとしては、何も日本が戦争が終ったあとで、米国から民主主義だということで輸入される、そういうことではないと、もともと明治大帝の頃からそういう民主主義の大本、大綱があったんであるという……。

天皇
 そして、日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを示すために、あれを発表することを私は希望したのです。

(『陛下、お尋ね申し上げます』、高橋紘+鈴木邦彦、徳間書店)
********************
http://www.chukai.ne.jp/~masago/ningen.html

 すなわち、昭和天皇がこの「年頭の詔書」を出した目的は、

(1)「五箇条の御誓文」を再確認することが第一の目的であり、「神格とかそういうことは二の問題」であった。
(2)日本にはすでに明治憲法によって民主主義が存在していたのであって、あらためてアメリカから輸入するものではない、ということを示す。

ということです。「人間宣言」の部分は、いわば「刺身のつま」だったのです。しかし、天皇は現人神であるというイデオロギーを危険視していた諸外国や、そのイデオロギーを否定したいと考えていた日本のマスコミは、その部分のみを強調して、この詔書を天皇の「人間宣言」と呼ぶようになってしまったのです。それはある意味では、天皇ご自身の意に沿わない誤解であったのです。三島もこの誤解に引きずられている部分があります。


三島由紀夫と2・26事件(12)

2005年12月17日 | 三島由紀夫について
 「人間宣言」というのは、昭和21年1月1日に出された次のような詔勅です。(原文は片仮名ですが、読みやすくするために平仮名に直してあります。また、旧仮名遣いを新仮名に直し、難しい漢字を一部平仮名に直しています)

********************
年頭の詔書

ここに新年を迎う。顧みれば明治天皇明治の初め国是として五箇条の御誓文を下し給えり。曰く、

 一、広く会議を興し万機公論に決すべし
 一、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし
 一、官武一途庶民に至る迄おのおのその志を遂げ 人心をして倦まざらしめんことを要す
 一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
 一、智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし

叡旨公明正大、また何をか加えん。朕はここに誓を新たにして国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上を図り、新日本を建設すべし。

大小都市の蒙りたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は真に心を痛ましむるものあり。しかりといえども、我が国民が現在の試練に直面し、且徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束を全うせば、独り我が国のみならず全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。

それ家を愛する心と国を愛する心とは我が国において特に熱烈なるを見る。今や実にこの心を拡充し、人類愛の完成に向い、献身的努力をいたすべきの秋(とき)なり。

おもうに長きにわたれる戦争の敗北に終わりたる結果、我が国民はややもすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈綸せんとするの傾きあり。詭激の風ようやく長じて道義の念すこぶる衰え、為に思想混乱の兆あるはまことに深憂にたえず。

しかれども朕は爾(なんじ)等国民とともに在り、常に利害を同じうし休戚(きゅうせき=喜び悲しみ)を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生ぜるものに非ず。天皇をもって現御神(あきつみかみ)とし、且日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにも非ず。

朕の政府は国民の試煉と苦難とを緩和せんが為、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は我が国民が時艱に蹶起し、当面の困苦克服の為に、また産業および文運振興の為に勇往せんことを希念(きねん)す。我が国民がその公民生活において団結し、相より相たすけ、寛容相許すの気風を作興するにおいては、よく我が至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。かくのごときは実に我が国民が人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以なるを疑わざるなり。

一年の計は年頭に在り、朕は朕の信頼する国民が朕とその心を一にして、自ら奮い自ら励まし、もってこの大業を成就せんことを庶幾(こいねが)う。

御名 御璽
昭和二十一年一月一日
********************
出典:『戦後詔勅集』(海燕書房)
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%AE%A3%E8%A8%80

 この詔書の、

「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生ぜるものに非ず。天皇をもって現御神とし、且日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにも非ず。」

という一節のためにこの詔書は、「人間宣言」と呼ばれることになりました。

 『英霊の声』が問題にするのは、まさにこの一節です。

********************
〔・・・・〕彼〔総理大臣・幣原喜重郎〕は恐懼して、こう申上げた。
『国民が陛下に対し奉り、あまり神格化扱いを致すものでありますから、今回のように軍部がこれを悪用致しまして、こんな戦争をやって遂に国を滅ぼしてしまったのであります。この際これを是正し、改めるように致さねばなりません』
 陛下には静かに肯かれ、
『昭和二十一年の新春には一つそういう意味の詔勅を出したいものだ』
 と仰せられた。
 一方、その十二月の中頃、総司令部から宮内省に対して、
『もし天皇が神でない、というような表明をなされたら、天皇のお立場はよくなるのではないか』
 との示唆があった。
 かくて幣原は、改めて陛下の御内意を伺い、陛下御自身の御意志によって、それが出されることになった。
 幣原は、自ら言うように『日本よりむしろ外国の人達に印象を与えたいという気持が強かったものだから、まず英文で起草』したのである。
 その詔書の一節には、英文の草稿にもとづき、こう仰せられている。
『然れども朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じふし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものに非ず』
********************

 この詔勅の由来に関する三島の記述はほぼ正確ですが、もう少し詳しく述べてみます。


三島由紀夫と2・26事件(11)

2005年12月14日 | 三島由紀夫について
 三島ともあろう知識人が、こんなに妄想に陥るとは信じられないほどです。いいえ、日本の敗戦にこんな狂信的な理由づけを行なっているのは、三島ではなく、その背後にいる憑依霊に違いありません。それははたして特攻隊員の霊でしょうか?

 物語ではたしかに特攻隊員が語っていることになっていますが、しかし、物語全体は磯部浅一によって書かれているのです。そもそも、特攻隊員の告発は、磯部の告発――

(2)日本が戦争に突入し、そして敗れたのは、天皇陛下が、正義軍であるわれわれを叛乱軍と見なし、「ナチスかぶれの軍閥」=統制派に味方したときに、国の大義が崩れ、国体が汚されたからである。したがって、日本の敗戦は天皇陛下の責任である。

という告発とまったく同じです。すなわち、「川崎君」(神主=霊媒)に憑依しているのはいかにも「弟神」=特攻隊員のように見せかけていますが、その実体は磯部浅一らに違いありません。

 磯部が言いたいのは要するに、「お前(天皇)が俺たちを裏切ったから、日本は負けたのだ。みんなお前の責任だ」ということです。それをさらに、特攻隊員の霊になりすまして、二重に語っているだけなのです。磯部の昭和天皇への恨みはかくも深いのです。

 霊媒にもレベルがあり、高い神霊を降ろせる霊媒もあれば、幽界の浮遊霊がかかってくる霊媒もあります。『英霊の声』の「川崎君」は、磯部ら地縛霊と同調する低い霊媒です。そのような霊媒に、高い神霊は降りることはできません。

 特攻隊員の霊は本来、磯部らのレベルよりもはるかに高いところ、文字通り神界にいます。

 五井先生は戦没将兵について、『純朴の心』の中で次のように書いています。

「日本は第二次大戦で負けましたが、その戦争のために多くの将兵が、国の犠牲になったわけです。その死を無駄死であった、と今日の人たちはいいますが、私は決して無駄死であったなどとは思っておりません。一人の個人が国家という大きな存在の中に、死をかけて融けこんでいったということは、その人の魂が小さな個の魂から、大きく広く拡大されていったことなのでありまして、小さな人間が、大きな神の姿となって、神霊の世界で働くことになったということなのです。要は死んでいったその人その人の、その時の想いの在り方によるのでありまして、死ぬのは嫌だ、こんなところで死ぬのは無駄死だなどと思っていた人は、死後の世界であまり高い所にはゆけないと思いますが、真実国家のために身心を捧げる気持で昇天していった人々は、正に犠牲精神そのものでありまして、神霊の世界で大きく生きることになるのです。」(121頁)

 国家のために命を捧げた特攻隊員は高い神界で日本守護のために働く神となっている、と五井先生からうかがったことがあります。神なる特攻隊員の霊が、いつまでも天皇への恨み辛みを述べているはずはありません。『英霊の声』の「弟神」はにせものの神であり、彼らがいるという「神界」は、実は迷界なのです。

 もちろん、肉体身に執着したまま、恨みをいだいて死んだ兵も大勢いただろうと思います。そういう人々はいまだ神界に行くことができず、迷界に彷徨っていると考えられます。しかし、彼らの迷いの想いを承認し、神国妄想を根拠に昭和天皇を非難することは、彼らにとっても日本にとっても、何の益もありません。こういう迷界にいる人々をどう救済するかは、また別の問題です。

 次に「人間宣言」という第二の裏切りの問題に移ります。敗戦後も「陛下が決然と神にましましたら、〔・・・・〕このような虚しい幸福は防がれたであろう」というのは、戦後のの日本が浅薄な現世主義、唯物的な金銭至上主義におおわれたのは、天皇の「人間宣言」のせいだ、という非難です。

三島由紀夫と2・26事件(10)

2005年12月13日 | 三島由紀夫について
 三島は、天皇の罪は、天皇が二・二六事件の蹶起将校を賊軍ととして裁いたことによって「軍の魂を失わせ」たこと(第一の裏切り)と、「人間宣言」によって「国の魂を失わせ」たこと(第二の裏切り)の二つであると言います。一度目の裏切りにより、「御聖代が真に血にまみれ」(戦争と敗戦)るという「悲劇」が起き、二度目の裏切りにより、「御聖代がうつろなる灰に充たされた」(戦後の浅薄な現世主義)というのです。

 「弟神」らのこの告発は正当なものでしょうか?

 第一の裏切りについて。三島も書いているように、「歴史に『もし』は愚かしい」ことですが、もし天皇が二・二六事件の蹶起将校を正義軍と認めていれば、「軍の魂」が守られ、それによって戦争が回避されたのでしょうか? そのようなことはまず考えられません。中国大陸をめぐる当時の日米の利権抗争が解消されない以上、いずれ日米が衝突することは不可避だったと思われます。

 日本がアメリカとの戦争を回避する唯一の道は、日本が、中国大陸から全面撤退を求めるハル・ノートを無条件で受け入れ、中国大陸の既得権益をすべて放棄することでした。それは可能だったでしょうか?

 その当時の日本人は、中国大陸の利権を、日清・日露戦争の血によって獲得したものと考えていました。日清戦争後の三国干渉によって、遼東半島を放棄せざるを得なかったことに日本人が激怒し、臥薪嘗胆を誓ったのは、そのためです。日露戦争の賠償金を取ることができなかったポーツマス条約に、日比谷焼き討ち事件が起こったのも、そのためです。文字通り血をもって獲得した利権をむざむざ放棄することは、日清・日露戦争の戦死者を冒涜することだと信じられていました。その当時の大部分の日本人にとっては、ハル・ノートを受け入れることは、戦わずしてアメリカに全面降伏することに等しかったのです。いわば、大きな借金をしてせっかく手に入れたマンションから、弁償金もなしに即座に退去してくれ、と要求されたようなものです。

 他方、アメリカも日本との戦争を強く望んでいました。その理由は、

(1)中国大陸、アジアから日本を駆逐し、米英の覇権を確立することができる。
(2)1939年9月の欧州大戦勃発に際して、アメリカは中立を宣言していました。戦況はナチス・ドイツの圧勝で、イギリスは苦境に陥っていましたが、アメリカはイギリスを支援する大義名分がありませんでした。しかも、アメリカ国民は孤立主義的で、欧州大戦への参戦に反対していました。ドイツ、イタリアと3国同盟を結んでいた日本と戦争することによって、アメリカはドイツに公然と宣戦布告することができる。

 アメリカは日独との戦争を起こすために、意図的に、日本が絶対に受け入れることができない無理な要求をつきつけたのです。これはまさに「挑発」でした。

 1937~42年、駐日イギリス大使であったロバート・クレーギー卿は、日本の提案した妥協案をアメリカが交渉の材料として取り上げていたら、日本の開戦はなかっただろう、アメリカの「最後の回答」は日本が拒否することは確実だった、という報告書をイーデン外相に提出しています。チャーチルはこの報告書を読んで怒り、日本のアメリカへの宣戦は「大きな幸運」なのだと述べています。(武田清子『天皇観の相克』)

 「軍の魂」がありさえすれば日米戦争が防がれたというのは、明治以降の歴史の流れを無視した、まったく成り立たない議論です。先に、「軍の魂」を重視する皇道派が、軍閥としては追放されても、その後も皇道派的妄想が強まり、ついには竹槍的国土防衛論や特攻攻撃にまで至ったことを見ました。「軍の魂」論は皇道派的妄想以外の何ものでもありません。

 次に、皇道派が正義軍と認められていたら、たとえ戦争になっても、「神風」が吹いて、日本が勝利したのでしょうか? そのような「確信」を特攻隊の霊たちは何によって根拠づけるのでしょうか? その根拠は、日本は神国なので、蒙古襲来のときに神風が吹いたように、今回も必ず吹くはずだ、という思い込みしかありません。それはたしかに、戦争末期に軍部や日本国民がいだいていた観念かもしれません。霊たちはその観念に固執し、その観念が現実化しなかった原因・罪を、天皇の中に求めているのです。しかし、彼らは、「日本は神国なり」「必ず神風が吹く」という観念自体が正しいかどうかを検証することはしません。

 いったい「神国」とは何でしょう? 日本の「神国」思想は、自国・自民族が他国・他民族に優越しているという、自国・自民族中心主義の一種です。このような思想は、世界中のいたるところに存在しています。中国の中華思想、ユダヤ民族の選民思想、ナチス・ドイツのアーリア民族至上主義などがそうです。こういう観念が人類の歴史上どれほど多くの災いをもたらしてきたか、はかりしれません。

 「神」が一国・一民族を特別に依怙贔屓し、他国・他民族を支配する権利を与える、という考えは、きわめて幼稚かつ自己中心的です。自国・自民族を特別に愛顧する神というのは、自民族中心主義の投影、集団的エゴイズムの実体化にすぎません。「神」なるものがあるとすれば、そういう幼稚な観念からほど遠いところに存在しているに違いありません。

 「神」とは無限なる叡智、無限なる愛、無限なる調和、無限なる生命です。そういう状態が一国の中に現われてこそ、真の「神国」と呼べるはずです。

 客観的に見て、朝鮮を併合し、中国大陸に利権を求めていた戦前の日本が、「神国」からはほど遠い状態であったことは、否定できません。日本は、アジアの解放という看板を掲げてはいましたが、実際には欧米列強に伍して植民地獲得を目指す覇道国家の一つに成り下がっていたのです。もし日本に本当に神がいるならば、軍国主義におごり高ぶっていた日本にきついお仕置きを与えるでしょう。神が神風を吹かせなかったのは、当然です。私の見方では、むしろ原爆と敗戦こそ神の厳しい愛、真の神風でしたが、これについては別に論じなければなりません。

 特攻隊の霊たちは「神界」にいるはずなのですから、高い神意、宇宙の摂理を知り、日本がどのような意味で「神国」であるのかを、もう少し語ってくれてもよさそうなものですが、そういう説明は一切ありません。彼らにあるのは、自国中心主義的な神国妄想への固着と、天皇に裏切られた恨みだけです。この霊たちは、「神界」にいると称しておりますが、彼らがいるのは低い幽界、迷いの世界なのです。

三島由紀夫と2・26事件(9)

2005年12月10日 | 三島由紀夫について
 さて、『英霊の声』で、二・二六事件の将校らの次に神主=霊媒に憑依してくるのは、まさに神風特攻隊の死者たちです。彼らは、二・二六事件関係者(兄神)のあとに死んだので、「第二に裏切られた霊」、「弟神」と呼ばれています。

 死を覚悟した出撃前の心境を、特攻隊員の霊はこう語っています。

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『陛下は神風特別攻撃隊の奮戦を聞こし召されて、次の御言葉を賜わった。
《そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやったと》』
 そして飛行長はおごそかにつづけた。
『この御言葉を拝して、拝察するのは、畏れながら、我々はまだまだ震襟(しんきん)をなやまし奉っているということである。我々はここに益々奮励して、大御心を安んじ奉らねばならぬ』
 われらは兄神のような、死の恋の熱情の焔は持たぬ。われらはそもそも絶望から生れ、死は確実に予定され、その死こそ『御馬前の討死』に他ならず、陛下は畏れ多くも、おん悲しみと共にわれらの死を嘉納される。それはもう決っている。われらには恋の飢渇はなかった。
********************

 彼らは、「兄神」=二・二六事件の青年将校らのように、天皇に否認されたわけではありません。「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」という天皇陛下のお言葉には、特攻隊員への深い悲しみがあふれています。「陛下は畏れ多くも、おん悲しみと共にわれらの死を嘉納される」のでありますから、彼らには、二・二六事件将校らの満たされぬ恋の苦しみはありません。

 しかし、青年たちが特攻攻撃という壮絶な死を遂げるにあたっては、その死を根拠づける宗教的信念が必要です。それは、天皇は神である、という教義です。

********************
 しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いていて下さらなくてはならぬ。そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと歴史とをつなぐ唯一条の糸があるからだ。そして陛下は決して、人の情と涙によって、われらの死を救おうとなさったり、われらの死を妨げようとなさってはならぬ。神のみが、このような非合理な死、青春のこのような壮麗なによって、われらの生粋の悲劇を成就させてくれるであろうからだ。そうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだろう。われらは戦士ではなく、闘技場の剣士に成り下るだろう。神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬことになるだろう。
********************

 こうして彼らは、天皇は神であると信じて、その命を天皇陛下に捧げました。しかし、彼らが期待した「神風」は吹かず、日本は惨めにも敗戦の辱めを受けました。「神界」に行った「弟神」たちは、なぜ神風が吹かなかったのか、と疑問に思います。

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 日本の現代において、もし神風が吹くとすれば、兄神たちのあの蹶起の時と、われらのあの進撃の時と、二つの時しかなかった。その二度の時を措いて、まことに神風が吹き起り、この国が神国であることを、自ら証する時はなかった。そして、二度とも、実に二度とも、神風はついに吹かなかった。
 何故だろう。
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 彼らの結論は、天皇陛下ご自身が国体を裏切ったから、というものです。天皇の裏切りは、昭和21年1月1日に出された詔勅、いわゆる「人間宣言」にも現われている、と彼らは言います。

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 ……今われらは強いて怒りを抑えて物語ろう。
 われらは神界から逐一を見守っていたが、この『人間宣言』には、明らかに天皇御自身の御意志が含まれていた。天皇御自身に、
『実は朕は人間である』
 と仰せ出されたいお気持が、積年に亙って、ふりつもる雪のように重みを加えていた。それが大御心であったのである。
 忠勇なる将兵が、神の下された開戦の詔勅によって死に、さしもの戦いも、神の下された終戦の詔勅によって、一瞬にして静まったわずか半歳あとに、陛下は、
『実は朕は人間であった』
 と仰せ出されたのである。われらが神なる天皇のために、身を弾丸となして敵艦に命中させた、そのわずか一年あとに……。
 あの『何故か』が、われらには徐々にわかってきた。
 陛下の御誠実は疑いがない。陛下御自身が、実は人間であったと仰せ出される以上、そのお言葉にいつわりのあろう筈はない。高御座(たかみくら)にのぼりましてこのかた、陛下はずっと人間であらせられた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たったお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。
 それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
 だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだった。何と云おうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだった。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきわみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。それを二度とも陛下は逸したもうた。もっとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
 一度は兄神たちの蹶起の時。一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、あのような虚しい悲劇は防がれ、このような虚しい幸福は防がれたであろう。
 この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を失わせ玉い、二度目は国の魂を失わせ玉うた。
 御聖代は二つの色に染め分けられ、血みどろの色は敗戦に終り、ものうき灰いろはその日からはじまっている。御聖代が真に血にまみれたるは、兄神たちの至誠を見捨てたもうたその日にはじまり、御聖代がうつろなる灰に充たされたるは、人間宣言を下されし日にはじまった。すべて過ぎ来しことを『架空なる観念』と呼びなし玉うた日にはじまった。
 われらの死の不滅は涜(けが)された。……
********************

 ここには、驚くべき歴史観が表明されています。それは昭和天皇の2度にわたる裏切り・過ちが、昭和史のすべての悲惨の原因である、という歴史観です。

 昭和天皇は時々、左翼陣営から戦争責任者として非難されました。天皇が開戦に反対していれば、日米戦争は回避できたはずであり、天皇の命令なしには戦争は起こりえなかった、そしてアジア各地の戦争犯罪は天皇の命令で行なわれた、だから天皇が戦争の一切に責任がある、天皇は戦争犯罪人である、という非難です。その典型は、NHKの番組改変問題で話題になった「女性国際戦犯法廷」(バウネット)です。

※バウネットの主体は北朝鮮系の団体であることが明らかになっています。

 『英霊の声』は、これとはまったく異なった形で、天皇を戦争責任者として非難しています。昭和天皇の国体への2度の裏切りが日本の戦争と敗戦を招いた、というのです。こういうことを明言したのは、後にも先にも三島由紀夫しかいません。戦前的な言い方をすれば、これは明らかに、天皇陛下に対する「不敬」です。このことを、三島を尊皇家・愛国者として高く評価する右翼天皇主義者はどう見るのでしょう?

三島由紀夫と2・26事件(8)

2005年12月09日 | 三島由紀夫について
 『英霊の声』という作品は、三島由紀夫の肉体を借りての、磯部ら地縛霊の昭和天皇への訴えかけでした。その内容は、

(1)自分たちは、天皇への恋闕の情、赤誠をもって、昭和維新を目指した「義軍」であり、決して「叛乱軍」=「賊軍」ではない、と認めよ。
(2)日本が戦争に突入し、そして敗れたのは、天皇陛下が、正義軍であるわれわれを叛乱軍と見なし、「ナチスかぶれの軍閥」=統制派に味方したときに、国の大義が崩れ、国体が汚されたからである。したがって、日本の敗戦は天皇陛下の責任である。
(3)自分たちの行為に怒りを発し、自分たちを暗黒裁判によって極刑に処した天皇の心は、現人神としての「仁慈」に背き、単なる肉体人間の想いである、と認め、反省し、われらに謝罪せよ。

ということになります。

 共産主義者であれば、天皇にこれほどの憎しみをいだけば、あとは天皇制の打倒に向うだけですが、しかしながら、彼らは天皇への恋闕者として、昭和天皇を全否定することはできません。そこに、彼らのどうすることもできない矛盾と悲劇があります。

 そこで、天皇への恨み辛みをさんざん述べたあと、霊たちは一転、泣き叫びます。

********************
 そのとき私は、急に川崎君〔神主=霊媒〕の口から発せられた異様なひびきに愕かされた。
 それは鬼哭としか云いようのない、はげしい悲しみの叫びであった。彼はそれまで一度も崩さずにいた膝のまま、畳に打ち伏して、身をよじって哭きはじめた。
 私は今まであのような、痛切な悲しみに充ちた慟哭の声をきいたことがない。
********************

 この慟哭は、まさに磯部らの慟哭です。

 霊たちはこのように、『英霊の声』という作品を通して、自分たちの想いを一応肉体界に伝えました。しかし、それだけでは彼らは満足できないのです。昭和天皇が『英霊の声』を読まなければ、彼らの想いは天皇に伝わりません。読んだとしても、それだけでは、自分たちの怨念を訴えただけで、自分たちの赤誠は証明できません。それを証明するためには、

********************
われらは躊躇なく軍服の腹をくつろげ、口々に雪空も裂けよとばかり、「天皇陛下万歳!」を叫びつつ、手にした血刀をおのれの腹深く突き立てる。かくて、われらが屠った奸臣の血は、われらの至純の血とまじわり、同じ天皇の赤子の血として、陛下の御馬前に浄化されるのだ。
********************

というあの願望を成就しなければなりません。そして、彼らは同時に、怨念に駆られて、陛下を恨み奉ったあげく、「天皇陛下万歳!」も唱えずに死んだ、あの不義・不忠・不敬をも雪(そそ)がなければなりません。「天皇陛下万歳!」を唱えながら、赤誠の証しとして天皇陛下の御前で割腹自殺することによってのみ、彼らは天皇と和解ができるのです。この目的を果たすために、彼らは三島の肉体を利用したのです。三島は「天皇陛下万歳!」を叫んで割腹自殺をとげましたが、こう叫んだのは実は磯部浅一だったのです。

 五井先生が「他殺」と呼ぶ所以です。

 しかし、昭和天皇は、三島の、そしてその背後にいる磯部らの行為と想いを、「その方たちの志はよくわかった。その方たちの誠忠をうれしく思う」と嘉(よみ)したでしょうか? おそらくそうではなかったでしょう。法を無視した二・二六事件を嫌悪した天皇は、三島事件をも嫌悪したに違いありません。これは私の推測にすぎませんが、昭和天皇は、あの異様な三島割腹事件に、二・二六事件との不吉な関連をお感じになったのではないかと思います。

 青年将校らの天皇への「恋闕の情」は、天皇陛下の本心を知らない、まったく一方的な「片想い」であったと言わざるをえません。

 三島は『葉隠入門』で「恋闕の情」について、「もっとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に一直線につながるという確信」であると解説しています。『英霊の声』では、「あれほどまでの恋の至情が、神〔=天皇〕のお耳に届かぬ筈はなかった」と言われています。

 しかし、「自分の命を捨て」るほど「誠実」であれば「理想につながる」という彼らの「確信」は、錯覚です。なぜなら、その「理想」はあくまでも「自分の」理想でしかないからです。男女の恋愛において、恋愛者は往々にして、自分が作り上げた理想像に恋愛しているのであって、現実の相手を見ていないことがよくあります。そういう人は、恋愛が結婚となって現実化したとき、つまり、理想につながった瞬間に、相手の現実の姿が理想とは違うことを知り、幻滅することになります。

 真実の愛は、その幻滅から始まります。相手の長所も短所も素直に認め、受け入れ、許せるようになってこそはじめて、それは真実の愛となるのです。自分が勝手に作り上げた理想像にいつまでも固執している人は、結局、相手がその理想像に合致しないという理由で、相手を憎み、非難し、責めはじめることになります。熱烈な恋愛が、成就したあと、しばしば破綻につながる所以です。

 理想が抽象的な観念や目に見えない神であれば、そういう幻滅はありません。人は、ドン・キホーテのように、現実にならない理想をいつまでも追い続けることができます。言い換えれば、いつまでも錯覚にひたることができます。しかし、理想が現実の肉体を備えた存在であれば、いつかは自分が作り上げた理想像と、肉体をもった存在とのズレを認識せざるをえません。

 磯部らの「神」は、肉体を持たない「神」、抽象的な観念ではありませんでした。肉体を持った神、昭和天皇でした。「現人神」という、神性と肉体性を兼ね備えた存在を、自分たちが勝手にでっち上げた理想像と同一視したところに、磯部らの根本的な誤りがありました。そして、「現人神」という観念は、戦前の日本を誤らせた誤謬でもあります。近代日本の歴史の秘密は、まさに「現人神」の観念にあるといっても過言ではありませんが、これについては別に詳しく論じなければなりません。

 磯部らの天皇への「恋闕の情」は、「股肱の老臣」を殺害された天皇陛下にとっては、迷惑千万な、一方的な片想い以外の何ものでもありませんでした。殺人犯が、「私は、人殺しをするほどあなたを深く愛しているのだから、あなたも私を同じように愛するべきだ」と迫ってきたようなものです。その上、相手が自分の愛を受け入れてくれないなら、相手を憎む、というのでは、まさにストーカーです。磯部らが、死後、怨念霊になったのもよくわかります。怨念霊とは、まさに幽界のストーカーだからです。

※「stalker」というのは、「面識もないのに、後を追ったり待ちぶせをしたりして、しつこくつきまとう偏執狂的な人」という意味です。

 「われらは躊躇なく軍服の腹をくつろげ・・・」の文を、三島(その背後に憑依している磯部)は、赤誠の証しとして書いています。しかし、この文は実に幼児的で自己中心的な幻想です。それはまさに、磯部らの未熟な精神状態を暴露しています。

 ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは『職業としての政治』の中で、「責任倫理」と「心情倫理」を区別しています。政治的行為において問われるのは、結果責任、「責任倫理」です。自分たちは善意で行動したのだ、という「心情倫理」は、政治的失敗の言い訳にはなりません。現支配体制を暴力によって打ち倒すという青年将校らの行為は、紛れもなく政治的行為です。ところが、「恋闕の情」によって立つ彼らは、自分たちの想いが誠実である以上、天皇は自分たちの行為を認めるべきだ、という「心情倫理」しか知らないのです。そして、君側の奸である「醜き怪獣ども」を取り除きさえすれば、天皇親政ですべてはよくなる、と思いこんでいたのです。

 しかし、あの時代に天皇親政を導入すれば、日本がよくなり、対外関係もうまく行き、戦争を避けられた、あるいは戦争に突入しても、「神風」が吹いて日米戦争に勝利できた、とはとうてい思えません。

 天皇親政などをしいたら、経済も軍事も外交も、一切の政治的責任はすべて天皇に降りかかってきます。もし彼らのクーデターが成功し、天皇親政が実現していたら、日本の敗戦によって、天皇の戦争責任と政治責任は否定しようがないものとなり、昭和天皇は戦犯として処刑され、天皇制自体も廃止されていたかもしれません。青年将校らの考えは、現実(責任倫理)を無視した自己陶酔でしかありませんでした。

 これは、青年将校だけの思考ではなく、彼らを唆した皇道派の幹部の思考でした。皇道派の荒木貞夫大将は、こう言っていたのです。

「現在の日本では真の日本精神が蔽われている。これを顕わしさえすれば各方面の行詰りも自然と解消してゆく。自分は思想、教育、経済、財政、外交等について具体的な意見を持っているが、それは今言うべき時期ではない」

 これについて松本清張は、

********************
 つまり、「一切の問題を皇道精神で解決できる」というのである。また、具体的な意見はあるが言うべき時期ではないと答えたのは、実は言うべき具体案が何もなかったのである。しかし、彼のこうした日本精神的な派手な発言は青年将校たちに喜ばれた。
 荒木は国軍を「皇軍」といい、国威を「皇威」といい、日本を「皇国」といって、何でもかでも「皇」をつけた。なかでも外人記者団に語った「竹槍三千本論」は傑作で、竹槍があれば列強恐るるにたらずという説である。
********************

と揶揄しています。

 政治・経済・外交・軍事が複雑に絡まり合う日本で、具体的な政策もなく、国体を明徴にし、天皇親政にすれば問題がすべて解決する、というのはなんとも短絡的な思考ですが、こういう人物がその当時、国民大衆の人気を集めていたのです。青年将校らの信念もそれと同じでした。

 皇道派は二・二六事件で派閥としては権力の座から追放されましたが、その後の軍部はますます皇道派的な精神主義に傾斜していき、戦争末期には、まさに竹槍で本土決戦を戦うとまで言い出したことはよく知られています。このような精神的背景がなければ、神風特攻隊もつくられることはなかったでしょう。

三島由紀夫と2・26事件(7)

2005年12月07日 | 三島由紀夫について
 青年将校らが牢獄に入っているとき、「日本もロシヤのようになりましたね」という天皇の言葉が彼らに漏れ伝わってきました。

 これは、自分たちを共産主義者と同一視する言葉として、青年将校らに衝撃を与えました。磯部浅一は「獄中日記」にこう書いています。

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 陛下が私共の挙を御きゝ遊ばして、
「日本もロシヤの様になりましたね」と言ふことを側近に言はれたとのことを耳にして、私は数日間気が狂ひました。
「日本もロシヤの様になりましたね」とは将(はた)して如何なる御聖旨か俄(にわ)かにわかりかねますが、何でもウハサによると、青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであると言ふ意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思ひ、神仏をうらみました。
********************

 『英霊の声』では、「このお言葉を洩れ承った獄中のわが同志が、いかに憤り、いかに慨き、いかに血涙を流したことか!」と書かれています。

 青年将校らの想いと昭和天皇のお考えは、最初から最後まですれ違いでした。そもそも事件勃発のとき、天皇は、

「朕が股肱(ここう)の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等その精神に於て何ら恕(じょ)すべきものありや、と仰せられ、又、朕が最も信頼せる老臣を悉(ことごと)く倒すは、真綿にて朕の首を締むるに等しき行為と漏らさる。」(本庄繁日記)

とおっしゃいました。青年将校らが殺戮した「醜き怪獣」は、天皇陛下にとっては「股肱の老臣」、もっとも頼りにする臣下だったのです。憲法を守る天皇は、法を無視した暴力を断じて認めることはできませんでした。

 そして、反乱軍への対処をめぐって軍当局の意見が割れ、事態収拾が進まなかったとき、陛下は、

「朕自らが近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当たらん」(本庄繁日記)

とまでおっしゃったのです。天皇陛下の断固たる意志によって、軍の一部には同情を集めていた蹶起軍は賊軍と見なされ、鎮圧されたのです。

 これは、天皇への「恋闕の情」によって、命を捨てても昭和維新を目指した青年将校らにとっては、青天の霹靂、思いもかけない無惨な結末、まさにどんでん返しとしか言いようのない「天皇の裏切り」だったのです。

 「天皇の裏切り」を知った磯部浅一は、死の直前まで、天皇を呪い続けます。

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 だが私も他の同志も、何時迄もメソメソと泣いてばかりはゐませんぞ、泣いて泣き寝入りは致しません。怒つて憤然と立ちます。
 今の私は怒髪天をつくの怒りにもえてゐます。私は今は陛下を御叱り申し上げるところに迄、精神が高まりました。だから毎日朝から晩迄、陛下を御叱り申してをります。
 天皇陛下何と言ふ御失政でありますか、何と言ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ。(「獄中日記」)
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 処刑のとき、多くの青年将校は「天皇陛下万歳!」を叫んで銃殺されました。しかし、磯部浅一と、もう一人の首謀者・村中孝次は、無言のままでした。彼らは、「天皇陛下万歳!」を唱える気になれないほど、天皇を憎んでいたのです。このような強い怨念をだいた人間は、死後、仏教的に言えば成仏できず、地上を徘徊する地縛霊になります。

 この呪詛は『英霊の声』では次のように述べられています。

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 かくてわれらは十字架に縛され、われらの額と心臓を射ち貫いた銃弾は、叛徒のはずかしめに汚れていた。
 このとき大元帥陛下の率いたもう皇軍は亡び、このときわが皇国の大義は崩れた。赤誠の士が叛徒となりし日、漢意(からごころ)のナチスかぶれの軍閥は、さえぎるもののない戦争への道をひらいた。
 われらは陛下が、われらをかくも憎みたもうたことを、お咎めする術(すべ)とてない。
 しかし叛逆の徒とは! 叛乱とは! 国体を明らかにせんための義軍をば、叛乱軍と呼ばせて死なしむる、その大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか。
 こは神としてのみ心ならず、
 人として暴を憎みたまいしなり。
〔・・・・〕
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし。
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 まさにこれは、天皇に裏切られ、賊軍として処刑された、磯部らの無念の想いそのままです。ここには、三島由紀夫の文学的修辞を超えた、いまだ行くべき階層に行くことができない地縛霊の怨念が感じられます。『文藝』の編集長の寺田博氏が、「原稿をもらって怖かった」と言ったのも、むべなるかなです。


三島由紀夫と2・26事件(6)

2005年12月06日 | 三島由紀夫について
 『英霊の声』はまさに憑依現象を描いた作品です。

 作品の語り手である「私」は、「木村先生」が主催する「帰神(かむがかり)」の会に出席します。「帰神の会」とは、神道的な一種の降霊会のことです。そこでは、「神主」(霊媒)に「神」がかかってきて、肉体界にメッセージを伝えます。そのとき降りてきた「神」のメッセージが、この作品の主題です。

※松本健一氏の近著『三島由紀夫の二・二六事件』(文春新書)は、この降霊会が大本教の「鎮魂帰神法」に由来することを指摘しています。なお、この本は主として北一輝との関連で三島と二・二六事件の関係を思想史的に論じています。

 ただし、「神」といっても、キリスト教の神のような絶対神でもないし、「神々しい」高級神霊でもないことに注意しなければなりません。ここに憑かってきた「神」は、恨みの念をいだいたまま肉体を去り、行くべき階層に行けず、地上に執着する幽魂なのです。

 降りてきた「神」は2種類のグループに分かれます。「兄神」と「弟神」です。

 最初の「兄神」(「われら」という複数形で語ります)は、二・二六事件で「裏切られた者たちの霊」です。すなわち、二・二六事件を起こし、死刑にされた皇道派青年将校らの霊です。「弟神」は、第2次世界大戦で死んだ神風特攻隊員の霊です。

 まず、二・二六事件関係者。彼らは肉体にありしころ、天皇への「恋」に燃え、君側の奸である「醜き怪獣ども」を征伐しました。この「義兵」により、「現人神」は牢獄から救い出され、天皇親政により「神国は顕現し」、「わが国体は水晶の如く澄み渡り」、「国には至福が漲る」はずでした。それが彼らの目的でした。

 維新挙兵のあと、彼らに待ちうけている運命について、彼らは二つのシナリオを想い描いていました。

(1)挙兵が成功し、陛下から「よくやった」というお褒めの言葉を受ける。
(2)目的としていた国体の明徴は成功するが、陛下から名誉の自決を命じられる。

 たとえ「昭和維新」が成功したとしても、彼らは陛下の軍を勝手に動かしたのですから、軍規を破ったという事実は否定できません。彼らは、その咎めとして、喜んで死ぬ覚悟はありました。ただしそこには、陛下の次のような言葉がなければなりませんでした。

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「その方(ほう)たちの志はよくわかった。
 その方たちの誠忠をうれしく思う。
 今日よりは朕の親政によって民草を安からしめ、必ずその方たちの赤心を生かすであろう。
 心安く死ね。その方たちはただちに死なねばならぬ」
 われらは躊躇なく軍服の腹をくつろげ、口々に雪空も裂けよとばかり、「天皇陛下万歳!」を叫びつつ、手にした血刀をおのれの腹深く突き立てる。かくて、われらが屠った奸臣の血は、われらの至純の血とまじわり、同じ天皇の赤子の血として、陛下の御馬前に浄化されるのだ。(『英霊の声』)
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 文学的粉飾がなされてはいますが、これは二・二六事件の青年将校らの想いを実際に反映していると言えるでしょう。彼らは、蹶起した当初、昭和維新が成功する見込を持っていましたが(軍の上層部にも彼らを支持する勢力がいた)、やがて情勢が自分たちに不利に展開してきたことを知ります。追い込まれた彼らは、最後の道として、天皇の勅使派遣による名誉の自決を賜わりたいと願い出ますが、それに対する昭和天皇のお言葉は、

「自殺するならば勝手に為すべく、此の如きものに勅使など以ての外なり」(『本庄繁日記』)

という断固たる拒否でした。

 青年将校らが天皇の自分たちへの否定的評価を知るのは、クーデターが失敗に終わり、逮捕されたあとです。その場で自決した数名を除いて、彼らの大部分は、当初の計画が失敗したにもかかわらず、あえて生き延び、法廷闘争の場で自分たちの主張を、軍上層部、国民世論、そして天皇に訴えようと考えたのでした。しかし、軍法会議は、彼らを死刑にすることを最初から決めていて、非公開の、形だけの裁判しか行ないませんでした。彼らには、自分たちの主張を述べる機会は与えられませんでした。しかも、彼らを指嗾(しそう)した皇道派の軍上層部(真崎甚三郎や荒木貞夫)に累が及んでは、軍の威信に関わるというので、最も責任重大な上層部は無罪放免で、青年将校のみが極刑に処せられました。

 このような一方的な裁判は、彼らの憤り、無念、恨みをどれほど強めたかしれません。彼らが死後、強烈な怨念をいだいた霊となったの原因の一端は、軍の暗黒裁判にあったことは否めません。

三島由紀夫と2・26事件(5)

2005年12月05日 | 三島由紀夫について
 三島は、「エロスと大義(=死)との完全な融合と相乗作用」が、「書物の紙の上にしか実現」されることに飽きたらず、それをさらに映画という形でも表現しようとしました。彼は、自分が主演・監督で『憂国』を映画化し、その中で切腹を演じています。映画『憂国』(1966年、昭和41年4月)です。

 三島由紀夫の奥様の瑤子さんは、三島の死後、割腹事件を予告するようなこの映画を廃棄することを望んだのですが、たまたま今年になってそのネガフィルムが発見されました。

http://www.sankei.co.jp/enak/2005/aug/kiji/20mishima.html
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産経新聞 8月20日(土)東京朝刊 

作家の三島由紀夫が自らの小説を基に監督、主演などを務めた映画「憂国」(昭和41年公開)のネガフィルムが東京都大田区の三島邸から見つかったことが19日、分かった。

三島が陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(東京都新宿区)で割腹自殺することを予告したような内容の“幻”の作品で、新潮社が刊行している「決定版 三島由紀夫全集」(全42巻)の別巻として、来春DVD化される予定。

「憂国」はモノクロ、約30分の短編。三島が選んだワーグナーなどの音楽で物語が進行し、二・二六事件をめぐり中尉が切腹する場面がある。

三島と共同で製作に当たった藤井浩明プロデューサーによると、三島が自決した翌年にあたる46年、瑤子夫人(平成7年死去)の要望で上映用のプリントは回収され焼却処分された。しかし、藤井氏がネガフィルムだけは保存するよう瑤子夫人に頼んだため、茶箱に入れ三島邸に保管された。瑤子夫人が亡くなった後の8年、藤井氏が三島邸の倉庫で捜し出した。

藤井氏は、「保存状態はほぼ完璧(かんぺき)で、運命的なものを感じる。海賊版がネットオークションなどで出回っていて、粗悪な画面だったので、いずれ発表しなくてはいけないと思っていた」と話している。

映画評論家の佐藤忠男さんの話「『憂国』は三島由紀夫の死に方を予告したような内容で、短編ながら劇場公開時は大ヒットした。三島本人が主演していて、本気でやっているかと思えば、芝居がかっているところもある。その本気と芝居っ気の間に、見ていて割り切れないものを感じる。三島の割腹自殺を解釈する鍵が含まれていると思う」
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 私はこの映画を見ていませんが、写真は見たことがあります。グロテスクな印象がありました。三島由紀夫が切腹に魅入られていたことがよくわかります。

 三島は子供のころから2・26事件の反乱軍将校を肯定的に見ていました。そのような彼が映画の中で2・26事件の青年将校を演じたということは、2・26事件の青年将校たちとの完全な自己同一化を目指した、ということになります。

 美輪明宏さんは、「霊というのは、三島さんみたいに純粋な人に取り憑きやすい」と言っていますが、これは言葉足らずです。たしかに憑依というのは、起こりやすい体質の人と、起こりにくい体質の人があります。ただし、前者の場合でも、憑依はただ一方的に起こるものではありません。憑依される側に、憑依する霊と似た波動があるからこそ起こるのです。憑依とは、いわば一種の共鳴現象です。三島の精神的・文学的遍歴を見てくると、彼の中に、2・26事件関係者の霊を招き寄せる心的波動が存在していたと言わざるをえません。

 これは私の仮説ですが、磯部浅一の三島への憑依は、すでに短編『憂国』のあたりで徐々に始まり、映画『憂国』の出演で決定的になったのではないかと思います。演ずるというのはその役柄になりきることですから、三島は演ずることによって完全に2・26事件の青年将校と合体してしまったのでしょう。その憑依によって書かれたのが『英霊の声』です。この作品は、映画『憂国』の直後に執筆され、昭和41年6月に発表されています。

※美輪さんに限らず、演劇や映画の役者さんには霊感の鋭い人が多いようです。霊視能力のある人も少なくありません。彼らの談を聞くと、歴史上の事件をテーマにした劇を演ずると、関係の霊が集まってくるようです。扱うのが悲劇的事件の場合は、演劇関係者に不幸や事故が起こると言われています。これは波動の共鳴による現象と考えられます。有名なのは『四谷怪談』の場合です。そのため、『四谷怪談』の上演の前には、スタッフが必ず神社でお祓いを受けるということです。

 芸術活動には共鳴現象がよく起こります。また、そのような共鳴現象が迫真の演技・演奏になるものと考えられます。逆に言えば、そのような共鳴現象のない芸術活動は浅薄ということにもなります。

 「憑依」というと否定的なニュアンスを含んだ語ですが、芸術活動の中では高い神霊が共鳴してくる現象もあります。五井先生は、ピアニスト、エミール・ギレリスの背後ではフランツ・リストが演奏していたし、映画『キング・オブ・キングス』の主役俳優の中にはイエス・キリストが入ってきた、と述べています。
http://www.geocities.jp/byakkou51/zuimon.htm

 「神わざ」とも呼ばれるような演奏・演技には、神界・霊界からの援助があるのでしょう。そのようなバックアップを受けるためには、もちろんたゆみない稽古が必要であることは言うまでもありません。高級神霊と波動を共鳴させるためには、日頃からの錬磨が必要なのです。これとは反対に、どのようにテクニックがすぐれていても、神界の波動との共鳴がない演技・演奏は、感動を呼ぶことはできません。それは、肉体人間の技術に過ぎないからです。その一線を超えられるか超えられないかが、天才と凡才の違いなのかもしれません。

 高級神霊との共鳴は望ましいことですが、浮遊霊・不成仏霊との共鳴は、憑依された人の運命を狂わせます。三島は、自分の美学と、二・二六事件の青年将校らへの長年のシンパシーのために、彼らの霊と共鳴し、映画『憂国』で一線を超え、そこから抜け出せなくなってしまったのです。

三島由紀夫と2・26事件(4)

2005年12月04日 | 三島由紀夫について
 三島の葉隠解釈の特徴は、彼がこれを恋愛論としても読解することです。

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 第二に「葉隠」は、また恋愛哲学である。恋愛という観念については、日本人は特殊な伝統を経、特殊な恋愛観念を育ててきた。日本には恋はあったが愛はなかった。西欧ではギリシャ時代にすでにエロース(愛)とアガペー(神の愛)が分けられ、エロースは肉欲的観念から発して、じょじょに肉欲を脱してイデアの世界に参入するところの、プラトンの哲学に完成を見いだした。一方アガペーは、まったく肉欲と断絶したところの精神的な愛であって、これは後にキリスト教の愛として採用されたものである。
 したがって、ヨーロッパの恋愛理念にはアガペーとエロースが、いつも対立概念としてとらえられていた。ヨーロッパ中世騎士道における女性崇拝には、マリア信仰がその基礎にあったが、同時に、そこにはエロースから断絶されたところのアガペーが強く求められていた。ヨーロッパ近代理念における愛国心も、すべてアガペーに源泉を持っているといってよい。しかし日本では極端にいうと国を愛するということはないのである。女を愛するということはないのである。日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながっている。もし女あるいは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変わりはない。このようなエロースとアガペーを峻別しないところの恋愛観念は、幕末には「恋闕(れんけつ)の情」という名で呼ぱれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊しているとはいえない。それは、もっとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に一直線につながるという確信である。
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 三島は西欧思想を十分に学んだ知識人でした。彼はここでは、アガペー(精神的愛)とエロース(肉体的・性的な愛)という西欧的概念を用いて、日本人の恋愛観を説明しようとします。三島が言いたいのは、日本人の恋愛観は、アガペーとエロースを区別する西欧人のそれとは違う、ということです。三島によれば、「日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながっている」ので、その両者を区別することはできないというのです。

 三島は、「エロース(愛)」と書いていますが、三島の文脈では、むしろ「エロース=恋」と読むべきでしょう。そのように読んではじめて、「日本では極端にいうと国を愛するということはないのである。女を愛するということはないのである」という文章が理解できます。すなわち、日本におけるいわゆる「愛」は、純粋に精神的な愛=アガペーではなく、むしろ「官能的な」要素、すなわちエロース=恋を強く含んでいる、と三島は言いたいのです。もし彼が言うとおり、「日本には恋はあったが愛はなかった」のであり、「日本では国を愛するということはない」のであるとしたら、日本にあるのは「国を恋する」ことだけ、ということになります。

 そして、国への恋=愛国心を、彼は最終的には、天皇への恋、「恋闕の情」へと結びつけていきます。

 私はここでは、三島が説く日本人の恋愛観が正しいかどうかは問いません。また、彼が日本では「国への愛」は「天皇への恋」になるという彼の愛国心解釈が正しい解釈なのか、それも問いません。ここではただ、彼が、天皇への崇敬の念を、エロス的な恋愛の一種(恋闕の情)として理解したかったのだ、というそのことのみを確認しておきます。

 このように見てくると、『憂国』は、死とエロスの融合(そこに「至福」が生じます)という、三島が理解した葉隠武士道的美学(見方によればきわめて西洋的な美学であることは、もう一度強調しておきます)の作品化であることが、あらためてよくわかります。彼がこの作品を自分の代表作とした所以です。

 『憂国』の翌年に書かれた戯曲『十日の菊』は、美しい死とは反対の醜い生の描写です。この作品では、「十・一三事件」(二・二六事件を暗示)で、反乱軍の襲撃をかろうじて逃れた重臣が、自分が青年将校に命を狙われた瞬間こそが、自分の生の最高の瞬間であり、その後の生はただの退廃であるにすぎないことを回顧します。彼の想起の中で、「十・一三事件」は、だらけた日常を打ち破る、非日常的な輝かしいオーラに包まれるのです。