平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

富田メモ(4)

2006年07月31日 | 富田メモと昭和天皇
「依存症の独り言」は

《a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。(会見の有無は確認できず)》

としていますが、その他の「捏造派」は、4月28日の「Pressの会見」とは、徳川氏と記者との会見であり、その場に居合わせていた富田長官がその内容をメモしたものだと主張しています。そのような事実は確認できるでしょうか。

1988年(昭和63年)4月の出来事を時間順に書いてみましょう。

********************
4月12日:徳川侍従長退任。記者会見。

4月22日:奥野国土庁長官、靖国神社参拝批判を批判。

4月25日:昭和天皇記者会見。

4月29日:天皇誕生日。記者会見の内容が新聞各紙に発表。
********************

徳川侍従長が引退し、記者会見をしたのは4月12日であって、4月28日ではありません。毎日新聞には次のような記事があります。

********************
勇退の徳川侍従長が会見、昭和史のエピソードなどを語る

1988.04.12 東京夕刊 9頁 社会 写図有 (全1,556字) 

 宮中の生き字引、尾張徳川家の血筋、学者肌、頑固--。様々な人物評を贈られた徳川義寛侍従長が半世紀を超える侍従生活に終止符を打つ。侍従に就任したのは2・26事件の年の昭和十一年十一月。戦前、戦後の激動の中で、天皇、皇后両陛下の素顔に接し、皇室を支えてきた。次の侍従長は生っ粋の行政官。天皇の側近も大きく様変りする。

 十二日午前の記者会見で徳川さんは「いつも陛下のおそばで教えていただいているうちに五十年がたってしまった」と退官に当たっての感想を語った。さらに「乾徳(けんとく)をつねに仰ぎてひたぶるに 仕へまつりぬこの五十年(いそとせ)を」と、今朝の心境を託した歌を披露した(乾徳とは天皇の徳の意味)。六十年十月、侍従長に就いた際「微風のような仕事をしたい」と述べたが、陛下の手術という“嵐”を無事乗り越え、皇居の新緑を渡る春風に送られて、昭和史のステージを去る。
********************
http://d.hatena.ne.jp/rna/20060724/p2

記者会見の内容は富田メモが語るものとはまったく違います。富田メモは、徳川侍従長の「プレス会見」のメモではありえません。つまり、「4月28日に徳川侍従長の記者会見が行なわれた」という情報こそが「捏造」であったわけです。

※ちなみに、「依存症の独り言」の
《イ.この日(4月28日)に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の天皇誕生日での会見は記録に残っている。
ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。又、質問する機会もない。》
というのは、誤った前提から出ている命題です。
・イについて言えば、昭和63年の天皇の会見は4月25日であり、29日はそれが新聞発表された日。28日には会見が行なわれなかったことは自明です。
・ロについて言えば、こんなことを天皇に質問した記者は一人もいないことは自明ですが、同時に、徳川侍従長に質問した記者もいなかったことは、上記、毎日新聞の記事を読めばわかります。これは、「Pressの会見」という表題を、「プレスの会見をメモしたもの」と短絡的に解釈したことから生じた間違った推論です。

「徳川侍従長説」は完全にその根拠を失いました。

さて、富田メモの次のパラグラフの分析に移りましょう。

********************
② 戦争の感想を問われ
  嫌な気持を表現したが
  それは後で云いたい
  そして戦後国民が努力して
  平和の確立につとめてくれた
  ことを云いたかった
  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長
  の靖国発言中国への言及にひっかけて
  云った積りである
********************

昭和天皇は昭和62年4月29日に「吐瀉」しましたが、その後徐々に体調が悪化し、ついに9月22日にガン摘出の手術を受けました。手術は成功し、昭和63年新年の一般参賀にもお立ち台に出られるほど元気を回復なさいました。そのように回復なされたので、昭和63年4月25日の記者会見が実現したのです。

記者会見の内容は――

・最近のご体調
・手術について
・皇后さまのご体調
・生物学のご研究について
・徳川侍従長の勇退について
・先の大戦について
・沖縄訪問について

です。
 しかし、その後、徐々に体調が悪化し、9月19日に大量の吐血をなさい、念願の沖縄訪問をはたさず、昭和64年1月7日に崩御なされました。

4月25日の「先の大戦」のテーマについてのやりとりをここに引用しましょう。

********************
幹事記者 今年は陛下が即位式をされてから六十年目に当たります。この間、いちばん大きな出来事は先の大戦だったと思います。陛下は大戦について、これまでにも、お考えを示されていますが、今、改めて大戦についてお考えをお聞かせください。

陛下 えー、前のことですが、なおつけ加えておきたいことは、侍従長の年齢のためにこのたび辞めることになりまして私は非常に残念に思っています。

 今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。戦後国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後共そのことを国民が良く忘れずに平和を守ってくれることを期待しています。

朝比奈記者 陛下、先の大戦のことでございますが、昭和の初めから自分の国が戦争に突き進んでしまったわけですが、その時々に陛下は大変にそのことにお心を痛められたと聞いておりますが、今戦後四十数年を経て、日本が戦争に進んでしまった最大の原因は何だったというふうにお考えでいらっしゃいますでしょうか。

陛下 えー、そのことは、えー、思想の、人物の批判とかそういうものが、えー、加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思っています。
********************
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060724/kaiken

ここでのポイントは「大戦のことが一番いやな思い出であります」というお言葉です。

以下の朝日新聞7月20日夕刊の記事をお読み下さい。(インターネットにアップされたのは7月21日)

********************
 昭和天皇の靖国神社参拝が途絶えたのは、A級戦犯合祀(ごうし)に不快感を抱いたからだった。富田朝彦元宮内庁長官のメモは、天皇の戦争への苦い思いを浮き彫りにした。
公開された富田朝彦・元宮内庁長官の手帳と日記

 A級戦犯合祀に不快感を抱いている――。その思いは、複数の元側近らから聞いていた。

 「陛下は合祀を聞くと即座に『今後は参拝しない』との意向を示された」

 「陛下がお怒りになったため参拝が無くなった。合祀を決断した人は大ばか者」

 なかでも徳川義寛元侍従長の証言は詳細で具体的だった。

 14名のA級戦犯を含む合祀者名簿を持参した神社側に対して、宮内庁は、軍人でもなく、刑死や獄死でもなく病死だった松岡洋右元外相が含まれていることを例にとって疑問を呈した。だが、合祀に踏み切った。

 87年の8月15日。天皇は靖国神社についてこんな歌を詠んだ。

 この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし

 徳川氏によると、この歌には、元歌があった。それは、靖国に祭られた「祭神」への憂いを詠んだものだったという。

 「ただ、そのまま出すといろいろ支障があるので、合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた」

 側近が天皇から聞き取った『独白録』の中で、昭和天皇は日独伊三国同盟を推進した松岡洋右外相については「……別人の様に非常な独逸びいきになつた、恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」とまで述べていた。

 昭和天皇の「不快」の一因が、特に国を対米開戦に導いた松岡外相の合祀だったことがうかがえる。A級戦犯の14人は66年に合祀対象に加えられたが、当時の筑波藤麿宮司は保留していた。

 筑波氏は山階宮菊麿王の三男。歴史の研究家としても知られた。しかし、78年に筑波氏の死去後、松平永芳宮司が就任すると、まもなく合祀に踏み切った。

 松平元宮司は松平慶民元宮内大臣の長男で、元海軍少佐。父の慶民氏は、東京裁判対策や『独白録』の聞き取りなどに当たり、天皇退位論が高まった時も「退位すべきではない」と進言した有力な側近だった。

 メモには、昭和天皇は慶民氏について「平和に強い考があった」と評価する一方で、永芳氏について「親の心子知らず」と評しているのにはこうした背景がある。

 メモは、天皇が闘病中の88年、最後の誕生日会見直後の天皇とのやりとりだった。昭和天皇は「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」と答えた。本来は「つらい思い出」と答える予定だった。天皇も戦争の第三者ではないからだ。

 その頃、別の側近はこんなことを語っていた。 「政治家から先の大戦を正当化する趣旨の発言があると、陛下は苦々しい様子で、英米の外交官の名を挙げて『外国人ですら、私の気持ちをわかってくれているのに』と嘆いておられた」

 A級戦犯合祀は、自らのこうした戦争の「つらい思い出」と平和への「強い考え」を理解していない、との天皇の憤りを呼んだことをメモは裏付けている。

 「(昭和天皇の)御(み)心を心として」と、即位の礼で誓った現天皇陛下も、即位後は一度も靖国神社には参拝していない。
********************
http://www.asahi.com/national/update/0721/TKY200607200618.html

これは、日経新聞朝刊のスクープのあとを追って朝日新聞が7月20日夕刊に書いた記事です。この記事が出た頃には、インターネットではまだ富田メモの他の部分は解読されていませんでした。

この記事で、朝日新聞は、

「メモは、天皇が闘病中の88年、最後の誕生日会見直後の天皇とのやりとりだった。昭和天皇は「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」と答えた。本来は「つらい思い出」と答える予定だった。天皇も戦争の第三者ではないからだ。」

と書いています。朝日新聞は、「つらい思い出」を「一番いやな思い出」に言い換えた理由について、「天皇も戦争の第三者ではないからだ」という表面的な解釈を下しています。

※このような「言い換え」について新聞社が承知しているということは、記者会見の場で(あるいはその前に)天皇の発言についての何らかの「メモ」が配布されていることを示唆しています。「配布メモ」があとから配られたものであれば、そのメモは会見の場での実際の発言に即していたものになり、「言い換え」については知りようがありません。したがって、昨日のエントリーの「それともあとでメモを渡した」という部分は削除して、「それとも前もってメモを渡しておいた」に訂正いたします。

ところが、その後インターネットで明らかになった富田メモでは、「戦争の感想を問われ 嫌な気持を表現したが それは後で云いたい」「"嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長 の靖国発言中国への言及にひっかけて 云った積りである」とあります。

このようなことを言いうる人物は、昭和天皇をおいてほかにはありません。「言い換え」は天皇が行なったものであり、その真意は天皇だけが語りうるものです。もし徳川侍従長や別の第三者がこんなことを言ったとすれば、天皇の心をあたかも自分のことのように解説するとんでもない「不敬」にあたります。

つまり富田メモのこの部分は、昭和天皇が最初は「大戦はつらい思い出」と答える予定だったのを、実際の会見の場では、「大戦は一番いやな思い出」と言い換えたこと、そしてその理由は、「奥野国土庁長の靖国発言中国」にあると昭和天皇ご自身が富田長官に解説しているものと解釈することが最も自然です。

※記者会見の場でメモが配布されているとすれば、富田長官は当然それを入手できる立場にありますので、4月25日の記者会見をわざわざ手帳にメモすることはなかったでしょう。メモするとしたら、それは事前に作成されていた配布メモと異なった天皇の発言だけに違いありません。しかし、そういうことはほとんどないはずですから、「違い」についてはメモする必要すらなく、記憶だけでも十分です。そして、そういう記憶をもとに、「陛下、記者会見では「一番いやな思い出」とおっしゃいましたが・・・・」というように質問したことも考えられます。

なぜ昭和天皇が奥野国土庁長官の「言及にひっかけて云った」のかといえば、4月25日の記者会見の3日前の4月22日に、奥野氏が物議を醸した発言をしたからです。

※配布メモは、天皇陛下ご自身と宮内庁や側近たちの、長い時間をかけての綿密な検討をもって作成されるはずです。陛下の一言は非常な重みがありますので、片言隻句も検討されているはずです。したがって、4月22日にはすでに記者会見で配るメモは作成ずみで、ひょっとすると、すでに新聞社側に手渡されていたのかもしれません。いずれにせよ、4月22日の段階では、配布メモはもはや変更不可能であったのです。したがって、天皇陛下は自分のお気持ち、奥野氏の発言に対する反応を、会見の場での「言い換え」として表明するしかなかったのです。


富田メモ(3)

2006年07月30日 | 富田メモと昭和天皇
富田メモのもっとよい写真が見つかりました。

http://pg1.up.seesaa.net/image/vip295965.jpg

これを見ると、

「当該メモの右側に見える紙は、当該メモと最初からつながっていた用紙なのか、それともあとから右側に糊を付けてくっつけたかのどちらかです。全体的な印象からすると、最初からつながっているように感じられます。」

という昨日の記述の「全体的な印象からすると、最初からつながっているように感じられます」は間違いであったことがわかりましたので、削除します。

当該メモの右側に見える紙は、当該メモの上に、右側を糊代にして貼りつけられたものであることがよくわかります。

さて、何も書かれていない右側のページですが、その裏に書かれている文字が透けて見えます。その記述が以下のように解読されました。

********************
63.4.28
☆Pressの会見                            
①  昨年は
  (1) 高松薨去間もないときで
    心も重かった
  (2) メモで返答したのでつく
  していたと思う
  (3) 4.29に吐瀉したが その前で
    やはり体調が充分でなかった
  それで長官に今年はの記者
  印象があったのであろう
    =(2)については記者も申して
    おりました

② 戦争の感想を問われ
  嫌な気持を表現したが
  それは後で云いたい
  そして戦後国民が努力して
  平和の確立につとめてくれた
  ことを云いたかった
  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長
  の靖国発言中国への言及にひっかけて
  云った積りである
********************

そして、当該メモの上には次のような記述があります。

********************
4.28 ④
  前にあったね どうしたのだろう
  中曽根の靖国参拝もあったか
  藤尾(文相)の発言。
 =奧野は藤尾と違うと思うが
  バランス感覚のことと思う
  単純な復古ではないとも。
********************

この下に当該メモが来ます。さらに、問題のメモの横と下には次のような記述も見えます。

********************
余り閣僚も知らす
そうですがか多い
関連質問 関係者もおり批判になるの意
********************
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html

2枚のメモ用紙に書かれた記述は日付も同じ4月28日ですし、①、②、④という番号も振られていますので、一連の記述と見なすことができるでしょう(③がないのは謎です。富田氏の勘違いか、それとももう1枚のメモ用紙があるのか)。一連の記述であるが故に、手帳の同じ頁に一緒に貼りつけたのでしょう。

いずれにしても、日経新聞がこの部分を隠蔽した(報道しなかった)ことは、きわめて遺憾です。そのために、インターネットでこのメモに対する「捏造疑惑」が広がることになったからです。

解読された記述から、捏造説を主張するブログ「依存症の独り言」ではこう推論されています。

********************
1.メモはプレスの会見を筆記したものである。
2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。
3.質問に対する答えは率直な感想を述べているように読み取れる。発言内容を事前にチェックされる立場の人間ではない事が判る。
4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく、仕える立場の人物の発言と読み取れる。
5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。
6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。
7.あまり閣僚を知らない人物である。
8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。
9.靖国神社の松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者である事が判る。

以上の事から考えて、このメモの発言者として最も適当な人物は徳川侍従長である事は明白です。

理由は以下の通りです。
a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。(会見の有無は確認できず)
b.徳川侍従長の以前からの発言と相似している。
c.前出の1~9の指摘事項に全てあてはまる。

では昭和天皇陛下の発言とした場合、以下の矛盾点が生じます。
イ.この日に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の天皇誕生日での会見は記録に残っている。
ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。又、質問する機会もない。
********************
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html

この「徳川侍従長説」を検証してみましょう。

《4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく、仕える立場の人物の発言と読み取れる。》

高松宮様が薨去されたのは、昭和62年(1987年)2月3日です。昭和天皇はこの弟宮をことのほか愛し、入院中は3度もお見舞いに訪れています。

保坂正康『昭和天皇』(中央公論新社)によると、

「死の一時間ほど前、天皇は三度目のお見舞いに駆けつけた。高松宮の意識はすでになく、呼吸はしばし途絶えた。
 天皇はそういう弟宮に顔を近づけて、「高松さん、高松さん・・・・」と何度か呼びかけ、そしてなにごとかを囁きつづけていた」(463頁)

昭和天皇が病院から戻って1時間後に、高松宮は逝去されました。

この年の天皇陛下の記者会見は、4月21日に行なわれました。その時、記者たちに高松宮の逝去について質問されて、昭和天皇はこのように答えています。

「高松宮の薨去については皆が、私に悔やんでくれたことを感謝します。・・・・」(保坂正康、465頁)

昭和天皇は「高松宮の薨去」という表現をはっきりと使っていたのです。

次の問題に移ります。

《5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。》

では、自分のことなら、どのような表現にすればいいのでしょうか? 科学者でもあらせられた昭和天皇は、自分のことでもこのように客観的に表現なさるのが自然と考えられます。

そこでメモの①をもう一度見ると、

********************
63.4.28
☆Pressの会見
①  昨年は
  (1) 高松薨去間もないときで
    心も重かった
  (2) メモで返答したのでつく
  していたと思う
  (3) 4.29に吐瀉したが その前で
    やはり体調が充分でなかった
********************

となっています。「① 昨年は」と書いているので、これは昭和63年の段階で、前年の昭和62年のことを回想していることがわかります。

昭和天皇は毎年4月29日の天皇誕生日にあわせて、記者会見を行なっていました(記者会見はいずれも天皇誕生日の前に行なわれ、4月29日の新聞に掲載されました)。ですから、「☆Pressの会見」とは、昭和63年4月28日に行なわれた記者会見のメモという意味ではなく、この日に「昨年のPressの会見」を想起している、という意味に解釈するのが自然です。つまり、「☆Pressの会見」を、「依存症の独り言」のように

《1.メモはプレスの会見を筆記したものである。》

と解釈することには無理があります。「☆Pressの会見」という表題はむしろ、「プレスの会見について」と理解すべきなのです。

事実、①の(1)(2)(3)すべてが「昨年」、すなわち昭和62年の出来事に関わっています。

(3)にあるように、昭和天皇は昭和62年4月29日の誕生日に「吐瀉」しています。

保坂正康氏の前掲著書より――

「(4月29日の)正午からは、「宴会の儀」が宮殿の豊明殿で行われた。この宴会の折に、「天皇陛下が戻されたのだ。この時は、そばに着席されていた美智子さまたちがすぐに気づかれ、侍従にお伝えになり、急いで陛下を宮殿内の控え室にお運びした」(稲生雅亮『昭和天皇の魅力』)というのである。」(468頁)

「(1) 高松薨去間もないときで心も重かった」というのは、明らかに62年4月21日の記者会見の時の昭和天皇の心境を指しています。昭和天皇が吐瀉したのは4月29日でしたが、その前の4月21日の記者会見の時も「(3)その(吐瀉の)前でやはり体調が充分でなかった」と振り返っておられるのです。

このようなことを徳川侍従長が言ったとはとうてい考えられません。徳川侍従長が、天皇になりかわり、「高松薨去間もないときで心も重かった」とか「4.29に吐瀉したがその前でやはり体調が充分でなかった」と天皇の心境や体調を、あたかも自分のことのように説明するとしたら、それは僭越千万ということになります。

「(2) メモで返答したのでつくしていたと思う」というのは、天皇陛下が、記者からの質問を前もって受けていて、それに対するメモを作成して、答えるべきことをきちんと答えることができた、という意味か、それともあとでメモを渡した、という意味に解釈できます。

「=(2)については記者も申しておりました」というのは、記者も会見の内容が「つくされていた」ことを、会見のあとに記者が富田氏に伝え、それを富田氏が昭和天皇に報告しているのでしょう。

ブログ「依存症の独り言」が徳川氏の発言とする根拠(「薨去」「吐瀉」)は、昭和天皇ご自身の発言と見なしたほうが自然なのです。

「それで長官に今年はの記者 印象があったのであろう」というのは、文章があまりに不完全で、意味がよくわかりません。しいて推理をたくましくするならば、「今年は別の印象があったということを記者たちが富田長官に述べたのであろう」というような昭和天皇の発言かと思います。


富田メモ(2)

2006年07月29日 | 富田メモと昭和天皇
実は、日経新聞で報道されたメモの写真の右側には、別の用紙が見えます。また左側にも別の記述が見えます。

写真はここ(拡大して見てください)

問題の「A級戦犯合祀への不快」メモは、手帳本体に書かれているのではなく、別の紙に書かれ、あとからメモ帳に貼りつけられたものだそうです。たしかに、記述部分は横罫のない紙ですが、手帳本体には横罫が見えます。

そのメモの左側のページの記述を見ると、手帳本体の横罫が「とじしろ」部分に見えますが、記述の部分には横罫が見えません。ということは、こちらの記述もあとから貼りつけられたもののようです。

当該メモの右側に、何も記入されていない用紙が一枚貼りつけられていますが、その裏に書かれている文字が透けて見えます。

当該メモの左側に少し影が見えますので、この部分は少し浮き上がり、糊で貼りつけられていないようです。

これに対して、左側のページの紙にはそのような影が見えません。ということは、左側のページのメモは、全体が手帳に糊付けされているのか、右側部分が糊付けされているのかのどちらかです。

当該メモの右側に見える紙は、当該メモと最初からつながっていた用紙なのか、それともあとから右側に糊を付けてくっつけたかのどちらかです。全体的な印象からすると、最初からつながっているように感じられます。

当該メモの用紙は手帳本体より一回り小さい紙のようです。

いずれにしても、ずいぶん不思議な貼りつけです。富田さんは手帳にこういう貼りつけをよく行なっていたたのでしょうか。そのことは手帳の他の部分やほかの手帳も調べて確認しなければなりません。

もしそうだとすると、富田さんは、メモは横罫のないメモ用紙に書きつけ、あとで手帳に貼るというシステムを取っていたのかもしれません。

また、左側の記述と当該メモの文字の色がかなり違います。左は黒で、右はいわゆるブルーブラックです。左の記述には比較的鮮明な黒とかすれた黒があります。かすれた黒は鉛筆書きのようにも見えます。鮮明な黒はインクかボールペンかわかりません。

また黒の部分とブルーブラックの部分の字体が少し違うという指摘もあります。

こういうことから、このメモが「捏造」「工作」だと疑う人々がいます。つまり、左の方が古くてインクの色が変色しているのに、右の方(当該メモ)は青いから新しい、つまりあとから付け加えられたもので、贋ものだ、字体も違うではないか、というわけです。しかし、この議論は、両方とも同じインクを使っていたという前提に立っています。注意して見ると、両方のインクがそもそも最初から違っている可能性が高いです。

富田さんがアドホックにそのとき手元にあった筆記用具(万年筆、ボールペン、鉛筆など)を使っていたのだとすれば、色の違いは不自然ではありません。左側の用紙でも、鉛筆の記述と(ボール)ペンの記述が混じっているとすれば、これは異なった日時のメモかもしれません。字体も、日にちや書く条件(机に向かってか、手に手帳やメモ帳を持ってか)によって微妙に変わってきます。どちらかというと、左側のページに乱雑な文字(とくに鉛筆書きに見える部分)が多いように感じられます。ですから、字体や色の違いだけで、当該メモを「捏造」と決めつけることはできません。

日経新聞は手帳本体を公開して、学者の精密な検証にゆだねるべきです。そういう検証なくして、ただ単にスクープだけを狙ったのであるとすれば、非常に軽率だといわれてもしかたありません。いずれにせよ、富田メモは非常に慎重な文献学的検証が必要です。

富田メモ(1)

2006年07月28日 | 富田メモと昭和天皇
元宮内庁長官の富田朝彦氏の手帳のメモが報道されたのは、7月20日の日経新聞の朝刊でした。

そのメモの原文はこうです。

********************
 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ
********************
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060720-00000045-mai-soci

これはたいへん衝撃的な資料で、新聞でもインターネットでも様々に論じられています。

この資料に関しては、

(1)これがはたして昭和天皇の発言か
(2)この時期に公表された政治的意図
(3)この資料を日経新聞が入手した経緯(いつ、誰から、どのようにして)

について疑問が持たれています。

(2)については、おそらく背後に何らかの政治的意図があって、この時期にこの資料が表に出されという可能性は否定できません。

まもなく首相を退任する小泉首相は、8月15日に靖国神社に参拝すると見られていました。また、首相の政治路線を継承する安倍晋三氏の総裁選立候補も近づいています。富田メモを公表した日経新聞には、こういう靖国参拝派、右翼タカ派路線に打撃を与えようという意図があったのかもしれません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。こういう問題はいつでもそれらしき憶測に終わって、なかなか決定的なことは言えません。そこで、このブログではそういう陰謀理論には深入りしないことにします。

(3)について、日経新聞は詳しいことを語っていません。日経新聞はその経緯を詳しく報道する責任があると思います。邪推すれば、詳しい経緯を明らかにすると、(2)の政治的意図が見えてしまうから、詳しく書かないのかもしれません。(靖国神社公式参拝を取りやめた元首相・中曽根康弘氏の関与が取りざたされていますが、これも現段階では推測にすぎません)

本ブログで最初に考えてみたいのは、(1)の問題です。

もしこれが昭和天皇の発言であるとすると、首相の靖国神社公式参拝を求める立場の人々(靖国派と略称することにします)にとっては、たいへんな打撃です。靖国派は天皇制支持者であり、昭和天皇に崇敬の念をいだいています。もし昭和天皇が本当に、「私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と言ったとすれば、参拝すれば、昭和天皇のお心に逆らうことになります。

したがって、靖国派がこの言葉を昭和天皇の言葉ではない、と論証しようとする気持ちはよくわかります。

現在多く出ているのは、これは昭和天皇の言葉ではなく、徳川義寛元侍従長の言葉ではないか、という説です。

中東の危機

2006年07月24日 | Weblog
日本にとっては北朝鮮が大きな問題ですが、実はそれよりもはるかに重大な危機が中東で進行しています。イスラエルのレバノンへの侵攻です。

この問題については田中宇さんの国際ニュース解説が参考になります。

イスラエルの逆上

大戦争になる中東


田中さんの解説は、時には情報の多さに惑わされて、奇妙な考察に紛れ込むことがありますが、最近のイスラエル情勢については適切な見方をしていると思います。

田中さんの解釈によると、イスラエルの最近の軍事攻勢は、イスラエル内部の右派強硬派の、オルメルト首相ら、パレスチナ人との妥協を目指す現実派へのクーデタだそうです。そしてその背後には、パレスチナ全土をイスラエルの支配下に置こうとする大イスラエル主義者と、アメリカのネオコン、そしてイエス(メシア)の再臨のためにはイスラエルに大戦争が起こらなければならない、と信じているキリスト教原理主義者がいるとのことです。このまま戦争が拡大すると、やがてイスラエルとイランの戦争もありえないことではない、と田中さんは予見しています。イスラエルと、イスラエルを支持するアメリカには、戦争を望む勢力がいるのですから、戦争がなくならないのは当たり前です。

戦争の原因の一つは、聖書の予言を現実化させたい、という宗教的妄想です。一部のユダヤ人は、神ヤハウェがイスラエル人に土地を与えるという旧約聖書の約束を実現したいと思っている。。創世記15章には、「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える」と書かれています。

これに対して、キリスト教原理主義者は、ヨハネの黙示録の終末予言を信じ、ハルマゲドンの戦い=核戦争のあとでなければメシアの再臨は起こらないと考えています。彼らは、たとえ核戦争が起こっても、正しい信仰の持ち主である自分たちだけは、神に天に携挙されて救われると信じているのです。

げに恐るべきは宗教的妄想です。このような妄想が一日も早く消え去るように、世界平和の祈りを祈りつづけなければなりません。

北朝鮮をめぐる正義と平和(3)

2006年07月21日 | Weblog
昭和天皇が靖国神社にA級戦犯が合祀されたことに不快感を示し、参拝を取りやめたというメモが発見されるという、超弩級のスクープが日本を駆けめぐりました。これについては別に詳しく書いてみたいと思いますが、この発見は日本が日本の天命である平和主義を貫くための第一歩となることでしょう。

この問題とも関連しますが、戦後日本の精神史は奇妙なねじれに災いされてきました。平和憲法を支持する勢力は護憲派と呼ばれますが、護憲派の最大勢力は、社会党(現在の社民党の前身)と共産党という左翼勢力でした。これらの勢力が陰でソ連、中共、北朝鮮などと手を結んで、日本に社会主義・共産主義革命を起こそうとしていたことは否定できない事実です。

社会党の党首を務めていた護憲派の土井たか子氏が、北朝鮮による拉致疑惑を事実無根として否定し、拉致問題の解明を妨害し、北朝鮮を擁護したことは、護憲派と左翼勢力との結びつきを典型的に示しています。

護憲派は平和憲法を守ると称してはいますが、憲法の中で守るべきなのは第9条であって、本心では第1条の象徴天皇制を守る気はありません。共産革命が可能になったあかつきには、天皇制を廃止することは彼らの当然の目標です。これらの人びとは究極的には改憲を目指しているのですから、「護憲派」と呼ぶのは正確ではありません。

これに対して、自民党を中心とする保守勢力は、アメリカの軍事力によって日本を左翼革命勢力の侵略から守ろうとする道を選びました。朝鮮半島で戦争が起こると、在日米軍が手薄になったので、警察予備隊が作られ、それが自衛隊へと増強されていきます。その後、日本は、対日侵略は米軍の核を含めた強力な軍隊と自衛隊のセットで守るという道を歩みます。そのため、日本は自国軍だけで自衛するよりも軽武装ですみました。

しかし、国際情勢の変化に伴い、自衛隊もどんどん増強が求められてきています。

保守派は日本の伝統である天皇制(1条)を守ろうとしますが、自衛力の拡大には9条が邪魔になります。9条の改正を目指したので、改憲派と呼ばれることになります。

しかし、私に言わせれば、「革新勢力=護憲派、保守勢力=改憲派」というのは間違った図式です。実は両方とも改憲派であり、戦後の日本には、真の護憲派は天皇陛下と五井先生(+世界平和の祈りのメンバー)しかいなかったのだと思っています。

日米安保体制の軍事力による庇護のもと、コップの中の嵐のように改憲派と護憲派の綱引きが行なわれてきた、というのが戦後の日本の政治状況です。その中で一般国民は、9条のなし崩し的解釈改憲を追認し、自分はもっぱら経済生活の豊かさを追求し、ことさら日本の安全や平和について深く考えようとはしませんでした。安全保障問題は政府にまかせて、自分はマイホーム主義に閉じこもることができるという現状が居心地よかったのです。


北朝鮮をめぐる正義と平和(2)

2006年07月19日 | Weblog
五井先生は昭和43年の講演会でこう述べています。

********************
 軍備をしなければならないと思う人もいるでしょう、軍備をしないほうがいいと思う人もいるでしょう。軍備がどうこうというようになると、両派に分かれて争わなければならない。そういうのは専門家にまかせておいて、われわれの運動は、世界人類が平和でありますように、という祈り言の中に国民の心を一つにするわけです。そうしますと、いつの間にかすべての人の心の中に光明心が入っていって、人をやっつけようという争いの心が、憎悪がなくなってくる。アメリカに中共と戦おうというものがあっても、光明波動でやめになってしまう。
 アメリカが正義だと思っていることは、中共でもまた正義だと思っている。ベトナムでもフランスでも、みんな自分のところが正義だと思っている。正義と正義がぶつかって人殺しをするんですから、正義から出たってそれは悪になる。ましてその正義は自分勝手な正義なのですから。だからそういう正義を一切捨てて、正義より先に平和を築かなければならない。正義に先んじて平和の祈りをしなければならない、と私は思うんです。
********************
  五井昌久『内なる自分を開く』(白光出版)

現在は正義よりも平和という価値観が優先されるべき時代だ、と五井先生はおっしゃるわけです。

日本と北朝鮮を比較すれば、日本のほうに多くの正義があると日本人は考えています。しかし、北朝鮮のほうでは、やはり自国に正義があると考えているのです。朝鮮半島はかつて日本に植民地支配された、だから日本は膨大な賠償金を払うべきだ、と信じ込んでいるのです。戦前、多くの朝鮮人が日本に強制連行された、だから10人や100人の日本人を拉致したって問題ではない、と開き直っているのです。自国はアメリカや日本に圧迫されている、だから自国を守るためには核やミサイルを持つことは当然だ、と思い込んでいるのです。

正義というのは常に相対的です。どちらかが絶対の正義などということはありません。それこそ「盗人にも三分の理」です。

日本に9分の理があり、北朝鮮に1分の理しかなかったとしても、日本が正義をかざして戦争を起こすならば、先にも述べたように、大きく傷つくのは日本です。正義から発したはずの戦争が、破壊、殺人という悪を生み出すことになります。

そのような事態が、いまイスラエルで起こっています。イスラエルもレバノン(ヒズボラ、その背後にはシリアやイランがいると考えられています)も自分の正義を確信しています。その正義と正義がぶつかって、今や戦争状態です。その中で民間人を含む多くの人びとが殺傷されています。正義と正義の衝突から悪が生まれているのです。

それでは、近隣諸国がどんな無理難題をふっかけてきても、日本は「平和が第一」と、ひたすら争わず、事なかれ主義で逃げ回っていればいいのでしょうか? そんなことをしていれば、日本は近隣諸国から侮られ、竹島や尖閣諸島や北方領土はもとより、やがて沖縄までも他国に奪われることになるかもしれません(沖縄は自国の一部だと主張している近隣国が現にあるのです)。そして何よりも、そういう事なかれ主義は日本人をふぬけにし、精神的に堕落させることでしょう。戦後の平和憲法下の日本の精神史にはそういう一面がなかったとは言えません。


北朝鮮をめぐる正義と平和(1)

2006年07月18日 | Weblog
国連安全保障理事会が対北朝鮮非難決議を全会一致で採択したあと、サンクトペテルブルクで開かれたG8サミットでも、北朝鮮のミサイル発射に対して「重大な懸念」が示されました。

このような国際社会の対応は、甘すぎもせず厳しすぎもせず、適切なものであったと思います。

この間、日本の政府要人からは敵基地(先制)攻撃論なども出て、日本を戦争のできる「普通の国」にしたいという思惑がかいま見えました。外国からの脅威を材料に国内の危機感を煽り立て、愛国主義・軍国主義を高揚するという手法は昔からよく使われますが、国民は冷静に事態を判断しなければなりません。

北朝鮮が邪悪な国であることは論をまちません。

・推定数百万人の国民を餓死させている。
・日本人、韓国人をはじめ、世界各国の人々を拉致している。
・国家レベルで偽札を作り、使用している。
・国家レベルで覚醒剤を作り、密輸している。
・民生を犠牲にして軍備増強をはかり、ミサイル開発・核兵器開発を推し進めている。

そういう邪悪な国に対しては、日本人は自分を容易に正義の立場に置くことができます。

北朝鮮からのミサイルは10分以内で日本に着弾します。現在のところ、これを迎撃する手段はありません。そこで、こんな邪悪で危険な国はやられる前にやってしまえ、という先制攻撃論になるわけですが、自己の正義に酔いしれることほど危険なことはありません。アメリカが戦後、常に自己の正義を表看板にして、朝鮮半島で、ベトナムで、アフガニスタンで、イラクで戦争をしてきたことを忘れてはなりません。

日本は戦後、平和憲法のもとで対外戦争を否定してきました。先制攻撃論は日本の姿勢を根本的に変えることです。そういうことを有力政治家が簡単に口にすることができるというだけでも、日本の雰囲気の変化を如実に示しています。

拉致問題に対する北朝鮮の嘘にまみれた対応に日本人はあきれかえっています。そこにミサイル実験です。日本人の多くが怒り心頭になることはよくわかります。

しかし、悪に対して、こちらも武力・暴力で応答するというのでは、こちらも悪に巻き込まれることになります。

たとえ敵基地先制攻撃で北朝鮮のミサイルの90%を破壊できたとしても(100%破壊することは不可能です)、10%は無傷で残ります。その10%のミサイルが東京や大阪などの人口稠密地に着弾した場合、その被害ははかりしれません。

ミサイルだけではありません。北朝鮮の工作員やシンパは日本に大量に潜伏しています。彼らは飛行機、新幹線、地下鉄、原発、化学工場、駅、デパートなどでテロを働くでしょう。日本国内は大混乱になります。

いま出ている敵基地攻撃論では、日本は精密誘導ミサイルで、敵のミサイル基地だけを攻撃し、北朝鮮の一般国民には被害を及ぼさないことになっています。ところが、敵方は民間人も含めて日本のすべてを攻撃対象にしてくるはずです。

こんな戦争は、北朝鮮にとっては大して痛くないのに対し、日本にとっては損害が大きすぎます。

また日本が北朝鮮を先制攻撃すれば、それは韓国、中国、ロシアへの脅威になり、これらの国々も日本に対する先制攻撃態勢をととのえるようになるでしょう。とくに民族意識の強い韓国は、同胞たる北朝鮮を攻撃した日本を子々孫々まで憎むことは確実で、今でも険悪な日韓関係をさらに険悪化させることになるでしょう。それは最終的には日韓戦争にまで発展するかもしれません。それは双方に甚大な破壊をもたらすでしょう。

このようなことを考えると、北朝鮮への先制攻撃は、日本の安全を守るどころか、かえって危険を増すだけであることがすぐにわかります。

極東で軍拡競争が始まります。それによって得するのは誰でしょう? アメリカの軍事産業だけです。

日本国民は、一時的な恐怖や怒りに駆られてそのような愚を犯してはなりません。


ユダの福音書(2006年6月号)

2006年07月15日 | バックナンバー
 今から一七〇〇年ほど前に作成された「ユダの福音書」という文書が解読された。これは、十三枚のパピルスに、古代エジプト語であるコプト語で書かれた文書で、ギリシャ語からの翻訳である。

 ユダというと、イエスの十二弟子の一人でありながら、イエスを裏切ったことで有名である。新約聖書はユダを、悪魔の唆しによってイエスを売った人物として描いている。ところが「ユダの福音書」では、ユダは、イエスの指示に従ってイエスを官憲に渡した、イエスに最も忠実な弟子とされている。イエスはユダに向かって、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と語り、ユダをほめたたえているという。

 この記述には、典型的なグノーシス思想が見出される。グノーシスは、キリスト教と同時期に地中海世界で興った宗教思想で、キリスト教とはライバル関係にあった。グノーシスは「反宇宙的霊肉二元論」と要約することができる。人間存在を霊と肉からなると見る点ではキリスト教と類似している。キリスト教ではイエスを神の子として特別存在とするが、グノーシスは、万人の中にイエスと等しい神の光が宿っており、霊的な知識(グノーシス)によって、自己の解放に至ることができるとする。また、キリスト教では創造神は善であり、悪は人間の原罪に由来するとするが、グノーシスはこの世と肉体を悪なる神によって創造された牢獄であると見る。したがって、グノーシスは現世否定的な面が非常に強い。

 「ユダの福音書」でイエスがユダに向かって語った言葉は、イエスが「真の私」とそれを包む肉体を区別し、イエスの肉体からの解放を手伝った点でユダをほめたたえているが、これはまさにグノーシス的である。イエスはおそらくそういうことを語らなかったとは思うが、「ユダの福音書」がユダの裏切りに新しい解釈を加えているのは面白い。

 五井先生は『聖書講義』の中で、ユダはユダなりにイエスをメシアと信じていた、と述べている。ユダは、「我が師イエスにとっては、如何なる難病も癒されるのであり、如何なる天変地異も静められるのであり、如何なる軍隊が押し寄せてきても、これを壊滅させることができるのである」と信じ、イエスが奇跡を起こすことを期待して、イエスをユダヤ教の指導者やローマの官憲に売り渡したのだという。しかし、イエスはあくまでも自己犠牲による人類の救済を優先して、奇跡力に頼らなかった。

 ユダを単なる守銭奴や悪魔の手先とする解釈は皮相的である。「ユダの福音書」がユダの真実を解明するきっかけになれば、キリスト教にとっても有意義なことであろう。

敵基地先制攻撃論のあやうさ

2006年07月13日 | Weblog
北朝鮮のミサイル発射実験は、日本の置かれている危うい状況を白日の下にさらしました。ミサイル発射直後、額賀防衛庁長官は次のように発言しました。

********************
 額賀福志郎防衛庁長官は9日午前、北朝鮮の弾道ミサイル発射に関連して「日米同盟によって(日本は防御中心、敵基地攻撃は米国との)役割分担があるが、国民を守るために必要なら、独立国として限定的な攻撃能力を持つことは当然だ」と述べた。日本に対する攻撃が差し迫った場合に備えて、ミサイル発射場などを先制攻撃する能力の保持を検討すべきだとの考えを示したものだ。都内で記者団に語った。
 ただ、額賀氏は「まず与党の中で議論し、コンセンサスをつくる必要がある。こういう事態が起きたからといって拙速にやるべきではない」と述べ、あくまで将来的な課題だとの認識を示した。 
(時事通信) - 7月9日13時1分更新
********************
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060709-00000022-jij-pol

額賀長官はテレビで、「敵が日本を攻撃しようとしているときに、座して待つことはできない」とも言っていました。北朝鮮から日本へ発射されたミサイルは、10分足らずで到達するそうです。発射が確認されたあとでは、とうていミサイルを防ぎようがありません。したがって、日本を守るためには、北朝鮮が日本を攻撃しそうな気配が見えたときに、ミサイルが発射される前に、機先を制してこちらが先に敵をたたくしかありません。つまり、これは先制攻撃論ということになります。

ところが、中国や韓国などから日本の議論に非難が向けられると、政府は「先制攻撃論ではない」と言い出しています。

********************
 安倍晋三官房長官は12日の記者会見で、北朝鮮のミサイル発射を受け政府内に出ている敵基地攻撃論に対する韓国の反発について「先制攻撃論に立って議論しているかのような批判があるが、まったく当たっていない。誰も先制攻撃とは言っていないのに、あたかも発言したかのごとく批判されることには戸惑いを感じる」と反論した。
 安倍氏は「誘導弾などによる攻撃が行われた場合、」との政府見解を改めて強調。「(敵基地攻撃論は)常に研究する必要がある」と指摘した。【犬飼直幸】
********************
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060713-00000004-maip-pol

こういうのを「言葉のあや」というのでしょう。「先制攻撃」という言葉を使ったか使わないかにかかわらず、北朝鮮のミサイルから武力で日本を守るとすれば、先制攻撃するしかありません。相手が発射してからでは間に合わないからです。

「他に手段がない限りにおいて誘導弾などの基地をたたくことも法理上の問題としては自衛権の範囲に含まれる」というのは、自衛権という名のもとに先制攻撃を正当化しようということです。

しかし、相手が日本を攻撃しようとしているというのを、どの段階で判断するのでしょう。ミサイルに燃料を注入しているのがスパイ衛星から見えたとしても、それが単なる威嚇か、あるいは本当に弾頭が装備されているのか、真実のところはわかりません。確実に自分を守るためには、相手がちょっとでも怪しいそぶりを見せたときには、先制攻撃しなければなりません。

しかし、日本が先制攻撃論をとれば、敵方も疑心暗鬼になります。日本が少しでも攻撃しそうな気配が見えたときは、敵方も日本の機先を制するために先制攻撃しなければならなくなります。

これでは、お互いが先制攻撃の悪循環に陥ることになり、日本の安全がかえって危うくなります。

私は、先制攻撃だ、国連制裁だ、と大げさに騒ぎ立てることはかえって危険だと思います。武力に訴えることなく、北朝鮮を変えていく方法が望ましいと思います。そのためには、覚醒剤の密輸入の摘発、北朝鮮パチンコ業者の脱税の摘発、北朝鮮から賄賂をもらっている政治家の摘発、拉致協力者の摘発など、日本の国内法規でできることをきちんと行なうことが先決だと思います。



フォトンベルト妄想(9)

2006年07月08日 | フォトンベルト妄想
最後に、ゲリー・ボーネルによるフォトンベルト妄想の利用について述べておきます。

フォトンベルトや聖書やエドガー・ケイシーなどを適当につなぎ合わせて、それをあたかも自分の霊視のように語ったのがゲリー・ボーネルというアメリカ人です。彼は自分にはアカシック・レコードを読む能力があると自称し、『光の十二日間』(Voice、1999年)という本の中で、地球は2001年に突如、12日間にわたって高エネルギー状態に突入する、と予言しました。

********************
 西暦2001年の半ばのある時点。私たちは1万3000年ごとに訪れることになる、巨大なエネルギーが引き起こすイベントのまっただ中に突入します。
 同時に、すべての人間がほとんど同じ状況で、このエネルギーを体験します。・・・
 それは新しい時代(ニューエイジ)の到来であり、この変換期をスムーズに乗り越えるために、私たち個人ができることは何もありません。
********************

そのあとボーネルは、人間と地球にどのような異変が起こるか、1日目から12日目まで詳しく書いています。それはケンプやスタンレーの説を想像力で具体的に膨らませたものです。なかなか小説家的な能力のある人のようです。

予言されていた年2001年には、そういうことは何も起こりませんでした。するとボーネルは「12日」を「12年」に変更しました。12年かけて徐々に変化が起こるのだというわけです。まったくいい加減な話です。

2001年に起こったのは911同時多発テロでした。するとボーネルは第3次世界大戦が起こる、ブッシュ大統領は暗殺される、日本の皇居もテロに遭う、東京を大地震が襲う、などと様々な物騒な予言をしました。ボーネルの予言はすべて見事なほど外れまくりましたが、センセーショナルな予言をばらまいたボーネルの本とビデオは相当に売れて、彼の講演会やワークショップにはたくさんの人が集まり、彼は日本で大儲けをしました(人づてに聞いたところでは、過去世を霊視してくれる彼の個人セッションは1回7万円だったそうです)。ある宗教団体の機関誌では、相当に偉い人のように持ち上げられました。ボーネルが日本人を「霊性の高い民族」とほめあげ、その団体を世界平和の中心とほめあげるのも、よく頷けます(笑)。でも、そういういかさま師にほめられるというのは恥ですね。

人間はどうしてこういういい加減な霊視や予言や妄想――フォトンベルト妄想もその一つです――を信じてしまうのでしょうか? その原因は、自分の力では自分と世界の惨めな状況を変えることができないので、何かしら外部からの巨大な力の介入によって、世界の根本的な変革を望む心性にあると思います。しかし、そういう外部からの変革を期待しているかぎり、人間は自分がいま置かれている現在の時点を真剣に生きることを忘れ、架空の未来の中に生きることになります。それは人生の空費です。

終末論にはそういう問題点があります。ノストラダムスの予言もフォトンベルトも、姿を変えた終末論です。

※このブログでは何度か終末論について触れていますので、検索してみてください。

自分の人生はもとより、地球も人類も、まず自分が真理につながった生き方をしないかぎり、いっこうによくなるはずがありません。次元上昇、アセンション、ニューエイジは、フォトンベルトへの突入や宇宙人の飛来によって起こるのではなく、自分の生き方が世界の未来に対して影響を及ぼすのだという責任を自覚し、日々、愛と感謝と祈りの生き方を実践することによって始まるのです。一人一人の内的覚醒以外に世界を変える道はありません。そういう意味で、次元上昇は2012年に起こるのではなく、今この瞬間に起こりつつあるとも言えるのです。


フォトンベルト(8)

2006年07月07日 | フォトンベルト妄想
フォトンベルト説の変化の続きです。

【1万3千年】
さて、ヘッセのそもそもの説では(それを受け売りしたケンプの説も)、太陽系は1万年の闇の時代と2千年の光の時代を出入りするはずでした。それがスタンレーのあたりから、1万1千年と2千年に変更されています。これは地球の歳差運動を考慮に入れたためでしょう。地球の首振り運動である歳差運動は、約2万6千年で1周します。1万1千年+2千年=1万3千年は、その半分です。

しかし、歳差運動とフォトンベルトへの出入りは元来、関係ないはずです。フォトンベルト信者の観念によれば、フォトンベルトへの出入りは、

(1)太陽がプレアデスの周囲をめぐっている
(2)銀河中心部からのエネルギーの放射による

のどちらかのはずです。前者は荒唐無稽であることは前に述べましたし、銀河中心部からの放射がなぜ地球の歳差運動と同じリズムになるのか、まったく説明されていません。要するに、関係のない観念を結びつけたのでしょう。

【2012年とマヤの暦】
フォトンベルト信者は、2012年に地球がフォトンベルトに突入すると信じているようです。これは、フォトンベルトが「マヤの暦」と結びついたところに生じた説であると思われます。

マヤ文明は独特の暦を使っていました。このマヤ暦を現代の甦らせたのはホゼ・アグエイアス夫妻です。

********************
 アステカ人は、マヤ人と同時に、天界を13層からなるものと考えて、「13」の数字で表わし、同様に冥界を「9」の数字で表わしたのです。
 アステカ帝国をも含め、「新世界」へのヨーロッパ人の侵略が始まった1519年、エルナン・コルテスが第3回の遠征隊の隊長となってベラクルスに上陸しました。この紀元1519年は、アステカ人のあいだで受け継がれてきた預言では、ちょうど「天国の13の周期」が終わり、「地獄の九つの周期」がはじまる年でした。そして、アステカ人はマヤの遺産を引き継ぎ、天国の周期も、地獄の周期も、52年を一単位として数える習慣があったのです。したがって、地獄の九つの周期とは、52年×9=468年間にわたるもので、1519年から数えて、468年経過すると、1519年+468年=1987年。まさに1987年が、この地獄の周期の終わりだったのです。
 このようなマヤの時間に関する周期的な解釈をもとに、アグエイアスは、1987年の8月16日と17日を<ハーモニック・コンバージェンスの日>として、新しい時代の夜明けを提唱しました。そして、それがアメリカの精神的なムーブメントを先導する人々を中心に、世界じゅうに広がったのです。
********************
http://www2.voice-system.com/voice/mayan1/user/mayandoc/maya03.html

ニューエイジの人々は、いつからニューエイジが始まるかにいつも関心を持っています。それにはいろいろな説があり、1987年もその一つでした。特定の年を決めてそれに合わせてイベントを盛り上げるというのは、現実の世界でもよく行なわれることです。そういう意味で1987年のハーモニック・コンバージェンスは欧米ではほどほどの成功だったと思われますが、まだインターネットもなく、情報の遅かった日本ではハーモニック・コンバージェンスについては、ほどんど問題になりませんでした。

次に盛り上がったのが、例のノストラダムスの大予言の1999年です。この年をめがけて様々な予言解読本が出ましたが、そのすべてが外れました。

次に選ばれているのが2012年です。マヤ人の作った暦がたまたま2012年の冬至で終わっているので、この日に何かが起こるのではないか、という期待を集めているのです。

マヤの暦は、1カ月は28日で、1年は13カ月(28日×13カ月=364日)から成り立つとします。これは月の動きを元にした太陰暦の一種であると考えられます。月の動きは地球の海の干満や女性の生理に大きな影響を与えることが知られています。現在のグレゴリオ暦(太陽暦)よりも自然界や人間の生命の営みに即した暦であるということができます。ですから、私は13の月の暦に基本的に反対するものではありません。

しかしながら、それが何らかの「予言」と結びつくと、それには「?」をつけたくなります。

マヤ人がフォトンベルトを知っていて彼らの暦を作ったという証拠はどこにもありません。フォトンベルトと2012年は、フォトンベルトによる地球の大変動を期待する人々によって結びつけられたにすぎません。フォトンベルト妄想のそもそもの出発点であるヘッセやケンプは当初、1999年ないしは2000年に何事かが起こるはず、と期待していたことを思い出しましょう。1999年が空振りに終わったので、次に選ばれたのが2012年というわけです。

フォトンベルト妄想(7)

2006年07月05日 | フォトンベルト妄想
その後もフォトンベルト妄想は変転を遂げていきます。これについては、自分の説を無断使用されたラヴィオレット氏のサイトが、具体的例をあげて批判しています。
http://www.etheric.com/LaViolette/Disinformation.html

・1994年:B・H・クロウ(B. H. Clow)は、科学的に「銀河スーパーウェーブ」説を出したラヴィオレットの本を読んで、それを自分独自に改変し、ラヴィオレットに言及せず、ケンプとスタンレーのみを引用しつつ、アルシオーネに住む宇宙存在からのチャネリングという形で、『プレアデス 銀河の夜明け(The Pleiadian Agenda)』という本を1994年に出版した。

・ 1997年:ロバート・コックス(Robert Cox)は『天上の火柱(Pillar of Celestial Fire)』という著書で、ラヴィオレットの説とチャネリング情報を混ぜ合わせている。

・1998年:ジェームズ・ジリランド(James Gilliland)がEメールで、銀河の中心部からの意識の波がフォトンベルトを伴って押し寄せる、と広める。

・1998年:ドランヴァロ・メルキゼデク(Drunvalo Melchizedek)が自分のウェブサイトで、銀河の中心部から膨大なエネルギーが放出されている、と述べる。メルキゼデクはラヴィオレットのセミナーの出席して、その説を知っているのにラヴィオレットに相談もしていない。

ラヴィオレット氏は、自分のほうが理論の優先権がある、と言いたいようです。それは科学者としてもっともなことですが、以上の情報からは、色々な人が他人の情報を無断で利用し、それに適当な解釈(改変)を付け加えていることがよくわかります。

あと、ラヴィオレット氏があげていない影響力の大きいフォトンベルト教の教祖をあげておくと、ヴァージニア・エシーン(Virginia Essene)とシェルドン・ナイドル(Sheldon Nidle)です。両者は1994年に『あなたは銀河人になる(You Are Becoming a Galactic Human)』という本を書いて、その中でフォトンベルトについて触れています。ナイドルはシリウス星人からチャネリングを受けており、銀河連盟の地球代表なのだそうです。こうなると、完全にスターウォーズ的な誇大妄想としか言いようがありません。

また同じフォトンベルト論者の中でも対立があるようで、クロウはナイドルの本は読むなと言っているそうです。


フォトンベルト妄想(6)

2006年07月03日 | フォトンベルト妄想
太陽がプレアデスの周囲をめぐり、プレアデスから出ているフォトンベルトに出たり入ったりするという観念は、ドイツ人ヘッセ(Paul Otto Hesse)に端を発する妄想であることがおわかりになったと思いますが、ところがフォトンベルト妄想には様々な改変が付加されていくことになります。

【絵文録ことのは】によれば、

【3】1991/夏 ロバート・スタンレー(Robert Stanley)が「フォトン・ゾーン――地球の未来は輝く("The Photon Zone: Earth's Future Brightens")」という記事を「Unicus Magazine」で発表。

このロバート・スタンレーというのは、渡邊延朗氏がフォトンベルトの発見者として持ち上げる「アメリカの天文学者ロバート・スタンレー博士」のことのようです。しかし、Robert Stanley を astrophysics や astronomy という語と組み合わせて検索しても、インターネットにはその情報が出てきません。

当然です。ロバート・スタンレーは天文学者などではなく、現在「Unicus Magazine」という雑誌の編集長(editor)をしている人物なのです。スタンレーは子供のころからUFOに関心を持ち、様々な不思議な体験をしてきたといいます。
http://www.unicusmagazine.com/html/editor.htm

私はUFO現象にはそれなりの意味があると思っておりますので、妄想であるとして頭から否定しようとは思いません。しかし、どちらかというと矢追純一氏のような人物を、「天文学者」や「博士」と呼ぶことは、誤解を招くと思います。

スタンレーのような人物が編集長をしている「Unicus Magazine」も、やはり『ムー』と同じレベルの雑誌だということは確実です。

さて、このスタンレーの「フォトン・ゾーン」の記事には、ある人物から強い批判が寄せられました。その批判から、スタンレーのフォトン・ゾーン理論が読み取れます。

********************
 1991年の夏、ロバート・スタンレー(Robert Stanley)は「フォトン・ゾーン――地球の未来は輝く("The Photon Zone: Earth's Future Brightens")」という記事を「Unicus Magazine」に発表した。この記事は、フォトン・ベルト概念を銀河の中心からの噴出(アウトバースト)の概念と結びつけたものである。この概念はラヴィオレットの銀河スーパーウェーブの概念と驚くほど似ているが、科学的な基礎もなければ、観測上のデータもない。「フォトン・ゾーン」は、銀河の中心から放射されるベルト状またはトロイド(ドーナツ)状の過剰な光子(フォトン)であり、「太陽系の水平軌道に対して90度直角に回転している」とスタンレーは述べている。

 スタンレーはどうやらラヴィオレットの科学論文を参照していないようである。ラヴィオレットの論文では、銀河の宇宙線スーパーウェーブが銀河の中心から放出されている証拠について述べている。そして、外に向かって動いているスーパーウェーブの各々の殻は、銀河中心部を中心とする同心円状の電磁放射のリングを形成するが、これは銀河の平面上にある。スーパーウェーブが外に向かって広がっていくのに伴って、この殻は外に広がっていく。この放射ゾーンを「フォトン・バンド」とか「フォトン・ベルト」と呼ぶことはできるかもしれない。このスーパーウェーブ放射のリングの一番近いリングからやってくる放射は、私たちにとって一番近い地点としては、7000光年離れたおうし座の領域で発生しているように見えるだろう、ということをラヴィオレットは示した(したがって、プレアデスからさらに6500光年遠方)。そして、その放射は反対方向、つまり3万光年先にある銀河の中心部(さそり座の領域)に向かって、われわれからはるかに離れてのびている。つまり、観測上の証拠がないフォトン・バンド理論は、スーパーウェーブの概念に興味を持つ人たちを混乱させているのである。

 スタンレーは、このフォトン・バンドは銀河の中心から放射されたものだとするが、それは静的な領域であるという矛盾した観念も示している。シャーリー・ケンプの説の多くを採用して、スタンレーは、フォトン・バンドが太陽系の近くにあり、太陽系が2万6000年の周天円軌道(epicycle)を進行することにより、太陽系がそれを定期的に通過していると述べている。B・H・クロウ(B. H. Clow)は彼女の著書『プレアデス 銀河の夜明け(The Pleiadian Agenda)』で、スタンレーが次のように述べたと引用している。恒星アルシオーネを巡る「2万6000年の銀河軌道上で、わが太陽系は、銀河のこの地帯[フォトン・ゾーン]に1万1000年ごとに入り、それを2000年間通過する」。しかし、太陽系がアルシオーネを巡る2万6000年の軌道上にあるという天文学上の証拠は何もない。銀河系の中心(いて座 A*)を巡る太陽系の軌道は1周約2億年であり、銀河の中心はプレアデスとは反対側のいて座・さそり座の方向にある、という証拠が存在する。
********************
http://www.etheric.com/LaViolette/Disinformation.html

これは、ラヴィオレットという天文学者がスタンレーを批判している文章です。ラヴィエットの批判をまとめると、

(1)スタンレーはフォトンベルトを、銀河の中心部から発するフォトンの領域としているが、それはラヴィオレットが考え出した「銀河スーパーウェーブ」の概念と似ている。
(2)にもかかわらず、スタンレーの考えには、おかしな観念が多数含まれている。
 ・「銀河スーパーウェーブ」はおうし座の方角から来ると観測されるはずなのに、プレアデスの方向から来るとしている。
 ・「銀河スーパーウェーブ」は元来、水面に広がる波紋のように動的なものであるのに、スタンレーはそれを静的な領域と考えている。
 ・太陽系がアルシオーネの周囲を周天円軌道で回転しているということはない。
(3)このおかしな観念はシャーリー・ケンプに由来するものだろう。

※周天円軌道(epicycle)というのは、プトレマイオスの天動説の説明のために導入された概念です。地球から見ると太陽や月や惑星は実に複雑な運動を示しますが、それを説明するために、それらの天体が天球上で様々な円軌道の組み合わせ=周天円軌道を描いている、と考えられました。ここではこの言葉は、大きな軌道の上で行なっている小さな円運動の軌道という意味で使われています。つまり、太陽は銀河中心に対して円運動をしていると考えられますが、地球はその太陽の周りを円運動しており、そして地球の周りを月が円運動しています。地球や月の運動はそれぞれが周天円運動をしていることになります。パウル・オットー・ヘッセは、太陽がプレアデスのまわりを周天円運動していると考えたわけです。しかし、太陽のこのような周天円運動を可能にするためには、プレアデスが銀河1万倍の質量を持たねばならないことは、先に述べたとおりです。

スタンレーはフォトンベルトを銀河中心部からのフォトンとすることによって、フォトンベルトの観念に混乱を持ち込みました。すなわち、ヘッセとケンプが、フォトンベルトは

(1)アルシオーネから発している

としたのに、スタンレーは、それは

(2)銀河中心部から発している

と考えたのです。そしてこのフォトンベルトはたまたま太陽系の近くにあり、太陽系がアルシオーネの周囲を回転することによって、フォトンベルトに入ったり出たりするというのです。これはヘッセとケンプの説の修正です。

しかもスタンレーは、フォトンベルトは

(3)太陽系の水平軌道に対して90度直角に回転している

と述べています。太陽系はほぼ銀河の水平面上で回転していると考えられますから、フォトンベルトは銀河平面上にあるのではなく、それと垂直に直交していることになります。

この3つの混乱した観念が、渡邊氏をはじめ、現在のフォトンベルト信者には併存しています。