平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

明治の我即神也

2007年06月12日 | 最近読んだ本や雑誌から
綱島梁川(つなしま・りょうせん)といっても、その名を知る人はほとんどいないでしょう。私も、末木文美士(すえき・ふみひこ)氏の『明治思想家論1』(トランスビュー)という本ではじめてその名を知りました。

末木氏の著作は、明治期の宗教思想家を再評価し、政治思想史とは違った視点で日本の精神史を考察しようという本です。その中に綱島梁川という人が取り上げられていたのです。

綱島梁川は1873年に岡山県で生まれ、少年時にキリスト教の洗礼を受け、現在の早稲田大学で哲学・倫理学を学んだ人です。しかし、肺結核にかかり、1907年に35歳という若さで没しました。

綱島梁川は死の少し前、神に出会うという体験をし、それを「予が見神の実験」という文章として発表しました。「実験」というのは、experimentの意味ではなく、experience、実際体験という意味で綱島梁川は使っています。

彼の文章は「青空文庫」にアップされています。

明治の文章ですから読みづらいと思いますが、その中に「我(われ)即(すなはち)神となりたる也」という文章があります。

綱島梁川は「我即神也」と言っているのですが、なにも綱島だけではなく、古今東西の偉大な神秘家はみな似たような体験をしています。

これは「我即仏也」、「我即宇宙也」とも言い換えることができます。人それぞれ生まれ育った文化や宗教的伝統によって表現が異なるだけです。

白光真宏会の開祖である五井先生と、合気道の開祖である植芝盛平先生が初めて出会ったとき、植芝先生は「私は宇宙です」とおっしゃり、それに対して五井先生が「私も宇宙です」と答えたということです。

白光でも「人間は本来、神の分霊」「我即神也」と教えていますが、これは、人間はみな本来、神であって、誰でもその内なる神を自覚することができるということです。白光では、神性自覚のための易しい方法として、「世界平和の祈り」と「我即神也の印」というものを実践しています。


歴史の評価に堪える仕事

2007年03月15日 | 最近読んだ本や雑誌から
外務大臣の麻生太郎氏は吉田茂の孫です。彼が文藝春秋2007年4月号で、手嶋龍一氏との対談で次のように語っています。――

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 昭和26年、サンフランシスコ講和条約を調印しに行く前だったと思うけど、亡くなった弟と二人で吉田茂に呼ぱれて、いきなり松岡洋右と小村寿太郎の話をされたんだよね。小学生がそんなこと聞いたってわかりゃしねえのにさ。日露戦争の後、ポーツマス講和条約を締結して帰国した小村はロシアに弱腰だと、自宅に火をかけられたり、縛りつけられたり、えらい騒ぎだった。片や、国際連盟を脱退した松岡は提灯行列で万歳に迎えられた。だけど、後世の歴史家からは小村のほうが評価が高いんだという話をじいさんがする。

 で、どうやら、このサンフランシスコ講和条約が終わって帰ってくると、うちは焼き討ちに遇うんだなあ、という緊張感があったんだ。ところが帰ってきてみたら、万歳、万歳で大騒ぎ。それで帰って二、三日してから吉田茂に、「これは万歳、万歳だから、歴史家はきっとおじいちゃんのことを評価しないね」と言ったのを覚えている。そしたら一瞬ムッとしたような顔をして、それからゲラゲラ笑いだした。

 やっぱり政治家は、目先の支持率に一喜一憂するよりも、歴史の評価に堪える仕事をするべきなんじゃないかなあ。(116頁)
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面白い話ですね。

「政治家は、目先の支持率に一喜一憂するよりも、歴史の評価に堪える仕事をするべき」はまさに正論です。政治家は、歴史の潮流を正しく見通し、日本の国益を守ると同時に世界平和に貢献する政策を、信念をもって貫いてもらいたいものです。自分の利益も地位も名誉も投げ捨て、不惜身命で国家と人類のために尽くす政治家の出現を、天は待ち望んでいます。

麻生氏には今まで、ちょっと口が軽い人だな、という印象があったのですが、対談を読んで見直しました。また、ユーモアと明るさがあるのがいいですね。おじいさん譲りの毒舌も多少混じってはいますが。

なお、私はこれから数週間、海外旅行に出かけますので、このブログはしばらく休みます。4月の第2週あたりに再開できると思います。


ダライ・ラマ『思いやり』(6)

2006年11月24日 | 最近読んだ本や雑誌から
空と並んでダライ・ラマが重視するのは菩提心です。

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単に空に瞑想するだけでは、解脱を得るの因とはなっても、一切智の境地〔簡単に言えば仏陀の境地〕に至るための因とはなりません。密教の修行をするのであれば、それは大乗の教えであり、一切智の境地を成就するための教えなのですから、一切智の境地を得るための因を作らなければならず、それには「菩提心」が絶対不可欠な要素となっているのです。・・・
菩提心がなければ、密教の修行とはなりません。(63~64頁)
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空の瞑想ではたしかに解脱(低い悟り)は得られるが、一切智(高い悟り)にまでは至れないのだそうです。一切智にまで到達するためには、「菩提心」が必要だ、とダライ・ラマは説きます。

ダライ・ラマは常に、「因―果」の枠組みで議論しています。空を体得するためにはあらかじめ空の因を作らなければならないように、一切智を達成するためにはその因が必要で、それが菩提心だと言うのです。

それでは菩提心とは何でしょうか。それは「利他行(一切衆生を救済するための実践)への強い熱望を因として、その手段として自分が悟りを得ることを強く願う心のこと」です。

自分が悟りたい、ということよりも、一切衆生を救いたい、という願いが先で、その利他行を行えるためには自分が悟りが必要だ、という発想です。

それではどのようにしたら利他行への熱望を持つことができるか。それには「他者に対する慈悲の心」が必要です。それでは、どのようにしたらそのような慈悲心を起こすことができるか。それは「遍在的な苦」を認識することによってです。順番に書けば、

遍在的な苦の認識→慈悲心→菩提心(利他行への熱望)→一切智

となります。こうして、空と菩提心が密教修行の土台である、とダライ・ラマは説きます。

日本人からすると、ダライ・ラマの(チベット仏教の)議論は実に論理的というか理屈っぽいという感じがしますが、密教というものが超常的な領域に触れるものである以上、こういう正しい道筋を歩むことが大切なのでしょう。超常的なものに憧れて密教修行をするなどというのは、そもそも出発点が間違っているというわけです。

五井先生はもっとわかりやすい道を説いています。発心、つまり道を求める最初の出発点は、遍在的な苦の認識である必要はありません。苦を逃れたいという消極的な理由でも、自分が悟りたい(解脱)という小乗的な願いでも、人々を救いたい、あるいは世界を平和にしたいという大乗的な願い(菩提心)でもかまわない、と五井先生は言います。というよりも、個人の中には、ダライ・ラマ(チベット仏教)が説くような発展段階があるのではなく、人によってその比率は異なっていても、様々な要素が混在しているというのが現実のあり方だからです。個人の中には、病気や貧困のような現実的な苦しみもあれば、世界全体、人間世界全体に対する絶望感もあります。そして、そういう苦から逃れて、安らかで清らかな世界に生きたいという願いもあるし、わずかではあっても、自分だけでなく、世界全体の幸福を願う心もあります。中には超能力を得たい、という欲望もあるかもしれません。

その各々の欲望が、実は、究極の自由自在心への憧れの部分的な現われなのです。表面的には肉体的・物質的欲望を追いかけているように見えたとしても、その奥には実はあらゆる束縛から脱却して、自由な心に到達したいという願いが働いているのです。その願いを祈りのまで高めると、欲望=煩悩は浄化されて(空になり)、仏心が表に出てくるのです。

ただし、その時、菩提心が根底に必要なことは、まさにダライ・ラマが言うとおりです。菩提心がない宗教修行では、結局のところ、自分が救われたい、自分が悟りたい、自分が超能力を得たい、という「自分」から離れることができません。自分が残る以上、空も一切智もありえません。その自分を、自分と他人、つまり自他一体感に広げていくところに、菩提心が生まれ、「一切智」の因が作られるのです。

しかし、凡人には菩提心を起こすこと、そのことがなかなか困難です。ところが、誰でも菩提心を起こす簡単な方法があるのです。それが世界平和の祈りです。「世界人類が平和でありますように」という祈りを祈ることは、個人の幸福、個人の悟りも含めて、人類全体の救済を願う、まさに菩提心そのものです。ダライ・ラマ式に言うならば、世界平和の祈りとは一切智の因ということになります。

ダライ・ラマの本を読んで、世界平和の祈りは、仏教の段階的な修行のすべてをうちに含んだ、空と一切智の行法であることをあらためて確認した次第です。


ダライ・ラマ『思いやり』(5)

2006年11月22日 | 最近読んだ本や雑誌から
ところが、この「空」の説明がなかなか難解です。

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密教の主な修行とは、本尊に瞑想することにあります。
 そして、本尊に瞑想するということは、何もない空間に本尊のお姿をいろいろ思い浮かべてそれに瞑想する、というだけでは何の意味もなく、瞑想の目的を何も果たすことはできません。(60頁)
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ここで言っている瞑想とは、一種のイメージングのようです。本尊の姿を空間にありありとイメージし、思い浮かべる――それだけでもなかなか至難のわざだと思われますが、ダライ・ラマは、そんな瞑想ができたとしても、それだけでは意味はない、と言うのです。なぜなら、そこに出てくる本尊は、汚れた心――五井先生の用語を用いれば業想念――が作り上げた主観的な幻影にすぎないからです。ちょっと瞑想の訓練をやってみて、目の前に仏菩薩が出てきたり、光が見えた程度で、自分は悟ったとか見神したと思ったら、大間違いだというのです。

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 それでは、本尊のお姿を瞑想するためにはいったい何が必要なのでしょうか。
 それには、仏陀のからだとなるべき特別の因を作り出さなければなりません。「一切智の境地」に住する仏陀のからだを瞑想するには、仏陀の心、つまり空を直感として体得する智慧と本質が同じからだが必要なのです。(61頁)
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わかりやすく言うと、仏陀は空の存在だから、その仏陀の真の姿を瞑想によってキャッチするためには、自分自身でも同じ空の本質を生起させておかねばならない、というわけです。自分が空になってはじめて、空に住する仏陀にまみえることができるのであり、空になっていない自分がいくら眼前に仏菩薩の像を見たとしても、そんなものは本物ではない、ということです。

真の仏陀にまみえるためには、

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今このときから、「空を理解する心を本尊として生起させる」という練習を積むことが必要になります。
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しかし、練習によって「空を理解する心を生起させる」ことが可能なのでしょうか? 「心を生起させる」こと自体が、空とは異質ではないか、という疑念が生じます。

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もちろん現在の私たちには、空を理解したときの心を本尊として生起させることなど、実際にできることではありませんが、将来そのようなことが本当にできるようになるために、今から想像力を使って練習し、空を理解する心を本尊として生起させる、という瞑想の訓練を積まなくてはならないのです。(61頁)
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ここでは、ダライ・ラマは一種の循環論法に陥っているように思われます。空を体得するためには、そういう心をあらかじめ「因」として生起させておかなければなりません。しかし、汚れた心の持ち主である私たちには、「空を理解するの心」をイメージすることは不可能です。しかし、それを「想像力を使って練習」すればいい、というのです。けれども、その「想像力」でイメージした空が、本当に空の因であるかどうかはわかりません。やはり空と思い込んだだけの錯覚かもしれません。

五井先生の教えでは、こんなややこしい道を通る必要はありません。人間は本来、すべて空の世界に住しているのです。ただ業想念が空を体得することを妨げているだけです。その業想念を消滅しさえすれば、おのずと空に至るわけです。業想念を消滅するために守護の神霊に感謝し、世界平和の祈りを祈り、印を組めばいいわけです。

ダライ・ラマ『思いやり』(4)

2006年11月20日 | 最近読んだ本や雑誌から
小乗には四聖諦、三十七道品、三学というカリキュラムがあるわけですが、大乗の波羅蜜乗には「布施」「持戒」「忍耐」「精進」「禅定」「智慧」という六波羅蜜があります。ダライ・ラマは、「三学」や「戒律」という小乗の教えが修行されていなければ、大乗の教えを実践することは困難だ、と言います。さらに、

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大乗仏教の修行である六波羅蜜の修行や、愛と慈悲、そして菩提心を育む修行がされていない状態で密教の修行に入ろうとしても、それは、まったく不可能なことでしかありません。・・・
 チベット仏教は、小乗、大乗、密教の教えをすべて備えた修行の道であると言われますが、密教の修行をするためには、顕教という小乗と大乗の修行を段階的に実践しておくことがまず必要です。(58~59頁)
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と言います。つまり、小乗は大乗の土台、大乗(顕教)は密教の土台であり、その段階を踏んで修行しなければならないというわけです。

法然・親鸞によって開花した日本の浄土門は発想が根本的に違います。法然・親鸞は、小乗(そして大乗)の教えをそのまま実践することは、専門的僧侶でさえとうてい不可能だと考えて、念仏一念という易行道を開発しました。そこには小乗→大乗→密教といった段階的プログラムはありません。チベット仏教は、法然・親鸞以前の専門的僧侶の養成プログラムなのです。ですから、チベット仏教を修行するということはたいへんなことなのです。すべてをなげうって修行一筋に邁進しなければ、とうていものになるはずはありません。

五井先生の『阿難』にも書かれているように、仏陀の時代から、専門的僧侶には厳しい修行が課せられていました。チベット仏教は、そのような仏陀時代からの修行内容を密教にまで拡大して受け継いでいると言えるでしょう。仏教大学でちょっと勉強したきりで、あとは肉食妻帯し、ぜいたくで安易な生活をしている日本の多くの仏教僧侶は、チベット仏教から見たら、僧侶の名に値しないということになるでしょう。

さて、私は深く研究してはいませんが、チベット密教にはチャクラを開いたり、クンダリーニを覚醒させる様々な瞑想法があるようです。それがチベット仏教の今日人気の源泉になっているのでしょう。しかし、そういう修行を中途半端に行なうと、人によっては一種の霊能力に目ざめることもありますが、それは人格を歪め、かえって危険になる場合もあります。麻原彰晃やオウム真理教がその典型です。

そういうことを避けるために、ダライ・ラマは、密教の修行を開始する以前に、小乗と大乗の教えをきちんと学び、実践しておかなければならない、と強調しているものと思われます。その中でも彼が最も重視しているのが、空の理解と菩提心です。

ダライ・ラマ『思いやり』(3)

2006年11月18日 | 最近読んだ本や雑誌から
(2)「空」を理解する心

書き忘れましたが、《「空」を理解する心》という講演は、2005年に金沢の仏性會という集まりで行なわれたものです。おそらく僧侶向けのお話で、そのため内容が専門的になっているのではないかと思います。

さて小乗、大乗、密教の関係ですが、

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チベット仏教には、「小乗仏教」「大乗仏教」「密教」のすべての教えが説かれているという点で、とても重要な意味をもっていると思います。
 ですから、パーリ語で説かれている小乗仏教の教えを修行せずに、サンスクリット語で説かれている大乗仏教の教えから修行を始める、というようなことはありえません。はじめにパーリ語で説かれた小乗の教えを修行し、これを土台として、サンスクリット語で説かれた大乗の教えを積み重ねていくことが必要です。
 そして大乗仏教には、顕教としての教えである波羅蜜乗と密教の教えである真言乗(金剛乗)があり、大乗の教えに関しても、まず顕教の教えをすべて学んで修行したうえで、密教の修行を積み重ねていかねばならず、顕教の修行という土台なしに突然、密教の修行に入る、ということはできません。(51~52頁)
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3つの教えをまとめますと、

小乗仏教
大乗仏教――顕教(波羅蜜乗)
      ―密教(真言乗、金剛乗)

ということになります。ダライ・ラマは、3つの教えを段階的に学んでいくということが大切だ、と強調しているのです。

彼がこのように言う背景には、日本における密教の流行への懸念があると思います。密教は一種の神秘力と関わってきます。そのような神秘力を売り物に密教を宣伝する教団があります。その典型が例のオウム真理教です。

ダライ・ラマは日本で痛い想いをしたことがあります。

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数々の宗教テロを実行したオウム真理教に、ダライ・ラマの権威を利用され、教団の実情を知ってか知らずか音響機器や光学製品を寄贈され受け取ってしまったことがある。この時、教祖の麻原彰晃とツーショット写真を撮った為、それを教団の宣伝に使われてしまった。

1995年3月、来日の際、成田空港で記者達よりそのことについて質問ぜめにあってしまった。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E14%E4%B8%96#.E3.82.AA.E3.82.A6.E3.83.A0.E7.9C.9F.E7.90.86.E6.95.99.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82

ダライ・ラマは立派な聖者ですが、五井先生のような霊覚者ではありません。自分に近づいてくる人々がどの程度の霊格であるか、たちどころに見抜くまでには至っていません。つまり、ダライ・ラマも真の悟りを得ていない、修行中の身であるということです。

麻原彰晃は、いわば小乗と大乗(顕教、波羅蜜乗)をすっ飛ばして、いきなり密教に走ったために、道を誤ってしまったわけです。ダライ・ラマはその危険性を指摘しているわけです。



ダライ・ラマ『思いやり』(2)

2006年11月17日 | 最近読んだ本や雑誌から
(2)「空」を理解する心

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 四聖諦、三十七道品、三学の教えはみな、小乗仏教の経典で説かれている教えです。これらの小乗仏教の修行を土台として積むべき、菩薩の乗り物(菩薩乗)とも呼ばれる大乗仏教の修行には、愛と慈悲に基づいて菩薩心を生起する修行や六波羅蜜の修行があります。 そしてさらに、これらの修行のうえに積み重ねるべき真言乗、すなわち密教の修行とは、密教に特有の「止」と「観」の双入による禅定を成就することであり、これらの修行をいち早く達成するために密教の教えが説かれたのです。(51頁)
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仏陀直伝の教えは小乗仏教です。日本の仏教は、観無量寿経や法華経などの大乗仏教に強い影響を受けていますが、これらは仏陀の死後に生まれた経典です。

小乗仏教には実に細かい修行カリキュラムがあります。

■四聖諦
「釈迦は成道の後、鹿野苑(ろくやおん、ベナレス)において、初めて五比丘のために法を説かれた(初転法輪)。この時、釈迦はこの四諦を説かれたといわれ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。
 四つの真理とは、
  人生は苦であるという真理と、
  その苦の原因は人間の執着にあるという真理と、
  この苦を滅した境地が悟りであるという真理と、
  その悟りに到達する方法は八正道であるという真理である
であり、これを順に苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦と呼ぶ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

■三十七道品
 四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七支覚・八正道の三十七の悟りへの手段のこと。煩瑣になるので説明は省略。

■三学
 戒律、禅定、智慧の三つ。

これらをきちんと実践すれば、仏の悟りを得ることができる、と仏陀は教えたのです。

しかし、このようなカリキュラムは、仏道に専門的に取り組む僧侶でなければ実践できません。社会生活を送る一般人にはとうてい無理です。それは狭い道、一部の人しか乗れない小さな乗り物、小乗仏教と呼ばれるようになりました。そこに、在家信徒でも悟りに入れる道、大勢の人が乗れる乗り物としての大乗仏教が生まれました。

しかし、大乗仏教でも悟りに至るには長い時間がかかります。それをさらに短縮し、肉体を持ったまま仏になる、即身成仏の手段として、密教(真言乗、金剛乗)の修行システムがあみ出されました。



ダライ・ラマ『思いやり』(1)

2006年11月15日 | 最近読んだ本や雑誌から
ダライ・ラマが11月10日に国技館で講演会を開きましたが、私は行きませんでした。以前、ダライ・ラマの講演を聴いたことがありますが、だいたい毎回同じことを話している印象がありますので、とくに聴きたいという気も起こりませんでした。

最近、ダライ・ラマの『思いやり』(サンマーク出版)という本を読みました。これは、2005年4月に日本で行なった講演の筆記です。その中から、いくつかの言葉を紹介し、感想を述べてみます。

(1)愛と執着について
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 本当の意味での愛と慈悲とは、偏見のない心です。しかし、執着は偏った見方をする心なのです。さらに、愛と慈悲との心は智慧と密接に結びついていますが、執着は煩悩に、究極的には無明に結びついているのです。・・・
 執着は偏見に基づいた心なので、ある特定の人にだけ執着をするわけですから、その他の人たちに対しては距離を置いていることになります。そこで、執着と怒りとは同時に起こってくるのです。・・・
 本当の意味での愛と慈悲は、決して怒りの心とともに起きてくることはありません。本物の愛と慈悲は、現実を広い目で巨視的に見ているため、偏見をもつことはなく、怒りの心が生じる余地もありません。(17~18頁)
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真理の言葉ですね。五井先生と同じことを説いています。

それでは、どのようにしたら執着を捨て、愛と慈悲の心を自分のものにすることができるでしょうか。一般人対象のこの講演会でダライ・ラマが勧めるのは、「他人へのやさしさと思いやり」です。こういう心は本来、誰の心の中にも存在しているのだ、とダライ・ラマは言います。

もちろんその通りでありますが、やはり観念的という印象を避けられません。世間の人々は、「やさしさと思いやり」などそっちのけで、執着だけで生きています。この「無明」の闇をはらうには、「やさしさと思いやり」の勧めだけでは、あまりにもきれいごとという感じを否めません。「いいお話を聴きました」でおしまいでしょう。「やさしさと思いやり」だけでは、学校のいじめ一つなくすることさえできないでしょう。

ダライ・ラマ自身は「やさしさと思いやり」を実行できる聖者です。彼は、チベットを弾圧する中国に対しても愛と慈悲をもって対処している聖者です。彼は自分のからだから光明を放射し、言葉を超えて人々に安らぎを与える力ももっています。それは彼の長年の仏道修行から生まれたものです。しかし、彼の一般人向けの講演を聴いたり本を読むと、彼が説く道はあまりにも観念的、という印象をいつも禁じえません。

煩悩にまみれた凡夫がいかにして愛と慈悲の心に到達できるのか。そのことを真剣に考え、その道を求めたのが、法然・親鸞という浄土門の聖者でした。法然・親鸞は、ダライ・ラマのように僧侶にならなくても、誰でも日常生活の中で行なえる念仏一念という方法をあみ出しました。念仏の中にすべての煩悩、業想念を投げ入れるという道です。そして五井先生は念仏を「世界平和の祈り」という現代的な形に甦らせました。世界平和の祈りの中から、おのずと執着が薄れ、やさしさと思いやりの心が育ち、ついには偏見のない愛と慈悲の心に到達するというのが、誰でもが歩むことのできる無理のない道だと思います。



『ダ・ヴィンチ・コード』というトンデモ本(2)

2006年05月20日 | 最近読んだ本や雑誌から
【「最後の晩餐」はフレスコ画?】

『ダ・ヴィンチ・コード』については、すでにいくつかの批判がなされています。日本では『新潮45』2005年4月号に竹下節子氏が「世界的ベストセラー『ダ・ヴィンチ・コード』の嘘」という論評を書いています。最近は、皆神龍太郎氏の『ダ・ヴィンチ・コード最終解読』(文芸社)がさらに詳しい批判を行なっています。ここでは主として皆神氏の批判を紹介します。

「最後の晩餐」については、以下にコンピュータ・グラフィックスによる復元と、詳しい解説があります。ぜひご覧下さい。

http://www.pcs.ne.jp/~yu/ticket/supper/supper.html

このサイトの説明にもありますように、「最後の晩餐」はフレスコ画ではなく、テンペラ画なのです。そのため、かなり損傷が激しかったのです。

ところが、ダン・ブラウンは、『ダ・ヴィンチ・コード』の中で、「最後の晩餐」を最初から最後までフレスコ画と書いています。つまり、ダン・ブラウンは、フレスコとテンペラの違いもわからないような、西欧美術に無知な人間であることを暴露しています。皆神氏も書いていますが、ダン・ブラウンは何冊かのネタ本をもとに『ダ・ヴィンチ・コード』を書いたのですが、それらのネタ本――それらがトンデモ本だったので、当然ダン・ブラウンの本もトンデモ本になるわけです――が「最後の晩餐」をフレスコ画と書いているので、その間違いをそのまま引き継いでしまったわけです。

【「最後の晩餐」の絵にマグダラのマリアが描かれている?】

これが真実でなければ、そもそも「ダ・ヴィンチの暗号」が成り立ちません。

「最後の晩餐」で中央のイエスの向かって左側にいる人物は、伝統的にはヨハネだとされていました。これがマグダラのマリアだというのが、『ダ・ヴィンチ・コード』の一番のミソです。

ちなみに、このアイデアはダン・ブラウンのオリジナルではなく、リン・ピクネットとクライブ・プリンスの『マグダラとヨハネのミステリー』(三交社)からのパクリだそうです。

たしかに、この人物は女性っぽい顔立ちをしています。しかし、本当に女性かどうかは、わかりません。

女性っぽいといえば、イエスの向かって右側3番目のピリポも少し女性っぽい感じがしますし、何よりも、中央のイエス自身が女性っぽい感じです。その印象はいずれも、3人に鬚がないところから生じています。

上記サイトによれば、「最後の晩餐」は未完成で、とくにイエスの顔には気品がありません。イエスとマリアが夫婦というのであれば、少なくともこの両者を仕上げなければならないはずですが、ダ・ヴィンチはイエスさえ完成させていないのです。

あと、構図にマリアのMが描き込まれているというのは、こじつけとしか言いようがありません。

皆神氏は

「別にMの字を隠して描きたかったからではなく、聖書にあるとおりに描いたら、自然に体が傾いて、「M」っぽい空間ができたということに過ぎなかったのである」

と述べています。

『ダ・ヴィンチ・コード』というトンデモ本(1)

2006年05月19日 | 最近読んだ本や雑誌から
『ダ・ヴィンチ・コード』という本が世界中で4000万部、日本だけでも400万部という大ベストセラーになっているそうです。そして、その本をもとにした同名の映画も作られ、日本でももうじき封切りになります。

この本や映画が今、大きな物議を醸しています。

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 【ニューヨーク17日共同】中絶反対運動などをしている米カトリック系団体「ヒューマンライフ・インターナショナル」のアイテナウア代表は17日、映画「ダ・ヴィンチ・コード」に抗議し、関連会社が映画を配給しているソニーの全製品の不買運動を映画公開に合わせ19日から始めることを明らかにした。
 不買運動がどこまで広がるかは不明だが、同団体の広報担当は「映画はカトリックを敵視している。世界のカトリック信者10億人規模のボイコットにしたい」と述べ、インターネットやメディアで参加を呼び掛けると話した。
 キリストが子どもをもうけ、教会はその事実を隠してきたという筋の同映画をめぐっては「うそと中傷に満ちている」などの批判が出ている。
 代表は「映画を機にソニー製品ボイコットを訴えるのはわれわれが初めてだと思う」としている。
(共同通信) - 5月18日12時36分更新
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060518-00000089-kyodo-bus_all

本や映画のあらすじは詳しくは書きませんが、物語のもとになっているのは、「イエス・キリストはマグダラのマリアと夫婦関係にあって、両者の間には子供が生まれ、その子の血脈が現代まで続いている。その秘密をレオナルド・ダ・ヴィンチが有名な「最後の晩餐」の絵や「モナリザ」の絵に封印した」という思想です。

単なるフィクションと銘打っているのであれば、それはそれでかまわないのですが――それでもキリスト教諸国では大きなスキャンダルになるでしょう――、著者のダン・ブラウン氏が、「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と宣言しているので、これはキリスト教徒にとっては見過ごせない問題になるのです。

実際、『ダ・ヴィンチ・コード』を読んだり観たりした人の60%は、イエス・キリストには子供がいた、と信じているそうです。

私はキリスト教徒ではありませんから、イエスに妻子がいようがいまいが、どちらでもいいと思いますし、妻子がいたからといってイエスの偉大さにいささかも傷がつくとは思いません。仏教の開祖ゴータマ・シッダールタは妻子を捨てましたし、イスラム教の開祖ムハンマドも結婚して子供がいましたし、親鸞もあえて戒を破り妻帯し子供をもうけました。イエスの女性関係が事実なら、事実は明らかにされるべきです。

しかし、それが虚偽であるならば、そういう嘘を大勢の人々が信じ込むことは危険です。イエスが過去の人物であるとはいえ、イエスに関する虚偽の風説の流布、イエスに対する名誉毀損になります。

ダン・ブラウン氏がそれを「事実」として世界に広めるのであれば、それなりのしっかりとした根拠をあげなければなりません。ところが、ちょっと調べてみると、氏の叙述はまさに「トンデモ本」としか言いようがないものなのです。



一神教と多神教

2006年05月17日 | 最近読んだ本や雑誌から
現在の世界の問題の一つは宗教の対立です。その中でも、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の、いわゆる一神教どうしの対立は、なかなか根深いものがあります。

一神教は排他的になるので、他の宗教と共存できない、これに対して多神教は異なった信仰に寛容だ、という議論が時々見られます。このような議論は正しいのでしょうか。

『一神教とは何か』(東京大学出版会)の中で、東京大学の黒住真教授は、各宗教が主張する自己の普遍性について、次のような問題提起をしています。

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 私は、バイブルにしか一神教が顕現していないというのだったら、一神教にとっては自己矛盾ではないかと思うのです。そうであれば、一神教であることの元来の論理を実は裏切っているのではないかと思うからです。それは別に一神教に限らず、多神教でも、自分たちの神が、この組織、このテキストに顕現されているとは言えると思うのですが、「にしか」顕現されていないということは論理的におかしい、間違っていると私は考えています。ですから、バイブルでも、仏典でも、それを尊重したいと思うのですが、これしかない、ほかはない、ほかではありえないというのは、「普遍」の定義からして、誤りではないかと考えております。
 そういう意味で、従来の一神教の絶対性あるいは脱比較性を相対化することが、一神教的なものそのものにとっても非常に大事だと考えますし、これに対して、多神教が優位であるとか、あるいは劣等であるという考え方、あるいは一神教と無関係なものとしてあるという考え方も、相対化しなくてはいけない。このような意味で、一神教や多神教の批判的な位置づけ直しが必要だと思っています。
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これに対して、仙台白百合女子大学の岩田靖夫教授は、こう応じています。

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 大変面白くうかがいました。それで、私の質問はちょっと理屈っぼいですが、一神教と多神教を互いに相容れないものとして鋭く対立させることは、世間の常識になっています。しかし、今、黒住さんの話を聞きながら、そのように鋭く対立させる必要はないのではないか、あるいは対立させるのは間違いではないか、という感を私は持ったのです。
 一つは、一神教は自分が普遍的だと主張しています。ところが、普遍的だと主張しているのに、自分の啓典だけが絶対だというのは自己矛盾だとおっしゃいましたね。これは実に適切なことを言っておられます。キリスト教を例に取ると、神が天地万物の創造主であるというなら、イスラーム教徒も仏教徒もヒンズー教徒も、みんな神の子なのです。キリスト教徒だけが神の子ではないわけです。そうであれば、イスラーム教徒、仏教徒が信じていることも、神の御心に沿って成り立っているはずなのです。それでなくては、天地万物の創造主だということと自己矛盾します。そういう点から言えば、唯一神教はまさにいろいろな多様性の中に普遍的なものがあるのだと主張していることになると、私は思うのです。それは一神教のほうから言ったことですが。
 今度、多神教のほうからいうと、今のお話だと、例えば何かヌミノーゼのようなものがいろいろな形で現れてくるとか、根源的な生成力がいろいろな神様の姿になって現れてくる。そうすると、多神教のいろいろな神様も、なぜ共存できるかというと、何か根源的な力のようなものを共有していることによって、多神として成り立っていると思うのです。そう考えると、まさに多の中における普遍が大事なので、その根源の何か力みたいなものは、単純に一つの形で出てくるのではなくて、実に文化も伝統も違ういろいろな民族の中で、様々な形で出てくる。けれども、それが一つの根源の力なのだと、我々がかなり自覚的に認識すれば、多神教と一神教はけんかする必要はない。私は、むしろ、それらはお互いに、お互いのいいところを取り合って、自分を豊かにしていくものであって良いのではないかと思うのですが、いかがお考えでしょうか。
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黒住教授の議論も岩田教授の議論も、きわめてまっとうですね。こういう考え方を、世界の諸宗教が受けいれてくれることを期待します。

五井先生は、神とは「一即多神」だと言っています。



田島義博先生の逝去

2006年05月12日 | 最近読んだ本や雑誌から
月刊『致知』2006年6月号に、アサヒビール名誉顧問の中条高徳さんが、学習院長・田島義博先生の逝去について書いています。

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 三月二十四日、桜花咲きそめていた学習院で評議員会が開かれていた。
 筆者は、院長入院中との情報を得ていたので、院長推薦の評議員だけに、彼が欠席の時こそ万難を排して出席せねばなるまいと、いささか軍人的律儀さというべきか責任感でその席に出ていた。
 なんと議事の合間に院長が病院から抜け出し、奥様に付き添われて姿を見せたのだ。
「院長の職責を全うする体力の限界を自認したので任半ばで申し訳ないが、評議員会に辞任の意を伝えたい」
 と何時もの音吐朗々ではなかったが、言語明瞭に院長辞任の決意を表明されたのだ。
 青天の霹靂とはこの状態を指す。評議員たちは驚きのあまり声なし。このご挨拶が終わるやまた、静かに車椅子で退場された。その場に居合わせた評議員たちは呆然と立礼でお見送りした。
 拍手していいものやら判断つきかね、一日も早い回復を祈って粛然と見送るのみであった。
 その四日後に帰らぬ人になろうとは、評議員の一人たりとも夢想だにしなかった。
 院長自身はご自身の余命幾ばくかは気づかれていたに違いない。誰よりも院長の職責の重さを自覚されていただけに、この時仰るべき事柄がよくお見えになったのだ。つまり決死の訣別だったのだ。これを「生きざま」という。

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 仏教の大家松原泰道師は、「人間はなぜ死ぬ」と問われ、即座に「それは人間は生まれたから死ぬのじゃ」とさりげなく答えた。
 その通り人間は生まれた限り必ず死がやってくる。だからお釈迦さまは「人間は死に方ではなく、その生き方(生きざま)を最後の最後まで追究していかねばならない」と諭しておられる。
 昨今、政治、経済、官界を問わず、退任の出処進退を誤り、晩年を穢すリーダーがあまりに多すぎる。また、「生」に対峙して単に存在するに過ぎない「死」に当たって延命工作のトラブルが頻発している。医学の進歩というが「死」に当たり徒らに手を加えることは人類の驕りではなかろうか。
 人類も、すべての生きとし生けるものがそうであるように、自然死こそが最も尊く、かつ望ましいと筆者は思う。
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私も何度か身近で田島先生のお話をうかがったことがありますが、車椅子で入室し、辞任の挨拶を一言述べて退室なさった田島先生の様子が、目の前に彷彿します。

田島先生は温かい人柄の、博識とユーモアのあふれる方で、その座談はまさに間然するところがなく、いつまでも聞いていたい、と思わせる方でした。そして何よりも、人間の生き方、国の政治や経済のあり方について、立派な見識の持ち主でした。このような院長を持った学習院は本当に幸せであったと思います。

ある日の会合で、ホリエモンのことが話題になりました。ホリエモンがテレビで、経済界の英雄、改革の旗手として大いにもてはやされていた頃です。その場にいた人々は、みなホリエモンに対してある種のいかがわしさを感じていたのですが、それをどう表現していいのかわかりませんでした。そのとき、田島先生は、「あの人はグリーンメーラーですな」と言い、グリーンメーラーについて説明してくれました。それで、私たちはホリエモンの本質がよくわかりました。

このブログでは、2005年8月1日に田島先生の『「人間力」の育て方』(産経新聞社)について紹介している。

また、2006年2月27日には「天皇陛下の作文」について書いていますが、この話題も田島先生に関係しています。ある人が田島学習院長に、「天皇陛下の作文を〇千万円で学習院が買わないか、という提案をしたとき、田島先生は即座に、「それは学習院に返還すべきものです」とお答えになったということです。

本当に立派な方でした。


脳内汚染(7)

2006年04月07日 | 最近読んだ本や雑誌から
暴力的な映像や性的な映像が青少年に悪影響を及ぼすことには、誰しも異論はないと思います。そういうものが子供たちに簡単に入手できるような状況は、改めていく必要があります。

それでは、暴力的・性的な映像を含まないようなゲームなら問題ないのかというと、そうとはいえない、と岡田さんは言います。

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海外で行われたある研究では、暴力的シーンの多いゲームで遊ぶだけではなく、ゲームで長時間遊ぶこと自体が、高い攻撃性や敵意、暴力行為と関係あるとされた。(72ページ)
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ゲームの問題性は色々とありますが、大きな問題は、それが依存症を引き起こすことだといいます。ゲームにはいわばタバコのような、もっと強くいえば、麻薬のような中毒症状を引き起こす危険性がある、と岡田さんは言います。

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 特に十年ほど前までは、ゲームをすることの危険について、ほとんど知られていなかった。麻薬的な嗜癖性と恐ろしい副作用をもった危険な玩具だという認識がまったくなかったのである。当時はまだゲームも初歩的なもので、何度かやっているうちに飽きてくる類のものが多かったということもあるだろう。だが、一度そこで快体験を味わうと、さらに刺激的なものを求めるようになり、どんどん嗜癖が形成されていくというメカニズムが知られていなかったのである。
 ゲームが十年前と同じ技術水準のまま、ほどよく飽きてしまうものにとどまっていれば、その危険も少なかったであろう。だが、コンピュータ技術の急速な発展により、ゲームはみるみる進化して、きわめて高いリアリティと刺激に満ちた仮想世界を現実のものにしてしまった。ずっと飽きが来ないほどに、エキサイティングなものとなったゲームは、逆に極めて危険なものとなってしまったのである。
 なぜなら、ずっと飽きが来ないほどにわくわくし興奮するとき、脳で起きていることは、麻薬的な薬物を使用したときや、ギャンブルに熱中しているときと基本的に同じだからである。
 子どもにLSDやマリファナをクリスマス・プレゼントとして贈る親はいないだろう。だが、多くの親たちは、その危険性について正しく知らされずに、愛するわが子に、同じくらいか、それ以上に危険かもしれない麻薬的な作用をもつ「映像ドラッグ」をプレゼントしていたのかもしれない。(90~91ページ)
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ゲームがあまりにも面白いということが問題だというのです。ゲームの面白さにとりつかれたら、そこから抜け出すことが困難になります。韓国だったと思いますが、数十時間連続でゲームに熱中し、死んだ男性がいたそうです。こうなると、まさに麻薬と同じです。

あることが面白くてやめられない、ということはゲーム以外にもあります。私の体験では、面白い本を読んで途中でやめられない、ということがたまにあります。パチンコなどの賭博に熱中してやめられない、という人もいます。ロシアの作家ドストエフスキーは賭博に熱中する人でした。彼はその体験を『賭博者』という小説に書いています。賭博者はまさに人格破綻者になります。

読書やスポーツや仕事などに熱中するならまだよいですが、ゲームや賭博への熱中は、貴重な時間や生命エネルギーやお金を無駄に消費し、そこに何ものも生み出しません。人を簡単に面白さのとりこにしてしまうゲームは、面白いがゆえに危険なのです。

私の子供が小学校の高学年か中学生頃だったと思いますが、あんまりせがまれたので、クリスマス・プレゼントに「ゲームボーイ」を買い与えました。それから、子供は文字通りそれに熱中して、勉強がまったくおろそかになりました。私は1カ月くらいでゲーム機を取り上げてしまいました。親は一時期うらまれましたが、その後、子供はゲーム機とは無縁なまま大人になりました。

私の子供の様子を見ても、ゲーム機が子供をとりこにすることがよくわかります。すべての子供が同じではないかもしれません。しかし、ゲーム中毒になる子供がかなりいることはたしかです。

ゲームが子供の脳にどのような影響を与えるかは、『脳内汚染』に色々と書かれています。おそらくその部分がもっとも議論を呼ぶ箇所でしょう。これはまだ岡田さんの仮説であり、これからもっと実証的に検証する必要があります。ただし、科学的実証以前に、ゲームが、仮想現実の中で代償的な強い快感を与えることによって、子供たちから、勉強や運動や友人たちとの遊び・交流という、子供たちの成長にとって大切な体験をするための時間を奪っていることはまぎれもない事実です。同じ遊びというなら、子供たちには1時間コンピュータ・ゲームをするよりも、1時間、野球やサッカーなどをしてもらいたいと思います。

私の子供はその後、演劇に熱中するようになりました。勉強がおろそかになる点ではゲームと変わりない、あるいはそれ以上だったかもしれませんが、演劇を通して人間的な成長をとげた部分があったと思います。

私は自分の子供からゲーム機を取り上げて本当によかったと思っています。


脳内汚染(2)

2006年03月31日 | 最近読んだ本や雑誌から
子供の特徴の一つは、模倣性です。子供は大人のすることを模倣して成長していきます。言葉をおぼえるのも模倣によってです。大人の模倣なしには子供は人間になれません。

動物に育てられた子供という事例があります。ある年齢まで動物に育てられた子供は、その後いくら言葉や人間の習慣を教えても、人間的な社会生活を送ることができません。子供時代の模倣がどれほど決定的かということを示しています。

私の子供は3~4歳ころ、水泳教室に通っていました。水泳教室では子供たちを水に慣れさせるために、最初に水のかけっこ遊びをしました。私の子供はこれが楽しくてしかたなかったようです。ところが、公園で砂遊びをしているときも、近くの水道でバケツに水を汲んできて、それを友達にかけようとしたのです。その当時の本人にはイジメの気持ちすらありませんから、これは水泳教室でやっていた楽しい遊びを公園でもやろうとしただけにすぎないのでしょう。

しかし、水のかけ方が下手で、水はいつでも相手にかからないで、自分にかかってしまったので(まわりの大人は大笑いでした)、そのうちやめてしまいました。水着の水泳教室と普段着の公園は違う、ということを体験で学んだのです。

ともかく、私の子供は水泳教室の遊びを公園で真似したわけです。

映像情報も子供の模倣を誘発します。やはり私の子供が同じくらいの年齢の頃です。母親がたまたま、畳の部屋ですわって、テレビをつけたまま編み物をしていたら、突然、うしろから本で殴られたといいます。どうしてそんなことをするの、と尋ねると、テレビを指さしました。そこでは、「ドリフターズの全員集合」というお笑い番組をやっていました。この番組では、よく相手をたたいたり、ひどい目に遭わせて笑いを取っていました。子供がそういう番組の真似をしたことは明らかでした。

何年か前に、キムタクがテレビのドラマで「バタフライナイフ」(ジャックナイフ)を持ったことから、バタフライナイフが青少年の間で大流行したことがありました。自分が憧れたり尊敬したりする人を、青少年は模倣します。

こういう実例を見ると、映像情報が子供や青少年に大きな影響を与えることは自明です。

私たちの家庭では、テレビが日々様々な映像情報をもたらしています。そういう情報が子供たちの心に何らかの影響を及ぼしていることは、否定できない事実です。それが、残虐でどぎつい内容であれば、それは知らず知らずのうちに子供たちの心に傷を与える可能性があります。

現在の世界には戦争や犯罪や事故などの悲惨な出来事があふれていますから、どんな人でも、それらに目をつぶって、明るく楽しく美しい情報や映像だけに取り巻かれて生きてゆくことはできません。否応なしに嫌なニュースや悲惨な映像も飛び込んできます。ただし、大人は、否定的な情報に接しても、それを消化し、乗り越えていく力と知恵を持っています。しかし、幼い子供は、それを受動的に受けいれてしまう部分が大きいと思われます。


脳内汚染(1)

2006年03月30日 | 最近読んだ本や雑誌から
話題の本、岡田尊司さんの『脳内汚染』(文藝春秋社)を読みました。この本は、近年になって、日本やアメリカのような先進国で、以前には見られなかった、青少年や、ときには子供による残虐な犯罪がなぜ頻発するようになったのか、という問題を、映像メディア、とくにゲーム機の普及という面から説明しようという試みです。

文藝春秋社のサイトは、この著作についてこう紹介しています。

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ゲームは虚構と現実を混同させ、中毒性があり、脳の発達を妨げ、犯罪すら引き起こす。脳神経学者が医療少年院から問う警告の書!

ゲームやネットに溺れる子どもたちは、(1)仮想と現実の区別がつかなくなり(2)麻薬と同様の中毒症状を呈し(3)脳の前頭前野の発達を妨げられる――。もっとも無抵抗で、自分を守る術を持たないものたち が、とりわけ強い影響を受け、深刻な被害を蒙っているのである。ゲームやネットは、子ども部屋に侵入した厄介な麻薬なのだ。

医療少年院の勤務医として、若者たちの危機的状況と日々向かい合っている著者が世に問う警告の書。
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http://www.bunshun.co.jp/book_db/html/3/67/84/4163678409.shtml

この本には賛否両論があります。私も読んでいて、納得できる部分もありましたが、やや誇張されているし、論理の展開に疑問を感じた点もありました。しかし、全体として、やはり重要な問題提起をしていることはたしかだと思います。学校の先生方、小さなお子さんたちをお持ちのお父さん、お母さんにはぜひ読んでもらいたい本です。

現代の青少年犯罪を一つの原因だけで説明することはできないでしょう。家庭環境、教育環境、薬物、さらには食事や環境汚染さえも複合的に関わっているのかもしれません。その中にあって、「情報環境」とでもいうべきものが、やはり一つの大きな要因になっていることは否定できないと思います。

本書の短所といえば、その情報環境を唯一最大の原因としている点で、その点において、たしかに単純化と誇張は否定できません。しかし、それも問題提起、社会への警告であると思います。

現代社会には、数十年前には存在しなかった膨大な刺激的情報があふれています。そういう情報が人間の意識と行動に影響を与えないはずはありません。

人間は、動物とは違って、単なる物質的環境の中で生きているのではなく、様々な情報に取り巻かれて生きています。そして、20世紀の後半から、人間は膨大な情報の中で生きるようになっています。まさに「情報化社会」の到来です。

その情報も最初は、左脳が処理する文字情報でしたが、テレビの普及以来、右脳が処理する映像情報にが大量にあふれてきています。その映像情報も、最初は漫画のような絵から、最近の3Dゲーム機のような非常にリアルな映像に進化しています。そういうヴァーチャルな映像情報は、人類が過去数万年の進化の歴史の中で一度も経験したことのないものです。そういう映像情報に日々さらされていたら、人間はどうなるのか、ということを、私たちはあまり深く考えてきませんでした。

脳が完成した大人は、ある程度、主体的に映像情報に接することができます。しかし、まだ脳が未完成の子供が、膨大な映像情報にさらされたらどうなるのでしょうか。しかも、それが暴力的であったり、性的な刺激に満ちていたらどうでしょう。そういう映像にさらされた子供が、そうでない子供と同じに成長するとはとうてい思えません。心に何らかの歪みが生ずるのは当然ではないでしょうか。

それはちょうど、お酒やコーヒーのような嗜好品が、適切にとれば大人にとっては適当なリフレッシュメントになるとしても、肉体が未熟な子供にとっては有害な影響を及ぼすことと似ているのかもしれません。