平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

バグダッドでの平和行事(2)

2005年03月22日 | Weblog
(1)の続き――

 木曜日の朝、イラクの国境へ向けて、私たちはアンマンを発ちました。2人のイラク・カルデア・キリスト教徒の運転手が運転をしてくれました。私は途中で「トフィラト・ハデレヒ」を唱えました。これは旅の安全を祈るユダヤ教の祈りです。アーヴォルはラコタの祈りを唱えました。車の中で、私は運転手のサヘルから口語アラム語を少し習いました。例えば「ハシュラマ・アルクーム」という言葉で、その意味は「あなたに平和がありますように」です。

 イラクの国境を越えたあと、私たちは車を止めて、バグダッドへの旅の安全と成功のために小さな祈りの円陣を作りました。ホゼ・アグエイアスはマヤの祝福を行ないました。チーフ・アーヴォルは言いました。「創造主よ、この平和の旅を助けたまえ。多くの人々が世界の平和と調和を祈っておりますし、私たちと一緒に祈っているのです」。ワリギアはスワヒリ語で祈りを捧げました。私はヘブライ語で祈りを捧げました。ヤロヴィトはロシア語の祈りを祈りました。

 国境のすぐ内側で、イスラエル方向に向かっているミサイルの形の記念碑に気づきました。私は第一回湾岸戦争の間、イラクからのミサイル攻撃を受ける側にいました。ですから、その記念碑は少し意気阻喪させるものでした。私たちのドライブは10時間半かかりました。そして広大で一見空虚な砂漠を何時間もドライブしたあと、ようやく沢山の木々や緑を見ました。ユーフラテス川に近づき、ラマディとファルージャの町を通りすぎたときでした。

 私たちがバグダッドのダウンタウンのアラブ・パレス・ホテルに着いた時、オーストラリア人のドナと若いイラク人のライードに歓迎されました。ドナはバグダッドでの彼女の仕事について話しました。彼女は、イラクの若者が、戦争のトラウマから癒されるのを助けるセンターを作っていました。私たちは、私たちのホテルが、前夜、爆破されたホテルから3ブロックしか離れていないのがわかりました。ホテルの7階の私の部屋から、爆破されたホテルを見ることができました。

 その夜は、たびたび停電になりました。それはバグダッドでは日常茶飯事です。私は戦車が通り過ぎる音を聞きました。外で非常に大きな爆発音を聞いたとき、私たちは少し不安になりました。私たちはじきに、そんな音はほとんど毎晩聞こえることを知りました。

 19日金曜日、私たちのグループの数人が、バグダッドで一番大きいスーフィーのモスクへ行き、翌日の祈りの集会へ来るようにスーフィーたちを招待しました。正門に近づきますと、祈りの数珠、スカーフ、聖典を売っている露天商人がいました。数人の若いスーフィーたちが通りに立って、太鼓を叩きながら、唄ったり、唱えごとをしたりしていました。彼らの周りには喜びのオーラが取り巻いていました。私たちは大きな聖所に入りました。そこはもっとも尊敬されたスーフィーの聖人の1人であるアブダル・クワデール・アルジラーニの墓を取り巻いていました。

 中庭に入ると、私たちは主席長老(シャイフ)との面接に案内されました。彼は私たちを彼の部屋の中に歓迎し、こう言いました。「イスラム教は平和の宗教です……私たちは、ユダヤ教とキリスト教を含めて、あらゆる宗教を尊敬しています」。私たちはモスクを離れて、先に見たスーフィーたちに近づき、国立劇場での集会に招待するチラシを手渡しました。

 金曜日の午後、私たちは国立劇場まで歩いて行きました。そして劇場のディレクターに歓迎されました。その劇場は、戦争のあと、家具などが略奪された後、修理された、と彼は説明しました。劇場のスタッフは私たち全員を暖かく迎え入れてくれました。私がユダヤ人でイスラエルに住んでいると言った時でさえも。私たちは翌日のセレモニーのために、リハーサルとして数曲歌いました。