平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

フォトンベルト妄想(5)

2006年06月30日 | フォトンベルト妄想
【0】ヘッセ(といっても、あの有名なヘルマン・ヘッセではありません)はドイツでは長らく忘れられた作家でしたが、英語圏で広がったフォトンベルト妄想のおかげで、ドイツでも再発見されたようです。

ヘッセ(Paul Otto Hesse)は、地球が高エネルギーの場に突入することによって、すべての状態が劇的に変化するというアイデアを思いつき、1959年に『最後の審判の日』(Der juengste Tag)という題の本として出版しました。以下のサイトではヘッセのアイデアが説明されています。

http://www.holoenergetic.com/TX-trafomat.htm

私はヘッセの本は読んでいませんし、読む気も暇もありませんので、このサイトの情報だけでヘッセの説を紹介してみます。多くの読者の皆さんはドイツ語は読めないかもしれませんが、図だけでもご覧下さい。

ヘッセによりますと、太陽系はプレアデス星団の中心星アルシオーネ(Alcyone)という星を中心に2万4千年周期で回転しています。この星からは上下に(左右にと言っても同じですが)光の帯が出ています(図の白い帯です)。ヘッセはこの帯を「マナのリング」(der manasische Ring)と呼びますが、「マナ」というのは、旧約聖書で、エジプトから脱出したユダヤ人が砂漠で食べた、天から降ってきたという神秘的な食べ物です。この名称には、ヘッセの宗教的観念がよく出ています。

リングというので、これは帯ではなく、円盤状のリングだとヘッセはイメージしているようです。アルシオーネから何らかのエネルギーが出るとしても、なぜ球状ではなく、リング状になるのかよくわかりませんが、そういうことを詮索してみてもしかたがないのでしょう。

太陽系はアルシオーネの周囲の回転運動のために、「マナのリング」にかからない「闇の時代」と「マナのリング」に入る「光の時代」を定期的に迎えます。「闇の時代」は1万年続き、「光の時代」は2千年続きます。そのあとまた1万年の「闇の時代」に入ります。「闇の時代」は聖書でいう堕罪の時代です。「光の時代」に入ると、夜はなくなり、すべてのものが高エネルギーによって変容します。想念や感情も死者の霊魂も目で見えるようになります。そして、キリストと一体になった者たちだけが光の中で生きることができます。これが聖書でいう「最後の審判」だとヘッセは言います。そうすると、2千年続くという光の時代は、まさにヨハネ黙示録が語る至福千年王国に対応することになります。

ケンプさんの「物語」がヘッセの焼き直しであることは明白です。

ヘッセが『最後の審判の日』を出版したのは、1959年でした。人類最初の人工衛星は1957年に打ち上げられた、ソ連のスプートニク1号で、翌1958年にアメリカのエクスプローラ1号が打ち上げられました。しかし、初期の人工衛星は、ただ打ち上げたというだけで、高度な観測機器は積んでいませんでした。そんな時代に、「マナのリング」をヘッセがどうやって「発見」できたのでしょう? できるはずはありません。「マナのリング」はそもそも観測されない帯なのです。これはキリスト教の「最後の審判」を宇宙的な出来事として説明しようとする、まったくの思弁的なアイデア以外の何ものでもありませんでした。今ならさしずめ「宇宙存在からのチャネリング」と銘打っていたことでしょうが、ヘッセの時代にはそういう便利な言い方はありませんでした。

1万年+2千年=1万2千年という周期も、おそらくキリスト教から由来するでしょう。というのは、イスラエルの12部族やイエスの12弟子などというように、キリスト教においては12というのは重要な数字であるからです。

※この数字は別の論者たちによってのちに1万1千年+2千年=1万3千年に変更されますが、これについてはあとで説明します。

あと、ヘッセの図で印象的なのは、円周の一番外側にある黄道12宮です。黄道というのは、天球上で太陽が見かけ上1年かけて動く道です。西洋占星術ではここに12の星座を配置しています。

なぜ太陽が黄道を動くように見えるかというと、それは地球が太陽の周りを公転しているからです。地球が動くので、地球からは太陽が動くように見えるわけです。

さて問題は、春分における太陽の黄道上の位置です。これが少しずつ移動するのです。これが今までは魚座にあったのに、最近は水瓶座(アクウェリアス)に入ったと言われています。そこで、現代はアクウェリアスの時代である、などと言われるわけです。「入ったと言われています」という漠然とした言い方をするは、黄道上でどこからどこまでが水瓶座か明確にするのが難しいからです。

春分における太陽の黄道上の位置が変化するのは、地球の歳差運動のためです。地球はちょうどコマの首振り運動のような運動をしており、これを歳差運動といいます。そのため、太陽の見かけの位置が少しずつずれるのです。

ところが、ヘッセの観念(妄想)では、太陽はアルシオーネの周囲を回転しているので、その回転によって、太陽の黄道上の位置が移動するのだそうです。これは地球の歳差運動を、太陽のアルシオーネの周囲への回転にすり替える、まさにトンデモ理論です。そして、ヘッセの「マナのリング」は太陽が魚座(Fische)から水瓶座(Wassermann)に移行する場所にかかっています。まさに「マナのリング」がアクウェリアスの時代を告げるというわけです。

ヘッセの本は、普通ならばトンデモ本として、とっくに人々の記憶から失われていたことでしょう。ところが、それをオーストラリアの女学生が読んで、自分の「物語」にしたて上げ、それに「フォトンベルト」というもっともらしい名称を与えたのです。

【絵文録ことのは】によれば、この女学生の「物語」はその10年後、

【2】1991/02 オーストラリアの神秘系雑紙『Nexus Magazine』に上記「The Photon Belt Story」の内容が掲載される(ここからフォトン・ベルト伝説が広まる)。

ということになりました。この『Nexus Magazine』というのは、日本の『ムー』に相当する雑誌だといいますから、そのレベルがわかろうというものです。

太陽系がアルシオーネの周囲を2万4千年で1周するということは、科学的にまったくありえないことなのです。太陽系とアルシオーネの距離400光年を半径とする円軌道の長さを計算し、それを2万4千年で割ると、太陽は何と秒速3万キロ、光速の10%の速度で運動していることになります。これだけの速度で動くと、地球から見た星座の形が短期間で変形するはずですが、そういうことは起こっていません。

※ちなみに、地球が太陽の周りを回る公転速度は秒速30キロですから、秒速3万キロというのが、いかにべらぼうなスピードであるかがわかるでしょう。

太陽がプレアデスの周囲をこれだけの速度で回転するには、両者の間に強力な重力が働かなければなりません。紐に分銅をつけて振り回しますと、遠心力で紐が引っぱられます。分銅の速度が速くなると、遠心力はそれだけ強くなります。紐が弱いと、切れて、分銅がどこかへ飛んでいってしまいます。プレアデスと太陽の間の紐は重力です。太陽がプレアデスの周囲を光速の10%という超高速で運動するためには、強力な紐=重力が必要です。重力は例のニュートンの方程式で出せますが、それによればプレアデスには銀河1万個くらいの質量がなければなりません。

そんなことはありえません。プレアデスは銀河の中の一星団にすぎないからです。詳しくは:
http://kotonoha.main.jp/2004/09/24infamous-photon-belt.html

フォトンベルト妄想(4)

2006年06月26日 | フォトンベルト妄想
海外でのフォトンベルト妄想の発生の経緯については、Wikipediaでもリンクが貼られている【絵文録ことのは】というサイトが詳しく検証しています。

http://kotonoha.main.jp/2004/09/24photon-belt.html など

このサイトによると、フォトンベルト妄想は以下のように発生したといいます。

【1】1981/08 オーストラリア国際UFO空飛ぶ円盤研究誌(Australian International UFO Flying Saucer Research Magazine)12号に「フォトン・ベルト物語(The Photon Belt Story)」が掲載される。

これはシャーリー・ケンプ(Shirley Kemp)という女子大学生が書いた「物語」であって、ちゃんとした科学的レポートではありません。しかも、掲載紙が「オーストラリア国際UFO空飛ぶ円盤研究誌」というのですから、そのレベルと性格がわかろうというものです。

この「物語」の邦訳:
http://kotonoha.main.jp/2004/09/24photon-belt-story.html

ケンプさんの「物語」を読んでみましょう。

********************
 1932年、カール・デヴィッド・アンダーソンは反電子を発見し、陽電子と名づけました。1956年、反陽子と反中性子が発見されました。
 反粒子が形成されるとき、通常の粒子の世界に存在するようになりますが、普通の粒子と出会ってぶつかるまで、何分の一秒という時間にすぎません。粒子は消え、2つの粒子の質量の合計がフォトン(光子)という形のエネルギーに変換されます。これは、新しく前例のない強力なエネルギー源となります。フォトンはまさに近い将来、あなたの生き方となろうとしています。
********************

ここには、渡邊氏の説明に出ていた粒子と反粒子の衝突によるフォトンの生成という観念が見られます。このこと自体は真実です。しかし、前にも書いたように、フォトンは光=電磁波の一種であって、ごくありふれたものです。ですから、「これは、新しく前例のない強力なエネルギー源となります。フォトンはまさに近い将来、あなたの生き方となろうとしています」というのは、まったくのナンセンスです。粒子と反粒子の衝突によるフォトンが、太陽や電灯から出るフォトンと違う、新しい生き方の基礎になる性質を持っている、などという説を唱えている科学者はどこにもいません。

ケンプさんは続けます。

********************
フォトン・バンドは、1961年、人工衛星に搭載された機器によって外宇宙に発見されました。では、ここから400光年先にあるプレアデス――7姉妹――へと移りましょう。この星団はたくさんの国々の神話になっています。ギリシア神話、オーストラリア神話の「夢の時代」、中国の神話……・。少し天文学者の記述から引用してみましょう……。
********************

「フォトン・バンドは、1961年、人工衛星に搭載された機器によって外宇宙に発見されました」というのは事実ではありません。写真がありますか? 天文学の専門誌にその記事がありますか? それを事実だと主張なさりたい方は、どこにそういう事実が掲載されているか、その証拠を挙げる必要があります。しかし、探しても見つかるはずはありません。なぜなら、その当時の人工衛星はきわめて幼稚なもので、ハッブル宇宙望遠鏡のような撮影や測定はできなかったからです。

さて奇妙なことに、ケンプさんの話は「外宇宙」からいきなり「プレアデス」へとワープいたします。フォトン・バンドは外宇宙=銀河宇宙の外に発見されたのではないでしょうか? どうしてここで銀河系内の星団であるプレアデスが出てくるのか、まったく理解できません。

しかし、そういう文句を言ってもしかたがないのでしょう。これは科学論文ではなく、「物語」、一種の「おとぎ話」であるからです。真実性などは問題外で、なんとなくそれらしき雰囲気を楽しめばよい文章であるからです。

次にケンプさんは、「少し天文学者の記述から引用してみましょう」と言って、ホセ・コマス・ソラ(Jose Comas Sola)、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル(Friedrich Wilhelm Bessel)、アイザック・アシモフ、エドムンド・ハレーという実在の天文学者の名前をあげますが、いずれも古い人物で、フォトンベルト問題とは何の関係もありません。ただプレアデスについて何事かを語っている、というだけです。こういう名前を出すことによって、物語に一定の学問的雰囲気を与える、という効果をねらったものと思われます。

※これらのわりあいレアな名前(とくに前2者)がケンプさんの科学史の勉強によるものであるならば、その勉強ぶりをほめてあげてもいいと思いますが、私はこれは、次に出てくるヘッセの本の受け売りではないかと見ています。

ただし、これまでは「物語」の枕です。ケンプさんが言いたいのは次の段からです。

********************
ポール・オットー・ヘッセ(Paul Otto Hesse)も太陽が含まれるこの星系〔=プレアデス星団〕について特別な研究をおこない、太陽の軌道とちょうど直角に「フォトン・ベルト」あるいは「マナシック・リング」があることを発見しました。これは、科学者たちが研究室の実験では再現できていない現象です。
********************

ここでついに、主要テーマである「フォトン・ベルト」が出てきましたが、ケンプさんは、自分の文章に含まれる矛盾にさえ気づかない、相当にできの悪い学生さんであったようです。「科学者たちが研究室の実験では再現できない」現象を、ヘッセがどうやって発見できたのでしょうか? 「発見」というからには、写真とか電波とか何かのデータが必要なはずです。そんなデータがあるはずはありません。あれば、ほかの天文学者が再検証しているはずですが、そういう話は聞いたことがありません。

********************
 太陽がこの星系の軌道を一周するには2万4000年かかります。図に示したように、それはいくつかの部分に分かれています。1万年の闇の時代は、わたしたしたちが今いる昼と夜の時代です。それから2000年の光の時代、それからまた1万年の闇と2000年の光の時代となります。

 わたしたちは今、このフォトン・ベルトに入ろうとしているのです。それは避けられない……今から今世紀の終わりまで――しかしそれは避けられないのです! 一周回ってきて、最初に戻ったのです。これは聖書、あらゆる神話の本、ノストラダムス、現代の科学者によって記されています。

 地球が最初にフォトン・ベルトにはいったら、空は炎のように見えますが、確かなことは、これは冷たい光であり、そのために熱がありません。太陽が最初に入ったら、ただちに闇が訪れるでしょう。それは宇宙を進むスピードから計算して、110時間続きます。太陽放射とフォトンベルトの相互作用で、空は流星だらけのように見えるでしょう。地球がこの放射ベルトに入るとすぐ、すべての分子は励起し、すべての原子は変化し、物質は発光性となるでしょう。絶えず光があるのです。最も奥深い洞窟にも、人間の体の中にも、闇はなくなります。聖書をご覧なさい……「すべての星は空から落ち、空はもうない……」

・・・・・

 この宇宙には3種類の人たちがいます……わたしたちのように物質的な存在(corporeal)の固体の人類……気体状の存在(atmospherean)は部分的には固体ですが、分子構造はまるで異なっている……・エーテル的存在(etherean)はもはや物質を有していません。地球がフォトン・ベルトに入ったとき、通常の健康な人は自分の指を電気の通じたソケットに突っ込んだかのような衝撃を感じ、変成が完了します……あなたは物質的な人間から気体状の人間となったのです……(「そして汝は瞬く間に死から切り離された不死者へと変わるであろう」

 神学者は聖書の文字の中に深い意味を込めて書いてきました。彼らはこの光の時代に生きていたに違いありません。空と大気は違っており、決して雨は降りませんでした……ノストラダムスは4行詩の中で、わたしたちの知っている世界が1999年に終わると書いています……「もはや雨が降ることはないが、40年間、それが普通になる」

 アボリジニー神話ではこう言われています……「人は今とはまるで違っていた……星々への架け橋があった……」 その神話では、長老や年長者と争ったならば、空に逃げました。ギリシア人もそうでした。宇宙旅行は、フォトン・ベルトの中では簡単なように思われます。
********************

ここには、プレアデス、1万年の闇の時代と2000年の光の時代、フォトンベルトへの突入による地球の大変化と人類の変容など、のちのフォトンベルト妄想のすべての種が出そろっています。

この「物語」を読んでみると、著者のケンプさんが、うろ覚えの科学的知識を適当につなぎ合わせて、一種の終末幻想を語っていることがよくわかります。そしてよく注意していただきたいのですが、ケンプさんはこの終末幻想を1999年、つまり例のノストラダムスの予言と結びつけています。ケンプさんは、フォトンベルトへの突入が1999年と関係しているとほのめかしているように思われます。それは、この「物語」が書かれたのが、1981年、つまり1999年以前であることに起因しているでしょう。

しかし、ご存知のように、1999年には「恐怖の大王」が空から降ってくるどころか、大きな異変は何も起こりませんでした。五島勉氏をはじめとする終末論者の期待もむなしく、1999年は空振りに終わってしまいました。

そこで、今日のフォトンベルト妄想は、終末を1999年ではなく、2012年に移していますが、これについてはあとで述べます。

ところが、この終末幻想は、ケンプさん独自の創作ではなく、パウル・オットー・ヘッセというドイツ人の説の焼き直しなのでした。

つまり【1】の前に【0】があるのです。それがヘッセなのです。


フォトンベルト妄想(3)

2006年06月25日 | フォトンベルト妄想
渡邊氏はさらにこう述べています。

「1991年、アメリカの天文学者ロバート・スタンレー博士は人工衛星の観測データから、プレアデス星団付近にあるフォトン・ベルトの存在を科学的に突き止めている。」

渡邊氏は先に、「1996年宇宙空間に浮かぶハップル宇宙望遠鏡は、宇宙の遥かかなたに存在する<フォトン・ベルト>の撮影に成功した」と書いていました。ところが、それ以前の1991年に「アメリカの天文学者ロバート・スタンレー博士」が「プレアデス星団付近にあるフォトン・ベルトの存在を科学的に突き止めて」いたのだそうです。

変ではありませんか?

1991年にフォトンベルトの存在が科学的に突き止められていたのであれば、その時にその科学的証拠があがっていたはずです。ところが、その証拠が1996年(1999年?)の写真だというのであれば、つじつまが合いません。

渡邊氏の文を善意に解釈すれば、これは「ロバート・スタンレー博士はフォトン・ベルトの仮説を出した」ということなのでしょう。

ところが、それにしてもやっぱり変です。なぜなら、証拠写真の極リングは銀河規模で存在します。ところが、スタンレーの説はフォトンベルトはプレアデス星団付近にあるというのです。

プレアデス星団というのは、日本では「すばる」と呼ばれる星の集まりです。谷村新司の名曲「昴(すばる)」をひくまでもなく、その明るさの故に、古来より日本でも非常に有名な星です。

Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%B9%E6%98%9F%E5%9B%A3

プレアデス星団は、地球から約400光年という、宇宙的規模では比較的近いところにある星団で、もちろんわが銀河系の内部の星団です。そんな小さな星団の周囲にできるフォトンベルトは、銀河NGC 4650Aの周囲に観測された円盤とはまったく違う性質のものに違いありません。

上記Wikipediaの写真を見てみると、星々の周囲に青い霞のようなものが見えますが、これは「星々とは元々関係のない星間ガスが、星団の光を反射しているため」です。星の周囲にガスが広がっているケースは非常に多くありますが、それは決していわゆるフォトンベルトではありません。

前にも述べたように、星や銀河の周囲に何かが光っていたとするならば、それはガスやチリです。フォトンそのものが星の周囲に浮かぶなどいうことはありえません。

しかもプレアデス星団は非常に有名ですから、その周囲に浮かぶ星間ガスの存在は、1991年以前から知られていました。それをロバート・スタンレー博士がフォトンベルトだと言うのであれば、この博士は相当なトンデモ博士です。博士号を持っている人の中にもおかしな人はたくさんいます。

ここでもう一度Wikipediaの「フォトンベルト」を参照下さい。

********************
・太陽系はプレアデス星団のアルシオーネを中心として約26,000年周期で回っている。地球はまもなくフォトンベルトに突入し、2000年間続く。
・フォトンベルトは銀河系に垂直に分布しており、NASAが観測に成功している。地球は約26,000年周期で銀河の中を進行しており、まもなくフォトンベルトに突入する。
********************

フォトンベルトには少なくとも2つの説があるのです。1つはプレアデス星団と関連づける説、もう一つは「銀河系に垂直に分布している」という説。後者の説が、NGC 4650Aの印象的な写真をもとにして作られていることは明白です。しかし、この二つは両立しません。そのスケールがあまりにも違うからです。

しかも渡邊氏はロバート・スタンレー博士の次の言葉を引用しています。

 “この濃密なフォトンは、われわれの銀河の中心から放射されている。わが太陽系は、1万1千年ごとに銀河系のこの部分に進入し、それから2000年かけて通過し、そして2万6千年の銀河の軌道を完結させる”

これによると、「フォトンは、われわれの銀河の中心から放射されている」のだそうです。そうすると、このフォトンベルトは、

(1)プレアデス星団とは直接関係はない
(2)フォトンベルトはわれわれの銀河(それはアンドロメダ星雲のように円盤状であることがわかっています)の水平面に位置しているのであって、垂直に直交しているのではない。

ということになります。

渡邊氏の叙述には、フォトンベルトについて3つの観念がごちゃ混ぜに出ています。しかし実は、これは渡邊氏の混乱であるばかりではなく、フォトンベルト説が生まれた海外の混乱がそのまま反映しているのです。



フォトンベルト妄想(2)

2006年06月24日 | フォトンベルト妄想
これだけでも、渡邊氏がいかに「トンデモ」であるかがおわかりのことと思いますが、フォトンベルト信者のために、渡邊氏のデタラメぶりを以下で詳しく説明いたしましょう。

まずNASAや国立天文台は、フォトンベルトなるものは存在しない、と明言しています。しかし、フォトンベルト信者は、そういう公的組織は情報を隠蔽しているのだ、と主張します。これは、アメリカ政府がUFOや宇宙人についての情報を持っているのにそれを隠蔽している、というのと同じ性質の議論です。隠蔽しているという主張は、そう主張している側が、その証拠を明らかにする必要があります。しかし、隠蔽されているものは調べようがないので、結局、言いっぱなしになります。隠蔽している、という議論は、論理的には反証できない議論で、そうかもしれないし、そうでないかもしれない、としか言いようがありません。しかし、トンデモ論者が自分に都合の悪い時は隠蔽説に持っていく傾向があることは、わきまえておいたほうがよいでしょう。

ここでは、隠蔽説にされがちなNASAや国立天文台の発表によらず、世間に流布しているフォトンベルト論の真偽を検証していくことにします。

渡邊氏はこう述べています。

「1996年宇宙空間に浮かぶハップル宇宙望遠鏡は、宇宙の遥かかなたに存在する<フォトン・ベルト>の撮影に成功した」

これは本当でしょうか?

まず細かなことを言いますと、「ハップル宇宙望遠鏡」ではなく、「ハッブル」です。渡邊氏は有名なハッブルの名も知らない方のようですね。そのハッブル宇宙望遠鏡のサイトはここです。

http://hubblesite.org/

ここで「photon belt」で検索(search)してみてください。該当情報はありません。つまり、ハッブルはフォトンベルトなるものを撮影していないのです。

渡邊氏のいう「宇宙の遥かかなたに存在する<フォトン・ベルト>」とは、どうやらこの写真のことを言っているようです。

http://www.geocities.com/lightworkers2012/j.html

この写真では、たしかに銀河を円盤状の光が垂直の方向に取り巻いているように見えます。これはNGC 4650Aという銀河です。ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した写真の中でも最も有名なものの一つで、ハッブルはこれを全然隠してなどいません。

この銀河は上記ハッブルのサイトでも紹介されています。ただし、この写真が撮影されたのは、1996年ではなく、1999年です。

http://hubblesite.org/newscenter/newsdesk/archive/releases/1999/16/image/a

その説明を邦訳してみましょう。

********************
約1億3千万光年のかなたにあるNGC 4650Aは、わずか100しか知られていない極リング銀河の一つです。その珍しい円盤状の構造はまだ十分に解明されていません。一つの可能性は、極リングは、はるかな過去に起こった二つの銀河の大規模な衝突の残滓であるということです。それは少なくとも10億年前のことでしょう。一つの銀河の残りは、中心部の古い赤い星々からなる内側の回転する円盤になりました。他方、あまりに近づきすぎたもう一つの小さいほうの銀河は、ひどいダメージを受けたか破壊されました。衝突中に、小さいほうの銀河から出たガスは、はぎ取られ、大きいほうの銀河に捕まり、チリ、ガス、星からなる新しいリングを形成したのでしょう。それは、内側の銀河の周囲を古い円盤に対してほぼ垂直の角度で回っているのです。

Located about 130 million light-years away, NGC 4650A is one of only 100 known polar-ring galaxies. Their unusual disk-ring structure is not yet understood fully. One possibility is that polar rings are the remnants of colossal collisions between two galaxies sometime in the distant past, probably at least 1 billion years ago. What is left of one galaxy has become the rotating inner disk of old red stars in the center. Meanwhile, another smaller galaxy which ventured too close was probably severely damaged or destroyed. During the collision the gas from the smaller galaxy would have been stripped off and captured by the larger galaxy, forming a new ring of dust, gas, and stars, which orbit around the inner galaxy almost at right angles to the old disk.
********************

ここからわかることは、

(1)このような「極リング」を持つ銀河は非常に珍しい
(2)極リングは「チリ、ガス、星」から構成されている

ということです。

太陽系が属するわれわれの銀河がこのような極リングを持っているかどうかわかりませんが、おそらくその可能性はないと思われます。なぜなら、そういうリングがあれば、ちょうど銀河中心部が天の川として見えるように、地球の夜空にそれが観測できるはずだからです。

たとえ私たちの銀河がそのような極リングを持っていたとしても、それは「チリ、ガス、星」であって、フォトンベルトなどではありません。

そもそもNGC 4650Aに極リングが見えるということは、光子が何かにぶつかって、地球にまで届いていることを示しています。光子が光子のままドーナツ状にぷかぷか浮かんでいるなどということはありえません。円盤状の「チリ、ガス、星」があるからこそ、それが光って見えるのです。

なお、写真の赤い小さい部分が本来の銀河であり、細長い部分が極リングです。しかし、フォトンベルト信者たちのサイトでは、写真を90度回転させ、細長い部分を銀河に、赤い部分をフォトンベルトに見せかけているように思われます。


フォトンベルト妄想(1)

2006年06月23日 | フォトンベルト妄想
いまニューエイジ系の人々の中で、「フォトンベルト」なる言葉がはやっているようです。

「フォトンベルト」とは文字通りフォトン=光子のベルトのことです。フォトンベルトについては、インターネット上の無料百科事典のWikipediaが簡潔に説明しています。この言葉を知っている方も知らない方も、一度お読み下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

海外ではフォトンベルトについては1981年から語られるようになったのですが、日本でこの言葉を広めたのは、『フォトン・ベルトの謎』(2002年5月・三五館発行)の著者、渡邊延朗氏でしょう。

※渡邊氏はエハン・デラヴィ氏からこの情報を入手したものと思われます。

渡邊氏はホームページでこう述べています。

********************
 1996年宇宙空間に浮かぶハップル宇宙望遠鏡は、宇宙の遥かかなたに存在する<フォトン・ベルト>の撮影に成功した。
 このフォトン・ベルトは光エネルギーに満ちており、そこを通過するのに2000年という気が遠くなる時間を要する。確かなことはその領域は人類にとって全くの未知の空間だという事である。
 1991年、アメリカの天文学者ロバート・スタンレー博士は人工衛星の観測データから、プレアデス星団付近にあるフォトン・ベルトの存在を科学的に突き止めている。博士は報告書に次のようにしたためた。

 “この濃密なフォトンは、われわれの銀河の中心から放射されている。わが太陽系は、1万1千年ごとに銀河系のこの部分に進入し、それから2000年かけて通過し、そして2万6千年の銀河の軌道を完結させる”と。

フォトンとは光エネルギーのことで日本語には「光子」と訳されている。
フォトンは太陽からも発生している。物理学的に解説すると、いわゆる光は光の粒々としては光子(フォトン)であり、波としては電磁波と呼ばれる。
そして、この光子が電磁気的な力を媒介しており、そういう力の働いているところが<電磁場>と呼ばれている。

フォトンとは、反電子(陽電子)と電子との衝突の結果生ずるもので、二つの粒子は、この一瞬の衝突によって互いに破壊し合い、この衝突の結果生じるものが、フォトンとか光の粒子とか呼ばれるエネルギーに完全に変換される。  
それは素粒子の物理的崩壊によって得られる光以上のものとされ、多次元の振動数を持つ次元間エネルギーであるとされる。

さらにフォトンはきわめて高次元の電磁波エネルギーであり、そのエネルギーは全ての生命体を原子レベルから変成させ、遺伝子レベルの変容も行い進化させるといわれる程である。 しかも寿命は無限大とされる。

 最近、太陽活動に大きな異変がみられ、極めて憂慮すべき事態にあるのだと報告されている。
 1999年イギリスのラザフォード・アップルトン研究所のグループは、“太陽の磁場に異変がみられる”と発表した。研究グループの発表では、太陽の磁場が過去100年間でなんと2倍以上になっていることが分かったというのである。太陽の磁場の長期的な変化が分かったのはこの時が初めてだった。
 さらに過去100年間で0.5度気温が上昇した地球温暖化の原因との関係も、原因は太陽磁場の変化にあると研究チームのリーダーであるM.ロックウッド博士らはみているとも重ねて見解が発表された。

 このようにいま地球的規模、いやそれ以上に宇宙的規模で大異変が起こり始めている。
たとえばいま国際的に大問題となっている地球温暖化現象も、実は原因はCo2ではなく、このフォトン・ベルトによる影響と考えられる。
********************
http://www.net-g.com/photon/reset0.html

一読して、渡邊氏が科学についてはまったく無知であることがよくわかります。

「フォトンとは、反電子(陽電子)と電子との衝突の結果生ずるもので、二つの粒子は、この一瞬の衝突によって互いに破壊し合い、この衝突の結果生じるものが、フォトンとか光の粒子とか呼ばれるエネルギーに完全に変換される。  
それは素粒子の物理的崩壊によって得られる光以上のものとされ、多次元の振動数を持つ次元間エネルギーであるとされる。」

皆さんが今ご覧になっているコンピュータのモニターからはフォトンが放射され、それを目がキャッチして、この文字を読んでいます。しかし、このフォトンは「反電子(陽電子)と電子との衝突の結果生じたもの」ではありません。フォトンは「反電子(陽電子)と電子との衝突」からも生じますが、それが唯一ではありません。電球や蛍光灯からもフォトンは生じます。フォトンなどというから何か特別なものだと錯覚しますが、要するに光です。

光は電磁波の一種です。電磁波のうち、目に見える範囲の波長のものを光というのです。光には粒子としての性質と波動としての性質の両面があると言われています。

「素粒子の物理的崩壊によって得られる光以上のもの」とは何でしょうか? 原子が崩壊するときにはα線、β線、γ線という3種類の放射線が放射されます。α線の正体はヘリウム原子核、β線は電子、γ線は電磁波=光子、すなわちフォトンです。γ線は可視光よりも波長の短い電磁波です。「光以上のもの」とは、α線かβ線のことでしょうか? そうではなさそうです。

また、陽子や中性子などの素粒子の崩壊の際には、光子以外に、中間子(湯川秀樹博士は中間子を理論的に予言してノーベル物理学賞を受賞なさいました)やニュートリノ(東京大学名誉教授の小柴先生はニュートリノの研究でノーベル物理学賞を受賞なさいました)などが放出されます。「素粒子の物理的崩壊によって得られる光以上のもの」とは中間子やニュートリノのことをいうのでしょうか? いいえ、どうもそうでもないようです。

※細かいことを言うと、ベータ崩壊の際にニュートリノも放出されます。

渡邊氏が言うフォトンとは、「多次元の振動数を持つ次元間エネルギー」なのだそうです。しかし、そういうものは現在の物理学では検出されていません。検出できないものは観測もできません。

観測できないものがどうして、「宇宙の遥かかなたに撮影」できるのでしょうか? 撮影できたのであれば、それは通常のフォトン、つまり光以外のものではありません。

それとも、すべてのフォトンは「多次元の振動数を持つ次元間エネルギー」だと言いたいのでしょうか? すると、私たちはわざわざフォトンベルトなどに入らなくても、毎日、太陽や電灯から「多次元の振動数を持つ次元間エネルギー」を浴びていることになります。



自衛隊のイラク撤退

2006年06月22日 | Weblog
政府は6月20日に、サマワに派遣している自衛隊を撤退させることを正式発表いたしました。これは、同地域を警備しているイギリス軍が撤退するのに便乗したものです。

当初から、自衛隊の海外派兵は憲法違反ではないか、という疑念があり、自衛隊のイラク派兵に関して国内世論が一致していたわけではありません。自衛隊はサマワの給水や復興で一定の成果をあげましたが、はたして「費用対効果」という視点から見て、使ったお金だけの成果であったかどうかは疑問が残ります。

自衛隊がこの地を去るのは、この地の復興が完了し、秩序が回復したからではありません。まったく逆で、イラクの混乱がますます深まり、このままでは自衛隊がアメリカ軍と一緒に泥沼に引きずり込まれることが明白だからです。万が一、武装勢力の攻撃で自衛隊員に死傷者が出た場合、小泉首相と日本政府への批判は避けられません。イギリス軍が撤退してくれるのは、まさに渡りに船でした。

このイラク派兵は、結局のところ、イラクにはアメリカ以外の国も派兵しているのだ、ということを示すための、小泉政権のブッシュ政権への協力以外の何ものでもありませんでした。

イラク戦争開始の直前、アメリカのスペースシャトル・コロンビア号が墜落し、天はアメリカとブッシュ大統領に対して、明確な警告を発しました。しかし、ブッシュ大統領はこの警告を無視し、戦争に突入しました。天の意志に反した行為が惨めな失敗に終わることは当然です。今、ブッシュ大統領の支持率は史上最低だそうです。ブッシュ大統領は、史上最悪の米大統領としてその名を歴史に残すでしょう。

国連安保理の支持を得られなかったアメリカは、最後まで開戦に躊躇していました。しかし、日米同盟の絆を断つことはできない、という理由で、小泉氏は開戦を支持しました。日本がアメリカの真の友人であるならば、開戦を思いとどまるように、必死でアメリカを説得すべきでした。平和を守れという明確な天の意志を実行するのに、何を恐れる必要があったでしょう。アメリカが開戦したのには、小泉氏も一定の責任があります。この戦争によって、どれだけ多くの人びとが死に、傷ついたことでしょうか。

イラク戦争によって、アメリカは途方もない負債(経済的、精神的、カルマ的)を背負い込みました。このままではアメリカの滅亡は必至でしたが、アメリカ人にとってはありがたいことに、昌美先生が今年の4月、1カ月間にわたってアメリカでお浄めをし、また多くの世界平和の祈りのメンバーがアメリカの内外でアメリカのために祈りを捧げました。

あとはアメリカ人が一日も早く迷妄から目ざめ、イラクから撤退することです。このままイラクにいても、アメリカ兵が殺され、イラク人が殺されるだけで、何の展望も開かれません。もちろん、米軍がイラクから撤退しても、イラクの秩序が回復する見込みはありません。アメリカは何の成果もなく、ただ破壊だけを残してイラクを去るという、その現実を直視し、自分がなした行為を深く反省する必要があります。イラクの再建は国連が主体になるしかないでしょう。アメリカは国連に頭を下げなければなりません。

自衛隊は一人のイラク人も殺しませんでした。自衛隊はこのことを誇ってよいと思います。つらい環境の中で厳しく自己を律し、無事任務を果たして帰国する自衛隊の皆様には、「お帰りなさい。ご苦労様でした」と申し上げたいと思います。



天皇皇后両陛下の東南アジアご訪問(5)

2006年06月20日 | Weblog
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   (関連質問)

問1  陛下にお伺いいたします。先程お話になったところにも出ましたが,今回のご訪問先のリー・クァンユー元首相が最近の日本とアジアの状況について自叙伝の自分の中でお考えを述べられております。5月に来日したアブドゥラ首相も日本とアジアの関係についてですね懸念を表明されていますが,陛下は15年前の東南アジア訪問の際に,戦争の惨禍を繰り返さず平和国家として生きる決意を表明され,昨年はサイパンを両陛下で初めての海外慰霊の旅を実現され,その両陛下のお姿は今回の訪問先でも大きな関心を持って受け止められた,と聞いております。先程のお話の中でも出ましたが,こうした時代状況の中で両陛下は,改めて東南アジアを訪問されるというのは訪問それ自体が歴史的な新たな一歩だと思うんですが,平和をアピールするという意味においてですね,両陛下がそれぞれの国の架け橋となるということも私たちは期待を持っておるんですが,こうした時代の中で平和を願うという両陛下の気持ちをですね,果たされる,そういうご訪問の意義についてもし付け加えることがあればお気持ちをお聞かせ願えればと思います。

天皇陛下  今日お話したことで平和を願う気持ちとかそういうものは大体尽くしていると私は考えます。やはり,これまでの歴史というものを十分に理解しその上に立って友好関係が築かれていくということが大切なことではないかと思っております。
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今上陛下のお答えどおり、「今日お話したことで平和を願う気持ちとかそういうものは大体尽くしている」のです。関連質問をした記者は、天皇陛下にもっと「平和をアピール」してもらいたいと思ったのでしょうが、その背後には、小泉外交への批判が感じられます。しかし、天皇に外交を批判させようというのは、天皇の政治利用になります。いまだこういう愚かな記者がいることは残念です。そんなに「平和をアピール」したいのであれば、天皇陛下のお言葉をもっと詳しく自分の新聞で報道すればよいのです。

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問2  1問目の体調管理のご回答の中で,両陛下はかなり体調に気遣われていることを感じました。両陛下は日々多くの公務を務めて,特に外国ご訪問前になりますと,準備を含め非常にお忙しい日々をお過ごしのことと思いますが,陛下は公務の軽減について,また,皇族方への公務の分担についてどのようにお考えでしょうか。

天皇陛下  さっきもお話しましたように,天皇の在り方というものに伴う公務というものを考えていきますと,やはり,それを今軽減するということは特に考えていません。ただ,心配してくれている人もいますから,十分に健康には気を付けていきたいと思っています。
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70歳を超えた今上陛下は、決して体調万全というわけではありません。皇后陛下もそうです。そういう状態を押して国際親善のために働いてくださっている両陛下のお姿に、日本国民はもっと深い敬意と感謝を示してしかるべきであると思います。

何はともあれ、両陛下が東南アジアのご旅行からお元気に帰国なさったことを慶賀したいと思います。



天皇皇后両陛下の東南アジアご訪問(4)

2006年06月19日 | Weblog
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問5  次の質問を伺わせていただいてよろしいでしょうか。昨年,皇室典範に関する政府の有識者会議では,以下のような発言がありました。伝統は変動しないものではありません。「その時代で創意工夫しながら,大事な本質を維持しようとして格闘してきた結果が伝統なのではないかと考えられます。」この度訪問されますタイ王室も長い伝統と歴史があります。日本の皇室の後継者について世間が語る中で,伝統の維持と時代の変化に伴う工夫につきまして,お考えをお聞かせいただけませんでしょうか。

天皇陛下  天皇の歴史は長く,それぞれの時代の天皇の在り方も様々です。しかし,他の国の同じような立場にある人と比べると,政治への関(かか)わり方は少なかったと思います。天皇はそれぞれの時代の政治や社会の状況を受け入れながら,その状況の中で,国や人々のために務めを果たすよう努力してきたと思います。また文化を大切にしてきました。このような姿が天皇の伝統的在り方と考えられます。明治22年,1889年に発布された大日本帝国憲法は,当時の欧州の憲法を研究した上で審議を重ね,制定されたものですが,運用面ではこの天皇の伝統的在り方は生かされていたと考えられます。大日本帝国憲法に代わって戦後に公布された日本国憲法では,天皇は日本国の象徴であり,日本国民統合の象徴であるということ,また,国政に関する権能を有しないということが規定されていますが,この規定も天皇の伝統的在り方に基づいたものと考えます。憲法に定められた国事行為のほかに,天皇の伝統的在り方にふさわしい公務を私は務めていますが,これらの公務は戦後に始められたものが多く,平成になってから始められたものも少なくありません。社会が変化している今日,新たな社会の要請に応(こた)えていくことは大切なことと考えています。
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このお答えは日本の天皇制のあり方について、きわめて適切な見解を表明なさっていると思います。そして、天皇を「日本国の象徴」とする「戦後に公布された日本国憲法」を、「天皇の伝統的在り方に基づいたもの」ととらえています。

このブログの「三島由紀夫について」でも述べましたが、三島由紀夫はこのような戦後の天皇制を激しく憎悪しました。三島は天皇を政治的な権力の中心にすえた天皇親政を目指し、しかも天皇と軍を栄誉の紐帯で結びつけることを望みました。しかし、天皇と政治と軍を結びつける三島の天皇観は、日本の伝統の中にあってはきわめて異質なものです。それは、二・二六事件の首謀者・磯部浅一に影響された、いびつな観念でした。

現在でも、いわゆる保守派の中では三島由紀夫の人気は絶大なものがありますが、彼の天皇観は、昭和天皇によっても今上陛下によっても明確に否定されていることを、私たちははっきりとわきまえておかなければなりません。そして昭和天皇も今上陛下も、現在の日本国憲法を尊重し、それに忠実であろうとなさっていることを、改憲論者は知らなければなりません。


天皇皇后両陛下の東南アジアご訪問(3)

2006年06月16日 | Weblog
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   (在日外国報道協会代表質問)

問4  まず,第1の質問なんですけれども,愛国心を促す方向で日本の教育基本法の改正が進められています。しかし,陛下がこの度訪問されます国も含めました近隣諸国では,そういった動きが戦前の国家主義的な教育への転換になるのではと恐れられています。陛下もそうした見解に共鳴されますでしょうか。

天皇陛下  教育基本法の改正は,現在国会で論議されている問題ですので,憲法上の私の立場からは,その内容について述べることは控えたいと思います。
 教育は,国の発展や社会の安定にとって極めて重要であり,日本の発展も,人々が教育に非常な努力を払ってきたことに負うところが大きかったと思います。
 これからの日本の教育の在り方についても,関係者が十分に議論を尽くして,日本の人々が,自分の国と自分の国の人々を大切にしながら,世界の国の人々の幸せについても心を寄せていくように育っていくことを願っています。
 なお,戦前のような状況になるのではないかということですが,戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。その原因については歴史家にゆだねられるべきことで,私が言うことは控えますが,事実としては,昭和5年から11年,1930年から36年の6年間に,要人に対する襲撃が相次ぎ,そのために内閣総理大臣あるいはその経験者4人が亡くなり,さらに内閣総理大臣1人がかろうじて襲撃から助かるという異常な事態が起こりました。帝国議会はその後も続きましたが,政党内閣はこの時期に終わりを告げました。そのような状況下では,議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。
 先の大戦に先立ち,このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ,そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。
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これはかなりきわどい質問です。このような政治的な質問に対して、天皇が憲法上、直接答えられないことは、天皇陛下のおっしゃるとおりです。

ただし、「日本の人々が,自分の国と自分の国の人々を大切にしながら,世界の国の人々の幸せについても心を寄せていくように育っていくことを願っています」というお答えの中に、天皇陛下のお気持ちが十分に出ていると思います。

日本人が日本を愛すること、つまり愛国心を持つことは、当然のことです。それはアメリカ人がアメリカを愛し、中国人が中国を愛するのと同じことです。しかし、愛国心は他国への敵対心や憎悪と同じではありません。ところが、愛国心が他国への憎悪と表裏一体の形で説かれている国があります。これは21世紀にそぐわない、まったく時代遅れの観念です。

しかし、他国がそうしているからといって、日本も同じことをする必要はありません。日本はそういう自他差別的・相対的愛国心を超え、自国を愛しながら、他国も尊重できる広い心になってこそ、真の「国家の品格」が生まれてくるのです。

今日の日本人に愛国心が不足していることは事実だと思います。しかし、だからといって、戦前のように、国のために滅私奉公を強調しても、そんな観念に若い人は誰もついてきません。それを教育の場を通して強制的に教え込もうとすると、様々な無理が生じます。

ここで思い出されるのは、2004年10月28日の園遊会での、天皇陛下と将棋の米長邦雄氏との対話です。東京都教育委員の米長氏が、「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べたところ、天皇陛下は、「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」とお答えになりました。

愛国心を重視する人々が、国旗・国歌を強制しようとするのは、まさにひいきの引き倒しで、かえって国旗・国歌への反発心を強めるだけです。天皇陛下は、そういう強制という形ではなく、国民一人一人が自国を大切にしながら、同時に世界平和を祈るような人間になってほしいと願っているのです。

天皇陛下が、「昭和5年から11年,1930年から36年の6年間に,要人に対する襲撃が相次ぎ,そのために内閣総理大臣あるいはその経験者4人が亡くなり,さらに内閣総理大臣1人がかろうじて襲撃から助かるという異常な事態」について触れているのは、きわめて重大です。天皇陛下は、今日の政治風潮の中に、5・15事件から2・26事件に至るまでの、あの暗い時代との類似性を感じとり、それに警告を発しているとも受け取れます。立憲君主制を破るこのようなテロに昭和天皇は激しく怒りましたが、憲法への忠誠は今上陛下にも引き継がれています。



天皇皇后両陛下の東南アジアご訪問(2)

2006年06月16日 | Weblog
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問2  天皇陛下に伺います。両陛下は,即位されてから初めての外国訪問でタイなどの東南アジア諸国を訪問されました。東南アジア諸国は,日本と貿易・投資などを中心に密接な関係がありますが,先の大戦によって,日本に対する複雑な思いも残る地でもあります。戦後60年を経て再び訪問されることに,どんな思いがおありでしょうか。

天皇陛下  戦後日本は東南アジア諸国との友好関係を大切にはぐくんできました。かつては経済協力が中心でしたが,近年では交流の分野が広がってきていることは非常にうれしいことです。この度訪れるシンガポール,マレーシア,タイには大勢の在留邦人がおり,それぞれの国との協力関係の増進に努めているということは心強いことです。この度の訪問が日本とそれぞれの国との相互理解と友好関係の増進に少しでも資するならば幸いに思います。
 先の大戦では日本人を含め多くの人々の命が失われました。そのことはかえすがえすも心の痛むことであります。私どもはこの歴史を決して忘れることなく,各国民が協力し合って争いの無い世界を築くために努力していかなければならないと思います。戦後60年を経,先の大戦を経験しない人々が多くなっている今日,このことが深く心にかかっています。
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この言葉は、天皇陛下がいまだ「先の大戦」を深く心にかけていることを示しています。そして、「各国民が協力し合って争いの無い世界を築くために努力」を求めています。このような努力が少し足りないのではないか、と陛下はお感じになっているようです。

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問3  両陛下に伺います。両陛下は,昭和天皇の名代としてのご訪問も含め,長年にわたり,各国の王室や人々と交流を重ねられ,培われた友情の大切さについて去年の会見でも触れられました。これまでにはぐくまれた友情や交流の積み重ねを,皇太子ご夫妻を始めとする次代の皇族方にどのように引き継いでいきたいとお考えでしょうか。

天皇陛下  私どもが皇太子,皇太子妃のころは,日本にいらっしゃった王族方をよく東宮御所にお招きし,子どもたちも小さい時からご挨拶に出るように努めてきました。ベルギーのボードワン国王王妃両陛下が外国訪問の帰途,一日を東宮御所で過ごしたいと言っていらっしゃった時には,子どもたちが植えた畑の芋堀りをして両陛下にお見せしたり,国王陛下が小さい秋篠宮のピンポンの相手をしてくださったりして,子どもたちとも遊んでくださいました。また,皇太子の高校時代,清子の大学時代にはスペインのご別邸に招いてくださいました。清子はまたボードワン国王崩御後間もない時に,ファビオラ王妃陛下にお招かれし,崩御になったそのスペインのご別邸で,王妃陛下とボードワン国王をおしのびしつつ心に残る時を過ごしています。翌年,清子はタイを旅行し,国王王妃両陛下にお目にかかっていますが,ちょうどその同じころに,両陛下の王女,シリントーン王女殿下が日本を訪ねておられ,私どもと夕食を共にしていたという楽しい偶然もありました。  皇太子も秋篠宮もオックスフォード大学留学中には各国の王室をお訪ねしています。ちょうど,皇太子が留学中に,私どもがノルウェーを昭和天皇の名代として訪問することになった時には,公式日程の始まる前の週末を当時ノルウェーの皇太子,皇太子妃であった現在の国王王妃両陛下のおもてなしで,留学中の皇太子も一緒に,ベルゲン付近を船で巡り,楽しい一時を過ごしました。また,私どもがベルギーに立ち寄った時には,国王王妃両陛下はオランダのベアトリクス女王陛下とクラウス王配殿下をお住まいのラーケン宮に招いてくださり,そこに留学中の皇太子も加えて,楽しい一夜を過ごしました。秋篠宮は留学中,研究の関係で何度かオランダに行っていますが,その都度女王陛下始め王室の方々から温かいおもてなしを受けました。王子方がライデン大学の学生街のお住まいに秋篠宮を招いてくださったこともありました。秋篠宮がオランダを離れた直後に,今,出発したところだと,その滞在がとても良かったことを意味するお手紙を女王陛下から頂いたことなど今でも懐かしく思い起こされます。
 このようにして,私どもと交流のあった王室とは,皇太子も秋篠宮もそれぞれが家庭を持った今日も,交流が続いています。3年前には小学生であった秋篠宮家の子どもたちが秋篠宮同妃と共に,タイを旅行し,国王王妃両陛下にお目にかかっています。交流は次の世代にも続いていくのではないかと思います。

皇后陛下  住む国も違い,その国々もほとんどが距離を遠く隔て,お互いが出会う機会は決して多くはないのですが,それでも世界のあちこちに,自分たちと同じ立場で生きておられる方々の存在を思うことは心強いことであり,励まされることでもあります。
 私自身は20代の半ばに皇室の者となりましたので,昭和天皇をお始めとし,それまでに皇室の方々が既にお築きになってこられた外国王室とのご交流にあずかるところが多く,恵まれた形でこの世界に加えていただきました。とりわけ陛下が19歳のお若さで英国女王陛下の戴冠式(たいかんしき)にご列席になり,その後の欧米諸国ご訪問も加わって,多くの知己を得ていらしたことは,私が入内(じゅだい)後,各国王室の方々と交わっていく上で大きな助けになっていたと思います。
 近年各国において,私どもの次世代に当たる若い王族の方々が次々と成人され,またご結婚になり,そうした方々を御所にお迎えする機会が急速に増えてまいりました。このような時,かつて私どもの子どもたちが,お訪ねした国々で,王室の方々に優しく遇していただいていたことが改めて思い出され,そのご親切をお返しする気持ちでお迎えしております。子どもたちに関する幾つかの事例は,陛下がお話くださいましたので,私は重複を避けますが,親同士の親しい交わりが,このようにごく自然に次世代に受け継がれていく中,これからは,子ども同士の交わりが一層深まっていくことを,楽しみにしております。
 陛下の世代は,国や年齢で多少の差こそあれ,だれもが戦時及び戦後の社会変動を経験し,戦後の民主化の進む社会において,王室や皇室がどのような役割を果たしていけるかという,共通の課題を持った世代であったと思います。同時に,国家間の平和を不可欠なものと思い,二度と他国と戦を交えたくないという悲願もあり,こうした皆の間の共通の意識が,お互いを引き寄せ,友情を深める基盤になっていたように思います。
 時代は移り,王室や皇室の姿も少しずつ変化を見せるかもしれませんが,そこに生きる人々が,心を合わせて世界の平和を願い,また,それぞれの国において,自分たちの在り方を常に模索しつつ,国や国民に奉仕しようと努力している限り,お互いが出会う機会は少なくとも,王族皇族同士は同じ立場を生きる者として,これからも友情を分かち合っていくことができるのではないか,私どもの次の世代の人々も,きっとそうして絆(きずな)を深め合っていくのではないかと,考えています。
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第二次世界大戦を当事者として経験しなければならなかった昭和天皇、戦争の傷跡の残っている戦後の時代を生きてこられた今上天皇、そして戦争が歴史の一コマとなるであろう時代に生きる現皇太子――三者それぞれ役割の違いはありますが、「心を合わせて世界の平和を願い,また,それぞれの国において,自分たちの在り方を常に模索しつつ,国や国民に奉仕しようと努力」においてはかわりありません。

政治は、損得、勝ち負け、支配・被支配の生臭い世界です。しかし、政治に直接タッチしない皇族や王族は、そういうどろどろとした世界を離れ、純粋に世界の平和を願い、国際親善を促進することができる立場にあります。立憲君主制というシステムは、古くさいどころか、これからの時代に最も必要とされる制度であるのかもしれません。日本がそういうシステムをもっていること、そして皇室が常に高い理想を忘れていないことは、大変幸せなことです。日本の皇室は、いわば日本の道義性の中心に位置しているのです。


天皇皇后両陛下の東南アジアご訪問

2006年06月15日 | Weblog
天皇皇后両陛下が、6月8日~15日、シンガポール、タイ、マレーシアをご訪問なさいました。出発前の記者会見の内容が宮内庁のホームページに掲載されています。とても考えさせられる内容ですので、ここに転載し、私の感想を付け加えさせていただきます。
http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h18singapore-01.html

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天皇陛下  質問に十分にお答えできないといけないので,書いてきましたので,それを基にしてお話したいと思います。

   (宮内記者会代表質問)

問1  天皇皇后両陛下に伺います。今回,タイとマレーシアは15年振り,シンガポールはご即位後初めてのご訪問となります。それぞれの国に対する印象や今回のご訪問への抱負をお聞かせください。ご訪問先はいずれも高温な地域ですが,体調管理について両陛下でご相談されていることがあれば併せてお聞かせください。

天皇陛下  この度,外交関係樹立40周年を迎え,シンガポールを訪問し,またタイ国王陛下の即位60周年記念式典への参列のためにタイを訪問いたします。両国訪問の間の週末にはマレーシアに過ごし,平成3年,1991年のマレーシアの訪問の時,訪問を中止したペラ州を訪れることになっています。
 シンガポールには皇太子,皇太子妃として36年前の昭和45年,1970年に訪問し,大統領ご夫妻にお目にかかり,リー・クァンユー首相とは私どものために開かれた晩餐会でお話する機会を得ました。独立後,日も浅く,国造りに努力している時で,何もないジュロン地区にソテツの木を植えたことが思い起こされます。今はこの地が日本庭園となっており,その木と日本庭園を見ることを楽しみにしています。この訪問からほぼ10年後,サウジアラビア,スリランカを訪問の後,シンガポールに立ち寄りました。
 今回の訪問はそれから25年振りのことになります。その間にシンガポールは発展し,一人一人の生活は非常に豊かになり,かつて訪れた造船所などに加え,ITやバイオなどの新しい企業も増えていると聞いています。この度の訪問で今日のシンガポールへの理解を深めていきたいと思っております。この訪問が両国民の間の相互理解と友好関係の増進に少しでも資することになればうれしいことです。
 マレーシアにはシンガポールと同じ時に訪問しました。マレーシア国王王妃両陛下の日本への国賓としてのご訪問に対する答訪のために,昭和天皇の名代として訪問しました。マレーシアでは国王は5年の任期で交代することになっており,訪問時には既に次の国王に代わっておられましたが,答訪の意味を考え,前国王の出身州ペルリス州に前国王,王妃をお訪ねしました。その時のペルリス州の皇太子が今の国王で,昨年国賓として日本へいらっしゃいました。この度は首都クアラルンプールで国王王妃両陛下に再びお目にかかります。また平成3年,1991年にマレーシアを訪問した時,インドネシアの山林火災で空港に着陸することができず,訪問を中止した当時の国王の出身州ペラ州を,ほとんど当時の日程どおりに訪問します。当時の国王を始め,ペラ州の人々が私どもの訪問を待っている状況の下で訪問を中止したことは常に私の念頭を離れないところでありましたが,今回その訪問を果たし,今は国王の位を退いていらっしゃるアズラン・シャー殿下,妃殿下に再びペラ州でお目にかかれることをうれしく思っています。
 二度目の訪問で非常に印象に残っていることはクアラルンプール近郊のゴム林がアブラヤシ林に変わったことです。
 タイにはタイ国王王妃両陛下の日本への国賓としてのご訪問に対する答訪のために,42年前の昭和39年,1964年に昭和天皇の名代として,皇太子妃と共に訪問しました。国王王妃両陛下からは非常に手厚いおもてなしを頂き,その様々な行事が懐かしく思い起こされます。チェンマイの離宮にも国王王妃両陛下が飛行機でお連れくださり,両陛下と三晩の思い出深い滞在をしました。その間には陛下のご運転で山道を走り,途中から徒歩でモン族のを訪れたこともありました。国王王妃両陛下も私どもも皆30代の時のことでした。この訪問の時,日本にかつて留学した人々から贈られた雄の子象メナムは上野動物園に飼われ,訪れる人々を喜ばせていましたが,惜しくも4年前に亡くなりました。私どもの子どもたちも乗せてもらったことがありました。
 その後も昭和の時代には外国訪問の途次タイに立ち寄り,その都度国王王妃両陛下をお訪ねしていました。しかしベトナム戦争により,タイ国内も状況が厳しくなり,かつて訪問時に皇太子妃の接伴に当たった王族の一人もゲリラのために命を失うということが起こってきました。夕食を頂いている時も緊迫した状況が感じられ,両陛下にはさぞご心痛,ご苦労のこととお察ししていました。国王陛下が外国訪問をおやめになったのもこの時期のことでした。
 平成3年,1991年,即位後最初の外国訪問国としてタイを訪問した時,タイが平和になったことをつくづく感じました。国王陛下が,外国訪問の長い中断後,メコン川に架かった橋を渡ってラオスをご訪問になったのもこのころだったように記憶しています。 即位以来様々な苦労と努力を重ね,今のタイを築く上に大きく寄与なさった国王陛下が,この度即位60年をお迎えになることは誠にめでたく,心から祝意をお伝えしたいと思います。
 タイの記念式典に参列する方々には,今までに何度かお会いした方々も多く,再びお会いするのを楽しみにしています。
 この度初めて訪れるのはアユタヤです。アユタヤは歴史的に日本との関係も深く,この度の訪問でアユタヤへの理解を深めたいと思っています。
 この度の訪問先はいずれも高温な地域であり,日程はかなり忙しい日程になっています。皇后も病後のことであり,心配していますが,滞りなくこの訪問を終えることができるよう,健康には十分気をつけて務めていきたいと思っています。

皇后陛下  振り返りますと,タイを初めて公式に訪問いたしましたのは,昭和39年(1964年),私が30になったばかりの頃でございました。
 この時の訪問は,その後27年を経た平成3年(1991年)の公式訪問と共に,私にとり今も決して忘れることのない,大切な思い出になっております。
 滞在中には,チュラロンコン,タマサート,カセツァートの3大学を訪問し,また,かつての日本留学生との交流会に臨むなど,若々しいプログラムが組まれていました。国王王妃両陛下がご同道くださったチェンマイでは,ご一緒に山岳地帯に住むモン族のを訪ね,その地方における王室プロジェクトの一端に触れるという,得難い経験もいたしました。バンコク,チェンマイ間の飛行中,国王陛下がそっとお席の陰から愛用のクラリネットを出して見せてくださり,私どものお願いを容(い)れ,ベニー・グッドマンの「メモリーズ・オブ・ユー」を吹いてくださったことも,懐かしく思い出されます。
 この2回の公式訪問の間にも,他国訪問の途次,何回かバンコクを経由地として選び,その都度,両陛下とのお交わりを深めてまいりました。常に国民の福祉を思われ,様々な形で国と国民を守っていらっしゃるお姿に,深い敬愛の気持ちを抱いており,また,礼節を重んじるタイの国民性に対しても,いつも好ましく感じてまいりました。この度のプミポン国王のご在位60年の祝典には,ご招待を受けた者の一人として,タイの人々と共に,心からの奉祝の意を込めて参列したいと思っております。
 今回,シンガポールからタイに向かう途中の土曜日をマレーシアで過ごします。先に陛下もお触れになりましたように,15年前の公式訪問の時,上空の状態が悪く,予定されていたクアラカンサーへの飛行が不可能になりました。やむを得なかったこととは申せ,歓迎を準備してくださっていた地方への日程取消しは心苦しく,この度,立ち寄り国としてマレーシアの再訪を許され,その時の日程をほぼ再現して果たせますことを,うれしく思っております。
 昭和45年(1970年)の初めての訪問の折,マレーシア北端のペルリス州でご両親殿下と共に私どもを迎えてくださり,最後に空港で見送ってくださった皇太子殿下が,現在のマレーシア国王でいらっしゃり,この度はクアラルンプールで私どもを迎えてくださいます。
 平成3年の国賓としての訪問も,私には忘れ難く,この時心を込めてご接遇くださったアズラン・シャー国王陛下ご夫妻とこの度再びお会いできますことを,うれしく思っております。これまでマレーシアの各地で出会った人々からは,穏やかで明るく,良い印象を受けてきました。この度のクアラカンサー訪問で,これまでに多くの優れた人材を輩出したマレー・カレッジを訪問するなど,マレーシアの思い出にさらに新しい頁(ページ)を加えられることを楽しみにしております。
 平成に入り二度目の訪問ということで,タイとマレーシアにつき最初にお答えいたしましたが,今回まず最初に訪問いたしますのはシンガポールであり,この久々の訪問も,楽しみに,心待ちにしております。
 シンガポールを初めて公式に訪問いたしましたのは,マレーシアと同じく昭和45年(1970年)で,シンガポールは独立から4年目を迎えていました。新しい国造りの熱気にあふれ,非常に若々しい国との印象を特に強く受けましたのは,建設の始まったばかりのジュロンの工業地帯を訪問し,大勢の港湾労働者のにぎやかな歓迎を受けた時でした。シンガポールの建国以来25年にわたり首相の任を負われ,現在も内閣顧問として国政を見守られるリー・クァンユー元首相とは,この時初めてお会いいたしましたが,その後も,シンガポールで,また,東京で,度々にお会いする機会を持ちました。氏が常に世界を視野に置き,その時々の時代を分析しつつ,シンガポールの進む道を真剣に模索されていることに感銘を覚え,また,その都度,世界の諸問題につき,学ぶことが多ございました。また一方で,私どもが南米の旅で見逃した南十字星を,是非シンガポールで見たいと思っていることを知られると,夜分宿舎に星の専門家を送ってくださいましたり,また夫人は先述のジュロンで,陛下と私が植樹したソテツの成長した様(さま)を写真に撮られ,日本訪問の折に見せてくださいますなど,いつも優しい,こまやかな心遣いをしてくださいました。
 この度の訪問は,中一日の短い日程ですが,前回の公式訪問から36年を経,更にたくましく,美しく発展したと聞くシンガポールで,旧知の方々を始め,現在の指導者や市民の人々とも交流を持つことを,楽しみにしております。ナザン大統領閣下とは,この度初めてお会いいたしますが,常々シンガポールに生活する日本人の社会を,温かく見守っていてくださると伺っており,そのことへの感謝をお伝えするとともに,この度のご招待に対し,心からのお礼を申し上げたいと思います。
 体調管理については,今も陛下が月々に治療を受けておいでですので,やはりそのことは,常に心のどこかにかかっています。私にできることは,毎朝の散策をご一緒することくらいですが,旅行中はできるだけ陛下と行動を共にし,陛下のお疲れの度合いを推し測れるようでありたいと思っております。
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質問1に対するお答えは、天皇皇后両陛下の、受けた恩義(ちょっと変な表現かもしれませんが、あえて使わせてもらいます)を決して忘れず、それに対して並はずれた感謝の心をもち、それに何としても応えたいという、義理がたいまでのお気持ちがよく出ています。

1991年のマレーシアの訪問の時、ペラ州の訪問が中止になったのは、インドネシアの山林火災という自然災害のためで、別に天皇皇后両陛下の責任ではありません。しかし、そのとき果たせなかった約束を今回果たそうというのです。ひとたびなさった約束、ひとたび発した言葉に対する深い責任感を感じます。政治家たちが、国民に対して行なった約束(公約)を次々と破って、それを指摘されても、「そんなこと大したことじゃない」と開き直るのとは大違いです。

両陛下のお言葉からは、両陛下とタイ、マレーシアの王族の方々との非常に親しいおつきあいの様子がうかがわれます。タイの国王陛下が自分で車を運転して山道を走ったり、飛行機の中でクラリネットを演奏したりというのは、両者の間によほど親しい心の交流がなければありえないことだと思います。このような交流は、両国の親善にとっても実に貴重な財産です。

こういう親日国を日本は大切にしなければなりません。ことあるごとに日本の悪口を言う国にODAなどを出すのはやめて、こういう国々にお金を使ったほうがいいですね。


ルクソールの絵(6)

2006年06月14日 | Weblog
Hさんから、その後の様子を報告する手紙をいただきました。それによりますと、6月3日のお浄めのあとから、頭と体が徐々にスッキリしてきて、ずいぶんお元気になったようです。そして6日の明け方、神様から啓示をいただいたといいます。それは、今までとりついていた霊の名前を教えられ、その名前を紙に書き、その紙を彼女が日頃からよくお参りしている谷保天満宮に収め、そこでおたきあげするように、という内容であったとのことです。

今まで自分ではできなかった画業の整理も、一日何時間も立ちっぱなしでできるようになり、喜んでおられました。

あらためて、世界平和の祈りと印の光明力を教えてもらいました。

ルクソールの絵(5)

2006年06月11日 | Weblog
翌6月4日は富士聖地の行事の日でした。バスがいつもより早めに着いたので、9時の祈りに間に合いました。本館道場に入ると、いつもは私は左側にすわるのですが、その日は右側にすわりました。そちらのほうがすいていて、何となくすわりやすそうな感じがしたのです。

祈りが終わると、札幌のIさんが私に声をかけてくれました。私のすぐうしろにすわっていたのです。

Iさんはこう言いました。

「昨晩、非常にリアルな、あまりにもリアルな夢を見たんですが、その中にNさん、あなたが出てきたんです。私とNさんは二人で、小舟で海の上にいました。周囲には多くの船があり、その船から機関銃で私たちをいっせいに射撃してくるんです。ところが、二人のまわりにはバリアのようなものがあり、大部分の弾はそこではじかれて、全部海に落ちてしまうんです。一発だけNさんの体にあたりました。このあたりです(と言ってIさんは左のわき腹あたりを指差しました)。するとNさんは、《こんなもの大したことないんですよ》と言いました。すると、その弾が体から出てきて、ぽろりと下に落ちたんです。あまりにも不思議な夢でした」

Iさんとは長年のおつきあいですが、北海道と首都圏と離れていて、普段はIさんのことを考えることはありません。ましてや、自分がIさんの夢に出ようなどと思ったことはありません。普段すわるはずのない位置にすわり、Iさんに会ったことは不思議です。

Iさんの夢の話を聞き、これは前日の浄めのことを教えてもらったような気がしました。

私はあまり恐怖心は出ないほうなのです。昔、ある白光の会員さんが恐山に行って、その後数年間寝込んだ、という話を聞いていましたが、2004年に友人たちと恐山のお浄めをしました。恐怖心など微塵もありませんでした。恐山はたしかに幽界波動の世界でしたが、世界平和の祈りの大光明に守られ、同行者の誰もおかしくなったりしませんでした。

ところが今回、ルクソールの絵では、一瞬ひるむ想いが出ました。そういう弱気のために、友人たちにも応援を依頼する気になったのでしょう。それが心の隙になったのだと思います。それは肉体の上には左足首の痛みという形で出現し、Iさんの夢の中では、弾丸が一発あたるという形に現われたのでしょう。

応援を頼んだ友人は誰も来ることができず、結局、私ひとりで浄めなければなりませんでした。そして浄めることができたのです。これはやはり私が責任をもって果たさなければならない課題だったのでしょう。

今回学んだことは、世界平和の祈りを祈っている私たちには、どんな幽界波動であれ、恐ろしいものは何ものもなく、恐れるべきは自分の内部の恐怖心だけである、ということでした。


ルクソールの絵(4)

2006年06月09日 | Weblog
3日正午に国立駅で待ち合わせしましたが、友人たちは誰も来ていませんでした。あとから聞くと、メールを見るのが遅れたり、その日には別の用件があったりして、誰も来られなかったのです。Hさんの様子が急変して、突然翌日に行くことになったので、それもしかたありません。

Hさんのお宅に行くと、息子さんとお嫁さんが出迎えてくれました。そして、寝ていたと思われるHさんを連れて来ました。Hさんは血の気が失せ、まさに半病人といった状態でした。「絵の整理を始めてから、上から何かにのしかかられるような重苦しい気分で、何をする意欲も湧いてこない状態がつづき、ついに6月1日には錯乱状態になった」とのことでした。

そしてさらにHさんが言うには、例のルクソールの絵は、いくら探してみても見つからなかったのだそうです。Hさんは自分で収納した場所を記憶していたのですが、今回、あけてみるとそこにはなかったそうです。息子さんもお嫁さんも、「自分たちが片付けた記憶はない」とのことです。Hさんは、「自分で処分したのかもしれないが、その間の記憶がまったく消えてしまっている」とのことでした。

そのほかに、スフィンクスの絵や、彼女が「汚れの絵」と呼ぶ、幽界波動を写した、気にかかる絵は、どれも見つからなかったそうです。これはいったいどういうことなのでしょう? この世的に考えれば、Hさんが自分で処分してしまったのに、そのことを忘れてしまっている、という可能性が最も高いです。あるいは、霊的体質のHさんのことですから、何らかの形でその絵がテレポテーションして、消滅してしまったのかもしれません。

目的の絵は見つかりませんでしたが、美術館の床には、彼女が数十年間にわたって描きためた絵が、一面に置かれていました。それらの絵と建物の各室を、各種の印と柏手で浄めました。浄めていると、ものすごいエネルギーがおりてきて、体から汗が噴き出ました。浄めが終わると、Hさんの顔には生気と笑顔が戻っていました。美術館の波動は確実に浄まり、次元が上昇しました。私の心の中には安心感が生まれました。

ルクソールの絵(3)

2006年06月07日 | Weblog
瀬木理事長は、若いころアメリカに留学し、アメリカ人の友人がいました。その友人が原因不明の病気になり、苦しんでいましたので、その写真のお浄めを村田先生にお願いしました。村田正雄さんは、五井先生も認めた稀代の霊能者で、霊界も人間の過去世も自由自在に霊視できる方でした。すると村田先生は写真を見るなり、関西弁で、「これはミイラやがな」と言われたとのことです。つまり、そのアメリカ人の友人は古代エジプト人の生まれ変わりであったのですが、その人に縁のある霊が、ミイラの中に閉じこめられ、いまだに苦しんでいるのだそうです。

古代エジプトの王族は、自分の肉体をミイラとして永遠に保存しようと考えました。これは、人間の霊としての本質を知らない、誤った観念です。そういう誤った信念をもった人々が多数ミイラとして葬られているのが、ルクソールの王家の谷です。

ルクソールでは1997年にテロ事件が起こり、62人の観光客(そのうち10人は日本人)が殺害されました。まさに幽波動の拠点で、Hさんが気分が悪くなったのも当然です。

Hさんの手紙を読み、瀬木理事長の話を思い出した私は、一瞬、「こいつはちょっと手強いな」と思いました。しかし、救いを求めてきた人を浄めるのは、五井先生の弟子である私の当然の役目です。自分一人ではたいへんかもしれないので、友人たちにメールで応援を頼みました。幸い、何人かの強力な友人が援助を申し出てくれました。

その日の夜は、前もって申し込んでいた講演会に出かけました。道を歩いていると、左足首に違和感をおぼえました。とくに強い痛みではないのですが、普通ではありません。しかし、最近、くじいたような記憶もとくにありません。

翌朝、起きてみると、その左足首が赤く腫れ上がり、強い痛みを感じ、ほとんど歩くこともできません。その日は、風呂のボイラーが故障し、また、家内が私の使っているコーヒー茶碗を割るなど、変なことばかりが起こりました。

さらに1日様子を見ても、足の具合は変化しないので、医者に診てもらうことにしました。レントゲン撮影をしても骨に異常はありません。医者は痛風を疑いましたが、血液検査の結果、尿酸値も高くないことがわかりました。医者は、湿布と鎮痛剤を処方してくれました。病院に行ったのが5月29日の月曜日ですが、湿布と薬が効いたのか、30日にはだいぶ楽になり、31日には腫れも引いてきたので、医者も、もう大丈夫です、と言ってくれました。原因のよくわからない関節炎、という診断でした。

Hさんには、私と友人たちがHさんの美術館に行って、その絵をお浄めするので、都合のよい日を教えてほしいと連絡し、6月24日にうかがう約束になっていました。

ところが、6月2日の朝になって、Hさんから、「昨日、精神錯乱の状態になり、病院に運ばれた。しばらくしてから意識がもとに戻ったので、家に帰ることができた。自分はいまエジプトの暗い波に押しつぶされそうである。口ではうまく言えないので、これからファックスで手紙を送る」ということでした。電話で様子をうかがっても、たしかに尋常ではありません。

ファックスには、「自分が死んでも、エジプトの波は浄まらない。あの絵を自分の家でおたきあげすることはあまりにも危険だ。昌美先生にお浄めしていただき、富士聖地でおたきあげしてほしい」と書いてありました。

昔ならそういうことも可能であったかもしれませんが、今は、お忙しい昌美先生にそういうことをお願いできるような時代ではありません。Hさんのすがりつくような気持ちもよくわかります。精神錯乱になるというのは、よほどのことです。これは早くお浄めしなければ危ない、と思いました。

私は折り返しHさんの息子さんに電話して、「明日の3日に美術館におうかがいして、お母さんが気にしているルクソールの絵を浄めるので、その絵を捜し出し、用意しておいてほしい」と伝えました。それから、協力を申し出てくれていた友人たちに、3日の正午に国立駅で待ち合わせることをメールで伝えました。メールを出したのは2日の夜の11時ころでした。