平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

均衡ある発展

2007年08月23日 | 世界平和瞑想デー
いま北海道の小樽に来ています。

テレビのニュースを見ていたら、8月22日には東京では最高気温が37度にのぼり、電力需要が今年最大になったとのことです。柏崎・刈羽原発の停止もあり、停電が危惧されましたが、大企業や官公庁の節電によって、なんとか停電は回避されたとのことです。

今年の北海道も例年に比べるとかなり暑いですが、首都圏とは比べものにはなりません。どんなに暑くても、夜、寝苦しいということはありません。エアコンを使う必要もありません(そもそも持っていません)。

北海道のニュースでは、景気の悪い話が多いです。例の「白い恋人」の賞味期限ごまかし問題については、すでによくご存じでしょうが、それ以外の話題では、北海道の大学生の就職率が全国平均よりも5%低いそうです。それは、大学生の地元志向と、企業の求める能力と学生の希望職種のミスマッチが原因だ、という分析でした。

小樽の人口は、私がこの町で高校まで通っていた昭和40年ころには20万人でした。それが現在は13万人です。町を歩くと、あちこちに空き店舗、空き事務所、空き家、空き地が目立ちます。北海道でまずまず景気がいいのは札幌だけで、あとの都市は沈滞気味です。北見では東急デパートが閉鎖され、500人の従業員が職場を失うというニュースがありました。

日本経済が回復基調にあるといっても、それは東京だけの話で、地方は疲弊しています。先の参議院選挙では、そういう地方の不満が爆発したのではないでしょうか。

東京に権力、お金、情報、人間が集中することは、ある意味では効率的ですが、一極集中は様々な歪みも生み出します。それは結局、東京にもはね返ってくるのです。

今回の電力危機はその一例です。地球温暖化が加速し、しかも新たな原発も作れないということになれば、毎年のように夏には電力危機を迎えることになるのかもしれません。

東京で使う電力は、みな地方で作られています。新潟県や福島県は原発を引き受けて、東京のために電気を供給しているのです。電力会社がいうように、原発がそんなにクリーンで安全な電力源だというのなら、東京に原発を作ればいいわけですが、それに賛成する都民はいるでしょうか? 東京は地方の犠牲の上に、繁栄と便利な生活を享受しているのですが、それも限界に達しています。

東京の権力、お金、情報、人間を一部、地方にゆずり、地方の均衡ある発展をはかることは、政治の急務だと思います。


パール博士と東京裁判

2007年08月16日 | Weblog
8月15日に北海道に来ました。この日は釧路で35度になるという猛暑日で、首都圏そのままの暑さでした。しかし、今日16日は雨が降り、気温も30度以下に下がりました。寒暖の差が激しいですが、このまま涼しい日が続くことを期待します。

8月14日にNHKで東京裁判の判事を務めたインドのパール博士の番組を見ました。

東京裁判というのは、第二次世界大戦の終結後、東京で開かれた「極東国際軍事裁判」の通称です。これは、ナチス・ドイツを裁くために開かれたニュルンベルク裁判とセットで開かれた国際軍事法廷でした。

東京裁判には様々な問題があり、日本人はこの裁判をどのように受けとめるべきか、一致した見解をもっていません。

東京裁判の最大の問題は、戦争の勝者が敗者を裁いたという点にありました。勝者はまず強かったから戦争に勝ったのであって、必ずしも正しかったから勝ったのではありません。一寸の虫にも五分の魂といいますが、敗戦国側にも戦争をせざるをえなかった事情がありました。戦勝国側の主張がそのまま正義ではありません。ところが、東京裁判では勝者が法の名、正義の名において敗者を裁いたのです。

東京裁判の判事団は、イギリス、オーストラリア、オランダ、アメリカ、中国、フィリピンなど、戦勝国、あるいは日本によって被害をこうむった国々の出身者によって構成されていました。つまり、事件の当事者の一方が判事になったわけで、これではとうてい公正な裁判などありえないことは、誰にでもすぐにわかります。もし正義の名において公正な裁判をするのであれば、日本人や、戦争に関係のなかった国々出身の裁判官も選ばなければならなかったはずです。

ニュルンベルク裁判では、戦勝国側の裁判官と並んで、ドイツ人の裁判官も裁きの場に加わりました。ナチスのホロコーストは、ドイツ人から見ても犯罪として裁くしかない行為であったのです。

もし日本の戦争がナチスのホロコーストと同じ犯罪であるというのであれば、日本人の裁判官も判事団に加えればよかったはずです。

日本軍が戦争中に「戦争犯罪」の名に値するいくつかの残虐行為を行なったことは事実だろうと思います。もしそれらを犯罪として裁くのであれば、戦勝国側の同種の行為に対しても同じ基準が当てはめられてこそ、それははじめて普遍的な正義となります。たとえば、広島・長崎に対する原爆投下は、ナチスのホロコーストに匹敵する非戦闘員に対する無差別虐殺であり、これが戦争犯罪でなければ、戦争犯罪などというものは存在しません。

日本人を判事団に加えれば、必ず原爆投下の問題が議論になったはずです。それを避けるために、アメリカは日本人を判事団に加えなかったのです。この史上まれな戦争犯罪を行なったアメリカの大統領も軍人も処罰・処刑されませんでした。

この一事を見ても、東京裁判が、裁判に名を借りた勝者の復讐劇であり、インチキ裁判であったことがよくわかります。

東京裁判の欺瞞性に勇気をもって異議を唱えたのがインドのパール博士でした。

インドはイギリスの植民地であり、インドの裁判官はもともと戦勝国側の一員として選ばれたのです。それは、東京裁判を国際的な軍事法廷としての体裁を整えるための選出にすぎませんでした。ところが、イギリスの植民地支配に苦しんだインド人であるパール博士は、イギリスら欧米諸国の欺瞞を見抜いたのです。

法律家としてのパール博士が東京裁判を批判したのは、「裁判憲章の<平和に対する罪>、<人道に対する罪>は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない」という判断によるものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB

第二次世界大戦が開始された当時、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という概念は存在しませんでした。これは、ニュルンベルク裁判でナチスを裁くために作られた新しい概念です。

事後法というのは、そういう罪の概念がなかったのに、出来事のあとから、ある行為を罪とする法律を作ることです。いわば、ゲームの途中でルールを変更するようなもので、それまでのゲームでは手を使うことは問題なかったのに、途中から手を使うのは犯則だ、と言うようなものです。

「平和に対する罪」と「人道に対する罪」というのはこういう内容です。

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〈平和に対する罪〉とは,〈侵略戦争を,または国際条約,協定,誓約に違反する戦争を計画し,準備し,開始し,実行したこと,またはこれらの行為を達成するための共同の計画や謀議に参加したこと〉であり,その責任は国家機関の地位にある者であっても個人に負わされる。〈人道に対する罪〉とは,〈犯罪の行われた国の国内法に違反すると否とにかかわらず,これらの裁判所のいずれかの犯罪の遂行としてまたはこれに関連して行われるところの,戦前または戦争中における,あらゆる一般住民に対して犯された殺人,殲滅(せんめつ),奴隷化,強制的移送およびその他の非人道的行為,もしくは政治的・人種的または宗教的理由に基づく迫害〉である。ここにいう〈人道に対する罪〉は,戦争中のみならず戦争前の行為(とくに迫害)を含み,その国籍を問わず一般住民に対する行為によるものであるが,自国民に対する犯罪行為や迫害を主たる対象としている。
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平凡社大百科事典より

NHKの番組でも述べられていましたが、〈平和に対する罪〉の「共同謀議」というのはイギリスの法概念で、国際的な認知をうけた概念ではありませんでした。ましてや、ナチスに対してはこれが当てはまるとしても、いわば行き当たりばったりに戦争を拡大していった日本に対してはとうてい適用不可能な概念でした。

〈人道に対する罪〉に含まれる「一般住民に対して犯された殺人,殲滅」ということであれば、原爆の使用がまさにそれに妥当します。原爆という「人道に対する罪」を不問にしたことは、この裁判の正当性を根底からくつがえしました。

パール博士は、親日家であったから東京裁判を批判したのではなく、純法理論的に批判したのであり、彼の批判は現在でも反駁不能です。最初、戦勝国側判事として日本を裁こうとしていたオランダのレーリンク判事も、パール博士の正しさを認めざるをえなくなりました。

パール博士はガンジーを尊敬する敬虔なヒンズー教徒でした。その根底にあるのは、ガンジーと同じ非暴力平和主義でした。そういう立場からすれば、戦争そのものが許されない行為でした。ですから、パール博士は日本を全面的に弁護したのではなく、日本の戦争犯罪を厳しく批判もしています。ただし、「バターン死の行進」や「南京虐殺」について日本を断罪するパール博士の判断は、当時の戦勝国側の証言に基づくところが大きく、必ずしも公平なものとは思えません。

日本を裁くことができるものが存在するとしたら、東京裁判のような勝者の裁きではなく、絶対的な平和を求める神の視点のみであり、それは同時に戦勝国側をも裁かずにはいないのです。日本が東京裁判を受け入れたということは、戦勝国側の歴史観や論理を受け入れたということではなく、神の立場に立って、明治以降の軍国主義の歴史を否定し、平和主義を国是としたということ意味するのです。

東京裁判は、侵略戦争は犯罪である、として日本を裁いた裁判でした。事後法によるこの裁きは不当でしたが、侵略戦争が犯罪である、という法概念がいったん確立した以上、今後はこの法で裁くことは事後法にはなりません。しかし、その後、朝鮮戦争、チベット侵略、中東戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など、数多くの戦争が起こされましたが、毛沢東にせよ、金日成にせよ、アメリカ大統領にせよ、戦争指導者が戦争犯罪人として国際法廷で裁かれたことはありません。セルビアのミロシェビッチが唯一の例外だと思いますが、それはセルビアが戦争に負けた弱小国であったからであって、勝者あるいは強国の指導者が法と正義の名において裁かれたことは一度もありません。

神の裁きを受け入れた日本は、世界で唯一、戦争を犯罪として否定する権利を有している国なのです。


映画『ヒロシマナガサキ』

2007年08月09日 | Weblog
今日は8月9日の長崎原爆忌です。8月6日は広島で過ごしましたが、今日は自宅で11時2分の黙祷に参加しました。黙祷の中でなぜか涙が流れました。

そのあと、神保町の岩波ホールで『ヒロシマナガサキ』というドキュメンタリー映画を見ました。

これは日系3世のスティーヴン・オカザキ監督が作った映画で、英語の題名は「White Light/Black Rain」です。

被爆者の証言を主体に、映像と、被爆者の方の描いた絵で、広島・長崎の原爆の被災の実態を物語る映画です。映像の中には、当時アメリカ軍が撮影したカラーのものもあり、その悲惨さは目を覆うものがあります。

映画の導入は、渋谷で若者たちに、1945年8月6日に何が起こったか知っていますか、と尋ねる場面です。映画の登場したすべての若者がそれを知りませんでした。これは、編集でそういう無知な若者だけを集めたのか、それとも今日の日本の若者の大部分がそうなのか、ちょっとわかりません。日本でもそういう状態なら、まして世界では広島・長崎のことを知っている人は少ないでしょう。

知識としては原爆のことを知っていても、その被害の実態を写真や絵でもいいからかすかに知っている人となると、さらに少ないでしょう。そういう無知を啓蒙する意味で、こういう映画は必要だと思います。とくに、アメリカをはじめ、核保有国の国民に観てほしいと思います。いや、日本の中でも、平気で核武装論を唱える人々が増えていますから、日本人も観る必要があります。

映画の中には原爆の開発や投下に関わったアメリカ人も数人登場します。彼らはすべて、国のために当然のことをしたまでで、罪の意識も後悔の念も感じていない、と言います。しかし、最後に、カークという人が、

「何人か集まると、必ずバカな奴がこう言う。「イラクに原爆落としゃいいんだ!」 核兵器が何なのかまるでわかちゃいない。わかっていたら言えないことだ」

と言います。カークは、やはり心の痛みを感じているのです。

映画では、原爆の投下と日本への勝利を誇るトルーマンの姿もありました。そのトルーマンも本当は罪の意識にさいなまれていたのです。彼は朝鮮戦争のときには、原爆を使いませんでした。そういう良心のかけらが残っているかぎり、人類は同じ過ちを繰り返すことはないでしょう。

しかし、指導者の良心が麻痺して、他者の痛みが感じられなくなると、危険です。昨日のブログで紹介したリーパーさんが、「戦争文化に侵されている人たちが退場する前に小型核兵器を使うかもしれない」と危惧しているとおりです。世界平和の祈りは、そういう指導者の良心を目覚めさせ、彼らの狂気をはらう働きがあります。

映画のあとに、ソプラノ歌手のコロンえりかさんが、「被爆のマリアに捧げる賛歌」を歌いました。これは、お父様のベルギー人作曲家エリック・コロンさんが作曲した歌です。とても心打たれました。

被爆マリア像については、こちらをご覧下さい。

もともと浦上天主堂に安置されていたものですが、瓦礫の中から奇跡的に発見されました。この像は、原爆によってその生命と美と健康を奪われたすべての被爆女性の苦悩と、それにもかかわらず、平和を祈る無限なる愛と慈しみを象徴しているように思えます。

広島原爆ドームと並んで世界遺産に登録されるべき像です。

リーパーさんのインタビュー

2007年08月08日 | Weblog
毎日新聞2007年8月6日にリーパーさんのインタビューが載っていました。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/heiwa/ima/news/20070806ddf012070007000c.html

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今、平和を語る:広島平和文化センター理事長、スティーブン・リーパーさん
 ◇世界を後ろ盾に「核兵器廃絶」を

 広島市の平和行政の一翼を担う財団法人・広島平和文化センターの理事長に今春、米国籍のスティーブン・リーパーさん(59)が外国人として初めて就任した。母国の戦争文化に厳しい目を向けるリーパーさんに、平和をいかにして紡ぐかを語ってもらった。<聞き手・広岩近広>

 ◇自分のことばかり考えるリーダーは、弱者に本気で強烈に反発されると、暴力的な解決法を選ぶ危険性が高い

 ◇競争原理より協力原理を、都市が結束しよう

 --被爆62年の「8・6」が巡ってきましたが、核兵器廃絶の道は遠のいているようでなりません。日本政府にしても米国の核の傘の下にいるため、はっきりもの申せていません。22年前から広島を拠点にして日米両国で平和運動をしてきたリーパーさんは、この点をどう思われますか。

 リーパー 日本が本気になってアメリカに「絶対に核兵器を使うな」と言えば、アメリカは使えないはずです。日本が本当にそういう態度をとったら、他の国はすべて日本を支持すると思います。日本の後ろに世界が立っていれば、アメリカは無視できません。もっともアメリカだって、本当に核兵器を使おうとする人たちはほんの一握りです。

 --それはいかなる人たちですか。

 リーパー 核兵器がなくなると、とても損をするグループがアメリカには存在しているのです。そのグループは「核兵器は使うものだ」と世界に示したがっており、政府に影響力を持っているからとても危ない。つまり、今のアメリカ政府は軍事産業とつながりが深いのです。大きな力をもっているグループが核兵器を使いたがっているのだから、これは危険です。

 --核兵器を使えば地球環境がどうなるかわかっているのではないでしょうか。

 リーパー 私が心配しているのは小型核兵器です。大都市を破壊するためではなく、たとえばアフガニスタンでウサマ・ビンラディンを殺すために限定的に使う。あるいはイランが核兵器をつくるかもしれないので、事前にその種の施設だけを破壊する目的で、小型核兵器を使うのです。私はこの5年間がもっとも危ないとみています。

 --5年以内とは切迫しています。もう少し説明していただけますか。

 リーパー 現在の世界のリーダーたちはアメリカを筆頭に戦争文化に浸っている人たちがほとんどです。極端に自分のことばかり考える人間、あるいは非常に攻撃的とか、非常に競争的な人間ですね。そうしたリーダーが自分の富や地位や成功ばかり考えていると、貧富の差が大きくなっていきます。その結果、弱い者が反発します。本気で彼らが反発したら、その人数はあまりにも多いので、トップを倒す力が生まれます。そうなると戦争文化のリーダーは暴力的な解決方法を選びます。だから私は戦争文化に侵されている人たちが退場する前に小型核兵器を使うかもしれない、そういう危機感をもっているのです。それでも--この5年の間に小型核兵器が使われなければ、だんだんリーダーの質が変わってくると信じています。というのは地球温暖化の問題など、お互いの協力がないと解決できない人類の課題が迫ってきているからです。悲惨な将来にしないために、次のリーダーは協力しあうことを避けては通れません。

 --その協力関係を築くためには。

 リーパー 平和文化を構築することです。平和文化とは何かというと、勝ち負けの競争原理ではなく、みんなが幸せになれるように協力原理を働かせることです。私は都市の役割が大きいと思います。都市と都市の関係は国と国の関係より現実的で平和的ですからね。なかでも広島と長崎は平和文化の原点ではないでしょうか。スペインのゲルニカや中国の重慶もそうですね。戦争でダメージを受けた都市は、戦争のない平和な世界をつくろうと発信しています。まず、こうした都市が協力しあっていくのです。広島市長が会長を務める「平和市長会議」(8月3日現在、122カ国・地域の1698都市)を拡充、強化していくことも大事です。戦争文化から平和文化へ切り替えていかないと人類の明日はありません。

 --ところで、リーパーさんのお父さんはある日本人少女の命の恩人として語り継がれています。1954年9月に起きた死者1155人を出した青函連絡船「洞爺丸」の海難事故で、乗船していた青年牧師のディーン・リーパーさん(当時33歳)が救命胴衣のヒモの切れた少女に自分の胴衣を与えて、自らの命と引き換えに少女を助けました。このとき6歳の長男だったリーパーさんら4人の子どもと妻であるリーパーさんのお母さんが残されました。人類愛というのでしょうか、お父さんの影響をうけていますか。

 リーパー 連絡船は岸壁からあまり離れていなかったし、父は泳ぎが得意だったので、自分が死ぬとは思わなかったはずです。ただ、自分だけが助かろうと思えば真っ先に海に飛び込めたのに、父は船が転覆するまで女性や子どもたちの救助に当たっていたそうです。自己を犠牲にしてでも、他の人を手伝う態度ですね。自分のために何かをつかむより、人のため世界のために何かをするほうが大事だという教えは、私たち家族のなかに残っていると思います。

 --世界がリーパーさんのお父さんのようになれば核兵器はなくなるのでは。

 リーパー (笑って)パラダイスになります。

 --全米50州での原爆展を計画するなど、息子のリーパーさんへの期待も高まっています。

 リーパー 来年秋の大統領選に向けて、核兵器廃絶の運動をアメリカで盛り上げたいのです。そのためには向こうの活動家たちの協力が必要ですし、一過性のイベントにしないためにはどう発展させていくか、そうしたことを考えて推し進めたい。大事なことは我々が、どうやって世界の反核運動を手伝うことができるか、大きなグローバルなうねりをつくるかです。

 --平和は地球レベルでみないといけないですね。

 リーパー もちろんです。平和な世界をつくろうとしたら、お金持ちの日本やアメリカが、飢えて死んでいく人たちのいる貧しい国をなくすために膨大な援助をしなければいけません。そのためには今、使っている消費エネルギーをぐんと減らさないと、温暖化の問題を含めて、みんなが幸せになれる世界はつくれないと私は思います。暮らしを質素にすることなので、それは抵抗が大きいでしょうが、世界の平和を考えるには、そうした視点が大切ではないでしょうか。(専門編集委員)


昭和天皇の大御心

2007年08月04日 | 世界平和瞑想デー
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070804-00000025-mai-soci
より

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<A級戦犯合祀>昭和天皇が懸念 元侍従長が歌人に語る
8月4日11時11分配信 毎日新聞

 靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に対する昭和天皇の「戦死した人々のみ魂を鎮め祭る社であるのに、その性格が変わる」「戦争に関係した国と将来、深い禍根を残す」との懸念を元侍従長の故徳川義寛氏が歌会始の選者を長く務める歌人の岡野弘彦さん(83)に語っていたことが分かった。A級戦犯合祀については、元宮内庁長官の故冨田朝彦氏のメモなどに昭和天皇が強い不快感を示していたことが記録されていたが、具体的な理由の一端が浮かび上がったのは初めて。
 岡野さんの著書「四季の歌」によると、皇室で短歌の指導をしていた岡野さんのもとに、当時侍従長の徳川氏が3、4カ月に1回、30~40首の昭和天皇の歌を持ってきていた。86年秋ごろ「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」という歌を初めて見た。岡野さんが昭和天皇の憂いの理由を尋ねると、徳川氏が明かしたという。
 徳川氏はさらに「はっきりお歌いになっては、さしつかえがあるので、少し婉曲(えんきょく)にしていただいた。筑波(藤麿(ふじまろ))宮司は合祀を押さえてこられたが、松平(永芳)宮司になると、お上のお耳に入れることなく合祀を決定してしまった。それからお上は、靖国神社へ参拝なさることもなくなりました」と述べたという。
 昭和天皇は75年まで同神社に参拝していたが、A級戦犯合祀が明らかになる前の76年以降、参拝はしなかった。【大久保和夫】
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昭和天皇は実に公平、客観的にものが見えるお方でした。ところが、右翼的な人々の間には、いまだに「富田メモは謀略だ」と言っている人たちが少なくありません。そういう人たちは、まさに親の心子知らずで、昭和天皇を悲しませるだけです。

終戦の詔勅を録音した録音盤を奪ってクーデターを起こそうとした軍人は、真に日本を愛し、天皇を愛していたのでしょうか? 彼らは自分たちの手前勝手な神国思想を天皇に投影していただけでした。松平永芳宮司もそれと同じようなことをしたのでした。

日本人が一日も早く、日本の平和と世界平和を祈り続けられた昭和天皇の大御心に目覚めることを祈らずにはいられません。


リーパー氏の父上

2007年08月03日 | 世界平和瞑想デー
以前に広島平和文化財団理事長のスティーブン・リーパー氏について紹介しましたが、リーパー氏の父上であるディーン・リーパー氏はたいへん立派な方でした。

1954年9月26日に青函連絡船の洞爺丸が台風によって座礁・沈没し、1100名以上の乗客が死亡するという大事故がありました。そのとき、その船に乗り合わせていたカナダ人とアメリカ人の2人のキリスト教関係者が、救命具をほかの日本人に譲って亡くなりました。

この無償の愛の行為は多くの人々の感動を呼びました。三浦綾子の『氷点』の中でも描かれています。

その亡くなったアメリカ人というのが、スティーブン・リーパー氏の父上のディーンさんで、その当時33歳という若さでした。

このエピソードは、http://www.seiai.net/0410seisyo.html に出ておりますので、ぜひお読み下さい。

そこに、「リーパー夫人と長男(=スティーブさん)は世界平和実現に向けて現在も精力的に活動しています。遺族に共通しているのは、キリストの愛に生きていることと大の日本びいきということです」とあります。

ディーンさんは今スティーブさんと一緒になって、広島から世界平和のために働いてくれているのでしょう。