おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

里山古民家好日庵にて

2018-05-07 | Weblog

世の中が黄金週間のさなか、緑に囲まれた庵にて巡り会った人たちのことどもを想う。

文芸に通じた、その男性の口癖はいつもこうだった。

わが人生、道半ばですよ。

70代のときも同じ口上を聞いた。

80代のときも同じ口上だった。

90代に入っても同じ口上を繰り返した。

のんびり屋のわたしもさすがに尋ねた。

もう道を極めてもいいのでは? 

いやあ、まだまだ道半ばですよ。

そう言って、まもなくして道から外れて天へ昇っていかれた。

大正生まれの方だった。デカルト、カント、ショーペンハウエルといった当時一世を風靡した西洋哲学の薫陶と、バンカラ気風の旧制高校で学び、常に我が人生の正師を求め続けていた。まさに生涯一書生の気質が「道半ばですよ」の口上につながっていた。弟子であること、私淑すること自体に喜びを、満足を感じるという生き方であった。いつまでも書生や弟子に甘んじることなく、師を超えていこうという気概があってもいいのでは。師を超えることが師に報いること。そんな思いをしていたが、その方に面と向かって言うことはなかった。そうして道を極めることなく、文字通り道半ばでその方は逝ってしまわれた。

その団塊の世代の方は本を読むのが好きで、さらに蔵書を書架に並べるのも好きだった。本で知ったいろんな人物の言動や生き方のことを事細かに、まるで友人や同僚だったみたいに話すのが得意だった。博覧強記とまでは行かないが、読んだ本の内容を記憶し続ける力量はたいしたものだった。伝記作家みたいに人物像を語ることに喜びを感じていたようだった。ただし人物像に対する自らの論評は皆無で、本の記述をまるっきり引用、まる暗記しての語りだった。人物伝を語り通すのではなく、あなた自身の考えや評価を聴いてみたかったのだが。そんな思いをしていたが、その後は疎遠となり会うこともなくなった。

その方は喫茶店の経営者だった。街の中心部で珈琲と食事ができる客席50席以上はあるような店だった。女性従業員を数人雇い、奥様も片腕として店でともに経営に従事していた。その街を訪れたときは必ず立ち寄っていたから、経営者とは顔見知りになった。店内に飾ってあったインテリアでエジプトのファラオ像のブックエンドを、どういう経過だったかは忘れてしまったが、いただいたことがあった。随分昔の思い出だが、そのことが数十年経って、わたし自身がエジプトを訪れる動機づけの1つとなった。その経営者がどこで、どういう風になったのか、雇っていた女性従業員といい仲となり、挙句に心中事件を引き起こした。隣町の山中で自家用車に排ガスを引き込んだ。誰かが山中の不審車両に気付き警察に通報した。経営者は絶命し、女性従業員はいち命を取り留めた。

名物喫茶店だったから街中に顛末が広がった。事件があってからわたしの足は遠のいた。奥様の心中を察すれば声の掛けようもなかったし、顔を合わせるのも辛いということもあった。数年が過ぎて街を通ることがあった。以前と同じように喫茶店の建物はあり、看板も店名もそのままだった。店内に入り、カウンターから離れた席に座り、珈琲を注文した。内装も変わりはなく、お客はかつてのように多く賑わっていた。 カウンターの中には奥様の姿があった。眼の前の客と愉しそうに笑顔を見せて会話をしていた。経営者としての立ち居振る舞いが備わっていた。わたしの記憶はここまでだ。その後会釈をしたのか、カウンターに近づいて言葉を交わしたのか、それとも珈琲を呑んで勘定を払い店を出たのか。まったく想い出せない。想い出せるのはファラオ像のブックエンドをくれたときの経営者のはにかんだような顔と、カウンター内の奥様の笑顔、それも輝くような笑顔だけだ。

さまざまな人々の顔ぶれと想い出が湧きおこり、しみじみとした気持ちとなる。出会う人より別れる人が多くなってきた。10年、ひと昔。20年、ふた昔。30年、み昔。時はどんどん過ぎていくが、想い出の中の人たちの顔はより鮮明になっていく。しかも皆、生き生きとした表情をしている。いい笑顔ばかりだ。

 

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