goo blog サービス終了のお知らせ 

北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】三井寺(円城寺)智証大師円珍貞観元年の再興と平安朝中期"千年戦争"の勃発

2022-01-26 20:22:08 | 旅行記
■再興と千年戦争の始まり
 大友氏の氏寺から一時の荒廃を経て智証大師円珍による再興を迎えた三井寺は、続く千年戦争というべき激動の時代へ進みます。

 千年戦争、こう表現しますとどういった印象を受けられるでしょうか。なにかSF的と云いますか現実性を感じないでしょう。しかし、この三井寺という寺院は千年に及ぶ対立を経て、そして驚く事に対立構造が残っていたものが平成時代に入り和解した歴史を持つ。

 天智天皇所持の弥勒菩薩像。もともと三井寺は氏寺となっていますがその本尊は天智天皇所持の弥勒菩薩像となっています。これは官寺であることを意味するものではありませんが、東寺や神護寺はもちろん、延暦寺とも並ぶ格式を元々備えていた寺院であったのです。

 三井寺の伽藍は、三重塔を始め華美を敢えて排した質実剛健的な美しさと規模を広げていますが、しかし拝観にさいして一つ一つをじっくりと観察しますと、何れも近世の建築物である事に気付かされます、しかし創建は奈良時代の氏寺である事は前述しました通り。

 円珍。中国から最澄が密教をいち早く導入したものの、その内部化よりも導入を急いだことで解釈と研究に限界がありました密教を、改めて深層理解するべく唐より帰国した円珍は比叡山延暦寺より園城寺初代長吏として任じられ、こうして氏寺から先端寺院となる。

 唐院。この際に清和天皇より御所は仁寿殿の建物を賜り、三井寺に移築した際に唐より請来して得ました経典や法具を奉じる延暦寺の書庫となります。経典や法具は最澄と空海、延暦寺と神護寺の温度差に繋がりましたものでもあるのですが、今度は三井寺に置かれる。

 貞観元年こと西暦859年の三井寺新しい門出となるのですが、この貞観は千年前の東日本大震災や古富士噴火という富士山史上最大の噴火を筆頭に災害が相次ぐ時代、円珍は研究に邁進するとともに、延暦寺の修行は千日回峰行を筆頭に修験道のような苦行をつみます。

 密教というものは、しかし苦行に徹するものでは必ずしもなく、こうした中で最新の研究を積むと共に延暦寺との温度差が自然醸成されてゆくのですね。智証大師円珍としまして、円珍は後に比叡山の最高位である座主へと上り詰めてゆくのですが確かな温度差もあった。

 智証大師円珍は門宗という天台宗に新しい流派を構成してゆくのですが、智証大師円珍の没後、天台宗総本山の延暦寺に対して、天台寺門宗という新しい宗派を立ち上げ、慈覚大師円仁時代の比叡山と対立構造が醸成されてゆくこととなります。彼らは比叡山を降りる。

 三井寺は比叡山を降りた天台寺門宗宗徒たちの拠り所となります。すると、比叡山も座視する事無く僧兵を募って三井寺を攻撃する。実際、比叡山の門徒による攻撃により、三井寺は七回ほど全焼する被害を受け、伽藍が全て近世以降のものというのはこうした歴史が。

 不死鳥の寺とも称される三井寺は、全焼七回、半焼五十数回という比叡山からの攻撃や戦乱の巻き込まれ戦火などを含め幾度も攻撃されつつ再興しているためというのですが、すると、延暦寺と三井寺の宗教の違いというものを考えてしまいます、故に調べてみますと。

 延暦寺と三井寺の宗教の違い、それはそれほど大きくは無く、修験道と密教の調和という延暦寺に対して、修験道など日本古来の修行は否定しないが密教の温和性に重きを置くのが三井寺の天台寺門宗という。こうして千年以上前、焼討から対立がはじまり、繰り返す。

 近江を代表する二つの寺院の対立は、実は根本から和解に転じるのは平安時代でも鎌倉時代でも室町時代でも江戸時代でも無く、明治でも無理で戦後も終わりと称されるようになりました平成時代のことなのですが、実に千年戦争が、日本でも実際続いていたのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】三井寺(円城寺)近江,滋賀県は寺院の県である-大津は琵琶湖畔に不死鳥の寺

2022-01-26 20:00:28 | 旅行記
■不死鳥の寺-円城寺探訪記
 大津京は遷都短期ながら平安京よりも先んじていまして、京都市内からは舞鶴は勿論宇治市よりも隣県の大津市は近しさを感じます。

 滋賀県は寺院の県である、こう表現しますと驚かれる方が多いのですが、平安遷都の頃から国家宗教として重要視された比叡山延暦寺は大津市の寺院であり、まさに京都洛中を眼下に収めているという立地でもありますが、寺院の総数は滋賀県の方が京都府より多い。

 不死鳥の寺。大津市には不死鳥の寺と呼ばれる寺院があります、これは平等院鳳凰堂や鹿苑寺金閣のような鳳凰を祀った寺院という訳ではなく、何度戦火に焼かれても復興する、という雄々しい寺院といいまして、COVID-19に蹂躙される世界では是非とも見習いたい。

 三井寺、ここは滋賀県大津市園城寺町の山一つ隔てて京都市と隣接する近江の古刹です。オーバーツーリズムという観光過多、COVID-19感染拡大前にはこうした言葉が在りまして、京都と云えば観光客過多、寺院よりも観光客を眺めに来ているような状況を指すもの。

 琵琶湖畔の大津。東京はじめ多くの観光客の方には京都市内は京都市役所前駅から地下鉄で直通と説明しますと驚かれます、そしてオーバーツーリズムという言葉が嘘のように、古刹の気風を満喫できる程度の静寂と人の少なさがあり、水面の様な情感を湛えている。

 三井の晩鐘。琵琶湖畔の高台に鎮座します寺院は日本百景に三井の晩鐘として謳われた古刹ではあるのですが、その風情ある山門は勿論、三井寺まで至る京阪電車は石山坂本線という路面電車然とした出で立ちもありまして、なるほど大津京の気風さえ感じるものです。

 天台寺門宗である寺院は弥勒菩薩を本尊として奉じ、その開山は朱鳥元年こと西暦686年の奈良時代、大友与多王が開基となりまして創建、大友氏の氏寺として始まりましたが、長い時を経て民衆の寺院へ移ろい、また意外な程の壮大な伽藍を琵琶湖畔に広げている。

 大友与多王は大友皇子の子、大友皇子は天智天皇の皇子であるのですけれども、壬申の乱にて後に天皇となる大海人皇子と戦い敗れ自害した歴史がある。大海人皇子は後に天武天皇となりますが、実はこの悲しい歴史が三井寺の名の所以となっています。どういう事か。

 園城寺とも称しまして、三井寺とどちらが正統な名称であるかを古文書に辿りますと三井寺も円城寺も単に“寺”とされていまして、これは延暦寺にも重なるてんなのですけれども、寺に行くと云えば洛中では延暦寺か三井寺に行く事を示した程の歴史の古さがあった。

 天智天皇と遠い所縁がある氏寺であるのですけれども、当地は大津京という平城京から臨時首都となりました歴史がありまして、皇子の産湯に用いられました御井は、後に、天智天皇、天武天皇、持統天皇、その産湯となりました御井が此処に在る事から三井寺、と。

 天武天皇、園城寺といいますのは天武天皇が贈った名といい、大友与多王が開山に際し荘園も城塞も全て寄進し寺を起こした事から荘園城塞の円城寺とした勅額を送っています。もっとも開祖の父大海人皇子を自害に追い込んだ歴史があり、負い目からか重用している。

 西国三十三所第14番札所。現在ではこうして壮大な伽藍が広がる寺院は、しかし氏寺の悲しい点で、大友氏の衰亡とともに廃寺の様相を呈してゆきます。しかし、天安2年こと西暦858年、延暦寺から唐に留学の途に就いていた僧侶が帰国しました、名は円珍という。

 円珍はのちに智証大師として延暦寺第五世座主となるのですが、延暦寺の開祖最澄が日本に取り入れた天台宗と密教について、拙速に日本に取り入れた故に研究が不充分であり、その研究道場として廃れつつあった三井寺を延暦寺の塔頭とし、再興する事となりました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする