■不死鳥の寺-円城寺探訪記
大津京は遷都短期ながら平安京よりも先んじていまして、京都市内からは舞鶴は勿論宇治市よりも隣県の大津市は近しさを感じます。
滋賀県は寺院の県である、こう表現しますと驚かれる方が多いのですが、平安遷都の頃から国家宗教として重要視された比叡山延暦寺は大津市の寺院であり、まさに京都洛中を眼下に収めているという立地でもありますが、寺院の総数は滋賀県の方が京都府より多い。
不死鳥の寺。大津市には不死鳥の寺と呼ばれる寺院があります、これは平等院鳳凰堂や鹿苑寺金閣のような鳳凰を祀った寺院という訳ではなく、何度戦火に焼かれても復興する、という雄々しい寺院といいまして、COVID-19に蹂躙される世界では是非とも見習いたい。
三井寺、ここは滋賀県大津市園城寺町の山一つ隔てて京都市と隣接する近江の古刹です。オーバーツーリズムという観光過多、COVID-19感染拡大前にはこうした言葉が在りまして、京都と云えば観光客過多、寺院よりも観光客を眺めに来ているような状況を指すもの。
琵琶湖畔の大津。東京はじめ多くの観光客の方には京都市内は京都市役所前駅から地下鉄で直通と説明しますと驚かれます、そしてオーバーツーリズムという言葉が嘘のように、古刹の気風を満喫できる程度の静寂と人の少なさがあり、水面の様な情感を湛えている。
三井の晩鐘。琵琶湖畔の高台に鎮座します寺院は日本百景に三井の晩鐘として謳われた古刹ではあるのですが、その風情ある山門は勿論、三井寺まで至る京阪電車は石山坂本線という路面電車然とした出で立ちもありまして、なるほど大津京の気風さえ感じるものです。
天台寺門宗である寺院は弥勒菩薩を本尊として奉じ、その開山は朱鳥元年こと西暦686年の奈良時代、大友与多王が開基となりまして創建、大友氏の氏寺として始まりましたが、長い時を経て民衆の寺院へ移ろい、また意外な程の壮大な伽藍を琵琶湖畔に広げている。
大友与多王は大友皇子の子、大友皇子は天智天皇の皇子であるのですけれども、壬申の乱にて後に天皇となる大海人皇子と戦い敗れ自害した歴史がある。大海人皇子は後に天武天皇となりますが、実はこの悲しい歴史が三井寺の名の所以となっています。どういう事か。
園城寺とも称しまして、三井寺とどちらが正統な名称であるかを古文書に辿りますと三井寺も円城寺も単に“寺”とされていまして、これは延暦寺にも重なるてんなのですけれども、寺に行くと云えば洛中では延暦寺か三井寺に行く事を示した程の歴史の古さがあった。
天智天皇と遠い所縁がある氏寺であるのですけれども、当地は大津京という平城京から臨時首都となりました歴史がありまして、皇子の産湯に用いられました御井は、後に、天智天皇、天武天皇、持統天皇、その産湯となりました御井が此処に在る事から三井寺、と。
天武天皇、園城寺といいますのは天武天皇が贈った名といい、大友与多王が開山に際し荘園も城塞も全て寄進し寺を起こした事から荘園城塞の円城寺とした勅額を送っています。もっとも開祖の父大海人皇子を自害に追い込んだ歴史があり、負い目からか重用している。
西国三十三所第14番札所。現在ではこうして壮大な伽藍が広がる寺院は、しかし氏寺の悲しい点で、大友氏の衰亡とともに廃寺の様相を呈してゆきます。しかし、天安2年こと西暦858年、延暦寺から唐に留学の途に就いていた僧侶が帰国しました、名は円珍という。
円珍はのちに智証大師として延暦寺第五世座主となるのですが、延暦寺の開祖最澄が日本に取り入れた天台宗と密教について、拙速に日本に取り入れた故に研究が不充分であり、その研究道場として廃れつつあった三井寺を延暦寺の塔頭とし、再興する事となりました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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大津京は遷都短期ながら平安京よりも先んじていまして、京都市内からは舞鶴は勿論宇治市よりも隣県の大津市は近しさを感じます。
滋賀県は寺院の県である、こう表現しますと驚かれる方が多いのですが、平安遷都の頃から国家宗教として重要視された比叡山延暦寺は大津市の寺院であり、まさに京都洛中を眼下に収めているという立地でもありますが、寺院の総数は滋賀県の方が京都府より多い。
不死鳥の寺。大津市には不死鳥の寺と呼ばれる寺院があります、これは平等院鳳凰堂や鹿苑寺金閣のような鳳凰を祀った寺院という訳ではなく、何度戦火に焼かれても復興する、という雄々しい寺院といいまして、COVID-19に蹂躙される世界では是非とも見習いたい。
三井寺、ここは滋賀県大津市園城寺町の山一つ隔てて京都市と隣接する近江の古刹です。オーバーツーリズムという観光過多、COVID-19感染拡大前にはこうした言葉が在りまして、京都と云えば観光客過多、寺院よりも観光客を眺めに来ているような状況を指すもの。
琵琶湖畔の大津。東京はじめ多くの観光客の方には京都市内は京都市役所前駅から地下鉄で直通と説明しますと驚かれます、そしてオーバーツーリズムという言葉が嘘のように、古刹の気風を満喫できる程度の静寂と人の少なさがあり、水面の様な情感を湛えている。
三井の晩鐘。琵琶湖畔の高台に鎮座します寺院は日本百景に三井の晩鐘として謳われた古刹ではあるのですが、その風情ある山門は勿論、三井寺まで至る京阪電車は石山坂本線という路面電車然とした出で立ちもありまして、なるほど大津京の気風さえ感じるものです。
天台寺門宗である寺院は弥勒菩薩を本尊として奉じ、その開山は朱鳥元年こと西暦686年の奈良時代、大友与多王が開基となりまして創建、大友氏の氏寺として始まりましたが、長い時を経て民衆の寺院へ移ろい、また意外な程の壮大な伽藍を琵琶湖畔に広げている。
大友与多王は大友皇子の子、大友皇子は天智天皇の皇子であるのですけれども、壬申の乱にて後に天皇となる大海人皇子と戦い敗れ自害した歴史がある。大海人皇子は後に天武天皇となりますが、実はこの悲しい歴史が三井寺の名の所以となっています。どういう事か。
園城寺とも称しまして、三井寺とどちらが正統な名称であるかを古文書に辿りますと三井寺も円城寺も単に“寺”とされていまして、これは延暦寺にも重なるてんなのですけれども、寺に行くと云えば洛中では延暦寺か三井寺に行く事を示した程の歴史の古さがあった。
天智天皇と遠い所縁がある氏寺であるのですけれども、当地は大津京という平城京から臨時首都となりました歴史がありまして、皇子の産湯に用いられました御井は、後に、天智天皇、天武天皇、持統天皇、その産湯となりました御井が此処に在る事から三井寺、と。
天武天皇、園城寺といいますのは天武天皇が贈った名といい、大友与多王が開山に際し荘園も城塞も全て寄進し寺を起こした事から荘園城塞の円城寺とした勅額を送っています。もっとも開祖の父大海人皇子を自害に追い込んだ歴史があり、負い目からか重用している。
西国三十三所第14番札所。現在ではこうして壮大な伽藍が広がる寺院は、しかし氏寺の悲しい点で、大友氏の衰亡とともに廃寺の様相を呈してゆきます。しかし、天安2年こと西暦858年、延暦寺から唐に留学の途に就いていた僧侶が帰国しました、名は円珍という。
円珍はのちに智証大師として延暦寺第五世座主となるのですが、延暦寺の開祖最澄が日本に取り入れた天台宗と密教について、拙速に日本に取り入れた故に研究が不充分であり、その研究道場として廃れつつあった三井寺を延暦寺の塔頭とし、再興する事となりました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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