気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

道南の中世ロマンを訪ねる:その1宇須岸河野館跡

2016-07-23 19:42:13 | 旅行
2016年6月29日、自分の住んでいる街を改めて歩くと、私の空想は果てしなく・・・広がるような感じ。
何度も歩いてはいるが、その一つが函館山麓にある「基坂」付近にある「宇須岸館跡」
基坂の由来は「里標」があったということから・・・
この坂の山に向かって左側に「旧イギリス領事館」右側に「ペリーの銅像」(かつて、函館市立病院があった場所。現在は広場になって、公園広場)、坂の上には元町公園」という観光スポットにもなっている。
宇須岸館跡説明版のある景色

説明版
宇須岸館跡の説明版によると
『享徳3年(1454年)津軽の豪族安東政季にしたがって、武田信弘(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したという。
 政通は当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは東西35間(約63m)南北28間(約50m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。
この「河野館」に由来して「箱館」という地名が生まれたとつたえられている。』
因みに、私が社会科で故郷のことを勉強した記憶では「河野館」が「箱型」であったので「箱館」と名付けられたと・・・教わったが・・・果たして、どうか?
その他の説明には
『永正9年(1512年)アイヌとの抗争で河野季満(政道の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰徴しあっとの伝承が生まれた。・・・(略)松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地にうすされて繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地として、享和2年(1802年)函館奉行が置かれた。
高田屋嘉平衛の活躍などもあって、箱館は大きく発展した。』
因みに、高田屋本店の跡碑(市電末広町附近に面した道路沿いにあった。

此の地が函館の行政の中心地であった。

函館奉行所跡

旧北海道庁函館資料庁舎1階は観光案内書

ペリー提督の銅像や来航記念碑がある。

旧イギリス領事館
噴水のあるガーデン。(丁度バラが満開)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿