気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

浜益・石狩・小樽史跡旅:浜益発祥の碑と荘内藩ハママシケ陣屋跡

2017-11-23 11:57:42 | 日記
2017年10月10日、浜益の史跡を訪ねて、浜益発祥の石碑や「庄内藩ハママシケ陣屋跡」「川下神社」などに行ってきた。
まず、浜益について安政の探検家の松浦武四郎著「西蝦夷日誌」にはどんな記録があるのか、何時ものように読み直した。
『濱益毛(濱益)、本名マシケイにして宜しきと云儀なれども是同名あれば、濱の字を冠(かぶ)らしめて當所の地名とす。
 また、マシとは鷗の名、ケはケイの略にて成るとの儀。
此の海湾一面に鯡(にしん)の群来る時は鷗になるより號しなり。又、一説には、アマゝシュケにて、アマゝは穀物、シュケは炊く義、昔判官公(源義経)此處にて、飯を炊き給ひしとも云り。
 安政時代にも「義経伝説」が伝わっていたのですね。
 其の地は今のハマゝシュケベツ(濱益毛川)の湾にして、運上や元の地にて、本名へロキカルシウシにして、鯡多きの儀なり。・・・赤岩岬(大岩)本名フレシュマエンルンいふ。此岬ゴキビル(濃昼)岬と對して湾をなす。此処新道切り口あり。』と現在、濃昼山道として古道歩きの方々には人気があるようです。
浜益発祥の碑


また、武四郎は史跡「庄内藩ハママシケ」の近くにある川下神社の名がある「川下」についても記録している。
『ハママシケベツ(濱益毛川)川巾十間餘、渡船し遅流、両岸蘆萩原(ろてきはら)故號くるなり。本名はヲタコツベツと云いしと。名義、砂地面の川との儀。是砂地に有が故號しものなり。また、此処をカワスモ(川下)(おそらくはアクァ下の義かとおもふと云。余(武四郎)始めて通行せし時は夷家十軒餘ありしが、今は一軒もなく、和人の出稼ぎのみ立つづきたり。』と記録している。
川下神社社殿写真

鳥居

石碑には羽黒山・湯殿山・鳥海山の山名が刻まれている。
 幕府から蝦夷地警備を命ぜられた荘内藩の方々の故郷の山は心の支えだったのだろう・・・

荘内藩ハママシケへの道案内(川下神社への道にも通じる)

川下神社から東側に少し歩くと「史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡」の門が見える。

陣屋跡説明版

『ロシアの南下により、北方の緊張が高まった安政6年(1859)年、幕府は奥羽六藩に蝦夷地警備を命じた。荘内藩(山形)には西蝦夷地が割り当てられ、万延元(1860)年にハママシケ陣屋が設けられた。
陣屋内は山肌を削って平らな場所をつくり、奉行長屋、神社、土蔵、湯屋などがあってられ多。・・・また、「千両堀」と呼ばれる水路も彫られた。
 戊辰戦争の勃発により、慶應4(1868)年には引き揚げが始まり9年に及ぶ荘内藩による陣屋経営は終わった。史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡は、幕末の対外関係と蝦夷地開拓を現在に伝えている』
門と門裏側にある当時の陣屋スケッチ

「道北の釣りと旅の」のホームページ管理者の福士さんから、フェイスブックで、この荘内藩陣屋にはアッシ判官と言われた松本十郎が名を変えて開拓藩士として来ていたという情報をいただき、調べた。
「財界さっぽろ」の2014年の社長さんのブログによると・・・
『北海道開拓の先覚者達(19)~松本十郎~
(要約)戸田惣十郎(松本の旧名)は1839年に荘内藩士の長男として生まれた。1863年、父に従い百数十人の荘内藩士とともに、留萌地方の苫前、そしてその後浜益で蝦夷地の開拓と警備の任にあたる。・・・戸田は京都に行くことを命じられたが、此の時に朝敵藩士の身分を隠すあtめ、名を松本十郎に改める。・・・北国諒星著「さらばーえぞ地ー松本十郎伝」を参考にした・・・』と記録されている。
また、浜益はにしん漁でも栄えた所で「にしん街道木柱やに明治32年に建てられた、にしん番屋「旧白鳥家」の建物が残っている。
現在は「はまなす郷土資料館」として利用されている。


にしん街道木柱と説明版





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