gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年~1697年)

2015-06-22 03:08:53 | 日記
題:(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年~1697年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1697年7月、元禄地方直(げんろくじかたなおし)
  幕府が、御蔵米地方直令を出し、
  500俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方
 直の方針を打ち出した。
  勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主動で実施され
 た。
  天領から米を運搬する費用が掛かる蔵米給付の方が幕
 府にとっての財政負担は大きい・・そして、一方、
  当時の武士は、蔵米取よりも、知行取の方を格上と考
 えており、
  蔵米支給から知行取に変わることを、旗本たちは出世
 ととらえ、
  幕府も、知行取への変更を褒章の一環としていた。
1697年10月、酒運上(酒屋運上)を令した。
  酒運上(さけうんじょう)は酒造税。
  幕府は、売価の3分の1を酒運上を課すことを全国に布
 達した。
  これは、飲酒の制限の意味もあった。
  1709年に廃止された。
1697年、経済政策:新貨との交換を命ず
  幕府が、古金銀の通用期間を限り、新貨との交換を命
 じた。
  1698年限りで、運用停止すると触書を出したが、引き
 換えが進捗せず、退蔵する者が多かった。
  これは、今までの貨幣の方が、金の含有量が多く、品
 位の高い小判であることが、誰が見ても明らかだった。
  結局、割増通用(現行の小判より何割か価値が高いも
 のとして通用させる)という形で、幕末まで流通してい
 た。
  しかし、この割増も退蔵する方が得だったため、交換
 は思うように進捗しなかった。
  元禄金は、量目(質量)こそ、慶長金に等しかったが、
 金に対し密度の低い銀を、多く含むため、分厚く白っぽ
 いものとなった。
  そのため、品位が低下したことは、誰の目にも明らか
 だった。
  また、脆(もろ)く折れやすいものであったため、評
 判は悪かった。
1697年、政策:大名管理
  幕府が、諸国の有力大名に、郷帳と国絵図の提出を命
 じた(居城の絵図、国絵図、海陸の道筋など)。
  また、旗本・寺社へも国絵図の改訂と郷帳面の提出を
 命じた。
1697年、大名管理・吉宗
  徳川吉宗が14歳の時、第5代将軍の綱吉に江戸城内で拝
 謁(お目見え)し、越前国丹生郡所領3万石を与えられ、
 葛野藩主となった(立藩した)。
1697年4月、ガルダン汗自殺、
  外モンゴルが、清の支配下にはいる。
  しかし、この服毒自殺は、清朝で編纂された漢文資料
 に記されているが、史実ではないという指摘もある。
  病死の説である。
  翌年(1698年)清の版図となった。
1697年、ロシア人が、カムチャッカまで到達した。
  コサックの探検隊が、この年に、カムチャッカに、初
 めて到達した。
  日本人の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が行
 く85年前だった。
  大黒屋光太夫(1751年~1828年)は、伊勢国の廻船の
 船頭で、
  嵐のため、1782年に、江戸へ向かう廻船が漂流し、7ヶ
 月の漂流ののち、アリューシャン列島に漂着した。
 (当時は、ロシア領のアラスカ)。
  先住民のアレウト人や、毛皮収穫のための滞在してい
 たロシア人に遭遇し、彼らと共に暮らし、ロシア語を習
 得した。
  4年後の1787年に、ありあわせの材料で船を造り、ロシ
 ア人らと島を脱出する。
  カムチャッカ・オホーツク・ヤクーツクを経由して、
 イルクーツクに、1789年に、至る。
  ここで、日本に来るラクスマンらに会う。
  サンクトペテルブルグへ、1791年に、向い、ロシア帝
 国の帝都で、女帝のエカチェリーナ2世に謁見した。
  帰国を願い出て、漂流から9年半後、磯吉と小吉との3
 名は、根室に帰国した。
  帰国後、将軍・家斉の御前で、聞き取りを受け、幕府
 は、光太夫を活用して、ロシアとの交渉を計画したが、
 うまく行かなかった。
  江戸屋敷を与えられ、異国の見聞を伝えた。
  蘭学者の桂川甫周による聞き取りの「北槎聞略」が史
 料として残された。
  光太夫は、妻も江戸でもらい、帰国も許され、帰国し
 ている。
  また、故郷から光太夫らの親族も江戸に訪ねて来てい
 る。広く知識人らと交際を持った。
  北槎聞略(ほくさぶんりゃく、江戸時代の漂流記録書)
 (宮永孝訳)に、
  「ロシア人に助けられた光太夫達は、住み家もあてが
 われ食事も与えられたが、
  この年の冬はまれにみる飢饉が訪れ、魚しか口に入れ
 ないため、面倒を見てくれている郡官を困らせる。
 この年、先述にあるように世界中が大飢饉となっている
 ことを当人達は知るよしもなかった・・。
 ビタミンCの不足(壊血病)で与惣松・勘太郎・藤蔵が
 死に、オルレアンコフ長官(郡官)に諭されるのである。
「あなた方はみな、伊勢の生まれとか称して、つね日頃、
 獣の肉を口に入れなかったが、このような飢饉の時に至
 ってまで、そんな禁忌を守っていては飢え死にするより
 外はありません。
  先ずこの牛肉を食べて一命をつなぎ、食料が十分に手
 に入ったなら、肉を食べないでもいいではありませんか」
1697年、ライスワイク条約(ファルツ承継戦争終結)
  ファルツ選帝侯領の相続をめぐり、
  フランスのルイ14世と、ドイツ・イギリス・オラン
 ダ・スペイン・サボイア(フランスの一部)との間に、
 1689年から戦争が続いていた。
  この戦争の講和がなされた。
  フランスは、イギリスに対し、ウィリアム3世の王位を
 認め、
  また、その相続者のアンに王位継承権を認めた。
  そして、ドイツは、ストラスブール以外の占領地を返
 して、ライン川の右岸から撤兵するとなった。
  勝利者はいない。
  ただただ、戦争で殺し合っただけ、
  そして、厭戦気分が出て、戦争を止めただけ。
  戦争ばかりのヨーロッパだった。
1697年、イギリス・本国の「東インド会社」が、市民の襲
 撃を受けた。
  「貨物を掠奪せんと騒ぐ」・・とある。
  あまりにも、イギリスの一部だけが、
  市民もびっくりするほど莫大な金を、
  インドの方々から巻き上げて、得ているため、
  インドの方々のために、怒ったという訳ではなく、
  そのイギリスの莫大な富を得ている一部の悪漢たちに
 対し、その独り占めしている事に対して、怒ったのであ
 った。
  市民がだまっていられないほどの搾取だった。
  分け前を寄越せの欲得の、餓鬼の騒ぎだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/

(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年~1696年)

2015-06-21 03:15:37 | 日記
題:(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年~1696年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1694年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が老中に就
 任した。
  側用人の柳沢吉保を老中に準じる。
1694年、物流:問屋仲間成立
  大阪から江戸への物資輸送を円滑にするため、荷受け
 問屋を糾合して江戸十組問屋仲間を成立(結成)する。
  十組問屋(とくみどんや)は、江戸で組織された各種
 の荷受け問屋組合のこと。
  江戸と大坂間の海上輸送の不正や、遭難による損害を
 防ぐために組織された。
1694年、大坂に24組問屋(にじゅうよくみどんや)が成立
 した。
  大阪菱垣廻船積問屋二十四組ともいう。
  江戸の十組問屋と結んで、大阪から江戸へ積み出す荷
 物を独占的に取り扱った。
1694年、物流:荷物運送を容認
  信州中馬の荷物運送を容認した。
  中馬(ちゅうま)は、信州の農民が行なった馬背を利
 用した輸送業。
  伊那地方の農民が農閑期の余業として2~3頭の手馬で
 物資を目的地まで運送したのに始まる。
  信州以外に、尾張・三河・駿河・相模・江戸にまでと
 活動範囲は広がった。
  重要な運送手段となった。
1694年7月27日、イングランド銀行が設立された。
  W・パターソンが、イギリス王のウィリアム3世の財政
 難を助けるため設立した。
  名誉革命の直後は、国家の財政は赤字ばかりだった(
 戦争ばかりしているからだ、結局、これも、対仏戦の戦
 費調達となった)
  代償に銀行券の発行権を得て、120万ポンドの資金を公
 募し、銀行としての株式会社として設立された。
1695年2月、政策:関東の幕領の検地が行われた。
  関東郡代の伊奈忠篤の支配地で、1696年2月21日付けで
 実施された検地は、総石高が40万石び、これは、天領の
 10%に及んだ。
  やり方は、支配地の代官ではなく、近隣の大名、また
 は、別の代官が実施した。
  田畑の位付けを細分化し、名請人は小農や小作百姓も
 検地帳に登録し、隠田を摘発した。
  また、開墾可能な土地は、山林や原野、荒地や湖沼地
 帯も検地し、台帳に記載した。
  そのようにして石盛(こくもり、見積生産高のこと)
 を高めるという方法で行われた。
  武蔵国世田谷の村々では、石盛が2倍や3倍になるなど、
 検地は厳しいものであったが、
  生産技術が進歩したことによる生産量の増加が、石高
 の大幅な上昇をもたらしていた。
1695年8月、諸国の鉱山の採掘を奨励した。
1695年8月、経済:貨幣の改鋳(初めての改鋳)
  5代将軍・徳川綱吉の臣下・勘定吟味役・荻原重秀の建
 策で、財政赤字解消のため、金貨・銀貨を改鋳した(元
 禄金銀・げんろくきんぎん)、
  以後も、改鋳で年平均50万両の収入をあげる。
  元字金銀(げんじきんぎん)ともいう。
  この頃、米が値下がりし、米を売って生計を立ててい
 た武士や農民の収入が減り、デフレ経済に陥っていた。
  荻原は、それまでの「慶長小判」を回収して溶かし、
 「元禄小判」に作り替えた。
  大きさは同じだが、含まれる金の割合を約3分の2にし
 た。
  慶長小判2枚を元禄小判3枚にした。
  1枚あたりの価値が下がった元禄小判は、借りやすくな
 って活発に使われ(流通の活発化)、元禄の太平の世を
 作り出した。
1695年10月17日、凶作:奥羽地方が大冷害で、奥羽と北陸
 が凶作となり、餓死者が多数出た。
  幕府は、10月17日に、凶作の救済のため、津軽藩主・
 津軽信寿(のぶひさ)に米3万俵を貸与した。
1695年11月、江戸の犬を中野犬小屋に収容し、養った。
1695年、旧金銀貨幣との混用を布令した。
1695年、出版:西川如見(にしかわじょけん、天文暦学者)
 が「華夷通商考(かいつうしょうこう)」を著した。
  中国はじめ諸外国の位置・風土・人口・産物・風俗な
 どを記した海外一般の地誌。
  著者が、オランダ人との接触を通じて得た海外事情を、
 通商の立場から書いている。
  1708年には、アメリカの記事を「職方外記」から邦訳
 して補充している。
1695年、イギリスの悪行が露見
  イギリスの卑劣な行為が、この年に、白日の下に、一
 般大衆の知るところとなった。
  イギリス王室が讃美して始められた「東インド会社」。
  この実質的にはイギリスという国そのものであるこの
 会社は、人を殺し、騙(だま)し、そして、この賄賂と、
 悪い事ばかりしている。
  インドを含めて、弱い植民地の諸国を虐げている行為
 も軽蔑するが、
  この年に、非人間的な行為でもって、稼ぎに稼いだ金
 でもって、その悪貨を賄賂に使って、自分たちに有利に
 事を運んでいた事が暴露された。
  イギリスを正しい方向へ導くべき人たちに対し、賄賂
 が贈られていて、黙らせていた。
  臆面なく、賄賂を受け取った者たちも大悪漢である。
  その収賄していた者たちが、政治家を含む者たちが牢
 屋に入れられた。
  6年間だけで107万ポンドもの大金が賄賂に使われてい
 た。
1696年、経済政策:値段書付を提出させる
  江戸で町屋敷値段書付を提出させた。
1696年、交通:大井川渡渉制度ができた。
  この年に、川越制度ができ、川庄屋が置かれた。
  川会所は、この制度に基づき、川越賃銭の決定、渡渉
 順次の割り振りなど、川越業務の管理運営を行った所。
  大井川の管理や渡渉制度に、関わる運営を現地で行う
 川庄屋が任命された。
1696年、鉱山:阿仁銅山(あにどうざん)
  佐竹藩(秋田県北秋田郡)が、阿仁銅山を開いた。
  古くは金銀を算出、後に、銅山として栄えた。
1696年、農業:農書
  近畿地方の先進的な農業事情を記す江戸前期の代表的
 農書、宮崎安貞(みやざきやすさだ、安芸広島藩士)の
 「農業全書」がなる(翌1697年に刊行)
1696年4月、農業:塵芥利用の埋立て新田の許可
  幕府が、江戸町中の塵芥を利用して埋立新田を作るこ
 とを許した。
  幕府は、1649年に「ゴミを会所地へ捨てる事を厳禁」
 しているが、
  家綱の時の1655年に、江戸市中のごミ処理令を出した。
  これは、江戸市中のごみを、江戸城下から離れた隅田
 川左岸河口の永代島まで船で運び、投棄することを義務
 付けた。
  それまでは、市中のごみは、屋敷内、空き地、川等へ
 廃棄していた。
  しかし、江戸の人口の急激な増加に伴って、この様な
 ごみ処理は、江戸市中の衛生状態を極度に悪化させた。
  また、1681年の綱吉の時に、江戸市中のごみ捨て場と
 して、永代島新田と砂村新田(現、江東区北砂付近)を
 定めた。
  そして、1696年4月30日に、ゴミ船で江戸市中の塵芥(
 じんかい)収集にあたる町人2人に、永代島~上総(かずさ
 )間の海路浚渫(しゅんせつ)を許可した。
  そして、その土砂と塵芥による永代島附近の埋め立て
 を命じ、そして、土地造成を更に進めた。
1696年4月11日、人事:荻原重秀(おぎわらしげひで)が、
 勘定奉行となった。
  そして、この日、250石を加増され(2000石)となった。 
1696年、人事:荻生徂徠(おぎゅうそらい、儒者)
  古文辞学派の祖・荻生徂徠が、柳沢吉保に召し抱えら
 れ、将軍・綱吉の学問相手を勤めた。
  徳川吉宗の時に、吉宗に「政談」を提出している。
1696年、ブラジルでゴールド・ラッシュ
  ブラジルのミナスジェライスで金鉱が発見されて、ゴ
 ールドラッシュが起きた。
  インディオの方々やアフリカの方々を奴隷として酷使
 し、大量の金をポルトガル本国へ送った。
  金は、王や貴族の宮殿の装飾などに使われ、飾った。
1696年、露土戦争(1686年~1700年)で、ロシアのピョー
 トル1世が、トルコと戦い、この年、アゾフ占領(黒海北
 部)に成功した。
  露土戦争は、ロシア・オーストリア・ベネチア・ポー
 ランドのヨーロッパのキリスト教諸国の神聖同盟軍と、
 オスマン帝国との大トルコ戦争(1683年~1699年)の一
 部をなし、
  1700年に、コンスタンティノーブル条約が締結されて
 終戦した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/

(増補版)135D1/3:気になった事柄を集めた年表(1690年~1694年)

2015-06-20 03:05:44 | 日記
題:(増補版)135D1/3:気になった事柄を集めた年表(1690年~1694年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1690年、イギリスは、ムガール帝国に17万ポンドの賠償を
 した。
  イギリス(東インド会社にしている)は、ムガール帝
 国に17万ポンドの償金(損害の償い金)を支払い・・、
  さらに、「将来この様な恥ずべき行為を繰り返しませ
 ん」という約束をされられ、再び、通商が許された。
  (イギリスは、1686年に、最初のインド遠征軍を派遣
 し、ムガール帝国軍と衝突、1690年に敗退した。ムガー
 ル帝国に賠償金17万ポンドを賠償した)(注:裏付けが
 薄い項目です)
1691年9月、熊沢蕃山(くまざわばんざん、陽明学者)が
 没した(1619年~1691年)
  中江藤樹に学んだ人。
1691年9月、土佐光起(とさみつおき、画家)が没する。
  (1617年~1691年)
1691年、教育:私塾・昌平坂学問所(しょうへいざかがく
 もんじょ)が移された。
  林羅山が設立した私塾に始まり、
  幕府が、この年に、上野忍岡の林家の邸を湯島へ移し、
 孔子廟を新築し、その地を昌平坂と名付けた。
  寛政の改革(1787年~1793年)の時、幕府直轄の学問
 所となった。
  朱子学を正学として幕臣・藩士などの教育にあたった。
1691年、教育:大学頭(だいがくのかみ)
  林鳳岡(はやしぼうこう、林鵞峰の次男)が、大学頭
 に任じられた。
  昌平坂学問所の長官、以後、林家が世襲した。
1691年、経済:為替
  三井高利が、御為替御用達になった。
  御用達(ごようたし、ごようたつ):幕府・大名・旗
 本・公家などに立入あるいは出入りする特権的な御用商
 人の格式。
1691年、交通:六郷
  多摩川の六郷橋が、1688年の大洪水で流失し、後に、
 渡船場となった、
  六郷渡船場が、1691年に、有料化され、一人6文、軽
 尻(からじり、旅人を載せるのに使われた馬)10文、
 乗掛(のりかけ)15文だった、
  乗掛とは、道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(
 つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶ、
1691年、鉱山開発:別子銅山(べっしどうざん、愛媛県新
 居浜市の山麓部にあった銅山、日本の貿易や近代化に寄
 与した、住友家が巨大財閥になる礎となる)
  住友友芳(すみともともよし、住友家4代)に伊予の
 別子銅山の開発を許可した。
1691年9月、社会資本整備:干拓(日本の各地に、優秀な
 人材が居た)
  岡山藩の藩主・池田剛政が、この年に、藩士の津田永
 忠へ、沖新田の干拓を命じた。
  現在の岡山平野の耕地は、約25000ヘクタールだが、そ
 の内の約20000ヘクタールの80%がは、干拓によって得ら
 れていた。
  津田永忠(1640年~1707年)は、優秀な藩士だった。
  この沖新田の干拓のほか、倉田新田、幸島新田の干拓
 を行ない、
  また、百間川の開削をし、後楽園の造営をし、閑谷学
 校の建築などをした。
  土木・建築に才のある天才を発揮した。
  また、その才能は、藩政の改革、財政の再建と、めざ
 ましい業績を遺した。
1691年、駄賃増加の立札
  箱根に駄賃増加の立札が立てられた。
1691年、生物保護:諸鳥殺の防止
  幕府が、トビ・カラスが諸鳥を殺すことを防ぐため、
 これを捕らえて新島に放った。
1691年、人物:新井白石
  新井白石は、仕えていた堀田家が、大老の正俊の死後、
 財政が緊迫し、その影響で彼の家も暮らしが成り立たな
 くなったとて、1691年に、堀田家を辞任し、
 隅田川のほとりに塾を開いた。
1691年、文学:芭蕉一門
  芭蕉一門が「猿箕(さるみの、俳書)」を刊行した。
  芭蕉の「俳諧七部集」の第5集で、蕉風俳諧の円熟期
 の代表するもの。
1691年、オランダ東インド会社の医師のケンペルが、長崎
 から江戸を往復し、「江戸参府旅行日記」を記した。
  その記述の一部・・、
  1691年2月15日
  佐賀に着く。
  運河や川が流れ、それを利用して人々は有馬湾まで行
 くことができる。
  民家は小さく粗末で、大通りには物を作る仕事場や小
 売店が立ち並んでいる。
  住民は、均整がとれていて小柄である。
  この土地の女性は美しい。
  ただ、こってりと白粉を塗っているので、楽しげで朗
 らかな顔つきで、生気を示さないなら、操り人形だと思
 っただろう。
1692年、大仏の修復が完了
  東大寺の大仏修復が完了し、開眼供養が行われた。
  公慶の勧進が、公慶の思いが、民の心をやがて動かし、
 小さな寄進が積み重なって、この年に、大仏の修復は完
 了したのだった。
  そして、公慶は、次は大仏殿の再建だと、休む間もな
 く、江戸へ向かった。
1692年、間数絵図
  江戸町で間数絵図作成を命じた(元禄間数絵図)
1692年、工業:友禅染
  京都で友禅染が始まった。
  この頃、元禄模様が流行した。
1692年、文学:井原西鶴が「世間胸算用」を刊行した。
1693年9月、井原西鶴(いはらさいかく、浮世草子作者、人
 形浄瑠璃作者、俳諧師)が没した(1642年~1693年)。
  「長持ちに 春かくれゆく 衣がへ」
1693年、政策:人別(戸籍)
  幕府が、流言者取締りのため、住民を人別に書上げさ
 せた。
1693年、生物保護:鷹場制度の廃止
  幕府が、鷹場制度を廃止し、鷹を野に放った。
1693年、新井白石が、徳川綱豊(後に家宣)の侍講となっ
 た。
1694年、三井高利(みついたかとし、三井財閥の基礎を築い
 た)が没した(1622年~1694年)
  伊勢松坂で米の売買や大名貸、郷貸で財をなし、スタ
 ートを切った。
1694年4月年、将軍が水戸光圀をして経書(けいしょ)を講
 ぜしめる。
  経書は、中国古代の聖賢の教えを述べた書物で、儒教
 の経典。四書・五経・十三経の類いを言う。
1694年11月28日、松尾芭蕉(まつおばしょう)が没した(
 1644年~1694年)
  病没だった。世界的に知られる俳諧師。
  51歳の秋、故郷の伊賀にしばし滞在したのち、9月に大
 阪へ向かう、門人のトラブルの仲裁の為とされる。
  その為か病を発し、弟子の家で療養。
  9月10日の夜に発熱と頭痛を訴え、伏す。一時回復。
  9月20日には俳席にも現れられるまで回復したが、29日
 夜に再び伏す。
  以後容態は悪化の一途をたどった。
  「いまだ気分もすぐれず、・・・発句もしかじか得つ
 かまつらず候」の状態が続いた。
  10月5日に、御堂筋の貸座敷に移り、門人たちの看病を
 受けた。
  しかし、10月8日に、最後を悟ったのか「病中吟」と称
 し、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と
 詠んだ。
  10月12日(旧暦)、申の刻(午前4時頃)に没した。
1694年、教育:学問と武芸奨励
  幕府が、旗本と御家人に学問と武芸を奨励した。
1694年、交通:助人馬提供
  東海道と中仙道の各宿に助人馬提供の村を割り当てた
 (助郷の始まり)
  助郷(すけごう)とは、宿駅常備の人馬が不足した時、
 その補充のために宿駅の近隣の村々に課された夫役(ぶ
 やく)として馬を差し出す。
1694年、祭り:賀茂葵祭
  京都の賀茂葵祭が再興され、内裏寝殿の御簾をはじめ、
 牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるま
 で、すべて葵の葉で飾るようになって、この名がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/

(増補版)134D1/3:気になった事柄を集めた年表(1688年~1690年)

2015-06-18 00:50:30 | 日記
題:(増補版)134D1/3:気になった事柄を集めた年表(1688年~1690年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1688年~1815年、イギリスは、この126年間のうち、実に64
 年間もの間、戦争をしている。
  50%以上が戦争をしている年(卑劣な好戦国家だ))
  この期間は、イギリスとフランスとの植民地の争奪戦
 だった。迷惑するのは戦場にされる植民地。
  イギリスはこんな事ばかりしている。
  そして、イギリスは、次に、ドイツをターゲットにし
 て、ドイツ叩きの戦争をして行く。
  そして、世界のあちこちで、
  武力で以って、
  先住の方々が、既に、居住して、生活しているのに関
 わらず、
  有色の人間は、人間と映らないキリスト教の教義・考
 え方に洗脳された見方で、
  まるで、その地が、無人島の如くの振舞いで、
  その先住の方々が生活する国々を奪い取って行った。
1689年、令:町屋建築禁止、
  江戸で、武家屋敷地内に町屋を建てることが禁止され
 た。
1689年、人事:北村季吟(きたむらきぎん、歌人)
  幕府が、北村季吟父子を招聘した(歌学方の初め)
  歌学方(かがくかた):歌書の研修・詠歌に関し、和
 歌に関する学問をつかさどった。
  北村家が世襲した。
1689年、文化:松尾芭蕉が、春に、「奥の細道」の旅に出
 た。
  「奥の細道」は俳諧紀行。
  門人の曽良を伴って、江戸深川から関東・奥羽・北陸
 の諸地を巡って、美濃の大垣まで至り、さらに伊勢神宮
 の参詣をしようと、9月6日に立つまでの紀行。
  著者の芭蕉の没後、だいぶ経って、1702年に刊行され
 た。
1689年、清とロシアとのネルチンスク条約(極東の露清の
 国境画定)
  16世紀末から、ロシアは、コサック兵によってシベリ
 ア征服をして行くが、
  17世紀中頃より、アムール川流域に進出し、その地を
 征服した。・・が、
  そこの先住民より貢租を徴収していた清国の勢力と衝
 突するようになった。
  1685年と1686年に、ロシアの前進基地のアルパジン城
 塞をめぐって、大規模な攻防戦が繰り返された。
  これをきっかけに、和平の気運が高まり、国境画定へ
 と向かった。
1689年12月、イギリスで権利章典が発布された(臣民の権
 利および自由を宣言し、王位継承を定める法律)
  これは、人間として、当然に有するべき『人権』を宣
 言するものではなかった。
  そして、これをもって議会の承認なく平時に常備軍を
 徴集するなと禁止された。
  また、軍の予算や軍の制度は、議会のチェックや承認
 を得ること・・とした。
  また、武器の携帯は合法だとした。
  そして、国教会を「体制の教会」だとした。
1689年~1697年、ウィリアム王戦争(卑劣な植民地戦争)
  英仏の植民地戦争が、アメリカ新大陸で起きた。
  まったく関係のない、他人の地で、英仏は戦った。
  カナダ東部のケベック州で戦われた。
  イギリスは、ケベック攻略に失敗した。
  フランスはインディアンの方々を利用する卑劣な戦い
 方をした。
  インディアンの方々は命は奪われたが、何ら、見返り
 は無かった。
1689年、モンテスキューが生まれた(1689年~1755年)
  フランスの哲学者(フランス絶対王政を批判した)。
  「法の精神」を著した(政治理論書)、
1689年~1697年、ファルツ継承戦争
  卑劣な戦争ばかりのヨーロッパ、
  フランスのルイ14世は、領土拡張の野心が一杯だった。
  イギリスの名誉革命で、フランスに亡命した元イギリ
 ス王のジェームス2世は、フランスのルイ14世の応援を受
 けて、アイルランドに上陸した(名誉革命の復讐的だっ
 た、こんな形でしか軍を動かせない王だった)。イギリ
 スの背後を突く作戦だった。
  フランス軍は、ネーデルランド・ドイツ・アルプス地
 方を、次々と攻撃して行った。
  スペインにも入った。
  フランスは手を広げすぎていた。
  アルプス地方のサヴォイを脱落させたところで、和平
 の機運が盛り上がった。
  1697年9月に、ライスワイク条約を締結して、戦争は終
 わった。
1689年、寛容法(イギリス)
  イギリス議会は、カトリック以外の宗教を認めた。
  イングランド国教で国家統制をしているのだが、
 このイングランド国教以外の非国教徒(しかし、プロテ
 スタントに限るとした・・)にも、当然の事なのだが、
 信教の自由を認めた(だから、寛容だと言った)。
  これを、議会は採択した。カトリックと、えげつなく
 宗教対立をしているのに「寛容法」と名付けた。
  この後、ピューリタン(清教徒)の方々が迫害される
 (アメリカへ逃げる、非寛容なイギリスだった)。
  宗教的に寛容でも何でもないイギリスだった、名前だ
 けの「寛容法」だった。
  国王を統括者としていて、自由なんてない状態だった(
 国教支配体制下に置かれていた)。
  キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」「魔女は生かし
 ておいてはならない」などの卑劣な教義は、依然として
 残っている。
1690年、米の取れ高
  この頃の日本の米の取れ高は、2577万石。
1690年、教育:寺子屋の隆盛
  私塾・寺子屋の隆盛した。
  17世紀の末ごろ、いわゆる元禄時代がその高揚の発端
 となっていて、上からの庶民教化重視の時期とほぼ一致
 した。
1690年、教育:湯島の聖堂
  上野忍岡の聖堂を湯島に移した、これが、昌平坂学問
 所のおこりとなった。
1690年、建築:この頃、寺社の造営・修復が盛ん。
1690年、工業:高級織物・友禅染
  錦・絹織物の国内生産の発達は、17世紀末以降の経済
 的発展の中で進み、加速された。
  その質も、だんだん高級化し、幕府の倹約令にもかか
 わらず、羽二重・紗綾(さや、卍模様などの光沢ある絹
 織物)・繻子織(しゅす)などの高級織物の生産技術が
 発達した。
  それと並行して、友禅染などの染色技術も進歩した。
  また、歌舞伎の影響もあって、大都市の風俗を形成し
 て行った。
1690年、人物:新井白石・貿易無用論
  白石の著書の「折りたく柴の記(おりたくしばのき)」
 は、白石の自叙伝であるが、これは、1716年に、幕政中
 枢から失脚した白石が、家宣の厚い恩恵に浴しつつ、幕
 政に尽力した自分の立場を、子孫に語り残すことを目的
 に綴った。
  この中で、新井白石は、貿易無用論を説いた。
  この影響から、識者の間で貿易無用が唱えられるよう
 になった。
  新井白石は、6代将軍・家宣と個人的に結びついていた
 存在で、幕府で役職は無かったから行政官僚とは言えな
 い。
  しかし、白石は、門閥格式を破って、一介の浪人から
 旗本に登用された一人だった。
  白石と親交を持ちつつ、正徳期の政局に重きをなした
 間部詮房(まなべあきふさ)は、猿楽師の弟子から、将
 軍・家宣の引き立てを得て、幕臣に登用され、側用人に
 まで上った人だった。
  ただ、家宣が死去して、幼少の7代将軍を擁した頃は、
 詮房・白石らの抜擢者に対する譜代門閥の風当たりは強
 まった。
1690年、税:川船から運上銀を徴収した(大阪)
1690年、文化:浮世絵
  17世紀の後半、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、浮世絵
 師、1618年~1694年)が、浮世絵を民衆芸術として大成
 し、これを木版の絵本、あるいは一枚刷りとして大量に
 印刷し、廉価に販売して、民衆に大いに普及させた。
  その後、印刷技術の進歩に伴い、錦絵の出現を見て、
 また、優れた作者を生んだ。
  この年に、「東海道分間絵図(とうかいどうぶんげん
 えず、東海道の状況を把握するための絵地図)」が刊行
 した(遠近道印と共著、おちこどういん)。
1690年、康熙帝(こうきてい、清の第4代皇帝、中国歴代最
 高の名君と言われる)が、ガルダン汗征討(1696年や、
 1697年にも)、
  ガルダン・ハーン(モンゴルの部族長)が2万の兵を率
 いて清の軍と戦った。激しい射撃戦だった。
 「康熙会典(こうきかいてん、基本法の総合的法典)」
 が、この年に、成った。
1690年5月、ドイツ人のケンペル(博物学者)が来日した。
 (~1692年まで)。
  ケンペルは、日本記事を書いた。
  エンゲルベルト・ケンペルは、オランダ東インド会社
 の医師として来日していた。
  日本の歴史・政治・社会・宗教・地理・動植物などを
 「日本誌」「江戸参府紀行」などを記した。
1690年、ジョン・ロック(イギリス)が、「市民政府二論
 (政治哲学の書、抵抗権など)」「人間悟性論(近世認
 識論の発端となった書)」を刊行した。
1690年、イギリスが、インドのカルカッタに商館を置いた。
  ここを基点にして貿易を本格化させて行く。
  イギリスは、この時、軍事基地も造っており、インド
 支配を強めていく。
  フランスと抗争が起こして行く(人の家に入って来て、
 戦争するなの感じ)
1690年代、この頃、ブラジル北東部に金が発見された。
  これは、良い話ではなかった。
  先住民の方たちは、インディオの方たちは、この鉱山
 で奴隷として働かされた。
  奴隷狩りが行われ、被害者となった。
  この残虐な行為者は、キリスト教徒のスペイン人とポ
 ルトガル人だった。
  何と、キリスト教聖職者も、奴隷狩りをするという破
 廉恥な状況をした。
  それまでは、平穏な、平和な土地だった。
  平和な時を過ごす先住民のインディオの方たちの生活
 があった。
  ブラジルのサンパウロ州などの海岸部の土地には、ポ
 ルトガル人がやってくる前には、数十万人のインディオ
 の方たちが幸せに暮らして居た。
  16世紀半ばの時点で、9000人程度にまで激減してしま
 った(50万人居たとしたって98%の方々が殺戮された)。
  インディオの方たちは殺戮から逃れ、内陸へ逃げた。
  ポルトガルは、その奪い取った地域を植民地とし、植
 民地政府を作った。
  一部のインディオの方たちは反抗した。
  反抗したトゥピ族の戦いは、反乱と報告された。
  これが、ポルトガルの植民地政府に絶好の口実を与え
 た。
  ポルトガル人たちは、進んだ兵器を使ってインディオ
 の方たちを殲滅した。
  そしてまた、インディオの方たちを捕虜にした。
  このキリスト教徒とキリスト教宣教師たちに、何の権
 利があるというのか?
  このポルトガル人たちは、インディオの方たちを奴隷
 とし、キリスト教の聖書が教えている教義と同じ行為を
 した。
  本国のポルトガルは、これは出先の組織がやったこと
 と、何ら責任をとる行為を行っていない。
  1558年に、3代目の総督メン・デ・サーは、インディオ
 に戦争を仕掛けた。
  そして、多くのインディオの方たちを捕虜にして獲得
 した。
  進んだ兵器を持っているポルトガルが、奴隷が欲しく
 なったので、戦争を仕掛けたのだった。「奴隷狩り」を
 したい、奴隷が欲しいという図だった。
  歴史には、『戦争』と書かれるだろうが?
  優れた兵器のマスケット銃と、剣で武装したポルトガ
 ル軍を前に、インディオの方たちは抵抗する術(すべ)
 は無かった。武器が違い過ぎた。
  また、ポルトガルは卑怯な事をした。
  捕らえたインディオの方たちに、武器を与え、別な種
 族を襲わせた。
  捕らえ捕虜を自分の兵にして、同じ民族のインディオ
 の方たちを襲わせて捕虜にし、捕虜を増やして行った。
  奴隷狩りで得た奴隷にした人たちに戦わせて、同じイ
 ンディオの方たちを奴隷にした。
  優れた武器を与えてやらせた。
  キリスト教の有色人種蔑視の考え方・教義に洗脳され
 たポルトガル人やスペイン人は、インディオの方たちを、
 家畜の様に好きなだけ酷使してかまわない、動物のよう
 な存在だと錯覚し、マインド・コントロールされていた。
  ポルトガル人やスペイン人は、自分では働こうとはぜ
 ず、家畜のようにインディオの方たちを働かせた。
  このポルトガル人の書いた記録が残っている、
  「ポルトガル人の入植者は、まず、農場を運営するた
 めの奴隷を確保しようとした。
  5人前後の奴隷を手に入れれば、無一物でも(裕福に悠
 々とやれたと記す)。
  奴隷の一人に魚を取らせ、一人に狩りをさせ、残りに
 開墾と畑仕事をさせる事で、家族が悠々と生活する事が
 出来た」と書いた。
  17世紀に入ると、ブラジルの東海岸は、ほとんどポル
 トガルの支配下に入った。
  ここのインディオの方たちが、奴隷として作った砂糖
 が、全ヨーロッパの砂糖の大部分を占めた。
  旨い汁を吸って、味を覚えたポルトガルは、この卑劣
 な方式の奴隷農園を拡大した。
  そして、止まることを知らないポルトガルの欲は、「
 鉱山」へ手を出して行った。
  奴隷の需要は、ますます増大した。
  このブラジルの、海岸地域での、奴隷供給は出来ない
 状態になっていた(取り尽くしたのだ)。
  ポルトガルは、サンパウロなどの町の「食い詰めた者
 たち」を雇って、より奥地でインディオ狩りをやらせた。
  食い詰め者たちは、インディオ狩りのため、奥地に入
 って行った。
  食い詰め者たちに、武器を持たせた。
  名目上は傭兵だった。
  続々と、インディオを求めて奥地へ入って行った。
  そして、村という村を襲って行った。
  そして、村人そっくりを奴隷とした。
  この奴隷狩りの舞台には、キリスト教宣教師も共に行
 動した。
  抵抗する男は容赦なく殺された(抵抗する者は無慈悲
 に殺すだった)。
  てんでんばらばらの家族が続出した。
  奴隷にされたインディオの方たちは、鎖につながれ、
 舟に乗せられ川を下って行った。
  まるで、ベルトコンベアに乗った如くに、農場や鉱山
 に売られ、供給された。
  もう、物と同然の扱いだった。
  人道的な面は、どこにも無かった。
  この様な行為を、今・現在、スペインやポルトガルで
 は、正当な行為として、お祭りをしている。
  この卑劣な、反省のない行為を糾弾する。
  また、恥の上塗りのお祭り行為は止めよ。
  また、この様な卑劣な行為を、止めるのではなく、一
 緒にやったキリスト教聖職者は書く、
  「乾いたヤシの葉で出来ていた(インディオの)村全
 体を完全に破壊し、放火して・・、奴隷になる事を拒ん
 だ者を、生きたまま、その中で、焼き殺した。
  武力を使わなくとも、圧倒され服従するインディオも
 あったが、
  それは、言語道断の欺瞞手段によってなされた。
  ポルトガル人は、まず、国王の名と誠意において、同
 盟と友好をインディオに約束するのだが、
  インディオが、警戒心を解いて、武器を捨てるや否や、
 インディオを取り押さえ、縛り上げて、ポルトガル人の
 間で奴隷として分配するか、この上ない残酷さで奴隷と
 して売りとばした」。
  白人入植者は、内陸の乾燥地へと侵入を繰り返し、次
 々と大きな牧場を作って行った。
  もとはインディオの方々の土地を、そこに住んでいた
 インディオの方たちを捕らえ、奴隷にするか殺して、そ
 の地を勝手に自分たちの土地とした。
  金が発見されると、奴隷狩りは、さらに悲惨さを増し
 た。
  1690年代に、ブラジル北東部に金が発見された。
  キリスト教宣教師も、奴隷獲得に狂奔した。
  キリスト教の宣教師の実態は、大農園主や牧場主と同
 じだった。
  キリスト教は、インディオの方たちの支配権を主張し
 た。
  キリスト教聖職者も、欲の塊の農園主などと何ら変わ
 りは無かった。
  キリスト教聖職者と入植者の争いがよく起こり、キリ
 スト教聖職者たちも奴隷狩りの遠征をした。
  キリスト教聖職者たちは、捕らえたインディオの方た
 ちに、自分の奴隷だと焼き印を押した。
  そして、自分たちの村で働かせた。
  こんな事をして、天のキリスト教の神も喜んだのか?
  16世紀に描かれた絵に、スペインが、インディオの方
 々を襲撃し、虐殺している絵が記録に残っている。
  ブラジルのサンターナ大聖堂は、奴隷狩りの収益で再
 建された。
  可哀想な事に、奴隷にされたインディオの方たちは、
 その生活の変わり方が酷(ひど)かったため、死亡率が
 高かった、自殺も多かった(悲観して)。
  スペイン・ポルトガル人は、インディオの方々を消耗
 品の如くに使った。
  そして、非人道的なスペイン・ポルトガル人は、イン
 ディオの方たちを消耗し尽くすと、
  今度は、アフリカから、アフリカの方々を奴隷として
 連れて来た。
  16世紀半ばから、またまた、非人道的な事を始めた。
  この悪行為は、1850年に、奴隷売買禁止までの300年
 もの長い期間、この悪行を続けた。
  この為に、数百万人ものアフリカの方々が犠牲になっ
 た。
  日本にも来たザビエル達のキリスト教宣教師たちは、
 曲者だった(特に、イエズス会がくせ者)。
  世界のあちこちで悪い事ばかりしていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/

(増補版)133D1/3:気になった事柄を集めた年表(1686年~1688年)

2015-06-16 02:47:03 | 日記
題:(増補版)133D1/3:気になった事柄を集めた年表(1686年~1688年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1687年2月、生類憐みの令:
  幕府(5代将軍・徳川綱吉)が、初めて、生類憐みの令
 を出した(生類保護政策)
  この2月の令を初めとして、1709年までに、この令に関
 連する生類保護政策の令は、100通を越える令が出た。
  幕府が、病人、病牛馬の遺棄を禁じ、ついで、捨馬す
 る者への処罰例をあげて、諸国に高札で捨馬禁令を徹底
 させた。
  また、犬の愛護を命じ、江戸町などで犬の登録帳を作
 成させた。
  虫鳥の飼育を禁じ、野鳥獣をも哀れむべきこととした。
  ついで、全国の鉄砲改めを命じ、鳥獣害に対し空砲で
 のおどし以外の鉄砲利用を原則として禁止した。
1687年4月、田畑永代売買禁止
  今まで全国令ではなかったのが、この年に、土地の売
 買を禁止する全国令となった。
  この田畑永代売買禁止とともに、質にとった田畑の年
 貢納入の規定も出した。
1687年、浅草・品川両溜を設置した。
  溜(ため)とは病気になった囚人などを保護する施設。
  江戸の浅草と品川のほか、京都の悲田院村(悲田院・
 ひでんいん、と言えば仏教の慈悲思想に基づいて、貧し
 い人や孤児を救うために作られた施設)
  悲田院村は、悲田院が経営困難から泉涌寺(せんにゅ
 うじ)の寺地に移転し(1645年)悲田院村と称した。
1687年、熊沢蕃山(くまざわはんざん、陽明学者)の「大
 学或問(だいがくわくもん)」が、幕府の忌事に触れ、
 下総古河城内に蟄居された。
  熊沢蕃山は、中江藤樹の門下に入って陽明学を学んだ。
  岡山藩に出仕し、重用された。
  飢饉の折には救済に尽力する。
  また、藩政確立に尽力し、零細農民を救済した。
  治山治水を行い、農業政策も充実させた。
  しかし、陽明学者の点を批判を受け、そして、その著
 の「大学或門」で彼独自の経世論を展開し、幕政を批判
 したのだった。
1687年、令:一人旅の宿泊許可、
  一人旅でも不審がなければ、宿泊を許すように命じた。
1687年、文化:この頃、元禄文化が盛ん。
  元禄文化(げんろくぶんか):特に上方(京都、大阪)
 を中心に展開した町人文化。
  貨幣経済下で、町人の経済力が高められ、経済的実力
 を背景に開花し、華美な生活と遊興娯楽の余裕が町人に
 出た。
  文芸・演劇など、歌舞伎が盛行した。
1687年、文学:石川流宣(いしかわとものぶ、浮世絵師)
 の「本朝図鑑綱目(ほんちょうずかんこうもく)」が刊
 行された。
  本朝図鑑綱目は、浮世草子(小説の一種)で、道中図
 と武鑑(大名や江戸幕府の役人などの名前や石高や俸給
 や家紋など)を記している。
1687年、ダンビア(イギリス)が台風が猛烈な旋回暴風で
 ある事を知った。
1687年、ニュートン(イギリス)が、「自然哲学の数学的
 原理(プリンキピア)を刊行した。
  ニュートンの力学体系を解説した書。
1687年、ニュートンが運動の法則、「万有引力」を発見す
 る。
1687年、オスマン・トルコが、ハンガリーをオーストリア
 に奪回され、没落し始める。
1688年11月、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、
 綱吉の側用人になる。
  誠実な人と言われている。
  書に、「信アレバ徳アル故二、上意ニモ叶ヒ、家繁昌
 スト見ヘタリ」と記載している。
  南部直政(なんぶなおまさ)も側用人となる。
1688年、演芸:名女形
  この頃、初代の芳沢あやめ(よしざわ)が、上方で名
 女形の評判をとる。
1688年、和算:関孝和(せきたかかず)
  日本独特の発展を遂げた数学の和算は、ことに元禄時
 代の関孝和(1640年頃~1708年)が現れて、かなり高度
 の域にまで到達した。
  少年の頃、吉田光由(よしだみつよし)の「塵劫記(
 じんこうき)」で自習し大成したらしい。
  吉田光由は、「ねずみ算」など遊戯的問題や実用問題
 などを加える工夫を凝らした和算書を出した。
  塵劫記は、掛け算の九九などの基礎的知識や面積の求
 め方など身近な話題で解説し、この一冊で日常生活に必
 要な算術全般がほぼ網羅できた。
1688年、交通:旅人保護政策を発令
  幕府が、旅行中の発病者や死者の埋葬など旅人の保護
 政策を発令した。
1688年、肥料も自給肥料ばかりでなく、効果の高い金肥(
 かねごえ、きんぴ)、すなわち、購入肥料(油粕や魚肥)
 が用いられるようになった。
  しかし、金を出して肥料を買っても、増収分は年貢に
 もって行かれるような原則の働く米の生産にはあまり用
 いられない。
  生産者のもとに利益が残るような商品作物に向けられ
 た。
1688年、唐人屋敷:長崎に唐人屋敷を設けた(1689年説あり)。
  中国人の長崎市内雑居を認めていたが、密貿易の禁止、
 風紀取り締まり、キリスト教伝播防止などで居住を制限
 した。
1688年、中国船来航の制限された(密輸取り締まり)。
  密貿易を阻止するための施策。
1688年、新地開発:大阪堂島に新地(しんち)が開発され
 た。
  河川改修や海辺の埋め立てなどで、新たに造成され開
 けた土地(新地)によって、大阪の町は発展した。
  また、新地が繁栄するため、茶屋、煮売屋、風呂屋、
 芝居小屋などの営業を許可したため、難波(なんば)新
 地、曾根崎(そねざき)新地などが、大阪でも有数の繁
 華街となった。
1688年、出版界の隆盛は貸本屋
  儒書・仏書・神書・医書・往来物など、庶民生活にお
 ける教養・実用・娯楽など、多方面にわたる書籍が刊行
 された。
  この傾向は、元禄へ向かって一層盛んとなり、出版点
 数も元禄初年には、寛文末年の2倍に達した。
  その内容も、好色本を初めとして、俳諧書、物語、名
 所記や、
  役者・遊女の評判記など、庶民の好みに応じた本が増
 加した。
  出版事業を隆盛ならしめた。
  この出版界の隆盛は、貸本屋に依存するところが大き
 かった。
1688年、かぶき者が処刑された。
  大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)の200余人が捕ら
 えられ11人が処刑された。
  これが「かぶき者」の最後であった。
  大小神祇組は、旗本の水野成之が組織し、家臣4人を四
 天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用心
 頭(家老)を保昌独武者と名付け、江戸市中を異装で闊
 歩し、悪行・粗暴の限りを尽くしていた。
1688年、農業:技術の改良
  元禄期の農業技術の改良は、生産力の発達に連なった。
  ただ、改良に関係ある作物は、麦や綿であって、米で
 はなかった。
  つまり、技術の改良が年貢の対象となる米の生産に向
 けられず、商品作物に向けられていたことが重要な問題。
  勿論、米の生産技術も向上している・・が、
  しかし、生産力の発達は、年貢対象外の作物に著しく
 現れている。
  木綿・アブラナ・煙草などの商品作物の栽培は、石高
 制の盲点だった。
  石高制は、米の生産を前提としているため、商品作物
 は十分に把握できていなかった。
1688年、祭り:神田祭、初めて江戸城に入る。
  江戸城内で将軍の上覧を許された。
1688年、令:酒造制限令(しゅぞうせいげんれい)が出さ
 れた。
  幕府は、米価を調整する必要から、大口需要者である
 酒造業に対して制限をした。
  幕末まで、約60回、出された。
1688年、この頃、生類憐みの令で処罰される者が多い(~
 1690年まで)。
1688年、文化:和服の起源、現在のような形の和服の起源
 は元禄期に求められる。
  帯の幅が現在の様に広くなったのも元禄前後である。
1688年、文学:井原西鶴の「一目玉鉾(ひとめたまぼこ)」
 「日本永代蔵」が刊行された。
  「一目玉鉾」は、絵入りの地誌であり、第一巻は北海
 道に、はじまり奥州街道を江戸まで。第二卷は江戸より
 東海道を進んで大井川まで。第三卷は、同じく東海道を
 金谷から大坂「天満豊崎」まで。第四は大阪より瀬戸内
 海を通って長崎・壱岐・対馬・・・
1688年、文学:契沖(けいちゅう、国学者)の「万葉代匠
 記(まんようだいしょうき)」の初稿がなった。
  万葉代匠記は、万葉集の注釈書(徳川光圀の命によっ
 て1683年に着手された)。
  詳細で密な注が加えられており、以後の万葉集研究の
 基礎となった。
1688年、イギリスで名誉革命が起きた。
  実態は名誉でも何でもない。
  酷過ぎる王のため、まったく王側の軍の行動がなかっ
 たため、無血になっただけ。
1688年、フランスが、インドのシャンデルナゴルを占領し
 た。そして、商館を建てた。
  シャンデルナゴルは、インドの東方(ベンガル地方)
 のカルカッタの近くにある。経済的豊かな地。
  このフランスとイギリスはこの地を取り合う。
  悲惨な目に合うのはインドの方々だった。
  1757年のプラッシーの戦いでは、イギリス軍がフラン
 ス・ベンガル連合軍を破る。そして、イギリスが占領。
  イギリスとフランスは、インドの方々からうまい汁を
 吸い続ける。
1688年~1707年、せっせと海外の情報を輸入する元禄期
  元禄文化は、17世紀の終わり頃から18世紀初頭にかけ
 て、元禄時代(1688~1707)に、
  主に京都・大阪の上方中心に発展した文化。
  そして、この文化は、金銀で買い取ったと言っていい。
  日本は鎖国でも何でもない。
  昭和の一時期に、「鎖国と言った知識人(和辻哲郎)」
 のために、鎖国があったように、日本人は誤解し始める
 ・・が、これは間違い。
  盛んに、海外と交易をする国・日本だった。
  日本の金、銀、銅の流出は、当時の世界一の量だった。
  日本の品質も最高に良かった。
  別子銅山を持つ住友本家が、オランダの繁栄を支えた
 言われるくらいだった。
  日本は、『情報』の輸入を重視した。
  西洋事情に関する書物の輸入、
  そして、それを嚥下咀嚼(えんげそしゃく)して、日
 本の知識として、日本版を出版する点数は急増して行っ
 た。
  その嚥下咀嚼する高い知識を、当時の日本人も持って
 いた。
  輸入の1位は絹織物、
  2位が漢籍(かんぜき)などの知識書だった。
  学問も隆盛した。
  その他の輸入品は、木綿、砂糖、茶、香辛料、陶磁器
 などだった。
  「キリシタン禁止令(日本領土獲得の尖兵だったこと
 を、幕府は知っていた)」
  「貿易を一手に幕府に集め、統制下に置いた」
  「日本人の海外渡航を禁止」でもって鎖国と断じるの
 は間違い。
  キリスト教宣教師は、本国へ、「日本より先に中国の
 領土獲得行動をする方がよい」と報告している。
  また、幕府は、言論の自由を封殺するようなことを行
 っていない。
  そして、当時の日本は、中国や朝鮮に比べて、交易と
 情報交換を享受する自由を、相当程度、手にしていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/