馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

【大和長寿道】その2、『土舞台』『艸墓古墳』へ

2019-06-21 08:24:42 | 大和国の史跡

2019年6月2日(日)
安部山城跡から移動
『土舞台』

大きな広場になってる。
先ほどの広場が本丸ならこちらは二の丸になるかも?



土舞台碑

ここで聖徳太子が舞を御覧になった。
芸能発祥の地と呼ばれる。

碑文は、桜井市出身の
保田 與重郎の筆だそうか。

保田 與重郎の名前で思い出した。
過去の我がブログを読んだことのある人は覚えてるかな?
大津市膳所の義仲寺再建に尽力し、
保田氏の墓もある。

木曽義仲、松尾芭蕉の信奉者だったようですね。
そういや、芭蕉も司馬遼太郎も竹内街道と縁がある。
こうなると、どうしても武内街道歩かねばならないぞ!


土舞台を降りた後、
艸墓古墳を探すが、見つからない。


迷ってたら、向こうからやってきた若者がスマホで調べてくれて
イシブタイ古墳がそちらの後ろの方にありますよ、と教えてくれた。

イシブタイ古墳?
明日香の石舞台ならずっと南のほうのはず。
いぶかしながら、若者が教えてくれたとおりに行ったら、
土舞台に戻った。

イシブタイじゃなくて土舞台じゃないですか!
今行ってきたばかりやんか。

まったくもう!
我が輩は行きたいのは
艸墓古墳や!

で、住宅地のなかの奥にようやく見つけた
『艸墓古墳(くさはかこふん)』
別名、カラト古墳。


七世紀なので、古墳時代が終わりを迎える頃の古墳ですわ。
石室が見られるという情報だったので来たのだが、


残念ながら立ち入り禁止でした。
"この付近は古墳だらけ。
安倍山城や土舞台も本来は古墳だったのでは?

次に訪れたのが、
『谷首古墳』

六世紀末~七世紀初め頃で、「方墳」
別名、谷汲古墳。

横穴石室がある。

天井板が斜めに下がってる

奥を撮影したが、画像ではわかりませんな。

両袖式です。
先ほどの艸墓古墳も同じような横穴式石室らしい。

古墳の上に登った
『八幡神社』

墳丘の上に建てられた。

西側に石段があるので下った

段々になってるのは、古墳の名残か?

さらに西へ移動。

『御門神社』

御門大神史跡(みかどおおかみしせき)

由緒を読むと、
安倍晴明を祀ってる。
第八代孝元天皇の皇子の大彦命の子孫が安倍晴明。
この付近は安倍一族の地で、安倍仲麻呂も晴明もこの地で生まれたそうです。
安倍家は土御門家を名乗ったので、
これにちなんで御門(みかど)神社と名付けられた、という。

鳥居の向こうに小さな祠があります。

薄気味悪いので、奥へ入るのはやめた。

次はいよいよ、
安倍文殊院に参拝します



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ


スマホやパソコンの見すぎで
若いのに飛蚊症になる人が増えてるそうです。

気をつけましょう!


右目がすぐに痛くなって長く画面を見られなくなってきた

飛蚊症は絶対に治らないそうだし、困ったもんですわ。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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【大和長寿道】その1、『安倍山城跡』

2019-06-20 07:09:25 | 大和国の史跡
"2019年6月2日(日)

戒重陣屋跡は、あくまでも寄り道。
本来の目的は、大和長寿道を歩くこと。
と言っても、知らない人多いと思う

実はJRのチラシで初めて知ったのです。
最近ぼけ化が進みつつあるので、その対策として誕生日記念に歩くことにしました。
桜井駅からボケ封じの寺社に立ち寄り畝傍駅、大和八木駅まで歩く
直線距離にして約5キロです。

桜井駅の観光案内所で、長寿道のマップを所望したら、
無い!
と言われた。

仕方ないので、事前にネットで調べた地図を頼りに歩くことにしました。

桜井駅から南に進む道に

『歴史街道』の表示が。

12時10分、三宝稲荷神社参道

左手に『桜の井』

第17代履中天皇ゆかりの井戸。
磐余稚桜宮がここにあったとか?

井戸のそばに桜が植えられてたので桜井。

この井戸が桜井市の地名由来になった。

南隣に
『若櫻神社』


参道右手に、若桜の井戸が復元されてる。

さっきの井戸があるのになんでここにも造ったの?

「磐余稚桜宮伝承地の解説」

履中天皇が磐余(いわれ)で船遊びをしていた時に、杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちた。
なので磐余稚桜宮と命名したとか?

無事に長寿道を走破して、長生きできますようにお祈りしました。


右→土舞台の看板に従って右へ。


坂を登る

曲輪の跡かな?

と、思って見る

さらに左手に回り込む

山頂へ。

12時25分、

公園化された広場になってる。
ここが、
『安倍山城跡』

南朝方の駿河狩野氏が築いたとか?
後に南朝方の戒重城を攻めるため北朝方の細川顕氏がここに陣を敷いた。
さらに、その後に松永久秀が布陣した。

土舞台へ向かう

右手に下の段の曲輪への道がある

崖道の草むらをゆく
どんどん藪化する


ついにあきらめて、引き返しました。

やっぱり城跡は冬でないとダメですな。



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が家の紫陽花、

ちょこっと、色が変わり始めた

梅雨入りは今週末か?


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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西山三山【善峯寺】後編

2019-06-19 07:45:50 | 山城国の史跡

2019年6月16日(日)

北門から折返し、奥の院を目指す

"『釈迦堂』明治18年

合掌姿の釈迦如来が安置されてます。

珍しいお姿らしい。

サツキも圧巻です!

奥の院へ。

再び京都市内を見る


『薬師堂』江戸時代

本尊釈迦如来が安置される。

桂昌院の出生の由緒にちなんで、出世薬師と呼ばれる

池がある

鯉?

『御陵』参道

この上に青蓮院親王御陵の墓があり、宮内庁管轄。

帰りのバスの時間が迫ってるのでパスしました。

『青蓮の滝』

カップルに邪魔される

坂を降る

宮内庁じゃなくて宮内省管轄の石碑

経堂の場所まで戻った


経堂を下に見る



『桂昌院廟』1705年建立

一番肝心な場所なんだけど、日本一の松やアジサイ、多宝塔に見とれて見逃してました。
というか、ここに立ち寄る人誰もいない。
桂昌院さんが寄進しなければ、この寺はかなり荒てた状態だったはず。

『宝篋印塔』鎌倉時代

『文殊寺宝館』

寺宝展が開催されていて、観覧は無料だったが、
時間が無いのであきらめた。

楼門へ戻りました。

バスの時間まで7分ほどなので
走ってバス停まで行きました。

満員だったが、無理やり乗りました

一時間で境内を一周できるが、ちょっとせわしない。
なお、境内の内外に売店や食堂などの施設はありません

飲料の自販機はあったような…

マイカーで行かれる方は、狭い箇所があるのでご注意あれ!

おしまい

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

3年ほど前に
村上市、鶴岡市、酒田など日本海側を旅した。
それだけに、今回の地震が気になります



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

"
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京都西山【善峯寺】前編

2019-06-18 07:26:08 | 山城国の史跡
"2019年6月16日(日)

電車に乗ると若い娘さん2人が座ってた。
切符を拝見すると、大垣→関ヶ原の他に複数あり。
どうやら大垣方面から複数の切符を買って乗ったようです。

少女A『この電車の終点は京都?』

少女B「いや、終点は姫路よ」

少女A『姫路は、愛媛なの?』

少女B「は、ぁー?」

バカ娘め!
ヒメジとエヒメ、語呂が似てるだけやんか!
愛媛まで直通で行く電車なんかあるもんか!

というか、このバカ娘、
愛媛が四国にあるということも知らないのでは?

日本の未来が心配やわ…

娘さん2人は京都駅で降りました。
我が輩は須磨行きの普通電車に乗り換えて、
向日町駅で下車。

昨年はアジサイ寺で有名な宇治の三室戸寺に行ったら凄い人でウンザリした。
だから、今回は穴場とも言うべき善峯寺に行くことにしたのです。

しかし、駅前のバス停には行列が!
乗れるのか、心配しましたよ。
ま、なんとか乗れました。

約30分ほどで、門前のバス停到着。

帰る人の行列が凄い。
帰りも大変そう。
本数は一時間に一本間隔です。
※なお、善峯寺行き直通路線バスは冬の一時期、途中の小塩で折返し。
寺まで行かない期間があるので、事前に確かめるべし。


参道到着。

この後、坂道ばかりです。

紅葉の時期も良さそうですよ。

今年の紅葉は、西山三山に行こうかな…
『東門』到着。

西国巡礼二十番札所でしたか!
参拝者多いはずや。

『楼門』江戸時代

ここで受付。500円也。

善峯寺は、平安時代、1029年に源算上人が開基。
鎮護国家の寺として歴代天皇の崇敬を受けて隆盛。
応仁の乱で荒廃したが、江戸時代に将軍徳川綱吉の母の桂昌院が復興させた。

入って正面に
『観音堂(本堂)』

朱印する人が多かった。

我が輩はあじさい苑へ向かう

石垣の上は、日本一の松の枝が伸びてます。

ついつい高石垣に注目してしまう。
病気ですわ…

『護摩堂』江戸時代

『日本一の松』国指定天然記念物
「遊龍の松」と名付けられてます。

枝が長すぎて全体像が写真に収まらない。

枝は長いが、高さは人間の背丈ほどです。

『多宝塔』1621年。
国重文。

知らない人のために教えますが、二重の塔は一般に多宝塔と呼ばれる。
厳密には二重塔と多宝塔は別らしいのですが…

京都市内、比叡山を見る

眺望抜群です!

『幸福地蔵』

あじさい苑を見る展望所になってます

『あじさい苑』
三室戸寺より広いように思う。


あじさい苑から見上げる

満開にはちょっと早かったかな?


『北門』



後編に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が家の紫陽花、



これからどのように色が変化するのか
楽しみです


馬《●▲●》助ヒヒーン♪




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講座、【令和】

2019-06-17 07:20:24 | 歴史講座、講演
"2019年6月15日(土)
一昨日の新聞、チラシが多かった。
「月の真ん中市セール」と書いてある。
6月15日は、年金が振り込まれる日なので、これ目当てのセールですわ。
我が輩も8月からなんとかまともに年金がもらえます。
しかし、以前にも述べたが、公的年金だけでは生活できない。
毎月貯金を崩してます。
我が輩はどうせ長生きできないのでかまわないが、
長生きしたい人は2000万円以上目指して貯金しましょう!

天気予報で風雨強く大荒れと言ってたので、お出かけは中止するつもりだったが、一向に雨降らないので
午後、長浜城博物館に行き、講座を受けました。

お題は、【万葉集と令和】
令和←スマホの予測変換で出てこない。
困ったもんレイワ!
講師の磯崎さんが、令和の令は良いという意味、令嬢の令です。
と、言う。

なるほど、令嬢か!

広辞苑へ、
【令嬢】れいじょう
『他人の娘の尊敬語。令愛』

Φ(*^ひ^*)Φ
令愛?

再び広辞苑へ
【令愛】れいあい
『他人の娘の尊敬語。令嬢』

Φ(*^ひ^*)Φ
同じ意味でした。
でも、令愛という熟語は初耳。
また一つ勉強になったぞ!

万葉集講座は人気無いのでいつも空席ありだが、
今回は令和に関する話ということで会場は珍しく超満員でした。
仕方ないので補助席に座ることになった。

元号「令和」の由来となったのは万葉集の巻五、
梅花の歌32首があり、その序文として大伴旅人が書いた文章から採用された。

その序文によると、
天平2年(730)、正月13日に大宰府の長官だった大友旅人の宅にみんなが集まって梅話の宴会を催した。
「時に初春の[令]月にして、気淑(よ)く風[和](やわら)ぎ、梅は…」
と、書いてある。

広辞苑へ、
【令月】れいげつ
『万事をなすのによい月。めでたい月』
『陰暦2月の異称』

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
初春の良い月となり、風も和んだので宴会を催した、
詩を詠み、大いに語らい、和やかに飲みました、
というわけですな。

この梅花の宴に参加した人物は、
長官の大伴旅人の他に、次官、三等官などの役人はもとより、
筑前国、筑後国、豊後国、壱岐国、対馬国、薩摩国、大隅国など九州各地の官吏が参加した。
なぜか、肥後と日向の役人が見当たらないのは、大宰府の管轄ではなかったのかな?

818番の歌
「春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春日(はるひ)暮さむ」
詠み人は、
『筑前守 山上大夫』
中国風に書かれてる。
山上は、有名な山上憶良。
大夫は長官のことで、筑前国の長官という肩書。
大伴旅人とともに万葉集の編集をした山上憶良の歌です。
梅の花の宴の序文は山上憶良が書いたという説もあります。

講座では32首全部解説してくれました。
詳細は省略。

伴氏は、天皇に直接仕える伴造。
軍事的集団でもある。
その伴造を統括するのが大伴氏。
大伴金村の頃が全盛期だったが、朝鮮問題で失脚。
その後、旅人や家持が挽回するが、
藤原氏の台頭でジリ貧となり、
旅人は、神亀4年(727)12月頃大宰府長官に左遷されました。
この時、63歳。
隠居してもいい歳に九州まで行かされたのです。
そして、天平2年(730)正月、梅の花の宴を催したのです。
10月、旅人は大納言になり、
12月、ようやく任を解かれ、帰京できました。
しかし、翌年の7月亡くなりました。
67歳でした。

大伴氏は、この後
藤原種継事件で衰退、
大伴から伴へ改名、その他一般の貴族となったのであった。

Φ(*^ひ^*)Φ

令和、めでたい元号だが、

大伴旅人にとっては、
ホントにめでたかったのか?

考えさせられますね。


ちなみに、
何年か前に太宰府に行きました。
梅花の宴が催された大宰府政庁跡の奥の四王寺山の麓から斜面を登り、
百名城の大野城跡を目指したが
危うく転落しそうになりました

結局、大野城の百間石垣を見られなかった。

令和何年かの梅の頃にリベンジしなければ!



馬《●▲●》助ヒヒーン♪"
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【大和戒重陣屋跡】

2019-06-15 07:31:35 | 大和国の史跡
"2019年6月2日(日)

桜井駅から西へ徒歩約12分

『春日神社』

この近辺に大和戒重(かいじゅう)陣屋があったそうです。

織田有楽斎長益の子の長政によって戒重藩一万石が立藩された。
有楽斎といえば、東京の有楽町の地名になった人ですね。
大河ドラマ『真田丸』では、井上順さんが演じてました。
徳川方の間者としての扱いでした。

戒重藩は後に芝村陣屋に移転した。

なので、境内を見回ったが、

遺構らしきものは残ってない。

というか、陣屋跡の説明看板もない…

城跡以外としては、

「敏達天皇訳語田(おさだ)・幸玉宮(さちたまのみや)推定地」



戒重村の小字「和佐田(わさだ)」が明治以前は「他田(おさだ)」だった。
さらに、春日神社が他田(長田)宮と称したのが、推定の由来のようです。

敏達天皇は第30代の天皇ですが、どちらかというと奥さんの推古天皇のほうが知名度高いですね。

仏教伝来では、
廃仏派の物部氏の意見を受けて仏像や仏殿を焼いたそうです。
そんなわけで、
わざわざ桜井駅からここまでやってきたが城跡に関しては骨折り損でした。

桜井駅へ戻るときに
ちょこっと歩いたのが
『竹内街道・横大路』

竹内街道は日本最古の街道と言われる。
堺市と葛城市を結ぶ道。
いわば、街道歩きにとっては聖地の街道と言ってよい。
いつか必ず制覇するつもりです。

横大路は、伊勢街道。
今回ちょこっと歩いたのは、横大路です。

両方合わせて歩きたいものです。

て、あっちの街道、こっちの街道と、間口広げすぎて
また、中途半端な歩きになりそう…


というか、戒重陣屋の立地は
この竹内街道と伊勢街道をにらむ位置だということに気づいた!

これが、今回の唯一の収穫か?


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今日は風雨激しいので、
お出かけは難しい。
おとなしく引きこもる、
かな…😣


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


"
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【ラジ耳】孝明天皇陵

2019-06-14 07:22:59 | 日記
"KBS京都ラジオ
ニュース
『上皇ご夫妻、退位後初の地方訪問。
孝明天皇陵と明治天皇陵を訪ねられ退位の報告をされた。』

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
明治天皇陵は京都市伏見区にある。
伏見桃山城跡です。
石段を登るのは大変なんですよね。

ところで、
孝明天皇陵がどこにあるか知ってますか?
東福寺から東の山の方へ向かった所にある。

その隣に泉涌寺。
このお寺は鎌倉時代以来、天皇家の菩提寺になってる。
今回上皇夫妻も休憩されたそうです。

と、偉そうに言ってますが、実は我が輩どこにあるか、知らなかった。
当然ながらこちらにはまだ訪れたことない。
我ながら困ったもんですわ。

今度、東福寺に行ったら孝明天皇陵にも立ち寄らなくては!

て、ついでかい?


ところで、
地元KBS京都ラジオの番組を聞いてたら、

『お帰りなさい!』

という、感想でした。

そうなんですよね、
京都人にしてみてれば、天皇家の本家本元は京都。
上皇様が都に帰ってこられた、という意識なんです。

当然ながら、


「上皇ご夫妻、退位後初の地方訪問」
という記事、
ナニ言ってるの?

『京都は地方じゃない。
都だ!
東京こそ地方だろ!』

と、文句言ってます。


ぶっひゃっひゃー、ですわ。
(^ひ^)


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


"
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県内梅毒患者届出急増!20代女性注意

2019-06-13 07:42:33 | 滋賀県情報
【滋賀県情報】

"2019年6月10日現在、滋賀県での梅毒の報告数は17件で、昨年、一昨年と比較し倍のペースで報告されています。
 また、半数近くを、20代が占めています。(8件 47%で、その内5件が女性)
 梅毒は、梅毒の方との性的な接触(他人の粘膜や皮膚と触れること)などによってうつる感染症です。
 
梅毒は、早期内服治療で治る病気です。
治療を受けないと、脳や心臓など全身の臓器に影響を及ぼします。妊娠している人が梅毒に感染すると、先天性梅毒(胎盤を通して胎児に感染し、死産・早産・新生児死亡・奇形)が起こることがあり、ここ2年連続して報告があります。
早期に発見するため、保健所で検査(無料・匿名)を受けることができます。
事前に保健所までご相談ください。

滋賀県のホームページ 梅毒・検査日程等
http://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/kenkouiryouhukushi/yakuzi/15220.html

滋賀県健康医療福祉部薬務感染症対策課
電話077-528-3632"


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

梅雨に梅毒の情報だなんて

困ったもんですな。

としか言えない…


ちなみに、梅毒の由来は

症状にみられる赤い発疹が楊梅(ヤマモモ)に似ていること。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【勝龍寺城跡】探訪、その③

2019-06-12 22:15:57 | 山城国の史跡

2019年6月01日(土)

勝竜寺城跡公園

から南へ移動しました。

13時17分
『勝龍寺』


お寺です
由来は、
平安時代 空海(弘法大師)の開基。
元の寺号は恵解山青龍寺で、観音堂を始め九十九坊が建てられていたといわれます。
大干ばつ大飢饉の年に住職千観上人の祈祷で雨が降り、
龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名されました。


「3代目の梵鐘」


初代は、大坂の陣の時に持ち去られた。
現在は、大阪府豊能町の真如寺にある。
2代目は、1766年に造られたが、先の大戦で供出した。
これは、昭和52年に造られた3代目です。

「ぼけ封じ観音」


ボケ化が進む我が輩として藁をもすがる思いで、合掌した。

隣に
『春日神社』

1174年、九条兼実によって建立された。
奈良の春日大社から勧請された、と考えられる。

この勝龍寺が、城の名前の由来となった。
本来は勝龍寺地域全体が寺域だったとか?

想定復元図によると、この南に
築山屋敷があったようだ。


13時24分
小畑川の『大門橋』

橋のたもとに冠木門が再現されてる。


「勝龍寺城大門橋」と書いてある

小畑川は城の外堀の役目がある。
ここに大手門を構築して、惣構え城下町の出入口とした。

つまり、この橋から城跡公園南側入口までが大手道ということですな。

京都市内方向を見る。


昔は東寺の五重塔が見られただろうな。

これにて寄り道、一旦終了。

再び長岡京駅に戻り、西国街道歩きをしました。

ついに西国街道にも手を出した。
終点は下関。

さて、死ぬまでに行けるかな?


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

老後の2000万円問題でなんやかんや騒いでますが、

現在老後の我が輩、

年金だけでは生活できなくて
貯金を崩してます

年金だけをあてにするのは
やめましょう


馬《●▲●》助ヒヒーン♪"


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【勝龍寺城跡】探訪、 その②

2019-06-11 23:26:34 | 山城国の史跡

2019年6月01日(土)

【勝龍寺城跡】
"本丸跡は、現在の勝龍寺城公園です。

堀の真ん中に橋があるが、これは公園の橋。
本来はこんなとこに橋は無かったはず!
とりあえず、この橋から中に入った。



北西隅に「北門跡」
枡形状になってます。


発掘調査で石材に使われた五輪塔や石仏が発見されたので、ここにまとめて安置したそうです。
北門は搦め手になり、
山崎合戦で敗れた明智光秀は、北門を通って逃げたそうです。
北門橋↓



北西部、

階段は、西隣の沼田丸への通路でした。

土塁の上の一部を掘り下げて渡れるようにした。

土塁の上から大手方向を見る

隣の
「沼田丸」

現在は単なる広場


本丸と沼田丸との間の堀。

ここに橋があったそうです。

再び本丸に戻る

本丸南側の大手口。

枡形になっていて
南門が復元されてます。
その奥の建物は管理棟として展示室がある。

以前、入ったことあるので、今回はパスした。

というか、明智光秀の幟がいっぱい。
まるで、光秀の城みたい…



その③に続く



馬《●▲●》助ヒヒーン♪"


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