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【物集女(もずめ)城跡】向日市

2019-06-23 09:19:01 | 山城国の史跡

2019年6月16日(日)

物集女街道を北上します

『淳和天皇火葬塚』
民家の間の狭い通路を入る

向日市のホムペの解説によると、
「淳和天皇は、長岡京を築いた桓武天皇の第3皇子で、母は藤原百川の娘旅子です。 兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承し、嵯峨天皇の第1皇子の仁明天皇に皇位を譲りました。
在位中は、政治改革を行うとともに「日本後紀」の編纂、「令義解」の作成を行いました。 承和7年(840)に55歳で死去し、遺言により火葬にして京都市大原野の西山に散骨されました。
ここは、天皇を火葬した場所とされています。」

宮内庁管轄なので中には入れません

すきまからうかがう

昔は天皇家も火葬が多かったそうです。
火葬といえば、現在の上皇様が武蔵野陵の近くで火葬する、とおっしゃられてます。
あらたに陵墓造ると敷地や費用がかかるから、という思いなのかも?
隣の駐車場から見る

さらに北上する


小さな何もない公園にあるのが、
『中海道遺跡の豪族居館と祭殿』


古墳時代初期の祭殿跡が発掘調査で発見された。
たぶんこの敷地の下に遺跡が保存されてるのだろうね。

「中海道」、耳慣れない言葉ですね。
物集女街道の別名のような気もするが、海道は「垣内」が転じた、とも言われる。
垣内とは、館城や屋敷を意味するので、古代の豪族の居館跡があったと推定されますね。

いや、古代どころか中世にも居館があった。

それが、
『物集女(もずめ)城跡』

解説によると、


地元の土豪、物集女氏の居城。
西岡被官衆の一人。

現地は私有地のため立ち入り禁止。
自転車があり向こうで畑仕事されてる人がいたので、入ってもいいかお願いしようと思ったが、仕事の邪魔になりそうなので、やめた。
左手に土塁のようなマウンドあり。

ここが主郭の櫓跡か?

マウンドの奥は堀のようにも見えるけど…



↑右側が副郭で家臣屋敷だったのか?


現場はあきらめて
近くの物集女公民館に立ち寄った。

事前の情報では館内に模型とパンフレットがあるらしい。

しかし、
日・祝日休館!

入れません。

ガックリでした…

土曜日に来るべきだった。
事前の調査が甘かった。
いつもどこか抜けてる…


物集女街道は、西国街道と山陰街道を連絡する道。
街道沿いに史跡多いので、この道もいつか制覇しなければならない。

ところで、
物集女の由来は、
ネットで調べたら、

物を集める女と書いて「もずめ」と発音する。
地名の由来は、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)に勢力をもっていた一族が、この地に移り住んだことによるとされている。
「 物集女」はかなり古くから記録に出てくる地名で、9世紀ごろの記録には「物」と「集」の2文字だけで「もず」と発音していた事例も見られる。

百舌鳥といえば、世界遺産に指定される予定の堺市の古墳群。
向日市と繋がりがあるなんて、
びっくりポン!

でも、この説は眉唾のように思える。
単に語呂が似てるだけじゃないの?

物集女は、
古代の遊部、そして葬儀の泣き女・泣女・哭女との関連、という見解もある。
古墳群には泣き女が必須ですよね。

由来はともかく、
この地域は古代より農業経済の発達した地域で、水利交通においても重要な地域。

織田信長が、ここに勝龍寺城を築き細川幽斎に桂川西側の地域統治させた理由は、西岡被官衆を抱き込み、西への押さえ、都の押さえとしたのではないでしょうか?

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


コメント
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