馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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β《#^ひ^♯》でヒヒーン

長岡京市シンポジウム、その2

2019-06-07 17:41:55 | 歴史講座、講演
"2019年6月01日(土)

仁木氏の基調講演の後、
ディスカッションがあった。

ブラタモリで一躍有名人になった
京都高低差崖会崖長の梅林秀行さんが登場。
地形に詳しく話が面白い。


さすが、ですわ。

仁木氏が、
「どうして勝龍寺城は台地の上(現在のJR長岡京駅付近)に造らなかったのか?」
という問いに対して

梅林さんの解答は、
『集水場だったから』

なんか、答えになってないような…

光明寺断層の末端に位置していて水が集まる場所だったから、
という理由です。

Φ(*^ひ^*)Φ
信長は、家臣の城は山に造らせない。
必ず、水利交通に便利な低地に城を築かせた。
長浜城、坂本城、大溝城、北ノ庄城などなど。
だから、勝龍寺城も同じ理屈なのでは?
低湿地や水堀に囲まれた惣構えの城は、山城よりも意外に防備に優れてる、と我が輩は思います。


◯光秀の本陣というべき『御坊塚』は、従来「境野1号墳」と推定されてきた


現在はサントリー京都工場の敷地の中なので、立入禁止。
↓仕方ないので隣の墓地から様子をうかかった。




しかし、
近年は「恵解山(いげのやま)古墳」という説が有利になってます。

梅林さんが、調べた結果によると
現在は前方後円墳として綺麗に整備されてるが、









昔は、長方形の形だった。

つまり、整備する前は古墳を陣城として改造された痕跡の姿が残ってた

発掘調査では鉛玉が発見されてるので陣が敷かれたのはほぼ間違いない。
ただし、土豪の神足氏、三好氏、細川氏、そして、光秀、
どの時代に改変したかは、不明。

さらに、梅林さんは
大胆にも
恵解山古墳に6つの曲輪があったと、
推定された。

いやぁ、これはびっくりポンです!

会場内、撮影不可だったので曲輪の画像をアップできないのが残念無念。
ま、あくまでも推測の曲輪。
梅林さんは、城郭研究者でもないので、あえてレジメにも掲載してくれなかった。

いやそれより、
前方後円墳として整備する前に実測して誰かが、縄張り図を作成してほしかった、です。


後円部は、現在は墓地になってる。
城の曲輪跡のように見えなくもない。
陣城として改変された痕跡かも?ね。



「太閤記」には、
塚に光秀軍の兵が約5000人駐屯した、と記載されてる。

そこで、
梅林さんは、この恵解山古墳に何人収容できるか、計算された。

その結果は、約2308人という数字でした。

ほほー!

ですわ。


シンポジウムは昼に終了。
午後は、勝龍寺城跡を探訪しました

次回に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今朝起きたら
右目の中を変なものが動き回ってる。

今も動いてる。

聞くところによると

飛蚊症
だとか?

加齢に伴うもので、
死ぬまで治らないらしい。

よりによって本日とは!


先日、頼んでもいないのに

介護保険被保険者証が届いた

もう完璧に年寄りの仲間入りですわ…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪"


コメント
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