無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

命の次に大事なもの

2013-05-10 11:06:18 | 震災東日本大震災

福島県新地町の朝日館の女将さんのブログに、命の次に大事な物 と言う紙芝居が載った。

東日本大震災の被害を、陸からではなく沖で経験した話を元に、女将さんがまとめられた紙芝居だ。

色々と考えさせられる内容だった。

 

 

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5月の酒田港

2013-05-10 00:14:15 | 建築・都市・港

酒田港女みなと会議の総会が行われた。酒田市の副市長に表敬訪問し、山形新聞のインタビューを受け、リサイクル施設の見学の後、港湾事務所の「みずほ」で、赴任されたばかりの港湾事務所長のお話を聞く。これは操舵室。

酒田北港の船溜まりから出航する。地図の右側で説明をして下さっているのが所長さん。

連日の寒い日々とは打って変わって、ベタ波の港内である。

月山が綺麗に見えた。ただ頂上付近の雲が邪魔をして、全容を隠している。

防波堤の隙間から、外洋へと出る。こちらでも波はさほど高くなかった。水辺線に飛島が見えたが、目線の位置が低いため、本当に小さな島に見えた。

船尾に出て、鳥海山を撮す。風が心地よい。

防波堤の上に並ぶ白い点々は、ウミネコである。所々に見える黒い点々は、カラスだろうと思われる。のどかな5月の海である。

船内からカメラを向けると、窓ガラスに光が反射して、邪魔者が写る。ここはまだ外洋である。

鳥海山がとても美しかったが、これも山頂の雲に邪魔をされた。

タグボートに曳かれて船の形をしていない作業船が移動している。

左側に白灯台をかわして酒田本港内に戻る。

これはケーソンを作っている施設で、青色とピンク色の2基があった。この青色のは富山県から持ってきたらしい。ウインクした右目の上に「立山」の文字があった。

ケーソンって何?ケーソンは防波堤のキットである。コンクリートの箱を造り、海に浮かべて現場まで運び、所定の位置に沈める。そうして防波堤は延長されていくのである。

ピンク色のは載せないの?との要望があったので、載せてみた。

前方に月山が見える。双胴船の飛島丸の横の建物は海洋センターである。屋上に着いていた丸い展望台は耐震に不利だとの理由で撤去され、ただの普通の建物になってしまった。この横に「みずほ」は着岸する。船内は汗をかくほどの暖かさだったが、甲板は心地よかった。久しぶりの好天だ。

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もっと綺麗に

2013-05-08 04:26:37 | 社会

美容家の田中 宥久子氏が今年の3月に亡くなられた。帽子に黒縁眼鏡、ポニーテールで年齢不詳の美人だった。享年67歳と聞いて驚く。彼女が出たTV番組で、顔のリンパを利用して小顔になるマッサージを見た。彼女の顔を見ただけで、このマッサージは十分に効力を発するのは納得するが、TV画面を見ながら、たった1回のマッサージでは、結果がどうなる訳でもなし、一日追う毎に記憶は薄れていった。

突然の訃報に、田中宥久子氏で検索すると、この番組がyoutubeに保管されていた。これも何かの縁かなと懐かしく想いながら、早速実践してみる。「10年は若返るよ。」よし、みんなにも知らせねば。私はその前にダイエットが必要なのだが。

【簡単】【大人気】小顔リンパマッサージ beauty massage

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仏像

2013-05-05 10:06:34 | 音楽・芸術・文学

Eテレの趣味Do楽が面白かったので、テキストを注文した。案内役の講師は藪内佐斗司氏と生徒の篠原ともえ氏である。画面に、変なキャラクターが時々出ているので、何だろうと思っていた。この藪内氏はあの平城遷都のせんとくん(仏像に鹿の角の生えた)のキャラクターを作った本人だった。あのせんとくんは賛否両論だったね。私も未だ慣れずに違和感を持つ部類の人間だが、藪内氏の仏像に関する説明は的確だった。

第5回のみちのくのほとけさまに出ていた、慈恩寺の薬師さま三体が、左の写真である。中央に薬師様、右に日光菩薩、左に月光菩薩を従えている。みちのくは都から見ると東の方角になり、瑠璃光浄土を守る薬師如来の為の薬師堂が多く建てられたのだが、その時代は会津磐梯山が噴火したり、貞観地震が起こったりと災害が続く不安定な頃だったそうだ。

(日光菩薩が手に持っている杖の先の丸い赤の「お日様」を象った物には、お日様の象徴である三本足の鴉が描かれていた。ヤタガラスは太陽だったのかと、納得する。月光菩薩の杖の先は蓮の花に、月の象徴である兎が描かれていた。これは私達が薬師堂で氏子の方から聞き、自分の目で確かめたので、説明があるのとないのでは大きく違うと実感する。)

これが十二神将である。寺の堂内も仏像も撮影禁止だったので、このように写真集があると記憶が蘇って便利である。

慈恩寺の本堂にも、薬師堂にも、寺の氏子さんのボランティアかなと思われる案内の方がおられて、慈恩寺や仏像の由来、どうやって現在まで守って来られたかを聴くことが出来た。災害が遭った時、修行する坊さんがそれぞれ受け持ちの仏像を、布でくるんで自分の身体を堤にして、炎から守ってきたのだそうだ。余程大事にされているらしく、色彩もちゃんと残っている。それでも仏像の何体かは腕のない物もあり、指の形で仏様の名前が解るため、知ることが出来ない物もある。しかし、慈恩寺の仏像はどれも素晴らしい。一度国宝にと言われた物もあったが、傷んでいる部分の補修費用が賄えずに一段低い重要文化財に留まっている物もあり、「貧乏は悲しいね」との説明に、氏子さん達が守ってきた慈恩寺の立場を知ることが出来た。

立石寺でも感じたが、この慈恩寺でも同じ事を思った。仏像も賽銭も無防備なのである。若返りと称して鉢の中に頭を入れた時も、鉢の中は賽銭で埋まっていた。仏像も美術館で見るのとは違って、すぐ手の届く位置に飾ってある。何十年に一度のご開帳以外も、普段から警備など付けずに自由にお参り出来るのが日本の宗教の姿だ。こんなに人間を信じて大丈夫なのと心配になる。盗難が皆無だったとは言わないが、朝鮮人窃盗団、対馬観音寺の仏像盗難の後処理のような驚く事も起きる。盗難品が見つかったから戻ってくるのが本来なのに、かの国の裁判所までが返還しないと仮処分決定をした。500年前に朝鮮半島から盗まれた物だから、返して欲しくば盗まなかったと証明しろときた。自分達は仏教から儒教への転換で、寺々を焼き討ちし仏像破壊を散々してきたのに、証明しろだと。500年間守ってきたと言うことがどんな事か解るのか、慈恩寺の僧侶達が身の危険を顧みず、仏様を炎の中から蓮池へ運んだと聞いたことが思い出され、情けなくなった。

そう言えば、2001年に山形県の羽黒町(現在鶴岡市)で、中国の窃盗団が羽黒町の資産家に忍び込み、母娘が強盗殺害に遭った事件があった。あの時は土蔵が破られ骨董品が盗まれたと記憶している。窃盗団は留学生として日本に入国した。常日頃より、観光客に混じって仏像の下見をしていないと言い切れるのだろうか。美しいお顔立ちの仏像を拝見しながら、複雑な思いがした。

本文とは関係ないけど、韓国の南大門の復元が酷いね。天井の絵は別物になっているよ。龍が可愛ゆくデフォルメされて色も変ってるなんて、国宝と言う意味が解っているのかな。

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花園

2013-05-04 11:02:16 | 動物・自然

いつもは窓から撮している場所を、近景で撮ってみた。

散った赤い椿の花は茶色になって、地面を覆っている。

門をくぐってみる。

昔、童話に「秘密の花園」と言うのがあった。作者はバーネット夫人で、小公女や小公子の原作者でもある。(この3冊の中では、最も多く読んだのが小公女で、寒い冬の夜に布団の中に潜り込んで読むのが最適だった。ちょっと悲しいことがあった時など、元気になれる作品だった。それに比べて秘密の花園は、あらすじさえ忘れている。) 秘密の花園の原題は The Secret Gardenで、原題の方がさっぱりしているのに、日本語に翻訳したら意味深なものに感じる。余所のお宅の庭は住人の為の物だから、秘密で当たり前なのに「秘密の花園」とされたことで余計に複雑になった。

ネットの社会では、ブログでいつも門のこちら側だけを撮していると、向こうがどうなっているのか気になるところだろう。特にこの時期は、もっとも華やいだ季節なのだから、記録に残しておかない手はない。と言うことで、秘密でも何でもない花園を撮してみた。

垣根の向こうには、アマドコロの群生が一斉に葉を広げている。もうこうなると、残念ながら食材にするのは遅い。5月20日の酒田祭りの頃には、鈴のような花を沢山咲かせてくれる。生け垣はあじさいである。丘の上に見えるのは、下の日枝神社本殿の瓦屋根だ。日枝神社の境内は、ぐるりこの丘に囲まれていて、冬の季節風を遮っている。その為、境内の梅の開花は外側よりも少し早い。

遊歩道の上には、大島桜の白い花が咲き乱れている。成長が早く、背の高くなる樹である。小さなサクランボを着けるが、こんなに背が高くなると届かない。実は色が濃く、果実酒にすると綺麗だが、生食は渋いだけで鳥も好んで食べないようだ。

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華やぐ季節

2013-05-01 14:29:38 | 動物・自然

4月19日には、せっかく咲き始めた桜の上に雪が降った。

4月24日、桜と共に、ようやく椿も咲き出した。1年で一番美しい時期である。

咲く時期が遅れた桜は、心なしか紅の色が濃い。

せっかくなので、咲いたばかりの椿も撮す。

この椿は八重の斑模様である。そのため、一つ一つが個性的で表情も豊かだ。

5月1日、花吹雪が一段と進む。椿の花も加速度を増して散り始めた。桜の花びらの絨毯は美しいが、椿はごみになるのが早い。

桜の枝には、花を惜しむかのように、ヒヨドリ達の群れがやってきて、密を吸うために枝を揺らしている。その数は、どこにこんなにいたのかと思うほどである。

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寒河江・慈恩寺

2013-05-01 12:43:00 | 建築・都市・港

天童の蕎麦屋水車で、お昼を食べてから、寒河江の慈恩寺へ向かう。Sさんの自動車のナビは、行く先々で反対方向を指示し、高速道路に載れと言う。なんでも、ここから12時間かかるらしい。何処の慈恩寺じゃい!

慈恩寺正門である。

正門脇から本堂を見る。

本山慈恩寺本堂である。この建物は国の重要文化財になっており、中には阿弥陀様が祀られている。今年慈恩寺では、慈恩寺秘仏展が開催されており、普段は非公開の仏像を拝観できる。

慈恩寺は神亀元年(724)僧行基が景勝地として確認、天平18年(746)婆羅門僧正勅を奉じて開山した。以後何度かの本堂焼失に遭う。本尊はその度、僧侶らの手で蓮池に難を免れたが、ついに永仁4年(1296)の本堂焼失と共に失われた。本尊はその2年後に仏師法橋寛慶により造顕される。本堂は再建されるも、またも焼失に遭う。現在の建物は、元和4年(1618)最上家によって再建なる。

山形県人なら市町村のCMの寒河江市か、慈恩寺のCMで見たことがあるだろうが、ここは若返り信仰があり、本堂の中に鋳鉄で出来た鉢に頭を突っ込むと若返るそうだ。各人賑やかに歓声を上げながら実行した。

左が本堂、中央は薬師堂である。この薬師堂には、日光菩薩と月光菩薩に守られた薬師如来像が安置されている。保存状態も良く、見事な三尊である。その奥には眷属十二神将が安置されていて、この造りはリアリティがあると言うのか、筋肉や表情、動きも併せて彫刻的にも素晴らしい。日本を代表して海外展にも出展されたことがあるそうだが、自分の十二支の像を見つけるのも楽しい。

この薬師堂の仏像は、NHKTVの趣味Do楽の第5回「みちのくのほとけさま」で放映された。仏師の籔内佐斗司氏の解説が面白かった。5月4日、7日にもEテレで再放送があるようだ。

慈恩寺のパンフレットから。写真家土門拳の弟子だと言う人が撮した「出羽国・慈恩寺の文化財」と言う写真集を買ってきた。写真よりも実物が面白い。土門拳とは随分と違うなと感じる。

本堂に向かって左手奥には、三重塔が建てられている。慶長13年(1608)最上義光公によって建立されたが、文政6年(1823)焼失、七年後に再建されている。

正門と鐘楼。鐘の音が何度も聞こえたが、自由に鐘をつくことが出来たのだろうか。

慈恩寺の写真集の説明によると、この正門は別名楽屋堂と呼ばれている。本堂の位置に比べて、一段低い地面に建てられている。この門の2階の回廊は舞楽の舞台なのだそうだ。貞観2年(860)大阪天王寺の楽人林越前政照が慈覚大師と共に訪れ、平塩の舞楽を司り、以来5月5日の一切教会に奉奏するようになった。この舞楽も重要無形文化財に指定されている。

本堂の前の茶店でお茶を飲んだ。

陽を浴びるつくし

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山寺立石寺

2013-05-01 12:41:56 | 建築・都市・港

4月28日、建築士会酒田支部と鶴岡支部の女性部で、寺巡りをした。最初に向かったのは芭蕉の句「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」でも有名な山形市の山寺立石寺である。今年が50年に一度のご本尊のご開帳の年で、4月27日から始まった様子がTVニュースで流れており、参拝客の多さにも驚かされた。計画を練った酒田支部の女性部長のSさんは、朝一で入らないと説明を受けるのも難しいと、出発を7時に設定した。高速道路を走り、山寺の町に着いたのは9時半頃だったと思ったが、町中のそこかしこにある駐車場はすでに混んでおり、交通整理の警察官の指導の元、歩行者を避けながらの運転になった。

石段を登って境内に入ると、行列が見えた。拝観料を払い、おとなしく並んだ。

境内の真ん中に五色の紐が結ばれた真新しい縁柱が立っている。根本中堂(重要文化財)に入り拝観はできるが、直接触ることのできない薬師如来座像の手はこの縁柱に触ることで、遠隔操作というか触れ合うことが出来るのだという。現代語に訳せばオンラインと言ったところだろう。勿論私も触ってきた。

根本中堂の中もご本尊も撮影禁止だった。まるでディズニーランドの行列のように、テープでの仕切りがあり、幾重にも曲がって行列は続いた。人々の数は増すばかりで、我々が座ってご本尊にお参り出来た最後になった。後の方々は立ったままお参りか、ぞろぞろと動いて拝観するだけになったようだ。

根本中堂を出て山門に向かう。

一番右下が根本中堂で、現在地は鐘楼と山門の間。これから石段での登山が始まるのである。

最初に払った拝観券で、ここも通過出来る。

石垣にスミレを見た。

延々と石の階段が続く。

切り立った岩の前には

蝉塚があった。

弥陀洞の脇の岩に彫られたもの。他の場所にも沢山あったが、雨風にさらされて文字の判読は不可能だった。これは彫った文字に朱色の彩色を施したのがよく見える。石の種類は俗に言う大谷石で、彫ったり加工するのには難しくない。

仁王門をくぐった辺りから見上げた左の小さな赤い納経堂と中央は開山堂と右上の五大堂。

性相院(しょうぞいん)から見上げた胎内堂。あんな所に、どうやって造ったのだろうとの感があったが、胎内巡りと称して行ける道があったようだ。知らずに断念。

大仏殿、右が奥の院。この奥の院はあきらかに神社の様子で、中央に祀られていたのは鏡だった。

ここの線香は太かった。1本30円だったかで他の場所のより一番安かったのだが、ともかくロウソクや線香を供えるにも、お金が必要だった。硬貨を沢山持ってきたのだったが、各お堂を回るので、すぐに無くなってしまう。お寺巡りには、十分な浄財が必要だと痛感する。(お札でも良いよと何処かで声がする。)

最上義光公御霊室。立石寺も最上家とは深い繋がりがあるようだ。

確かに胎内堂へは、道がついているように見える。

雪も多い場所なので、各御堂の屋根は瓦ではなく銅板葺きが多かった。屋根の棟や鬼に紋が着いていたが、卍や菊の紋もあり、由来も様々だろうと想像する。

五大堂へ上がる。

眺めは素晴らしい。

右上のあんな高い所にも、お堂があった。釈迦堂らしい。

木造で造られたお堂の他に、岩に穴を開けて住みながら修行した、ここは修験の場所でもあるようだ。

無事に下山し、山門をくぐり鐘楼の前に出た。

上りは辛い苦しい疲れたの声が上がったが、下りは「お昼の蕎麦が待っているよ~。」の掛け声で、簡単に降りてくることが出来た。羽黒山の階段に比べれば、その距離は物の数ではない。しかし、両足が笑っていて、しばらく膝の震えが止まらなかった。

川の廻りのソメイヨシノは満開だった。しだれ桜も咲き出した。

根本中堂へ登る登り口と、下山口は違っていて、元に戻る事は禁止されているらしかった。我々は下山口から町の中を通って、登り口近くの駐車場に移動したが、立石寺に拝観したい行列は凄い長さに延びていて、まだ午前中であったにも関わらず、最後尾は遙か遠く、今日のものになるのかしらと心配する程だった。連休中に立石寺を目指している方がおられたら、ぜひ朝の早い時間に到着することを薦めたい。

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