無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

酒井家庄内入部400年記念講演・鼎談会

2022-09-06 00:33:31 | 歴史
さて、ここで問題。「鼎談」の読み方と意味を求めよ。(漢字が苦手な私は読めなかったよ。)
「鼎談・ていだん」「三人で話すこと」・・・二人で話すのは対談。
鼎談だったから、MCだと思っていた公益大の門脇助教授が、酒井氏を差し置いて喋ってたんだ。

おっと、ここまでは余談で、公益大の公益ホールには一日置きで行くことになった。
磯田さんが来る!で書いた講演会に向かったのだが、駐車場は満杯で土門拳記念館や国体体育館の駐車場に巡らねばならなかった。
開演の15分前なら楽々さと思ったが然に非ず、会場は空いている席を見つけるのが難儀だった。こうも違うものか。




第一部 講演

徳川家康が天下統一を成し遂げたのは、彼を支えた優秀な4人の武将がいたからだった。
彼らは徳川四天王と呼ばれ、酒井忠次(さかいただつぐ)本田忠勝(ほんだただかつ)
榊原康政(さかきばらやすまさ)井伊直政(いいなおまさ)である。
忠次と家康は15歳の年齢差があり、年長である忠次の情報能力の豊かさで家康を導いて行く。

さて、徳川と酒井家には、婚姻などで結びつく以前にも、深い因縁がある。
ある時、時宗(一遍上人を宗祖とする浄土門の流れ)の、徳阿弥と呼ばれる僧がいた。
流れ歩いて説法を行うのだが、すこぶる良い男で説法も上手い。徳阿弥見たさに人々は集まり、
女性たちは目を輝かせ、今で言うライブのようだったと言う。
この僧が酒井家に近づき、姫と親しくなり子が生まれた。
その後、徳阿弥は松平郷に出向き、今度は松平家の姫との間に子が生まれる。
(なんてまぁ自由な・まるで親鸞のようだ)酒井家と徳川家は、同祖だったのである。
徳阿弥は優秀で、彼が入った松平郷は、一気に豊かになっていった。
松平家は菩提寺「大樹寺」を建てたが、大樹とは将軍の意味、その頃から天下統一を志していた。

家康の祖父、7代清康は天才児で、「是」(日の下・天下取り)の字を握りしめた夢を見た。
その夢を実現すべく次々に城攻めをし、家来を増やして行った。
清康18歳の時、ミス三河と呼ばれた美しいお冨23歳を奪い取り、婚姻する。
時は流れ、矢作川(やはぎがわ)を巡って西に織田勢、東に今川勢の中におり、岡崎城一城で今川から離れ、
豊橋の吉田城を始め、次々に無血で城を取って行けたのは、忠次がいたからだと言う。
税の取り立ても、米などからではなく、家の数「棟別税」を取り入れ、領地を徳川化して広げていった。

酒井忠次 妻は清康と華陽院の娘・唯井姫で、これまたミス三河の娘に相応しい見目麗しい姫だった。
先にも書いた通り、忠次はスパイを扱うのが上手く、諜報・分析・作戦能力に長けていた。
天竜川を挟んでの信長とのやり取り、信玄との戦いで夜撃ちの際にも、忠次は徳川を救う。
武田が破れた際、家康はこの地を忠次にやると言ったが、忠次はこれを断る。
自分は年かささなので、若い井伊直政に渡すようにと、徳川全体を考えた。
小牧長久手の戦い、長篠の戦いを経て関ヶ原で天下が決まると歴史家は語るが、実は長久手の辺りから忠次の力は見せつけ、
小山城を攻める辺りで諜報から天正大地震を知る。
1586年(天正13年)マグニチュード8クラスの大地震で、秀吉軍は大打撃を受ける。
前線基地の大垣城が全壊焼失、同盟の織田軍の長岡城も倒壊、ところが家康の領地内は震度4以下で被害なし、この地震が天下を決めた。

徳川二代目徳川秀忠の名は、秀吉の秀と忠次の忠を取ったと言われている。
家康が関東へ移ると徳川四天皇の井伊直政には18万石、本田忠勝には10万石、榊原康政にも10万石、
最も活躍したであろう酒井忠次には3.7万石を与えたそうだ。(なんで?)


第2部 鼎談

徳川政権になると、日本を治めるとて、まずは九州を捨てる(徳川では守れない)
瀬戸内海では、湊町のみチョイスする。
東北では、最も強豪の伊達政宗への前線基地として、庄内に酒井家を置くことになるのだが、
譜代大名は言わばサラリーマンのような立場で、酒井家は次々と領地を移された後に、庄内に入部する。
移された当時は、こんな遠くに、しかも最上家が隠居後に住もうとしていた庄内の城と亀ヶ崎城。
しかし入ってみればこんな良い所はない。
盆地であれば米に頼るしか無いが、庄内には湊があった。
湊があるとないとはでは大違い。秋田の佐竹家は茨城から秋田へ移ったが、庄内を取りたくてウズウズしていた。

天保の三方領地替えでは、珍しく領民から藩主を替えないで欲しいの一揆があった。
通常、藩主はあまりに酷いので替えて欲しいと訴えるのが多い。
平和になっても石垣や城を造りたがる藩主(実名あり)寺沢や盛岡も酷かったらしい。
事の真相は、酒井家が国替えになると、酒井家に貸していた金融が戻ってこらず、
また一緒に商人なども連れて行かれては、地域経済が成り立たないとの考えからである。
実際他の処では三方領地替えが11件、四方領違えが3件行われたという。

酒井家は鶴岡城を見ると分かるが、石垣や天守閣を造るよりも、藩校である致道館を造って教育に力を入れた。
経済金融にも力を入れた。
飢饉が起きても、庄内は飢えずに済んだ。庄内に行けば何とかなると言わしめた。
農政改革も本間家と共に行い、贅沢を禁じ、教育を通じて風俗を改めさせた。

その先駆として、幾田さんの口から、「面白いよ。」と熊本藩が挙げられた。
部屋詰めでいた者が、藩主である兄の死(人間違えで殺されたらしい)により、急遽自らが藩主になる。
ところが彼は従来の政治を行わず、学校を造り教育を施し、その中で優秀な人材を連れて内閣(奉行)を造った。
そのせいで藩はメキメキと豊かになる。それを嗅ぎつけて全国各地でも、学校を造り教育に当たらせ、優秀な人材を登用する流れになった。
米沢や会津でも、それは流行ったが、まずは熊本人の髪型を真似ると言う、スタイル重視からで、現代に通じるものがあると思った。

さて、これからは戊辰戦争の話になるのだが、長すぎるのと疲れたので、この辺りで引き上げようと思う。

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磯田さんの引き出しは無限で、どこを開けてもぎっしりと詰まっている。
数々の歴史の番組でMCを務めるだけあって、何時間でも聴いていられる。
講演も鼎談も面白かった。折があれば、著書なども読んでみよう。
磯田さんのお勧めで、藤沢周平の「酒井長門守」が面白いよとの話だったが、藤沢作品にその名がない。何故だろう。ぐぐったら、ああ、なるほど



コメント (2)
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