今や時の人の橋本大阪市長ですが、この間の
「小中学校留年制」の提案は相当物議をかもしました。
まぁ、ご本人は純粋に
勉強についていけなくなった子どもがかわいそうに思い、提案したのかもしれませんが、アンケートでは今のところ、国民の6割から7割は反対のようです。
理由はイジメとか、経済的理由とかいろいろです。
確かに、仲の良かった同級生たちに取り残され、下級生と一からやり直すんですから、たまったもんじゃありません。
自尊心が傷ついて勉強どころではないと思うんですが・・・・みなさんはいかがお考えでしょうか。
たしかに、国家の中枢を支えるエリート集団は必要でしょう。
しかし素朴な疑問ですが、そもそも
国民の全員がそんなに学力をつける必要があるんでしょうか?
こんなこと言うとあれなんですが、小生の周りでも、小学校のころ、
全く勉強できない(掛け算できなかったです)ひとが、今や
立派な社会人として活躍しており(誰かは聞かないでください)、
しかもそういう方ほど人望が厚い。
逆に、
バリバリ勉強できたのに大人になったら、廃人みたいな人もいます(この人も誰かは聞かないでください)。
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さて、今回も人のふんどしで相撲をとろうかと・・・・
今から3年前
「日本教育大学院大学」河上亮一教授が書いた
「一人前を育てる」という論文があるので、ここに紹介したいと思います(とっておいて良かった)。
3年前とは言え、今でも十分説得力がありますので、みなさん是非ご一読ください。このかた、現場の中学校の教師を何十年していた方なので説得力が違います。(例によって下線等は小生)
(現象)
私たち現場の教師が「子どもたちが変だ」と感じたのは、今から二十五年ほど前である。平気で遅刻をする生徒が増えた。休み明けに休む生徒が目立ち始め、「お疲れ休み」だという冗談のような連絡が入る。保健室は頭が痛い、お腹が痛いという生徒で満員状態。日ごろおとなしい見える生徒が突然相手になぐりかかりケガをさせる。アメやガムを平気で食べる生徒も増えた。授業中におしゃべりを注意をすると「俺だけじゃないだろう」とくってっかかる。ひ弱で傷つきやすく、地方で極めて攻撃的・暴力的になる子どもが増えてきたのである。好きなことは一生懸命やるが、嫌なことや難しいことに挑戦したり努力しようとしない。
「すでに自分は一人前だ」と思っているようで〝一人前の社会人〟になろうという意欲が弱くなった。固くて狭い自我を持った〝新しい子ども〟たちが大量に登場し始めたのである。
子どもたちはまず、学級での集団生活にうまくなじめなくなった。当然、授業へも大きな影響をおよぼすことになる。校内暴力が終息した一九八五年頃より社会問題化した、不登校、いじめ、学級崩壊、学力低下などの問題は、このような〝新しい子ども〟たち引き起こしていることである。〝ワル〟が〝悪いこと〟をする時代が終わり、〝普通〟に見える子どもたちが〝悪いこと〟や〝問題〟を引き起こすようになったのである。
(原因)
私は根本的な原因は、経済の力が非常に大きくなり損得・等価交換という価値観が、家庭や学校の中にストレートに持ち込まれたことにあると考えている。子どもも消費者として〝一人前〟に扱われるようになったことが決定的である。豊かで個第一の自由・平等な社会の実現は、子どもたちから、学んだり努力したりする必然性を奪うことになったのである。
文部科学省がこの二十年行ってきた、自由化・個性化教育改革は、このような〝新しい子ども〟たちに対応しようとしたものだが、結果として〝一人前の社会人〟を育てる子ことには失敗した、と言っていい。現在は〝学力向上〟を叫ぶ声が支配的になり、自分を高く売るための要求ばかり目立っている。経済の論理そのものである。
(家庭・地域社会)
ここはじっくり、教育や学校の意味を考える時である。
子育ての目的は何なのだろうか。それは何と言っても、子どもを〝一人前の社会人〟にすることだろう。自立と共生のの能力を身につけ、自分で働いて食べていけるようにすることである。そのためにはまず、家庭や地域社会の大人たちが、基本的生活習慣やコミニケーション能力(社会性、道徳性)をしっかりしつけさせることが出発である。これは、放っておいて身につくようなものではなく〝文化の強制〟にならざるを得ない。大人の側がひるんでしまったら、子どもは社会で生きる能力を充分身につけることは難しい。子どもの意欲を作りだす中で、根気よく練習(訓練)させることが必要だろう。
(学校)
その上に義務教育としての学校がある。学校は主権者としての国民・市民を育成する場である。日本では明治に学校が出来てから、生活教育と教科教育の二本柱でその役割を果たしてきた。日本では生活教育を担う地域社会が充分に自立しておらず、教会の存在もなかったことで、学校が中心的に担わざるをえなかった。これが欧米の学校との決定的な違いである。学級という人工的な社会での集団生活、様々な行事や部活動がその中心的な教育の場である。
そして生活教育によって生まれた秩序の上に安定した授業が展開され、基礎学力が保証されるというシステムになっていたのである。
一人前の国民・市民の育成という目的からすれば、〝学力向上〟など、学校の役割のほんの一部にすぎないのである。
(対策)
経済の論理だけで、子どもを〝一人前の社会人〟にすることは不可能である。家庭や学校を教育の場としてある種の〝聖域〟の形で再構築する必要がある。そのためには、国民一人ひとりが学校の役割を再認識し、学校を支える必要がある。教師がやる気を出し、元気に活動を出来るようにすることである。教師が子どもにじっくり向き合い、教師どうしが話し合えるゆとりをつくりだすことがそうしても必要だろう。子どもの現状と日本の将来を考える時、最優先の課題はこのことである。
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そう言えば、ずっと前、テレビで見たのですが、HONDAの本田 宗一郎氏が、自社社員の小学校へ入学する新入生を集めてこんなことを聞いている番組を見ました。
「みなさんは何のために学校へ行くのですか?」
そのうちの子ども一人が手をあげて、
「勉強を一生懸命頑張ることです」と答えました。
それに対して本田宗一郎氏はこう言ったのです。
「勉強も大切です。学校へ行くのは
社会の役に立つ立派な人間になるためです。」
何かのニュースだったと思いますが、強く印象に残ったのを覚えています。
さて・・・・・
気になるのは、マスコミが既にこの留年制を肯定的に報道していることです。
マスコミの人ってそれこそ、高学歴の人が多いのに、自分で考えないで「欧米人」に聞きます。
日本の、メディアは何かというと「欧米では・・」「欧米では・・・」と連呼しますが、外国で導入しても、日本でなじむかなじまないかは別問題だということです。
そう言えば、あれほど国民が反対していた「裁判員制度」も欧米のマネッコをして、メディアもあおって導入されちゃいましたからね。増税もふくめて注視しなければならない問題です。