愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

デジタルトランスフォーメーション

2020-12-01 | 日記

デジタルトランスフォーメーション(DX)の持ついろいろな側面を扱った番組を見た。一般には、DXが「進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革する」と紹介されているそうだが、同時に「デジタル技術で置き換えられない」部分を明確化する努力を並行させなければ、かえって人間にストレスの多い生活を強いるものにもなりかねないと思った。

 人と人との「共感・触れ合い・愛情(時には憎悪も含めて)」のような人間の「生物としての本能的・情動的能力」をデジタル技術で一部補おう、という試みがある。ある程度の人工頭脳を組み込んで少々複雑な会話や挨拶のできる「癒しロボット」の開発は、その一つだろう。しかし、そもそもそれが必要となって来たのは、人が必要とする「癒し」が人間自身によって得られない状況が進んできたからである。

 もし、家族や友人・仲間達が十分に「触れ合う時間・共感を分かち合う時間」を持てる環境に居たとすれば、「癒しロボット」の需要は少ないはずではないか。人間によって与えられなくなった「癒し」をデジタル技術とAIによって補うことは、そういう状況下では確かに「より良い生活」なのだろう。しかし、不足する「癒し」はデジタル技術で補えるのだからと、人々がさらに「非人間的な時間」の「供出」を強いられるのだとすれば、「癒しロボット」を作る目的は本来の「癒し」の「不十分な偽物」への置き換え・すり替えにあると言うべきだろう。

 現実は果たして、どちらの方向に向かっているのだろうか。「介護」が必要な家族を「金銭的価値に置き換えられる画一規格の介護技術」に任せることで、健康な人間達は全て働きに出るような社会へと置き換わって来た。「社会への寄与」とは「金銭価値に変換される労働生産性に参加すること」と「生産性」の意味をすり替えられ、家庭内の労働は「金銭に変換できない生産性の無い労働」なのだと刷り込まれて来たではないか? 

 個人の特質に合った「介護」という「今では一般家庭には負担できない高額な介護」を、かつては当たり前に享受していたのだが、我々はその「介護技術量」を支払う代わりに「一律的で標準とされる、より安価な介護」に置き換えて来たという見方もできる。つまりは、家庭の中で一人が働けば一家が生活できるだけの「収入」を得ていた、すなわち社会がそれだけの「収穫」を家庭を持つ一人の人間に分け与えていたのだ。今は、家庭の有無に関わらず一人の人間には一人の生活分の「収穫」しか分け与えられない。

 DXによる仕事や生活雑事の「効率化」は、果たして社会一般の平均的な人々に時間的余裕を与えるだろうか? かつての「子供が遊ぶ路地の夕涼みの縁台にご隠居達が将棋をさし、陽が暮れる頃には父親たちが家に帰って来て子供たちと温かい食卓を囲む」、というような家庭生活の風景(もちろん、具体的な道具立ては時代に応じて変化していたとしても)が戻るなら、DXによって余裕が生まれ「より人間的な生活」を取り戻せたと言えるのだろうが・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする