愚ダメ記、真誤付き、思い津記

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後に遺る物

2020-12-26 | 日記

半日以上、車に乗ってあちこちと走り回っていた。その途中、途切れ途切れに聞いたラジオの朗読番組で耳にしたフレーズが心に残った。「繭はそれを紡いだ蚕が死んだ後も遺り、木の切り株にはその木が生きた生き様が年輪として刻まれて遺る」という文章。確かに、繭はさらに絹糸になる。古い絹織物ともなれば、それは百年以上も前に死んでしまった蚕が紡いだ糸が、その蚕が生きて糸を紡いだ証拠となる。木の年輪ならさらに古く、数百年にもなる。

 考古学の手法に、木材の年輪を調べその木が伐採された年代を調べる「年輪年代学」というのがあるが、そうなると単に「その木が何年生きたか」だけでなく、「その木がどの時代に生きていたのか」を後世に伝えていることになる。また、年輪の間隔の変化はそれぞれの年の気象によるので、木の年輪はその年代に起きた気候変化までをも後世の我々に教えているわけだ。そうなるとそれは「過去の記録」にとどまらず、気象変動の証拠として「未来の気象変動の予測」にまでデータを提供することになる。車をハンドルを握りながら朗読の一文を反芻し、なるほど、木は成長するだけでそんなにも多くの「自らが生きた価値」を遺すことができるのだ、とつくづく考えてしまった。

 必然的に、「果たして、人間は何を遺せるだろうか」つまり「自分は何を遺せるだろうか、遺して来ただろうか?」と問いかけてみることになる。まあこれと言って大したものは遺せてない気がするが、もしかすると自分には分からないものが自分の関わった何かに、何処かに(誰と誰が関わったかということはわからずとも)、将来遺って行くかもしれないと考えてみる。偉人達の言葉を調べると、「偉業」というのは人が一人の力で成し遂げたものではないと知らされる。

 「自分は巨人の肩に乗ったから遠くが見えたにすぎない」というニュートンの言葉があるが、「巨人」とは決して誰か一人を指していないし、また歴代の名の有る「偉人」のみを指しているのでもないと考える。巨人に含まれるべき「名の有る科学者」はもちろんだが、例えばガリレオを取り上げてもガリレオ自身が、彼の望遠鏡を作った者、さらに望遠鏡を発明した者・改良した者、レンズを作った者、ガラスを発明した古代の人々の上に立っていたわけだ。そんなふうに考え、ならば自分が関わった何かが将来何かの形で優れた科学者、技術者、あるいはそれ以外の「偉人」の業績の礎となり得るかも知れないと想像する。

 当然、一人の凡人に過ぎない自分に、それがいつ何処でどのように成し遂げられるか、形になるのかなど想像も予想も出来るわけがないし、する必要もない。先述の蚕や木々がただひたすらに自らの目的に生きたように、自分も今の自分の器に応じた生き様でひたすらに生きてみる。運が良ければ、良い場所に良い材料に使われ、誰かが何らかの価値に結び付けてくれるかもしれない。多くの人々が関わった業績のほんの一欠けらに自分が関わっていたことなど、全く知られないままに。

 ・・・つらつらとそんな事を考えてみながら、昼食代わりのパンを食べ水筒のお茶を飲んだ。

 いつかどこかで、自分のことなど知らない人々によって価値を与えられ・・という処で、中学生時代に好んだ武者小路実篤の「馬鹿一」にある「千年後に知己有り」という言葉に似ていると思った。中学生の頃は、千年後の知己とは「自分をそれと認識した上での理解者」と思っていたが、案外そうではないかも。否、そうでなくて良いのでは、と思う。「千年後に知己有り」の心境は、今の自分は忘れ去られても、それが千年を経て初めて「価値を見出される」何かに関わっているのだと信じて生きる、という信念を表すのかも知れないと思い当たった。

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