NHKのサラメシが好きで録画してみている。
出演する人の名前が画面に出るときに名前と一緒に「好きな有名人:○○」という欄があって、以前そこに「好きな有名人:武 豊」と出ていたおじさんがいた。それがなんとなくよかった。
私はサラメシに出たいと思わないが、好きな有名人の欄に何を書こうか考えている。たぶん、えのきどいちろうと書くだろう。
ここ数年で立川志らくがTVの表舞台に出てきているけども、それより前の出始めのころは文化放送のくにまるジャパンにコメンテーターとして出ていた。で、その頃「この志らくってのはたいして面白いこと言わないな」と毎回感じていた。月一コメンテーターのえのきどいちろうのほうが面白い。
かつて志の輔ラジオ気分がいいでも、志の輔ってたいして面白いこと言わねーなと思った記憶があるので、立川一門と私は感覚が合わないのかもしれないが志の輔はペヤングだから良い。
志らくって落語の覚えが良いところを談志に買われて評判が上がっていったのだと思うが、その覚えの良さってサヴァン症候群的なものだったのではないか。だから、落語以外のところに出るのはあんましよくないのではなかろーか。あれやこれや適応できない場面も「あの談志が認めた男だから」の色めがねでいい解釈をされてここまで来てしまったのでは。
その突出した能力はその人個人の有り余るポテンシャルの一端だ、という勘違いがいろいろなところで悲劇を生み出していやしないかい?脳のある部分の欠損を補う形で異常発達した落語の覚えの良さだったり、計算能力の高さ(とか単なる間違い探し能力の高さ)だったりが、誤った高評価を生んでしまってやしないかい?志らくに限らず一般の社会でも。多様性ってのは、そういうことを見極められる目をもったうえで適材適所にマネジメントするスキルを求められると思う。多様性は、誰かの作ったルールをただ守ってりゃいい言葉の自動機械人間にはうまく使いこなせない理想と思いますです。
先日、日本テレビの誰だって波乱爆笑で志らくをとりあげた回で、志らくが最後の晩餐に選びたい食べ物に府中競馬場の梅屋の肉そばを紹介したところまではよかった。ただその次にラーメンを紹介するといってとしまえんの売店のラーメンを紹介したのを見て、これが志らくなんだなと思った。奇のてらい方を勘違いしている、また周囲がそれを助長している、と私は感じました。
私は落語をほとんど聴かないのですが、きっと志らくの落語はすごいのだと思います。でも帯番組のMCに起用しないほうがよかったと思います。