GOSEO BLOG

2-0が怖いのではない、お前達の勘違いが怖い

大本営参謀の情報戦記読了。鼻についた。

2020-04-28 22:52:35 | 本と雑誌

コロナウイルスに対してどう向き合うか、情報をどう扱うかのヒントを得られればと思って、元大本営参謀だった人が書いた掲題の本を読んだ。

 

司馬遼太郎が陸軍参謀を腹の底から嫌っていたのに影響を受けているのかもしれないが、所々ににじみ出る著者の自閉症スペクトラム的に空気を読めていない承認欲求(自慢)が鼻についてしまって、イラつきながら読んだ。原爆を搭載したB-29の意図を察知できなかったから後悔してるとか出過ぎた真似なんだよ。裏返しに俺はコードネームの違うB-29を察知はしてたぜって自慢したいんだろ。そんなのばかりで気持ちが悪い。所々ヒントになるような記述もあったが、総じて薄っぺらい印象だった。


失われた近代を求めて 読了

2020-04-26 23:42:31 | 本と雑誌

橋本治の失われた近代を求めてをようやく読み終わった。長かった。

 

終盤に幸田露伴について書かれているところを読んで、ちょっと思うところがあったので書いてみる。幸田露伴の五重塔の最後で、大工の十兵衛が嵐の中で人になる(と橋本治は評した)。これは前近代から近代の達成に必要な通過儀礼のようなものだろうが、幸田露伴が後に”明治の”大作家として孤高の存在、孤立した存在になってしまっているのはすなわち、結局日本人はいまだ近代人になれていないということを示していると思う。

 

夏目漱石の三四郎の冒頭を引き合いに出して、橋本治は身に沁みない近代を無理やり着た男たちは確固とした前近代(女)に翻弄されていると書く。これって、今の日本でもずっと続いてると私は思う。

 

例えば、唐突に嵐のようにやってくる使途に対し戦うエヴァンゲリオンは、幸田露伴の五重塔のラストの嵐を延々と繰り返しているのではないか。そして、残念ながらその嵐(使途の襲来)は延々と終わらない。やっていくうちにエヴァンゲリオンは神経症的な世界に閉じていったが、それって後期夏目漱石の世界のようだ。明治から今まで、日本の男は身体に馴染まぬ近代を着て勝手に神経症に陥っていくのを繰り返しているのだろう。三四郎の冒頭で、名古屋の改札で別れ際に「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言った女と葛城ミサトは同じだ。

 

21世紀になっても身に沁みない借り物の近代を無理やり着て神経症になってるとき、新型ウイルスの襲来を受けた。基礎ができていないのにいきなり応用問題を出されているようなものだから、日本の男はこれに対応できず子供がお漏らしをしたような状況になっている。例えば、人類的な危機に際しても日本人は「経済」を第一に置く姿勢を手放せないけど、これって借り物の資本主義・民主主義でやってきたからこうなっちゃうんだろうね。こういう掴み方をすると現状の理解と次の見通しが少しはつくだろうと思って書いてみた。

 

別に江戸以前に学ぼうと言うつもりはないが、不確実な状況が続くにあたっては、身に沁みないものよりは地に足の着いた視点(何千年と変わらず人の教育で変わらないものって何だろうとか、あとは歴史に学ぶだけでなく、このサイズの哺乳類が共存する前提ってなんだろうとか)で考えるのが、宮台真司が言う「引き受けて考える」のに有効と思う。


東洋経済の面白い記事

2020-04-18 07:40:11 | 本と雑誌

「新型コロナ対策一律10万円にうんざりな理由」と題した東洋経済の記事、途中まで政策批判の内容が続いたあと唐突に競馬の話になるのが面白い。4ページ目の最後、以下文章のあとから競馬の記事になる。

 

”私はコロナよりも政治に、人間の欲望と感情に、うんざりだ(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)”

 

欲望と感情にうんざりと書いておきながら欲望の塊の競馬記事に突入する。そしてこのあと本気の皐月賞予想が続き、最後は以下で締めくくられる。

 

”私はサリオスとサトノフラッグで人気のあるほうを買ってみたい。単勝。”


失われた近代を求めて 読書中

2020-03-29 22:26:40 | 本と雑誌

橋本治の著作を読む橋本治祭りを勝手にやっているが、「失われた近代を求めて」が結構つまらなくて読むのに時間がかかっている。昨日ようやく上巻を読み終わって、今日から下巻を読んでいる。

 

上巻では二葉亭四迷の言文一致体の話と田山花袋の分析をずーーーっとやっており読むのがしんどかった。

 

橋本治著作の通奏低音である「性的マイノリティの正当化」がこの本にも自然主義の話とからめて流れているのかなと思ったが下巻序盤の島崎藤村と国木田独歩の分析から導かれた自然主義に対する結論はそうでもなかった。

 

この本は橋本治が小説家として本腰を入れるにあたり近代日本の文学史を勉強した結果を開陳されてるんだろうな、という見方に切り替えた。


父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない 読了 自分用メモ

2019-11-24 22:31:23 | 本と雑誌

橋本治が書いたおそらく最後の本であろう「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」を読み終わった。

 

´89で昭和が終わった、これからは自分の頭で考える時代だと宣言した橋本さんは、その後30年続いた平成でどのように発展?したのかなと、えらそーな立場で眺めるように読んでみた。

 

結局は風合いは変わってない、が第一印象。橋本治にとっての実践は時評ではなく小説・文学の世界だったのかな、だったら源氏物語や平家物語を読まなくちゃと思うものの、自分はやはり橋本治の時評ものを求めていることが改めて確認できた。本当は小説を読まなくちゃならないんだろうけど源氏や平家は老後に読めばいいと思う。時間かかるし。

 

我が身を振り返り「実践」で考えさせられるのは、今バキバキに実践に走るのが長岡藩で機関銃をぶっ放す陽明学の徒、河井継之助みたいになってしまうんじゃないかということ。あれは豪快に突っ走ったものの長岡の庶民に与えた被害は甚大だったと思う。でもそんなもじもじをやるべきことをやらない言い訳にしてはならないとアドラー心理学が言い、プラグマティズムのプラグは点火プラグのプラグだぜと内発と能動を発動させ会議でドビュッシーやサティを持ち出したのは更に勢いつけてやろうと、ナベプロ長岡藩でできる範囲で(ヒデちゃんレベル3による抑制)。と、自分用に書いておく。

 

実践。相変わらず日々テレビでは桜を見る会騒動等のバカらしさを見せてもらっているので、ああこれが宮台真司の言っていた「まかせてブーたれるから引き受けて考える」の契機なんだなと思って実務に励む。今後も終わり無く続くバカなニュースはすべてこれにつなげればいい。指導者はもう来ない。