6月21日(木)
今日は大雨。
休日だったが、家のかたづけや買い物、網戸直しで過ぎてしまった。
網戸は、犬が破ったため、金網にしてもらったが、雷がこわくて、縁側
から家に入ろうとして、金網にした翌日また破った(破ったというより、
止めたゴムごとはずれた)。ホームセンターで、網戸の張り替え用の
ローラーを買ってきて、修理した。見栄えは悪いが、何とか修理できた。
ドクダミの花もかわいいものだ。
6月13日の中日新聞の文化のページ”時のおもり”に、鷲田清一
さん(哲学者・大谷大学教授)という人の「信頼の根を養うこと
問題、共に考えながら」という文が載っていた。
私はこの文読んで、信頼の根を養うことばの持つ大きさ・大切さを
考えさせられたので、紹介します。
「 ……知的障害のある人たちによるアート作品の制作を支援している
知人から、こんな話を聴いた。夢中になって描いた絵に「すごい」「びっ
くりした」と声をあげると、その人はそれとは違った絵を次々に描いて
くれる。ところが、絵ができて、「よくがんばった」「よくできたね」と声を
かけると、次にそれと同じ絵をまた描くというのだ。
教育ということを考えるときに、このエピソードがもつ意味は小さくない。
たとえば小学校に入って経験する給食。先生と「今日のごはん、おいし
いね」と声をかけあうのでなく、「全部食べられましたね」と先生に「完食」
をほめられたとたん、給食は味気のないものになる。教師がいっしょに食
べてくれる人ではなく、食べないでチェックをする人へと足場を移してしまう
からだ。
ほとんどの子どもは、幼稚園では先生といっしょに楽しめたあの「お歌と
お遊戯」が、小学校に上がって「音楽」と「体育」になると、すなおに歌え
なくなる。愉快に体を動かせなくなる。もちろん「お歌とお遊戯」もただの
遊びでなく、みなとふるまいを合わせる練習でもあるのだが、そこには先生
も入っていた。訓練でもありながらも、それより先に、違う声、ばらばらの動き
を合わせる楽しみを伝えるものであった。他者への信頼というものの根をまず
は養うものであった。が、学校では、その根をたがいにくりかえし確認すること
がないまま教師はああちら側に回る。査定する側、評価する側に。………。
この間、政治家・官僚や原子工学者や電気事業者らが、もしこのような場所
からこのようなつぶやきを、被災地の人たちに、国民に届けようとしていたら、
専門家への信頼というのもこれほど損なわれることはなかったろう、と。
信頼できる専門家とは、特別な能力のある人でもじぶんたちに代わって責任
をとってくれる人でもなく、だれにも答えのない問題を「いっしょに考えてくれる」
人のことだからである。
大飯原発再稼働をめぐる野田佳彦首相の数日前の改憲は、強弁としか言い
ようのないものだった。この国がたどるべき道筋は語られず、論拠もそれを裏
づけるデータも示されなかった。次の次の時代にも言葉を届けようとの思いを
欠いたこの会見は、反対行動に「団結」をもたらすことはあっても、新政権が掲
げてきた「新しい公共」を養うことはついぞないだろう。」